第七章(2)
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第一騎士団団長のジルベルト・リガウンが、第零騎士団諜報部部長ダニエル・フランシアの妹、エレオノーラ・フランシアと結婚した、という話が騎士団の中を駆け巡ったのはほんの一か月前。
エレオノーラ・フランシアと言えば、学院にも通わずに卒業し、社交界にもほとんど参加していないという幻の令嬢。兄達が溺愛し過ぎて屋敷に閉じ込めているんじゃないか、とか、実は人前に出られない容姿なのではないか、とか。そんな噂もちらほらとあったくらいだ。
だが、ジルベルトが建国記念パーティに、まだ当時は婚約者であったエレオノーラを連れて出席した。そんな彼女は婚期を逃したジルベルトに似合うような落ち着いた女性であった、とも囁かれている。知的な感じがする美人であった、と。
そして知的美人と囁かれている彼女は、深くて長いため息をついたところだった。
「まあ、エレン。浮かない顔をしてどうしたのかしら? 新しい部屋はお気に召さない?」
「いえ、そんなことありません。お義母さま。素敵なお部屋をありがとうございます。ただ」
「ただ?」
「一緒にいるべき人がいない、と言いますか。一応、新婚なはずなのに?」
一般的には新婚に分類されるはずなのに、思わず疑問形になってしまった。
「まあ」
エレオノーラはリガウン家のサロンで、ジルベルトの母親と共にお茶を飲んでいた。
「それにお義母さま。私たち、いつになったら結婚式を挙げられるのでしょうか?」
「そうよねぇ」
母はゆっくりと口元にカップを運んだ。
「せめて、私が生きているうちにあなたたちの結婚式を挙げてもらえると嬉しいのだけれど」
「お義母さま。私、結婚してから、ジル様とはまだ二回しかお会いしていないのです。これもおかしいと思いませんか? 結婚して一か月以上経つのに、二回ですよ。旦那さまと二回しか会えてないんですよ。しかもそのうちの一回は職場でお会いしただけです。別居婚だとしても、会えなさすぎだと思いませんか? しかも私がこちらに来てからは一度も会えていないのです。やはり、ジル様は私と結婚したことを後悔されているのでしょうか」
うーん、と母は頬杖をついた。
息子夫婦が互いにベタ惚れであることは、誰がどこからどう見てもわかる。むしろ、見ている周囲が恥ずかしくなるくらいに。その二人が一か月で二回しか会うことができないというのは、間違いなく異常事態だ。
「やはり、グリフィン公爵家の件よね」
母が呟いた。グリフィン公爵の悪事の数々。しかも前王の弟の子、という立場なだけあって政界も大混乱である。五つある公爵家、そのうちの一つの失態だ。
「ですよね。みなさま、大変なんですよね。ですから、私のわがままでジル様にこちらに帰って来ていただきたいと思うのは、ダメですよね、きっと」
エレオノーラは、しゅんと肩を落とした。
うーん、と母は頬杖をつく手をかえた。
忙しいにしても、屋敷に帰って来ることができないくらい忙しいというのは、いかがなものか。できれば式を挙げるために二日くらい休みを取らせてもらえないのだろうか。
それがこの場にいる二人の女性の気持ちである。
「そうよね。せめて、結婚式だけは早めに挙げたいわよね。まあ、こうなることがわかっていたから、さっさと誓約書だけ出したっていうのもあるけれど」
そこで、母はちょっと温くなったお茶をすすった。
婚約期間中も、数回程度しか会っていないはずだが、それでも十日くらいに一回の割合で会えていたはずだ。
再び、母が温めのお茶に口をつけようとしたときに、廊下のほうが騒がしいことに気づいた。
人の足音が聞こえてくる。しかも勢いよく。
廊下は静かに歩きなさい、とその場に誰かがいたのであれば、間違いなく注意しているだろう。
いきなり、不躾に扉が開かれた。こんな不躾な開け方をしてくる人物を、ジルベルトの母親は二人しか知らない。一人は自分の夫。
だが、今日は例のグリフィン公爵の件で王城に呼び出されていた。年の功というやつで、騎士団を引退しているにも関わらず呼び出されてしまった。仮に彼が帰ってきたとしても、今日の今日でこのような開け方はしない。ということは、もう一人の心当たり。
息子のジルベルトしかいない。
「エレン。元気だったか」
やはりその扉を不躾に開けたのは騎士服姿のジルベルトであった。後ろでは執事のトムが「坊ちゃん、困ります」と言いながら、慌てていた。
「お帰りなさい、ジル様。お出迎えせずに申し訳ありません」
エレオノーラがすっと立ち上がると、ジルベルトはずかずかと近づいてきて、彼女を両手で抱きしめた。
「会いたかった」
