第四章(8)
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「やあ、マリー」
「あら、アンディ。元気だった?」
今日もカウンターで一人グラスを傾けていた彼女に、言い寄る男が一人いる。金色の髪を撫でつけている男、アンディだ。
「相変わらず、君は美しいね。まるで夜空に輝く満月のようだ。君の眩しさによって、他の星の輝きがくすんでしまう」
「褒めても何も出ないわよ」
わざとらしい男の言葉に、マリーはグラスを口元にまで運ぶ。カランと氷が鳴った。
彼女が首を傾ける仕草も、彼には誘っているように見える。
「そうそう、アンディ。例の件、わかったわよ」
グラスから口を離しながら、マリーは言った。
「少し、場所を変えましょう」
「上かい?」
アンディは右手の人差し指を立てた。上の部屋。つまり、誰にも聞かれたくない話をする部屋。もしくは、誰にも見られたくないような行為をする部屋を指す。
「そうしたいのはやまやまだけど……。私、この後も仕事があるのよ。奥のボックスでいいわね」
マリーは目の前の店員に告げ、奥のボックス席へと移動した。
腰を大きくうねらせる歩き方も、アンディから見ればそそられる仕草だ。今すぐにでも、その腰に手を這わせて、彼女を堪能したい。
マリーが先にソファに座ると、すかさずアンディもその隣へと腰をおろした。すぐさま、そっと彼女の背中に手を回す。マリーも自分の頭を傾け、彼の肩に預けた。
「例の婚約者。誰かがわかったわ」
彼女は、アンディの耳元で囁く。
彼は表情を変えずに「誰だ」と尋ねる。
「フランシア子爵家の娘よ」
マリーも甘えているような仕草のまま、淡々と言葉を続ける。
「フランシア? あまり聞いたことはないな」
「あそこは騎士団の家系らしいわ」
「では、その娘もか?」
娘も騎士団だとしたら、手を出すのは少し面倒かもしれない、とアンディは考えた。彼女の背に回す腕に、力を込める。
「いえ。娘はどうやら身体が丈夫ではないらしいの。そのためか社交界にもあまり参加していない。普段は屋敷の方に引きこもっているらしいわ。だから、ほとんど名前も知られていないし、顔も知られていないみたい」
「そんな女がよく、あれの婚約者になったな」
「あそこの他の兄弟は騎士団だから、その騎士団つながりじゃないかしら?」
マリーは、背に回っている彼の手を外すような仕草を見せてから、テーブルの上のグラスを取った。
「あなたも、飲む?」
マリーは目を細めて聞いた。
「ああ」
彼女はボトルからグラスに酒を注ぎ、いくつか氷を落としたものを、アンディの手に握らせた。
二人はグラスを掲げ、カチンと合わせる。
彼女は今日も、オレンジ色の液体をゆっくりと飲んでいる。それを飲むたびに、上下に揺れる喉元。今すぐにでも喰いつきたい思いが、アンディの中に沸々と沸き起こる。
「建国記念パーティの件、あなたの耳にも入っているでしょ?」
片手でグラスを持ったマリーが言った。
「ああ、もうそんな時期か」
「どうやらそのパーティに、あの堅物の騎士団長が婚約者を連れて出席するらしいわ」
「へえ、それは珍しい」
アンディは一口、グラスの中の茶色の液体を口に入れた。カタンと氷が鳴る。
「そして、面白い」
グラスの中を覗き込みながら、グラスをゆるゆると揺さぶる。
「でしょ」
マリーは身体をアンディの方に向けた。
「警備担当ではなく、招待客として参加するのよ。こんな面白い話があって?」
マリーの微笑みは上品だ。アンディはいつも思うのだが、この娘はどこかの貴族令嬢ではないのか、と。彼女はいつも、こうやって有益な情報を自分に与えてくれる。いや、自分だけではない。彼女は貴族様に関する情報を、それを必要とする者たちに売っているのだ。
しかも美人でスタイルもいいときた。女性としての魅力も申し分ない。このような女性を連れて歩くことができるのであれば、他の男性からは羨望の眼差しを向けられることになるだろう。それくらい、中身も外見も、魅力的な女性なのだ。
今日も、上品な黒の装いが、彼女の妖艶さを引き立てている。
「どうかした?」
アンディの肩に両手をのせ、その両手の上に顎を預けているマリーも、どことなく艶めかしい。
「いや。そのパーティにどうにかして参加できないか、ということを考えていた」
あの騎士団の団長の顔はもちろん知っている。幾度となく顔を合わせている。鉄壁の警備を敷いてくるところが、アンディの仕事がやりにくくなっている原因である。だが、そう言った障害がある方が、楽しいとも思える自身もいるから不思議だった。障害があった方が燃えるのかもしれない。
「できるのではなくて? あなたなら」
アンディの肩が軽くなった。肩の上にあった彼女の顔は離れ、じっとアンディを見つめている。それから、彼女の人差し指がアンディの唇に触れる。
「アンドリュー・グリフィン公爵として参加すればよろしいのではないかしら?」
ドキっと身体が跳ねた。彼女はお見通しだったのか。
「私はただの町娘だけれど、あなたは立派な貴族様でしょ?」
「君にはかなわないな。だったら、私の女になるかい?」
アンディはマリーの肩に手を回した。身分を知られているのであれば、それを利用した方がいい場合もある。
だが、マリーはその手をやんわりとどける。
「残念ながら、お断りよ。貴族様の女なんて、不便で仕方ないもの。それに、私は誰の女にもなるつもりはない」
ふふっと、マリーは小粋に笑う。
「やっぱり、君のそういうところ、好きだなぁ」
アンディはソファの背もたれに肩を開き、限界まで寄りかかる。
「俺の女になれ」
今度は彼女の腰に手を回した。強引に引き寄せる。
「きゃ」
マリーはその力に負けてしまい、アンディの胸に頭を預ける形になってしまった。
「俺と一緒になれば、不自由しないと思うが?」
「私は不自由しない暮らしは望んでいない」
少しむっとした口調で、マリーは言った。
「マリー。だったら、君の望みは?」
アンディであれば、彼女が望むものを全て与えてあげることができる。それだけの権力と金はある。
「刺激のある暮らし」
そこでマリーはすっと立ち上がった。
「ごめんなさい、アンディ。もう次の仕事の時間なの。私、売れっ子だから」
「ああ、知ってる」
「またね」
鎖の長い革のバッグを肘にかけて、颯爽と去っていく。その後ろ姿も申し分無い。
逃げられれば追いかけたくなる。アンディはなんとかして彼女を自分のものにできないか、ということを考え始めていた。