第二章(1)
第一騎士団団長ジルベルト・リガウン。年は三十一歳になったところであり、リガウン侯爵家の長男。
婚期を逃したと言えば逃したかもしれないし、結婚する気がないと言えば無かったとも言いきれる。片っ端からやってくる縁談について、仕事を理由に断っていたらこんな状態になってしまった。
こんな状態、つまり独身歴三十一年になってしまった状態のこと。漆黒の髪は常に後ろへ撫でつけられ、魅入る者を寄せ付けない鋭い茶色の眼光。それでも、彼との甘いひと時に憧れを抱いて、幾人かの令嬢は群がってくる。それを冷たい態度で蹴散らすのが、このジルベルトという男だった。
そんな彼でも、結婚はまだか、結婚はしないのかというリガウン侯爵と侯爵夫人からの攻撃に耐えきれなかったようだ。それが原因で騎士団の官舎に移り住んでしまったというのは有名な話である。さらに社交界が開かれても護衛や警備という任務を引き受けることによって、それを口実に欠席している。そのため、ジルベルトはより一層、出会いから遠のいている。むしろ自ら出会いを遠ざけている。
彼は今、非常に困っていた。屋敷にいるなら彼女の調査を執事のトムに頼むことができるのに、ここは官舎であって肝心の執事がいない。この日に限って官舎に住んでいることを後悔した。仕方ないからその調査を第一の副団長であり、自分の部下であるサニエラに頼むことにした。ただこの部下にこういった調査を頼むことには気が引ける。それはサニエラの性格によるものだ。
「悪いがこのフランシア子爵家のエレオノーラ嬢について調べて欲しい」
サニエラの眼鏡の奥の瞳がキラリと光る。
「どうかされましたか? このご令嬢が何か?」
彼は調査理由を尋ねたが、「少々気になるだけだ」と答えただけでジルベルトはなんとか誤魔化そうとした。
だからといって、それで誤魔化されるほどサニエラも単純ではない。サニエラの眼鏡が光を反射してキラリと妖しく光ったことにジルベルトは気付いた。
こういった駆け引きについては、副団長の方が二枚くらい上手なのだ。むしろジルベルトの方は、根が真面目一徹の頑固一徹であるため、やや応用力が欠けている。だから、サニエラの口には負けてしまう。それでも頼む相手は彼しかいない。負けるとわかっていても、頼れる相手は残念なことにサニエラしかいないのだ。
ジルベルトはダニエルに向かって「頼んだぞ」と小さく伝えた。
それは、ジルベルトがサニエラにエレオノーラの調査依頼をしてから三日後のことだった。
「団長。先日頼まれていた調査の結果を報告いたします」
数枚の用紙を手にしたサニエラがジルベルトの執務室へとやって来た。ブラウンの床を踏みしめながら、サニエラはジルベルトの執務席の前に立つ。
ジルベルトはサニエラの手の中を二度見した。用紙が数枚。数十枚ではなくたったの数枚である。
だいたいこの辺の身上調査書というのは、一年につき一枚でまとめてくるのが平均的である。だが、数枚。ということは、実は彼女は十歳にも満たない少女ということか。いやいや、そんなことは無い。触った時にはそれなりに成熟した女性だった、というところまでジルベルトは思い出し、かっと頬と下腹部に熱が溜まるような感覚に襲われた。
サニエラに動揺がばれないように咳払いをしてみた。
そんなジルベルトに冷たい視線を向けたサニエラは、淡々と報告を始める。
「エレオノーラ・フランシア嬢ですが。年は今年十八歳になったところです。むしろ、なったばかりです。昨年、学院を卒業されているようですが、どうやら学院に通っていたわけではなく、自宅で学び、試験を受けて卒業されたようです。つまり、学院に通わず学院を卒業したという、非常に優秀な生徒でもありますし、非常に規格外な対応を受けていた生徒でもあります。特に外国語については、非常に高い成績を残しておりました。また社交界についてはデビューしたものの、身体が弱いという理由から一切参加しておりません。従いまして、エレオノーラ嬢の素顔は誰も覚えていない、もしくは知らない、ということになります」
顔が知られていない令嬢。家族から隠されている娘。
