第一章(1)
これはどこからどう見ても押し倒されている。誰がどこからどう見ても。しかも、押し倒している人物がこんなにお見目麗しく、堅苦しくて男前な騎士である。
そんな押し倒されている側の人物は女性であるのだが、その肝心の彼女は男性用のタキシードを着て少し身長も誤魔化して、出ているとこは全部引っ込めて、長い髪も鬘の中に入れて、女性であることを隠していた。つまり女性であるが、男装しているということだ。
「この手をどけていただきたいのですが」
押し倒されている側の男装している女性のエレオノーラが冷静に言葉を放った。
彼女が言うこの手とは、先ほどから彼女の右胸に乗っている目の前の騎士の左手である。しかもその騎士は。彼女が「どけて欲しい」と言ったにも関わらず、その左手をもみもみと動かした。そう、動かしたのだ。もみもみ、と。
その挙句「君は、女性か?」とまで確認をしてきた。
エレオノーラは目の前の騎士から目を反らすことなく、しっかりと見据えている。この押し倒されたであろう現状でも関係ない。
彼の茶色の瞳が儚げに揺れている。
「このような身なりをしておりますが、女であります。ですが、申し訳ありません。この後も任務があるため、この手をどかしていただけると非常に助かります」
彼女は極めて冷静に言った。そう、彼女はいたって冷静である。
実は、この押し倒されているという過程において、その騎士と自分の唇があたってしまったという事故もあったのだが、それは事故であるため気にしてはいけない。
それでもその事故を気にしている人がいるらしい。それが目の前の騎士である。
彼の顔は「さてどうしたものか」という困惑に溢れているし、ほんのりと頬を赤く染めている。むしろ、そこまで困惑されてしまうと、エレオノーラ自身もこの冷静さを失ってしまうので、逆に困るというもの。
そこで、エレオノーラは脳みそを高速回転させてみた。
(この方は、どなたかしら……)
今日のこの任務は第一騎士団との合同であると上官が言っていたような気がする。ということは、目の前の彼は第一騎士団の人間と考えるのが妥当。年は見たところ、三十前後と判断する。エレオノーラの兄たちより少し年上くらいだろう。しかも彼は、その黒い髪を特徴的な髪型であるオールバックにしている。さらに、見る人が見たらめちゃくちゃ怖いと感じる鋭い視線。男前なのに怖い。笑えば怖くないかもしれない。だけど今は怖い表情。
それでもエレオノーラは怯まない。必死で彼が誰であるかを検討する。
そして彼女の脳内データベースを検索した結果、それに該当する人物として第一騎士団の団長であるジルベルト・リガウンがヒットした。
「おい、レオン。大丈夫か? って何をやっているんだ、お前たちは」
その声はエレオノーラの上官かつ兄であるダニエル・フランシアのものだった。なかなか姿を現さないエレオノーラを心配したのだろう。もしかしたら任務失敗と思ったのかもしれない。
ダニエルはエレオノーラの兄だけあって、見目はもちろん彼女と似ている。きらきらと宝石のように輝く金色の髪と碧眼はこの兄妹の特徴でもある。ダニエルは金色の髪を短く切り揃えていた。男装しているエレオノーラと同じような髪型だ。
エレオノーラは押し倒されているため起き上がることはできなかった。顔だけをゆっくりと傾け、上官である兄に助けを求める。
(お兄さま……。助けて……)
だが、エレオノーラの心の声は、兄には届いていない様子。
なぜならダニエルは見てはいけないものを見てしまった、という表情をしていたからだ。言葉にしなくてもそう言いたいのがわかるくらいの表情。そしてダニエルはわざとらしく咳払いをした。
「リガウン団長、できれば私の部下を解放していただけると非常に助かります」
その声に驚いたのか、ジルベルトの左手がもみっと動いた。無意識なのか、わざとなのか、問いただしたいところだが、今もとエレオノーラの右胸にのっている彼の手が、もみもみと動いている。
だが、そんなジルベルトも顔だけをダニエルに向けると、やっとその手をどけてエレオノーラを解放した。
「レオン、悪いが三階の東階段から仕掛けてくれ。行けるか? 残りは第一が押さえているようだ」
ダニエルも冷静にエレオノーラに命令する。
「承知いたしました」
今まで押し倒されていましたという事実が無かったかのように、さっきの事故も無かったかのように、エレオノーラはすぐにその命令に従う。ただ、少し乱れてしまった衣服を直す。それが終わるとさっと風のように駆け出した。
すぐに彼女の後ろ姿は見えなくなった。
「貴殿は諜報部のフランシア部長」
彼女の背を見送った後、ダニエルを認識したジルベルトが口を開いた。
「はっ。第零騎士団諜報部ダニエル・フランシアであります。この度は、我が部下がご迷惑をおかけしたようで、申し訳ございません」
