第六章(2)
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アンディの足の上には女の頭がある。だが残念ながら愛するマリーの頭では無い。そのマリーは向かい側に座っている。
「意外と、ちょろかったわね」
マリーは深緑色のドレスを身に着けている。今日もその豊満な胸と、細い太ももが露わになっている。
「当て身をくらわせただけで気絶とはさすがお嬢様だな」
騎士団の騎士服に身を包むのはアンディだった。
そして、彼の足の上で眠っている女性は、ジルベルトの婚約者であるエレオノーラと思われる女性である。
「だが、マリーの言った通りだったな。第零騎士団を名乗れば、この女をすんなり手渡してくれるって」
「でしょ?」
足を組み、腕を組んでいる彼女の姿は自信に溢れている。
「ところで、フランシア家の方は?」
「ああ、仲間をやった。今頃それを見て、事の重大さにでも気づいている頃ではないか?」
アンディの仲間がフランシア家に脅迫状を置いてくる手筈になっている。それの通りに事が運ぶとしたら、あと二時間後にはジルベルトとの決着がついているだろう。そして、たんまりと身代金も手にしているはず。
「とりあえず、打っておくか?」
「誰もいないところでやっても面白くないでしょう? あの団長が来てから、彼の目の前で打ちなさいよ。自分の婚約者が堕ちていくところ、見せつけてやるのよ」
マリーの冷たい視線が、眠る彼女に突き刺さっていた。
ふっと、アンディは鼻で笑った。あのマリーをここまで苛つかせるこの女も気になるところ。むしろ、それだけマリーはこの女性が嫌いなのだろう。
馬車が向かった先は、港にある廃倉庫が並ぶ一角だった。その廃倉庫のうちの一つがアンディたちのアジトなのだ。
気を失っている彼女をその倉庫に運び入れ、固い床の上に転がした。両手は背中で縛り、両足もしっかりと縛り上げる。倉庫の床は冷たいコンクリートが敷き詰められたもので、そこに縛られたエレオノーラと思われる女性が横たわっていた。
マリーは彼女の顎に手を当て、その顔を覗き込む。
まだ気を失っているからか、彼女は目を開けることは無い。
「ふん、つまらないわね」
どうやらマリーは、彼女が泣き喚く姿を見たかったようだ。
「マリー。私は少し仲間たちと周辺を見回ってくるが、この女の見張りを頼んでもいいか?」
「ええ」
マリーは頷くと、どこからか椅子を引っ張り出してきてエレオノーラと思われる女性の頭の脇に置いた。彼女を見下ろす形でそこに座る。
アンディの仲間は、彼をいれて五人である。少数精鋭とは言ったものだ。そこから、根を張らせて他の者へのルートを築き上げているようだが、この五人と結びつくような痕跡は一切残していない。
彼女を助けに来るのは、ジルベルトとダニエルの二人になるだろう。他の二人の兄は、戦闘向きではなかったはずだ。
そうなると、人数的な関係からいっても、アンディたちのほうが有利になるはず。
「う、ん……」
足元で転がっている彼女が気づいたようだ。
「あら、やっと気が付いたようね」
「あなたが?」
「解いてあげたいのはやまやまだけど、あなたの婚約者が来るまで待っていてちょうだい」
足を組み、その長くて細い足を見せつけて、マリーは妖艶に笑んだ。こうやって彼女を見下ろすのも悪くはない。
複数の足音が聞こえてきた。そろそろ彼らがやって来たのだろう。
「おい、マリー。あいつらが来たぞ」
アンディは息を弾ませ、楽しそうに言った。
「そう」
マリーは椅子をきしませて、ゆっくりと立ち上がる。
「あなたも一緒に来てちょうだいね」
マリーは彼女の顎を掴んでそう言うと、乱暴に突き放した。
彼女の足を結んでいた縄だけは解いた。さらに、彼女が逃げられないように、マリーは後ろに縛った手をしっかりと押さえていた。
彼女を連れて部屋を移動すると、そこには案の定、騎士団の服に身を包む男が二人いた。
第一騎士団団長ジルベルトと、第零騎士団諜報部部長のダニエル。ここにいるエレオノーラにとっては馴染みの深い二人である。
「彼女に何をした」
百八十を超える長身、さらに今日も髪型はオールバックである。そんな迫力ある彼が、低い声で言い放つ。
マリーはにたりと笑みを浮かべたまま答えない。あの男の浮かべる苦悩の表情が面白い。いつまでも、それを見ていたい。
「彼女に何をした、と聞いているんだ」
普段のジルベルトからは想像できない声だった。
いや、騎士としての彼はそうなのかもしれない。だが、そのような姿をジルベルトはエレオノーラの前で見せたことはなかった。
「まだ、何もしていないわよ。まだ、ね」
顔を傾けて、マリーは意味深に答えた。
マリーは左手で彼女の腕をしっかりと掴んでその背後に立っている。空いている右手で、彼女の首元を狙うことも可能だ。