サニエラの報告を受けたジルベルトが、エレオノーラに抱いた第一印象である。
謎があるほど興味を持ってしまうのはなぜなのか。
だが、彼女は確実にあの場にいたのだ。
「いや。彼女は第零騎士団の所属のはずだが」
サニエラの報告を黙って聞いていたジルベルトだが、彼の報告がジルベルトの欲しい肝心の情報ではなかったため、つい口を挟んでしまった。
「ああ、団長が知りたいのはやはりそちらの方でしたか。……以上が、彼女の表向きの調査結果です。第零騎士団の方は裏向きの調査結果になります」
この裏向きの調査って、けっこう大変なんですよね、とサニエラは呟いた。
ジルベルトは重厚な執務席の机の上に右肘をつき、その手の甲の上に顎を乗せた。そもそも裏向きの調査って何だ、と思いながらも、サニエラに尋ねるようなことはしない。この部下は、扱い方を間違えると反撃をしてくるからだ。
「エレオノーラ・フランシア、第零騎士団諜報部潜入班所属。騎士団では『レオン』と名乗っているようです。所属上の性別は、不明。諜報部門としての情報収集能力は非常に優れている、ということで、非常に高い評価を得ているようです。しかし、その任務が特殊である故、常にあちらの騎士団の建物の方に常駐しているわけではないようです。また、入団試験に現れたエレオノーラ嬢ですが、男装して現れ、誰もそれがエレオノーラ嬢本人であったことを見破ることができなかった、というのは第零騎士団だけではなく、騎士団の上層部の間でも伝説となっています。従いまして、第零騎士団の中でも彼女の素顔を知っている者はほとんどいない、という結論に至りました。先日の窃盗団の密売摘発の件ですが、あれもエレオノーラ嬢の潜入調査のおかげであるという報告を受けておりますが、その報告をしたのも諜報部長のダニエル・フランシア、つまりエレオノーラ嬢の兄であり上官であるため、あの摘発任務の功労者でありながらも、あの場にいた誰もが彼女の素顔は見ていない、ということになります」
サニエラの話を聞きながら、ジルベルトは自分の左手をじっと見つめてしまった。ふいに触れてしまったあの感触が、思い出される。彼女は間違いなく女性であり、あの場にいた。
ぐっと、ジエルベルトはその左手を力強く握りしめた。
「つまり、誰もエレオノーラ嬢の素顔を見たことはない、と?」
握りしめた左手を緩めながら、ジルベルトは尋ねた。彼もあそこにいた男装姿の彼女を見たが、素顔を見てはいないことに気付いた。だからサニエラの報告に不審な点はない。
「そのようですね。まあ、任務が特殊であるが故、その素顔を晒さないのでしょう。書類上も性別は不明ですから。我々も、先日の窃盗団摘発で一緒に任務をこなしたはずですが、少なくとも私はエレオノーラ嬢に気付いておりません。実は、本当にあそこにいたのか、と疑っている者の一人です」
だが、ジルベルトはあそこに確かにエレオノーラがいたことを知っている。あの酒場の男性店員に扮していた女性、それがエレオノーラ嬢だった。見た目は間違いなく男性店員。いくつか言葉を交わしたが、声も男性店員であった。
ただ、ぶつかって押し倒してしまったとき、彼女は瞬間的にその表情を変え、「あ」という可愛らしい声を漏らしていた。その瞬間、その声に耳を疑った。また、触れた唇も柔らかかった。きっと、あれが彼女の素なのだろう、とジルベルトは思っている。さらに、おまけで触れてしまった彼女の柔らかな――。
「それで、団長。何のためにエレオノーラ嬢についての調査を命じたのですか?」
サニエラの一言で、ジルベルトは現実へと引き戻された。
「彼女のおかげで、我々第一が窃盗団を捕らえることができたからな。何か礼を、と思ったのだが」
「まあ、間違いなく受け取らないでしょうね」
そこでサニエラは眼鏡を右手の中指で押し上げた。
「報告書はこちらに」
数枚の用紙を、パサリという乾いた音と共に執務席の上に置いた。
「ああ、ありがとう」
「それでは、失礼します」
執務室を出て行こうとするサニエラを見送っているジルベルトからは「エレオノーラ嬢は、花は好きだろうか」という言葉が漏れ出していた。