ダニエルはピシッと気を付けの姿勢をとって、ジルベルトに頭を下げた。金色の髪がサラリと動く。
ダニエルはただの第零騎士団の諜報部長、ジルベルトは第一騎士団の団長。この騎士団の中では、当たり前であるが部長のダニエルよりも団長の方が偉い人に該当する。
「いや。迷惑をかけたのは私のほうだ。ところで、先ほどの女性は?」
ジルベルトはダニエルを見下ろすようにして言った。ダニエルも男性の方ではけしてその身長が特別低いというわけではないのだが、とにかくジルベルトの背が高すぎるのだ。
ダニエルはジルベルトが発した『女性』という言葉に敏感に反応し顔を歪ませた。今回のエレオノーラの任務は、男装したうえでの潜入捜査だ。見た目はどこからどう見ても男性であるはず。第零の仲間にも、エレオノーラが女性であるという事実は隠しているくらいだというのに。だからこそ、この任務に潜入しているのは『レオン』という男性騎士であると伝えていた。
それにもかかわらず、なぜ第一騎士団であるジルベルトに彼女が女性と知られてしまったのか、という思いがダニエルの中にあった。エレオノーラの変装が見破られてしまったとも思えない。彼女の変装はいつだって完璧だ。
「失礼ですが、リガウン団長。なぜあれを女性と?」
ダニエルは恐る恐る尋ねた。
「ああ、すまない。触ってしまった」
そのジルベルトの答えに「どこに」と問わなくても、触って女性と気づく場所と言えば限られている。ダニエルは思わず吹き出しそうになったが、ここでも至って冷静という名の仮面をかぶる。
「そうでしたか。できればその事実を隠していただきたいのです。あれは私の妹ですが、諜報部の潜入班として所属しております故。本日、あれはこの酒場の男性店員です」
ダニエルも落ち着きを払った声で答えた。
この建物は大きな高級酒場。建物は四階建てであり、一階がきらびやかな光に囲まれている少々賑やかに酒を楽しむところだ。二階は個室がいくつか準備してあり、静かに酒を楽しむところでもある。むしろ、他人に聞かれたくない話をするときに利用されることの方が多い。三階と四階は従業員の休憩所やら宿泊所やら何やらがあるらしい。
ダニエルは、窃盗団が密売をしているという情報を仕入れたため、部下であり妹であるエレオノーラをこの高級酒場に送り込んだ。
エレオノーラを指名したことにも理由がある。何しろ彼女には『変装』という特技があるからだ。特技というよりはむしろ趣味ではないか、と常々思っているダニエルであるのだが、あの妹の変装はとにかく誰も見破ることができない。変装した外見もそうであるが、内面もだ。だからこそ、彼女は第零騎士団諜報部の潜入班としては優秀な人材なのである。
そしてこの酒場に潜入していたエレオノーラが、窃盗団の密売の決行日が本日であると情報を仕入れた。さらにその窃盗団を取り押さえるために、第一騎士団を投入した流れになっている。
窃盗団の大半は第一騎士団のほうで拘束したようだが、肝心の親玉を取り逃がしたらしい。そこで今、ダニエルはエレオノーラをその親玉に差し向けるため、彼女を探していた。この酒場の男性店員としてのエレオノーラであれば相手も油断するだろうという考えによるものだ。
「フランシア殿」
ダニエルがエレオノーラの後を追うためにその場を離れようとしたとき、ジルベルトの声が背中にかけられた。ダニエルは思わず振り返る。
目の前のジルベルトは、相変わらずいいガタイをしているし、オールバックにしている黒い髪が彼の存在感を強調している。まさしく団長と、その言葉が似合う男だ。これほど団長が似合う人物もいないだろう。
「後日、貴殿の屋敷に伺ってもよいだろうか」
「何か。あれが失礼なことを?」
ダニエルは、自分がいない間にエレオノーラがジルベルトに無礼を働いてしまったのかと思ったからだ。だからつい、顔を曇らせてしまう。
「いや、そうではない。ただ責任を取らせていただきたい」
「なんの?」
ダニエルも思わず素が出てしまった。
「貴殿の妹を、妻に娶りたい」
ダニエルはそのジルベルトの言葉で、思わず口が重力に負けてしまい、つい、ポカンと開いてしまった。空耳かと思って目の前の彼に視線を向けるが、彼が真面目な顔をしているため、きっと冗談でも空耳でも無いのだろう。
「承知しました。妹に伝えておきます」
そのように言葉を紡ぎ出すのが、ダニエルにとって精いっぱいの行動であった。
だが、すぐさま今の件を頭から追い払う。何しろ他にやるべきことがあるのだ。まずは、あの窃盗犯の親玉を捕まえねばならない。
「では、任務がありますので」
ジルベルトも同じ任務に携わっているにも関わらず、ダニエルはそんなことを言ってその場を去った。
それくらい、ダニエルの頭は自分でも気付かぬうちに混乱していたのだ。