第四章(5)
「でも、ソフィア。彼女はあまり社交界にも出ていないようだからね。体が丈夫ではないっていうのは、ジルベルトが今思いついた嘘では無いよ。だから、そういった無理な話はしないように」
国王もたまにはいいことを言うようだ。
「あら、あなただって彼女のことが気になっているでしょう? あのジルが見初めた娘ですもの」
だからといってソフィアもただで食い下がるとは思えない。
「そう、だからね、私もいいことを思いついたんだ」
結局、似た者夫婦ということだ。この夫婦は何を言っているのか。エレオノーラはきょとんと驚いた様子で、国王と王妃の顔を交互に見ていた。ジルベルトは腕を組んだまま、むっつりとしている。
「フランシア家の御息女のことで思い出したことが一つあってね。今、身体が丈夫ではないっていうことで、ピンときた。エレオノーラ嬢は外国語が非常に得意だよね。学院の成績でも他の者よりとびぬけてよかったはずだ」
それは、エレオノーラが、外国の方への諜報活動もあるかもしれないと思い、外国語は特に力をいれて勉強していたからだ。
「だからさ、私たちの通訳の仕事をしないかい?」
国王からの突然の提案。もちろん、エレオノーラはそれには驚いて目を広げることしかできない。
「陛下」
どうやら、ジルベルトが本気で怒ったようである。
結局、国王からの通訳の誘いも「身体が丈夫ではないため」という理由でジルベルトが断ってくれた。それに対してはエレオノーラの口を挟む余裕さえなかった。とにかく、ジルベルトが眉を吊り上げながら、国王にまくしたてていたからだ。
それでも食い下がらなかった国王が「だったら通訳じゃなくて書類の翻訳でも」と妥協案を出してきた。
「エレオノーラ嬢の体調を見ながらでいいしね」
ここまでお膳立てされてしまうと、さすがのジルベルトでさえ、それについての断る理由が思い浮かばなかったようで、なんとなく曖昧なまま引き受けてしまう形になってしまった。
エレオノーラとしては第零騎士団の仕事もある。だが、国王はエレオノーラが第零騎士団に所属していることを知らないのだ。書類などは、そのように改ざんされているためであり、国王ですらエレオノーラの真の姿を知らない。
帰りの馬車で、エレオノーラの向かい側に座るジルベルトが、とても大きくて深いため息をついた。そのまま息を吐きすぎて萎んでしまうのではないかと思うほど。
「どうかされましたか、リガウン団長」
ジルベルトの婚約者の仮面を外したエレオノーラは、彼に尋ねた。
(もしかして、今日の役は失敗だったのかしら……。リガウン団長の婚約者として、失敗したかしら……)
そんな思いが彼女の心を片隅にあった。
「いや。あなたを巻き込んでしまって申し訳ない」
ジルベルトが頭を下げる。
「いえ。お気になさらないでください」
エレオノーラはいたって元気に答えた。相手の気持ちが沈んでいるならば、自分だけでも明るく振舞った方がいいだろうと思ったためだ。
「その……、隣に座ってもいいだろうか?」
ジルベルトの言った言葉の意味を、即座に理解することはできなかった。
「はい?」
エレオノーラは思わず語尾を強めてしまう。
「行きと同じように、あなたの隣に座りたい」
吐き出すようにジルベルトが言った。
「では、私が団長の隣に行きます」
ジルベルトを移動させるのは申し訳ないと思い、エレオノーラはすっと立ち上がって、彼の隣に座り直した。
「これでよろしいでしょうか、リガウン団長」
「その呼び方も」
「呼び方?」
エレオノーラは碧色の眼を大きく広げた。
「騎士団の任務では無いのだから、団長と呼ばれるのは少し」
「では、なんてお呼びしたら?」
「ジルと」
突然、ジルベルトからそのように言われてしまい、エレオノーラの顔は熱を帯び始めた。
「すみません。私、団長の前では……、うまく演技ができないんです。その……、婚約者の。どうしても素が出てしまうみたいで。なぜかわからないのですが。本当に申し訳ありません」
エレオノーラは深々と頭を下げた。
(やはり、団長の婚約者としては失敗だったのね……)
胸がズキンと痛む。
「だから、ジルと呼んで欲しい」
頭の上からジルベルトの声が降ってきたため、エレオノーラは顔をあげた。
「あ、すみません。ジル様」
「いや。あなたは、面白いな」
彼は口だけで笑っていた。そして、窓枠に右肘をつきその手に頬を乗せると、視線をエレオノーラへ送った。
「どれが本当のエレンなのだろうか」
目を細め、ジルベルトがじっとエレオノーラを見据えてきた。
「あ、多分、今です。陛下の前では頑張っていましたから。その……、ジル様の婚約者としてふさわしい振舞をと」
