第五章(3)
「ジルベルト、悪いがエレオノーラ嬢を貸してほしい」
その二人を目ざとく見つけたのは、国王である。
「陛下、あちらにいらっしゃらなくてよろしいのですか?」
目を細め、面倒くさそうにジルベルトは彼を見た。
「だから、エレオノーラ嬢を貸してくれ。今日は、近隣諸国からも人が集まっているからな」
「陛下、ですからなおさらです。あちらにいらっしゃったほうがよろしいのではないですか?」
今日は建国祭であり、国王が言った通り、近隣諸国の重鎮たちも集まっている。だから、国王である彼には、そういった人たちの相手をする必要があると、ジルベルトは言っているのだ。
「ジルベルト。すまんが、エレオノーラ嬢に通訳を頼みたいのだ。こちらで準備した通訳では、力不足なところがあってだな」
「陛下たるもの。近隣諸国の言語など、使えて当然ですよね」
ジルベルトの指摘はもっともである。
「日常的な会話はできるが。深い話は無理だ」
「自信満々に無理だ、とおっしゃられても」
「ジル様」
ジルベルトの腕をしっかりと握りしめていたエレオノーラが声を発した。
「私なら大丈夫ですよ」
エレオノーラが大丈夫と言っても、ジルベルトが大丈夫ではない。
ジルベルトは、深いため息をつくと共に、首を横に振った。だが、エレオノーラが引き受けると言っている以上は、彼女のやりたいようにやらせたいという思いもある。
「私も同行していいだろうか」
それがジルベルトの出した答えである。つまり、エレオノーラの側にいること。
「それは問題ない」
国王の後ろをジルベルトとエレオノーラは並んでついていく。案内された先には、近隣諸国の偉い人がたくさん集まっていた。そこにくわえて、この国の偉い人たちも。
「エレオノーラ嬢、こちらへ」
国王に促されたエレオノーラは、一人の年配の女性の前に立たされた。ジルベルトは少し離れた場所から、その様子をうかがっている。
ジルベルトの突き刺さるような視線を、エレオノーラは背中で感じた。エレオノーラもすぐさまジルベルトの隣に戻りたいけれど、今はやるべきことがある。
通訳を引き受けたのは、ジルベルトの隣にいるのに相応しい女性と思われたいためだ。
「アークエット王妃、彼女です」
隣国アークエットの王妃。名前はファニタ。エレオノーラは近隣諸国のデータを全て網羅している。
「アークエット王妃は、エレオノーラ嬢が書いてくれた招待状を非常に気に入ってくれてね。それで、どうしても会いたいとおっしゃってくれた」
国王が説明する。
(会いたいってどういうこと? 通訳が足りないのではなかったの?)
エレオノーラの心の中には疑問が生まれつつも、アークエットの言葉で挨拶をした。
すると、ファニタは彼女がわざわざアークエットの言葉で挨拶をしてくれたことに喜んだようだ。
「あなたが書いたという招待状を手にして、今日という日がとても楽しみだったの」
その言葉はファニタの本心だろう。深く皺を刻みながら、微笑んでいる。
「とても光栄です」
「アークエットの言葉もとてもよく勉強してくださっているのね」
エレオノーラが近隣諸国の言葉を勉強していたのは、もちろん潜入調査のためだ。だからといって、それをそのままファニタに伝えることなどできない。
「異文化は自分の世界を広げてくれます。異文化を学ぶことは、自分の成長にも繋がりますから」
「そうですね。勉学は何事も成長に通ずる道ですね」
エレオノーラの今の気分はアークエットの潜入調査員だった。だが、心の準備とか下調べとか、そういうのを全部省いているため、いつボロが出るかわからない。ジルベルトの婚約者の仮面の上に、アークエット潜入調査員(実際は、どこからも依頼はきていない)という仮面をつけ始めた。
その偽の仮面をつけたまま、適当に会話を弾ませるが、それもファニタは非常に喜んだようだ。とにかくアークエットの言葉を不自由なく使いこなし、アークエットという国に対しても好感を持って話をしている、というところが高評価だったようだ。
「エレオノーラ。私には息子が二人いるの。紹介してもいいかしら」
気分を良くしたファニタは突然、そのようなことを口にした。近くにいる国王はニヤニヤと笑っているし、むしろ背後からの視線が痛い。その視線の主はジルベルトに違いないだろう。
ファニタからはアークエットの二人の王子を紹介された。二人とも年齢はエレオノーラより少し上くらいのようだ。
エレオノーラは先ほどから、背中に鋭い視線を感じていた。目の前の国王はニヤニヤと楽しそうな笑みを浮かべている。この人はこうなることをわかっていて、エレオノーラをこの場に呼んだに違いない。
(もしかして……。私が婚約していることを伝えていないのかしら? それともただの社交辞令?)