「お前たちの狙いは何だ?」
ジルベルトの低い声が響く。
「あら? お前たち、ですって?」
マリーはもう一度首を傾けた。まるで彼が何を言っているのか、わかりません。とでも言うかのように。
「ここにいるのがお前一人だけではないことくらい、気付いている。彼女をさらったのは別な人間だろう」
ジルベルトは鋭くマリーを睨んだ。
「まあ。気付いていたのね」
ふふ、っとマリーは華やかに笑んだ。
「気付かれているみたいよ、アンディ」
「やっぱり、黒幕の登場はもったいつけないといけないだろう?」
アンディがゆっくりと姿を現すと、マリーの腰を抱く。
「アンドリュー・グリフィン公爵……」
ジルベルトがその名を呟いた。
ジルベルトは建国祭で彼と言葉を交わしている。
「やはり、グリフィン公爵が黒幕だったのか」
ダニエルは誰にも聞こえないように呟いたつもりだったが、しっかりとジルベルトの耳には届いていたようだ。
「グリフィン公爵。妹を解放していただきたい」
ダニエルは一歩前に出た。
「妹? そうか、君が第零騎士団か。彼女は第零騎士団をつぶすにも都合のいい人物というわけだ」
「グリフィン公爵は何をお望みか?」
こういった交渉術はジルベルトよりも、第零騎士団であるダニエルの方が向いていると思われた。
「望み? それは君たちが私を見逃してくれること、だろうね」
アンディは口角をあげてひくりと笑った。
「それは、なかなか難しい交渉だな」
ダニエルは左手の手のひらを上に向けて、肩をすくめる。
「そう言うだろう、と思っていた。私たちも最初から期待はしていないさ。ね、マリー」
グリフィン公爵は、相棒の名を優しく呼んだ。名を呼ばれた彼女は、どこに隠し持っていたのか、一本の注射器を手にしていた。
「これが何かわかるかしら?」
その注射器を見せつけて、マリーは口の端を持ち上げた。
「やめろ」
ジルベルトが彼女に駆け寄ろうとしたが、男が数人やってきてジルベルトとダニエルの身体を拘束した。
彼らも油断したのだろう。うつ伏せに床に倒れ込み、床に肩を押さえつけられてしまった。
「やめてくれ」
ジルベルトは暴れるが相手は男が二人。ダニエルにも同様に二人の男が床に押さえつけている。
マリーはその注射針を、拘束している彼女の右肩に刺した。彼女の目が大きく見開いたかと思うと、その身体が崩れ落ちていく。
そっとアンディが崩れる身体を支える。
マリーは中身が空になった注射器を、倒れている二人の男に見せつけるかのように放り投げた。それは宙に放物線を描いて落ち、カランと乾いた音を立てた。
「彼女に何をした」
体を押さえつけられながらも、ジルベルトの目はギラリと怒りで溢れている。
「ちょーっと、気持ちよくなれるお薬よ。でも、気を失ってしまったみたいね。目を覚ますのが楽しみだわ」
マリーはアンディの腕の中にいる彼女の頭を優しく撫でた。
「き、貴様」
男二人がかりで押さえているにもかかわらず、ジルベルトは一人に向かって右肘を振り上げた。見事、一人の顔面に当たった。痛みに耐えきれず顔を押さえた一人の男は、ジルベルトを押さえる手を離してしまった。
一対一であれば、ジルベルトの方が有利である。彼を押さえつけていたもう一人の男は、ジルベルトが立ち上がることができないように、慌てて両肩を押さえつけようとした。
だが、ジルベルトの方が動きは速かった。押さえられたところを軸にして、身体を回転させる。その男に膝蹴りを与える。それは男のこめかみに命中し、そして吹っ飛んだ。
「ダニエル殿」
ダニエルに覆いかぶさっている男の背中を引っ張りあげ、無理やりこちらを向かせると、その顔面に頭突きを食らわせる。
残った一人は、ダニエルが蹴り上げてふらついたところを、さらに回し蹴りでその頭を狙った。
ジルベルトとダニエルを押さえつけていた男たちは、見事その二人によって気絶させられてしまった。
「あなたの部下、思ったより使えないのね」
はあ、とマリーは大きくため息をついた。
二対二。こちらに人質がいるとしても、相手は騎士団に所属する男が二人。分は悪い。そしてこちらが身構えるより先に、ジルベルトがマリーへとその手を伸ばした。
「お前だけは絶対に許さない」
彼女の細い首に両手をかける。ジルベルトの力でみるみると首を絞められるマリーは、言葉を発することなく、気を失った。そのままドサリと床に落とされる。
「マリー」
グリフィン公爵は腕の力を抜いてしまった。だから腕の中にいたはずの彼女の身体が床に落ちる。だが彼にとっては、薬で気を失っている彼女よりもマリーの方が大事なのだ。
「マリー」
彼女に近寄って左膝を床につき、その口元に耳を傾けると、呼吸が止まっているように感じた。
「き、貴様! よくもマリーを」
グリフィン公爵はジルベルトを見上げ、ジルベルトはグリフィン公爵を見下していた。




