第五章(6)
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いつものバーにマリーはいなかった。たいていアンディが足を運ぶと、マリーはカウンターで一人、グラスを傾けているはずなのに。
「今日は、マリーは来ていないのか?」
いつもの、と頼む前につい尋ねてしまった。
「そのようですね」
バーテンダーはグラスを拭きながら、表情を変えずに答えた。
「いつものを頼む」
アンディはそう言い、つまらなさそうにカウンターの上に右肘をつき、手の上に顎を乗せた。彼女がいないと、刺激がない。刺激がないからつまらない。
カランカランと音を立てて扉が開くたびに、マリーが姿を現すのではないかと思い、ついつい視線を向けてしまう。だが、現れたのは別な女性だった。
それを三度繰り返した時だった。
「あら、アンディ。今日は早いのね」
紫色のドレスを身に纏ったマリーがやっと現れた。
今日のドレスも彼女の魅力をより輝かせている。その紫色という色合いもそうであるが、胸元が広く開いたドレスは、彼女とすれ違う男どもを虜にするし、太ももまでスリットの入っているデザインも、すれ違う前の男たちの視線を釘付けにするはずだ。
「マリー。君は相変わらず素敵だ」
アンディの言葉を聞いたマリーは、声を出さずに笑みだけを浮かべた。そして首を傾ける仕草も色っぽい。いや、マリーは存在そのものが色っぽいのだが、とにかく、彼女のそんな仕草の一つ一つがアンディを魅了してくる。
「いつもの。お願いね」
彼女が、カウンター向こうのバーテンダーに声をかけると、彼は黙っていつものオレンジ色の液体を差し出した。
「奥、空いているかしら?」
彼女の言葉に、バーテンダーは無言で頷く。「アンディ、場所を変えましょう」
マリーはオレンジ色が注がれているグラスを手にして、奥のボックス席へと向かう。アンディもその後ろについていくが、目の前の紫色のお尻の動きについつい目を奪われてしまう。
「アンディ。あなた、本当にあの騎士団の団長に手を出すつもりがあるのかしら?」
座るや否や、マリーの口からそう言葉が出てきた。
「どういう意味だ?」
「言葉の通りだけれど」
そこで彼女は足を組む。上にした右側のスリットが、アンディを誘っているようにも見える。
「あなたが、本当にあの団長に手を出すつもりがあるなら、私はとっておきの情報を教えてあげるわ」
どこか真剣な眼差しで、彼女はアンディを見つめている。
「とっておきの情報、だと?」
「ええ」
そこで彼女は、いつものオレンジ色の液体に口をつけた。
「どうする?」
マリーはこくんと一口飲んだ。
アンディはグラスに浮いている氷を指でチョンチョンと押し付けながら考える。
あの第一騎士団の団長、ジルベルト・リガウン。自分が仕事をこなすためには邪魔な存在ではある。彼が団長になってからの警備体制はより強化され、アンディの仲間たちも捕まったり、仕事が失敗したりしているのも事実だ。だが、それが程よいスパイスになっていて、仕事にやりがいを与えているのも事実。
だが――。
「やるか」
独り言のように呟いたのに、それはマリーの耳にも届いていたらしい。ふふっと笑んで、「さすがね」と言葉にする。
「だったら、あなたにはこれを差し上げるわ」
マリーが差し出したのは、一枚の紙切れだった。それを受け取ったアンディが、紙きれに目を落とすと、日時と場所が書いてあった。そのほかに書いてあるのは、何かのタイトルだろうか。
「これは?」
「あの堅物。よっぽど婚約者と二人で出掛けたいのね。その日のその時間、その演目の芝居が行われるわ。そして、あの堅物がそのチケットを取ったらしいのよ」
アンディがどこかで見たことのあるタイトルだと思ったのは、婦女子が騒いでいる芝居のタイトルだったからだ。
「それの帰り道。婚約者が一人になったところを狙えばいいのよ」
マリーが手にしていたグラスの氷がカコンと鳴った。グラスは汗をかき始めたようだ。
「だが、あの堅物が屋敷まで送り届けるのではないか?」
アンディがそう思うのは正しい。
「そうね。だから、屋敷の手前で偽の迎えを出すのよ」
「どうやって?」
ふう、とマリーは大きくため息をついた。
「少しくらい、自分で考えたら?」
冷たい視線だった。今までこのような視線を彼女から向けられたことはあっただろうか。いや、ない。
考えを悟られないように、アンディはグラスに口をつけた。だが、だからって考えは出てこない。
「仕方ないわね、今回だけ特別よ」
マリーの視線が和らいだ。
「芝居を観終わり、帰るところ見計らって彼らの馬車を止めなさい。そして、第零騎士団を名乗って、婚約者をこちらの馬車に乗せるのよ」
「なぜ、第零を名乗る必要がある?」
「あの婚約者の兄が第零だからよ。きっとあの堅物も兄からの迎えの馬車であると思うでしょうね」
マリーの笑みは濃艶だ。
「なるほど」
「彼女をこちらの馬車に乗せてしまえばこちらのものよね?」
そうだな、とアンディは頷いた。
「ねえ、アンディ?」
マリーは首を傾けて、頭を彼の肩の上に乗せた。
「私があなたのものになったら、刺激のある生活を約束してくれるのよね?」
そのまま上目遣いで彼を見つめてくる。
「ああ、もちろんだ」
「そう」
マリーは呟くと、すっとその肩から頭を離した。グラスを手にしている右手の肘を左手で押さえ、何やら考えている様子。そのままグラスに口をつけ、一口、オレンジを含む。そしてゆっくりと、グラスをテーブルの上に置いた。
「あなたがあの堅物をやった日には、あなたの女になってあげるわ」
マリーは右手の人差し指でくるくると宙に円を描いた後、それをアンディの口元に当てた。アンディは舌を出して、その指をペロリと舐めた。