エレオノーラが考える暇もなく、その一人の王子がすっと手を差し出してきた。つまり、一曲踊りませんか、という誘いだ。
ジルベルト以外の男性とは踊らない。そう、エレオノーラはジルベルトに伝えた。
この手を取ってしまったら、彼との約束を破ってしまうことになる。
だが、相手はアークエットの王子。この手を取らなければ失礼だろう。
少し離れたところにいるジルベルトが動く気配がした。
(あっ……)
エレオノーラは答えを見つけた。
(そうよ。私は病弱なのよ)
王子が誘い言葉を口にする前に、エレオノーラは身体を傾ける。後ろには絶対ジルベルトが控えているはず。倒れても、彼が絶対に支えてくれる。
「申し訳ありません。彼女は気分が優れないようです」
ジルベルトはエレオノーラの身体を支えて、謝罪の言葉を口にした。ジルベルトの言葉が通じたのかどうかはわからない。
「まあ、大丈夫かしら」
ファニタが、心配そうな表情を浮かべている。
身体をジルベルトに預けたエレオノーラは、全てをジルベルトに任せようと思った。どうやら彼は、エレオノーラを抱きかかえながら「この場をなんとかしろ」という視線を国王に向けていたようだ。
国王はやはりニヤニヤとしている。
「どうやら人の多さに当たってしまったようですね」
それでも言葉を続けてくれたのも国王だった。
「彼女を奥の部屋に連れて行きなさい」
先の言葉をアークエットの言葉でファニタに言い、後の言葉はジルベルトに言う。誤魔化そうとしてくれたのを感じるが、そこまで機転が利くということは、このような展開を期待していたにちがいない。
ジルベルトはエレオノーラを抱いたまま、別室へと向かった。
そんなジルベルトとエレオノーラをじっと見つめている男が二人いたことに、もちろん彼らは気づいていない。
二人の男のうちの一人は国王である。ファニタと話をしながら、楽しそうにジルベルトの様子を見ている。この男は完全にジルベルトで楽しんでいるのだ。
そしてもう一人はグリフィン公爵。じっとりとまとわりつく視線は、ジルベルトとその婚約者を観察しているように見えなくもない。
グリフィン公爵は、前王の弟の息子。つまり、現国王とは従兄弟同士にあたる関係である。
彼はジルベルトたちが大広間を出ていくまで、じっとその視線を外すことはしなかった。それはまるで、獲物を狩るかのような、とても執拗な視線だった。
「やられたな」
エレオノーラを抱いているジルベルトが彼女に向かって口を開いた。
「どういう意味ですか?」
薄目を開けて、エレオノーラは静かに尋ねた。
「あいつだ。クラレンスだ」
ジルベルトの口から出た名前が、国王の名前であると認識するまでに五秒かかった。
「陛下が何か?」
「あれは、完全に私たちで楽しんでいる」
別室のソファにエレオノーラをおろしたジルベルトは、その隣に座った。二人分の重みが加わり、ソファもぎしりと沈む。
「あなたを他の男と踊らせようとしていた、くそ」
ジルベルトから、悔しさが滲み出るような言葉がこぼれた。
「どこもかしこも、私とあなたの仲を邪魔する奴ばかりだ」
膝の上のジルベルトの拳が、ふるふると震えている。
「では、ジル様。デートに誘ってください。できれば、あまり人のいないところがいいです。人の目が少なければ、私もこのような変装をすることもないので」
ジルベルトの震える拳を両手で包んだエレオノーラによって、ジルベルトの口元は少し綻んだ。




