第五章(2)
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「ジルベルト様よね」
「リガウン侯爵家のジルベルトか?」
「珍しいな。今日は警備担当ではないのか?」
「一緒にいるのはどこのご令嬢だ?」
ジルベルトの腕に自らの腕をからませたエレオノーラが、入口から会場へと足を踏み入れると、そんな声が耳に届いてくる。
煌々と輝くシャンデリア。壁面のフレスコ画。音合わせをしている楽団。
エレオノーラにとっては、潜入調査以外では初めて訪れる場所で、気が引き締まる思いがした。
ジルベルトの婚約者という立場がそうさせているのだ。エレオノーラはより一層、腕に力をいれてしまったようだ。
ジルベルトも彼女の心境に気づいたのだろう。エレオノーラの顔を見下ろし、優しい笑みを浮かべている。
「あの堅物が笑っているぞ」
「でもお似合いよね」
ジルベルトは何をしても注目を浴びるらしい。困ったものだ。エレオノーラとしては壁の花になって、いるかいないかくらいの存在でいたいのに。
ジルベルトは給仕から飲み物を受け取り、一つをエレオノーラに手渡した。
彼の婚約者を演じているのか、それともただのエレオノーラなのか。エレオノーラにはそれすらわからなくなっていた。
「ジルベルト」
男の声がジルベルトの名を呼んだ。
「伯父のエガートン侯爵だ」
ジルベルトはエレオノーラの耳元で囁いた。ジルベルトの母親の兄にあたるらしい。エレオノーラもエガートン侯爵の名前は何度か耳にしたことはある。潜入調査で見かけたことはあるが、このような公の場で目にするのは初めてだ。
「婚約したと聞いてな。今日は会えるのを楽しみにしていたぞ」
「ご報告が遅くなりまして、申し訳ございません」
「いやいや、そういう堅苦しい挨拶は抜きだ。あれからは話を聞いていたからな。あきらめていた孫に望みが出てきた、と。屋敷に遊びに行ったときに泣いて喜んでいたぞ? それで、そちらのお嬢さんが?」
「はい」
ジルベルトに促され、エレオノーラは挨拶をする。
「エレオノーラ・フランシアです」
「ほほう。話しには聞いていたが、本当にジルベルトとお似合いだな。よかったな、ジルベルト」
エガートン侯爵はジルベルトの肩を小突いた。
「そう言っていただけて、光栄です」
エレオノーラは上品に笑んだ。彼女の笑みに、エガートン侯爵も満足に微笑み返した。
「では、また後ほど」
言うと、彼はまた別な人物に声をかけていた。どうやら、ジルベルトと違ってとても社交的な人柄のようだ。
楽団の音楽が鳴り響く――。
エレオノーラは顔を引き締め、ぴたりとジルベルトに寄り添った。重々しい扉が開いて、国王たちが入場してきた。
国王、王妃、第一王子、第一王女、第二王女と華やかさに溢れている。
国王が祝いの言葉を口にし終えると、会場に歓声が響き渡る。
堅苦しい挨拶が嫌いな人だから、あとはご自由にという流れなのだろう。
エレオノーラはジルベルトに促されて、場所を移動した。どうやらジルベルトが知り合いを見つけたようだ。
「ダニエル殿」
「ジルベルト殿はお会いするのは初めてですね。私の婚約者のウェンディ・マクドネルです」
ダニエルの隣に寄り添っていた茶色の髪を結い上げた女性が礼をする。
「ウェンディ、エレンをお願いしてもいいだろうか。私は少し、ジルベルト殿と話がある」
「はい、ダニエル様」
にこやかに微笑むウェンディは、今のエレオノーラよりも幼く見える。彼女の返事に満足したダニエルは、少し離れた場所でジルベルトと何やら話し始めた。
「エレン、婚約おめでとう」
「ありがとうございます。こうしてウェンディとこの場でお会いすると、不思議な感じがしますね」
「ええ、あなたは本当にこのような場所には出席されなかったから。ジルベルト様はとても素敵な方ね」
