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第三章(4)

   ◇◆◇◆


「久しぶりじゃないか、マリー」


 金色の髪を撫でつけている男が、カウンターで一人グラスを傾けていた彼女を目ざとく見つけて言い寄ってきた。


「今日もステキだね、マリー」


 マリーと呼ばれた女性は、赤いドレスに赤いルージュが似合う妖艶な美女。そう、妖艶という言葉がここまで似合う女性もなかなかいないだろう。その赤いドレスも胸元が大きく開いて、太ももにまでスリットが入っているものだから、この男にとってはたまらない。ごくりと喉を鳴らして、とにかくいろいろと我慢をする。


「久しぶりね、アンディ」


 ゆっくりと瞬きながら、マリーが言う。その全ての動作の一つ一つは洗練されている。首を傾ける仕草、グラスを持つ指先に至るまで。


「最近、姿を見せないから心配していたんだよ」


 口元を緩めて彼女を見つめてから、アンディが酒の入ったグラスを口につけた。その様子をマリーもちらりと横目で見る。


「だって、あの窃盗団の件があったでしょう。私たちも目をつけられたら大変だと思って。自粛していたのよ」


 マリーはグラスを傾け、オレンジ色の液体を一口含んだ。氷がカランと音を立てた。


「でも、相変わらずいい女だね。マリーは」


 男はそっとマリーの腰に手を回す。細い腰。力を入れたら折れるかもしれない。

 マリーの頭に男の熱い胸板が押し付けられた。


「相変わらず、あなたは手が早いのね。これではのんびりとこれを味わうことができないじゃないの」


 マリーはグラスをかかげ、グラス越しに男を見上げる。オレンジ色の世界の向こう側に、男の顔が映る。


「だったら、俺を味わってみるかい?」


 その男の唇に、彼女は右手の人差し指を当てた。


「そうやって先を急ぐような人は嫌いよ」


 ニッコリと笑う彼女の口元はとても鮮やかで美しい。


「つれないなぁ。でも、それが君の魅力的なところでもある。場所を変えよう。仕事の話がしたい」

「ベッドの中で?」


 それはまるでいたずらを仕掛ける子供のように、マリーは楽しそうに微笑んでいる。こうやって、たまに子供らしい笑顔を見せる彼女も、男の心を揺さぶっている。


「それもいいかもしれないな」


 彼の答えに、彼女は艶やかに笑んだ。

 マリーは男と一緒にこの酒場の二階にある部屋へと移動した。他の人に聞かれたくない時に使うような部屋。また、他の人に見られたくないような行為をする時にも使われるような部屋である。


 男が上着を脱いで椅子の背もたれに預け、ベッドの端に腰かけた。ベッドは軋みながら、ゆっくりと沈む。


「飲む?」


 マリーがグラスを差し出した。カランとグラスの中で氷がぶつかり合う。


「悪いね」


 男は疑いもせずに、それを右手で受け取った。彼女も自分の分の飲み物の準備をすると、グラスを手にして、彼の隣に腰を落ち着けた。二人分の重さで、ベッドはさらに沈んだ。


「マリー。窃盗団の件には、あの騎士団が絡んでいるって聞いたかい?」


 彼はそこでマリーからもらったグラスに口をつけた。


「ええ。ちょうど窃盗団たちが密売をしかけたときに、乗り込んできたらしいわね」


 マリーも何かを考えるかのように、眉間に力を込めて呟く。


「ものすごくいいタイミングだ。窃盗団は一人残らず捕まったらしい。どこから、情報が漏れたんだろうか」


 男はもう一口、飲んだ。


「さあ、盗聴でもされていたのかしら? それともスパイがいたとか?」


 首を傾けるという幼い仕草が、意外にもマリーに似合う。


「スパイ、か」


 男は呟き、左手をマリーの背中に回した。


「何か、心当たりがあるの?」


 マリーは男にもたれかかりながら、顔をあげた。


「いや。無い。スパイならあの事件後、いなくなった奴がそうなんだろうな。だが、あれ以降、仲間たちには会っていないしな。それよりも、せめて何か騎士団の弱みを握ることができれば、事は安全に進むと思うのだが」

「弱みねぇ」


 マリーは一口それを飲む。そして少し考え込む。


「何か、心当たりがあるのか?」

「いえ、弱みになるかどうかはわからないけれど。面白い噂を聞いたのよ」


 何かを思い出したかのように、マリーは、ふふっと笑った。それだけ面白い噂なのだろう。また一口、グラスの中身を口に含んだ。喉元がゴクリと上下する。それを見た男も、ゴクリと喉を鳴らす。


「面白い噂? それはどんな噂だい?」

「ふふっ。聞きたいの? そうねぇ……」


 ゆっくりとグラスを傾け、彼を焦らす。触れ合っている箇所から、彼のじれったさが伝わってくる。


「マリー。焦らさないで教えてくれよ」


 男は彼女の耳元で囁いた。それがくすぐったかったのか、彼女は首をすくめる。

 もう、と笑ってから言葉を続ける。


「あの騎士団の団長が、とうとう婚約したらしいわよ」


 マリーは再び彼に視線を向けた。


「騎士団の団長って、あの第一のか? 堅物でクソ真面目で有名な」


 彼の右手のグラスが揺れた。カランと氷の音がした。それだけ興奮したのだろう。


「そう。堅物で有名な、ね」

「だったら決まりじゃないか。いざとなったら、その婚約者を狙えばいいんだ。立派な弱みだ。相手が誰か、わかるか?」


 男の声が弾んでいるのは、マリーが伝えたそれに興奮を覚えたからだろう。弱いものを狙う、というのはいろんなところでの常套手段だ。

 マリーは目を細くした。


「婚約者が誰かって? さあ、今はまだわからないわ。私も、面白い噂っていう程度でしか聞いていないから。調べておきましょうか」

「ああ、頼む」


 そこで一口、男はグラスの中身を飲んだ。いい案が浮かんだと思っているようだ。「どうせ、どこかのご令嬢だろう。護衛が薄くなったところをさらえばいいんだ」


「そうね、その手があったわね。アンディ、あなた、冴えているじゃない」


 男を熱っぽい視線で見上げ、マリーは小悪魔のような笑みを浮かべる。


 褒められて気が高まったのだろう。そこから彼はグラスの中の液体を一気に飲み干した。そして、空になったグラスを枕元にあるテーブルの上に置くと、マリーの両肩に手を添えた。


 マリーもゆっくりと、手にしていたグラスに口をつけた。ゆっくりと、その液体を飲み干す。上下する喉元を、男が食い入るように見つめている。


 だが、マリーは男を焦らすかのように、ゆっくりとグラスの中身を味わっている。それはまるで、何かを待っている、かのようにゆっくりと。


 ふと、男の身体がマリーの方に倒れてきた。


 やっと薬が効いてきたようだ。


 マリーは手早く男の衣服を脱がせ、男をベッドの中へと引きずり込む。不本意ではあるが、胸元にキスマークでも残しておいてあげよう。それから、メモ用紙に「素敵な夜をありがとう」と書いた。もう一度唇に真っ赤なルージュをつけると、そのメモの脇にキスマークを落とす。


「良い夢を、アンディ」


 後始末を終えたマリーは、その部屋を出て行った。


 パタン、と扉が閉まる乾いた音が響いた。

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