第六章(4)
「あの、終わったと思って安心しましたら、腰が抜けてしまいました。いや、あの……。ホントに、ごめんなさい。今回の任務は毎回ヤバイって思っていたんですよね。その、グリフィン公爵とお会いする度に。もう、バレたらどうしよう、みたいな感じでした」
ジルベルトはエレオノーラの隣に腰をおろした。
「今日も、まさかグリフィン公爵がこちらの作戦にのってくれるとは思ってもいなくて。本当に一か八かみたいな感じでした」
ジルベルトはそっとエレオノーラの背中に手を回す。
「リガウン団長やウェンディも巻き込んでしまって、本当にごめんなさい」
エレオノーラの声は少し震えていた。
「グリフィン公爵の件は、我々も把握していたが証拠を掴むことができなかった。今回こうやって拘束することができたのも、あの薬物を押さえることができたのも、全てはエレンのおかげだ」
エレオノーラは泣きそうな笑みを浮かべた。笑っているように見えるけれど、目尻が下がって今にもそこから涙が溢れそうだった。
「ごめんなさい……。あの……、本当に怖かったんです」
「ああ」
ずっと一人で敵陣に乗り込んでいたのだ。そのような気持ちになるのも仕方のないことだろう。騎士団は団ということもあり、集団で動くことが原則である。基本的には単独行動はしない。だから、単独で騎士を動かす第零騎士団はそれだけ異質なのだ。
「冷えてきたな、戻ろう」
ジルベルトは立ち上がり、エレオノーラに向かって手を差し出したが、エレオノーラはそれを取らない。
「あの、リガウン団長」
「ジル、だ。エレン。もう任務は終わった」
手を差し出したまま、ジルベルトは言う。
「あの、ジル様。立てません」
ふっと、ジルベルトは笑った。
「わかった。だったら、前か後ろか、どちらがいい?」
「前か後ろ?」
エレオノーラにはその質問の意味がわからなかった。
「抱っこかおんぶだな。立てないのだろう? つまり歩けないということだ。だから私は君を運ばなければならない」
「でしたら、おんぶでお願いします」
するとエレオノーラの目の前に広い背中が現れた。
ジルベルトに背負われて、廃倉庫の二階から一階へと移動する。
「あの、ジル様」
エレオノーラはくてっと右耳をジルベルトの首元にくっつけていた。
「重いですよね、すみません」
「いや、重くはない。重くはないが、むしろ……」
抱っこよりもおんぶのほうが密着度は高いらしい。密着することでお互い気づくこともいろいろあるのだ。
「むしろ、なんでしょうか?」
「いや、なんでもない」
沈黙――。
ジルベルトのカツンカツンという足音だけが響く。
「あの、ジル様」
返事は無い。
「ジル様はやはり、こういった、大人な女性がお好みなのでしょうか? 多分、ジル様には知的美人かセクシー美人がお似合いになるのかなと思っているのですが」
彼はピタッと足を止めた。ジルベルトは何かを考え込んでいる。
「まあ、そういうエレンも悪くはないが」
そこで再び歩き出した。
「いつも言っている通り、あなたはあなたのままでいい」
「ジル様。私、おかしいんです」
「どうした? どこか怪我でもしたのか?」
おかしいと言われたら、誰だって心配になるものだ。
「いいえ。私、ジル様に好かれたいと思っています」
ジルベルトは再び足を止めた。だが何も言わない。
「ジル様が、私に対して責任をとるために婚約してくださっただけなのに。私は、ジル様に好かれたいってそう思っているんです。ですからもう、婚約者を演じることができません」
ジルベルトの婚約者という仮面をつけることができない。仮面をつけることができなければ、もう演じることはできない。
マリーという女性を演じることができた。だけど、どうしてもジルベルトの婚約者は演じられないのだ。
「だったらもう、演じる必要は無い」
「え。それって流行りの婚約破棄……」
「されても、私は困るのだが」
ジルベルトは笑って、再び歩き出した。