ウェンディの言葉に、つい「うふふふ」と、エレオノーラから嬉しい笑みがこぼれてしまう。こうやって、彼のことを褒められるのが嬉しいとは思わなかった。
「ただ、少し」
ウェンディがエレオノーラの全身を見つめてから、言葉を続ける。
「今日のあなたの恰好はやりすぎじゃないかしら? ジルベルト様に似合うようにと選んだとは思うけれど、あなた本来の可愛らしさが台無しよ?」
「いいのです。フランシア家のエレオノーラではなく、ジルベルト様の婚約者としてのエレオノーラですから」
エレオノーラとしては、ジルベルトの婚約者として相応しくありたいという思いがある。だから必要なのが、『ジルベルトの婚約者』の仮面と変装なのだ。
「また、そういうことを言って」
ウェンディが給仕を呼び、飲み物を手にした。
「たまには、仕事を忘れて純粋に楽しんだらどうなのかしら?」
「私は、十分楽しんでおりますよ?」
実はこう見えてもウェンディも第零騎士団の諜報部所属なのだ。
ウェンディはエレオノーラの裏の顔(つまり、レオンのこと)は知らないけれど、諜報部の潜入班であることは知っている。それはダニエルと婚約したから知らされた事実であり、彼女が第零騎士団の建物に常駐していないことも知っている。ウェンディが知っているのは、エレオノーラが諜報部の騎士であるということだけ。
「ウェンディ、エレン。待たせて悪かったな」
ダニエルが戻ってきた。その後ろにジルベルトの姿もあった。
「エレン」
ジルベルトが手を差し出したので、エレオノーラは迷わず彼の手をとった。ダンスの輪の中へと消えていく。
「ねえ、ダン」
ウェンディはダニエルの耳元で囁く。
「あの二人は、本当の婚約者? それとも囮?」
「ウェンディ。残念ながらオレはその回答を持ち合わせていないのだよ」
言い、ダニエルは婚約者の腰を抱き寄せた。
「オレたちも一曲、踊ろうか」
ダンスの輪の中に消えたジルベルトとエレオノーラは、踊っていた。
とりあえず一曲は踊ってきなさい、と母親から言われたジルベルトは、義務を果たすかのようにエレオノーラをダンスに誘ったのだ。エレオノーラと踊ることに不満は無い。むしろ、踊ることでエレオノーラの存在を周囲に知られることが不満だった。
「ジル様、とてもダンスがお上手ですね」
「あなたに恥をかかせないように、と、密かに練習をしていた」
「まあ。そんなジル様も見てみたかったです」
エレオノーラは、微笑んだ。
「エレンは、その……。ダンスも上手いな」
「潜入調査の賜物ですね」
「つまり、エレンは他の人と踊ったことがある、と?」
「え、ええ。まあ。はい。任務上」
なぜかジルベルトの心の中に、もやもやとしたどす黒い感情が沸き起こった。
「任務で?」
ジルベルトの顔は、少し引きつったような笑いを浮かべていた。
「はい」
それでもエレオノーラは笑顔で返事をする。
「任務以外では?」
「今日が初めてです」
「そうか」
ジルベルトの顔は綻んだ。それは、ジルベルト自身も気が付いていないだろう。
曲が途切れたところで、ダンスの輪から抜ける。
ジルベルトは一曲で終わらせるつもりでいた。彼女の手を引いて歩くと、何かしら視線が絡みついてくるからだ。踊っている最中も、絶え間なく感じた視線。居心地が悪い。
「ジルベルト殿」
このような場所で、ジルベルトの名を親し気に呼んでくる者は限られている。
「これは、グリフィン公爵。ご無沙汰しております」
「貴殿が婚約したと聞いてな。思わず声をかけてしまった。そちらの女性が貴殿の婚約者か?」
「ええ」
照れたような笑みをジルベルトは浮かべ、エレオノーラは静かに挨拶をした。
グリフィン公爵と、形式だけの挨拶をした二人は、できるだけ人込みから離れようとしていた。