エレオノーラ的には、精一杯振舞ったつもりだ。大人な彼に似合う、大人な婚約者を。だが、それをジルベルトがどう思ったかは、彼に聞かなければわからないこと。
「では。今は婚約者を演じていない、と?」
「あ、はい。本当はそうすべきなのでしょうが。どうやら、ジル様の前ではうまく演技ができなくて。本当に申し訳ございません」
エレオノーラはもう一度頭を下げた。
「私の前では演じられない?」
ジルベルトの目が細くなる。
「正確に言うと、ジル様と二人きりのときです。他の方がいればなんとかなるのですが。ジル様と二人きりですと、何かがおかしいのです。本当に申し訳ございません。これでは、諜報部失格ですよね」
エレオノーラが、今まで役を演じることができない、ということはなかった。それが今日にかぎって、うまく演じることができない。気を抜くと、ジルベルトの婚約者から、ただのエレオノーラに戻ってしまう。
「いや」
ジルベルトはエレオノーラの頭を自分の胸へと抱き寄せた。
突然の行為に、エレオノーラの心臓もドキっと跳ねる。だが、嫌な感じはしない。
「それは、私が特別だからとうぬぼれてもいいのだろうか」
押し付けられた胸からは、ジルベルトの鼓動が聞こえる。それはとても大きくて速い鼓動だった。
「あの、ジル様?」
エレオノーラはそのままジルベルトを見上げた。彼と目が合う。
「エレン、もう少しこのままで」
見上げたジルベルトの首元が、仄かに赤く色づいているように見えた。
「あ、はい……。恥ずかしいですが。あの、重くはないですか?」
エレオノーラはジルベルトに身体を預ける形になっている。
「ああ、重くはない」
ジルベルトはろうそくの炎を吹き消すかのように、ふっと息を吐いた。何を考えているのだろうか。
沈黙――。
「あの、ジル様」
沈黙が怖かったので、エレオノーラはジルベルトの名を呼んだ。ジルベルトは口元だけに笑みを浮かべてエレオノーラを見つめている。
「今日は、その……。楽しかったです。一緒にお出かけができて」
今の素直な気持ちを、エレオノーラは口にした。
「私と一緒にこうやって出掛けられたことが楽しかったと、そう言っているのか?」
ジルベルトの言葉に、エレオノーラは返事をせずに黙って頷いた。
「できればまた、このように二人でお出かけができたらいいな、と思います」
それはエレオノーラの本心だ。任務のため、という理由で外部との関係を断っていたエレオノーラにとって、家族ではない誰かと出かける行動そのものが、気持ちを高ぶらせた。
彼女の言葉を聞いたジルベルトは、より一層、エレオノーラの頭を胸に押し付けた。
「ジル様、苦しいです」
「ああ、すまない」
言い、ジルベルトが力を緩めた隙に、エレオノーラは再び彼の顔を見上げた。ジルベルトの耳の後ろから首にかけて、赤く染まりつつある。
「ジル様、どうかなさいましたか?」
「いや、どうもしないのだが。ただ」
「ただ?」
「あまりにもエレンが可愛すぎるので、どうしたらいいのかがわからない。それに、あなたからの言葉も嬉しい」
ジルベルトは右手の甲で口元を押さえている。嬉しいという言葉に偽りはないのだろう。
「あの、ジル様。今日の私は、ジル様の婚約者らしく知的美人な装いです。特に可愛らしいはコンセプトにしていないのですが?」
やはり、ジルベルトの婚約者を演じることを失敗したのだろうか。エレオノーラは途端に不安になった。うまく仮面をつけることのできない自覚はあったのだが、ここまで役になりきれないことは今までなかったのだ。
「ああ、見た目はそうかもしれないが。エレンの仕草の一つ一つが、私にとっては可愛らしいということだ」
そんなことを面と向かって言われては、エレオノーラだってどうしたらいいかわからない。しかも、ジルベルトの前ではうまく仮面をつけることもできないから、恥ずかしさと嬉しさがすぐに顔面に表れてしまう。
「エレン」
ジルベルトがエレオノーラの右手をとった。
「あなたに口づけをしてもいいだろうか」
それにこたえる間もなく、右手の甲に口づけを落とされた。
「今はまだ、これで我慢をしておこう」
これ以上のことをされても、エレオノーラは困るだけだ。とにかく心臓がもたない。
「あの、ジル様」
「どうかしたのか?」
「それ以上の責任はとっていただかなくても、大丈夫です」
恥ずかしさのあまり、エレオノーラはそれだけを言うことで精いっぱいだった。
「いや。きちんと責任はとらせて欲しい。だから、安心してくれ」
これ以上の責任をとられては、エレオノーラが安心できないというのに、その思いはジルベルトには伝わらなかった。