廃倉庫から出るとリガウン家の馬車が止まっていた。この御者も影の協力者の一人だ。
ジルベルトは馬車に乗り込むと、エレオノーラを背中から降ろして、その隣に座った。馬車は静かに動き出した。
エレオノーラは背筋をまっすぐに伸ばして、両膝の上に両手を握りしめて座っていた。ただその顔はその両手を一点に見つめていた。
「エレン。顔を見せて欲しい」
ゆっくりと、エレオノーラは首の向きをかえた。
「出会いはどうであれ、私は今、あなたを愛している。だから、婚約破棄はしない」
ジルベルトはエレオノーラの右手をとった。その手を彼女の顔の高さにまでゆっくりと持ち上げると、彼女に見せつけるかのようにその甲に唇を落とす。
さらに、じっとエレオノーラの瞳を見つめている。
「エレン。あなたの気持ちを聞かせて欲しい」
「私は……」
そう言いかけたエレオノーラであるが、それ以上言葉を紡ぎ出すことができなかった。
ジルベルトがじっと彼女を見つめていた。彼は次の言葉を待っている。
「私は諜報部の潜入班としては失格ですね」
エレオノーラは自嘲気味な笑みを浮かべる。
「私は、ジル様が好きです。多分」
「多分?」
「多分……。あの、うまく言えないのですが。ジル様に嫌われたくないです。ジル様が責任をとるとおっしゃってくれたから、それに応えるように、婚約者としての義務をきちんと果たすべきだと思っていました。ですが、こうやってジル様と共に時間を過ごすうちに、ジル様に嫌われたくないって思うようになってきました。まだ、十回しかお会いしたことが無いのに」
「十回、なのか?」
「はい。今日が記念すべき十回目でした。このような記念すべき日に、ジル様とお芝居を見に行くことができて、とても嬉しいと思いました」
「そうか」
ジルベルトは何かを考え込むかのように、唇を結んだ。
「ですが、それを利用するような形になってしまい、本当に申し訳ありません。ジル様まで利用するようになってはジル様の婚約者として不適だと思いますし、またジル様にこのような感情を抱く私は諜報部として失格だと思っています。今回の事件の全貌が明らかになったら騎士団の方には退団願を出します」
「辞めるのか? 第零騎士団を?」
エレオノーラは頷いた。
そうか、とジルベルトは呟いたが、あの第零騎士団たちが彼女を手放すとは思えない。それに騎士団という組織を考えた場合、彼女を失うことは組織としての損失も大きいはず。
「騎士団を辞めて、田舎に引っ込もうと思います。私を知らない人たちのなかで、ひっそりと暮らしていこうと思います」
「いや、エレン。あなたは私の婚約者のはずだが? それまで辞めるつもりか?」
「私はジル様の婚約者としてふさわしくありません」
「そうか……。あなたがそこまで言うなら」
ジルベルトが言うと、エレオノーラは一筋の涙を流した。彼女は、ジルベルトの婚約者として相応しくないと思いつつも、ジルベルトのことが好きなのだ。
その想いが溢れ、涙となった。
ジルベルトはエレオノーラの頬を優しく撫でる。
「婚約者は辞めて、私の妻にならないか? 婚約者としてふさわしくない、というのであれば、妻ならどうだ?」
「え?」
「私はあなたを一生手放す気は無い」
そこでジルベルトはエレオノーラの背中に両手を回して、彼女をゆっくりと抱きしめた。
「ジル様?」
「私の妻は嫌か?」
ジルベルトの腕の中で、エレオノーラはフルフルと首を横に振る。
「エレン。私はあなたを愛している」
「はい」
「だから、いつまでも私の隣で笑っていて欲しい」
「はい」
「できれば、あなたの気持ちも聞かせて欲しい。あなたには、他にふさわしい人がいるのではないかと、いつも不安になる」
エレオノーラも、ゆっくりとジルベルトの背に手を回す。
「私も、ジル様のことが好きです。これからもずっと、お側にいても良いですか?」
「ああ、もちろんだ」
ジルベルトはエレオノーラの顔を覗き込むと、彼女に口づけた。