首元に顔を埋められ、さらに耳元でそんなことを囁かれたのであれば、エレオノーラの顔もみるみるうちに茹で上がる。
「私も、ジル様にお会いしたかったです」
エレオノーラが言ったら、さらに彼女を抱きしめる腕に力が入った。
「ああ、母上。いらしたのですね」
エレオノーラを抱きしめながら、そのようなことを口にするジルベルトは、視線だけを冷たく母親に向けた。
「ええ、いましたよ。あなたが来るずいぶんと前からエレンと一緒にね。そう、彼女がこの屋敷で暮らし始めてからというもの、一日の大半は彼女と一緒にいますけどね」
どうだ、と胸を張って自慢している。
「でしたら今は、エレンは私が連れて行っても問題はありませんね」
「いいえ、私との話が終わっておりません」
「一日の大半を彼女と過ごしているあなたなのですから、少しくらいは私に譲ってくださってもよろしいのでは? こちらは一月ぶりに会えたのです」
「あの、ジル様……」
そこでエレオノーラは口を挟んだ。
「苦しいです」
その一言でジルベルトはぱっと両手を離した。
「すまん。つい」
「いえ。その、嬉しいのは嬉しいですから」
右手の人差し指を口元に当てて、照れながら笑うエレオノーラであるが、この仕草も可愛らしいと感じているジルベルトは、また抱きしめたくなる衝動に駆られているようだ。
「まったく、少しお茶でも飲んで落ち着いたらどうなの?」
侍女は状況を察し、さっとお茶を淹れる。ジルベルトは、エレオノーラを座らせ、自分はその隣の席に座った。
「思ったより、早いお帰りでしたのね」
湯気の立つカップを手にして、母親が言った。
「ええ。今回の件には父たちにも応援を頼むこととなりました。通常の騎士団のメンバーだけでは人員と経験が足りないという総帥の判断になります」
「そう、よかったわね。てっきり、あなたが暴れて勝手に帰ってきたのかと思ったわ」
母の呟きがあながち嘘では無かったことを、あとでエレオノーラは知ることとなる。
「さらに総帥が、私たちの結婚式のことを気遣ってくださり、三日程度であれば続けて休みをもらえることになりました。式はいつ頃挙げればよろしいでしょうか。その、準備とかもありますでしょうから」
「準備って。あなたは大した準備はないでしょう? エレンの方は、いつでも式が挙げられるようにと、粗方準備は終わっております。ドレスもね」
ドレスと言う言葉が出た時に、口にカップをつけていたジルベルトの右眉がピクリと反応した。
それを見た母親は、この息子が考えていることが手に取るようにわかった。
「そうね。せっかくあなたもお休みが取れるというのであれば、早い方がいいですね。では、半月後にいたしましょう。半月あれば準備は間に合います。式は教会で。その後、お披露目のパーティですね。半月しかありませんから、招待客は身内で良いですね」
腕が鳴るわ、と母親は喜んでいる。
「では、母上。お茶もいただいたことですし、必要な話も終わりました。エレンをお借りしても?」
「仕方ないわね。今は譲りましょう」
母親は妖艶な笑みを浮かべた。熟女の笑みというのも色っぽい。
「エレン」
ジルベルトがさっと手を差し出した。それに自分の手を重ね、立ち上がると、いきなりジルベルトに横抱きにされてしまう。
「あの、ジル様。私、自分で歩くことができますが?」
「私がこうしたいと思ったのだ」
「ええと、お義母さま?」
視線で助けを求めてみたが、その目はあきらめなさい、と言っていた。母親にあきらめなさいと言われたらあきらめるしかない。エレンは素直に両手をジルベルトの首元に回した。
「では、夕食までエレンを借ります」
はいはい、と母親は右手を振っていた。
エレオノーラはどこまで連れていかれるのかと思っていた。
間違いなくジルベルトの部屋なのだが。
「あ、ジル様」
ジルベルトが自室の扉を開けると、そこには何もなかった。ただの空き部屋である。
「ジル様。お部屋がかわったのです。その、私が嫁いできましたので」
嫁ぐという言葉を口にしたエレオノーラは、恥ずかしそうに目を瞬いた。
「では、私の部屋はどちらに?」
「ええと、ジル様のお部屋というよりは、私たちのお部屋、ですかね?」
エレオノーラのその言葉に、ジルベルトは立ち止まった。
「私たちの部屋、だと?」
「はい。私とジル様は結婚しましたので、同じ部屋で、とお義母さまがおっしゃっておりました。とても素敵な部屋なのです。ここを真っすぐ行ってください」
エレオノーラが口で案内をする。
ジルベルトにはこの部屋の場所に覚えがあった。昔の両親の部屋である。
ジルベルトはエレオノーラを抱いたまま、部屋へと入った。
案の定、寝台は一つだった。
エレオノーラをゆっくりとソファにおろした。そして、ジルベルトはなぜか部屋を出て行った。
「ジル様?」




