第一章(2)
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任務を終えたエレオノーラは、兄のダニエルよりも一足お先に屋敷へと戻っていた。
「あぁ、極楽だわ。この任務後のマッサージがたまわないのよね」
侍女のパメラに全身マッサージを頼み、揉まれているところだ。
(今日の潜入捜査も大成功、よね……)
ダニエルは第零騎士団の団長と騎士団の総帥への報告があるため、王城へと向かった。潜入班のただの班員であるエレオノーラは、そのまま屋敷へと直帰することができた。
「疲れたわぁ」と言って歩きながらタキシードを脱ぎ、その後ろから侍女のパメラが脱いだ服を拾ってついてくる。そして自室に入ったころには下着姿、という恐ろしい早脱ぎ術を披露していた。さらに侍女であるパメラに「マッサージをお願い」とまで言ってしまう。
「お嬢様。今日は誰もおりませんからよかったのですが、せめて衣装を脱ぐのは部屋に戻ってからにしてください」
「わかっているわよ。今日は誰もいないからそうしただけよ」
自室の天蓋付きの寝台で俯せになりながらも、エレオノーラはぷぅっと唇を尖らせた。
この彼女が先ほどの男性店員に化けたエレオノーラと同一人物であると誰が思うだろうか。
エレオノーラの髪は、金色に輝き緩やかに波を打っている。体つきもそれなりにスレンダーで、出ているところも年相応に、いやそれ以上に出ていた。黙っていれば女神のように美しい、と表現してくれるのは妹が大好きな兄たちだ。それはまるで豊穣の女神のようである、と。
だが先ほどの変装はどこからどう見ても高級酒場の男性店員だった。出ているところもうまく隠し、長い髪もうまく隠し、どこからどう見ても男だった。声色ももちろん女性のものとは思えない程である。
「本当にお嬢様の変装には、毎回驚かされます。外見はもちろんですが、声色なども変わっていて、私でさえも見分けがつきません」
エレオノーラのふくらはぎを揉みながらパメラは言った。
「あら、それは演じる者にとって最高の誉め言葉ね」
エレオノーラは変装のことを『演じる』と表現する。それは昔取った杵柄に関係するものだ。その昔とはエレオノーラがエレオノーラとして生を受ける前の話。前世なのかそれよりも前世なのか、とにかく遥か昔の記憶によるもの。
それは彼女が、地球の日本という国の女子高生と呼ばれる頃の記憶。その女子高生は演劇部だった。某歌劇団を目指していたけれど、見事に惨敗。それでも高校の演劇部ではさまざまな役を演じることができた。その後も劇団に入り、役者としての一生を終えた。
そのとき、役になりきるときに流行ったのが、その役の『仮面をつける』という表現だ。だからエレオノーラは今でも潜入捜査のときには『仮面をつける』。
と、そんな大昔の記憶を掘り起こしながら、パメラに揉み揉みとされていると、気持ちがよくてついつい意識を失ってしまいそうになる。
「お嬢様。眠ってしまわれてもかまいませんよ」
パメラが優しすぎるので、幾度となく意識を手放しそうになった。意識を失いかけた四度目のときだった。勢いよく部屋に入ってきた人物の音で、全身がビクリと震えてしまったのは。
ガチャ――。
この寝入りばなに現実に引き戻されてしまうと、とても悔しい気持ちがするのはなぜだろう。
「ダニエル様。いくら御兄妹とは言え、せめてノックをお願いいたします」
パメラが両手をお腹の前で揃えて、ペコリと頭を下げた。だが、彼女の言い分は間違ってはいない。エレオノーラでさえもそう思うのだから。
「たたたたたたたた、たいへんだ」
兄が壊れた、とエレオノーラは思った。下着姿ではあるけれど、ゆっくりと起き上がる。
「どうかなさいましたか? ダンお兄さま」
「どうもこうもない。だが、お前のその恰好は目のやり場に困る。それでは大変ではなく変態になるからやめておけ」
「いきなり人の部屋に入ってきて、それは失礼ではありませんか」
パメラが黙ってガウンを羽織らせようとしたので、エレオノーラはそれに従う。
「これでよろしいかしら?」
「それならまだマシだ」
ダニエルはずかずかとエレオノーラお気に入りのローズミスト色のソファに近づいてきて座ると、そこに肩を広げて限界まで寄りかかった。天井を仰いでいる。
「パメラ、お兄さまにお茶を」
ガウンを羽織ったエレオノーラはベッドからおりて、兄の向かい側のソファにゆったりと腰を落ち着けた。
「それで、何が大変なのですか?」
エレオノーラは落ち着きを払った声で尋ねた。
「第一騎士団のリガウン団長がだ」
「はい。先ほどお会いしました」
「それがだ。そのリガウン団長が、だ。君を妻に娶りたいとか言い出した。ようするに、エレオノーラと結婚したいということだろう?」
兄の言っている言葉の意味はわかるのだが、理解が追いつかない。
「は?」と、エレオノーラが口にしたタイミングで二人の前にお茶を差し出したのはパメラである。
「責任を取りたい、とか言っていたぞ?」
お茶を手にしながらダニエルが言う。
「なんの?」
エレオノーラのその疑問は正しい。
「それは、オレが聞きたい」
エレオノーラはカップを手にした。お茶を一口含みながら考える。責任とは、何の責任だろうか。
「リガウン団長は、確か侯爵家ですよね? それがこの子爵家の私を妻に、ですか?」
「相手の言葉を真に受けるなら、そうなるな」
「つまり、玉の輿」
「そういう、面白い発想に持っていくのはやめろ。父上にも報告できるようなネタを考えろ」
ダニエルもお茶を手にした。なんとか落ち着こうとしているのかもしれない。
「ネタも何も。リガウン団長とは先ほど任務でお会いしたので初対面です。何の責任を取ろうとしているのかが私にはまったくもって心当たりがございません」
エレオノーラの言うことはもっともである。なぜなら、ぶつかった瞬間、彼が第一騎士団の団長を務めているジルベルトという男であることを認識していなかったのだから。ぶつかった瞬間は、見知らぬ男だと思っていた。
「実は、一線を越えてしまった、とかはないだろうな?」
「お兄さま。あの状況で超えられる一線があるのであれば、是非、教えを乞いたいものです」
エレオノーラの目が怖かったので、「冗談だ」とダニエルは呟いた。
「あの任務時に、リガウン団長と何があったのか。秒単位で話せ」と言われてしまったため、エレオノーラは記憶を掘り起こすことにしてみた。