03-25:ケダモノどもが夢の跡
混芭獣兵衛。彼は格闘家崩れの異能犯罪者であり、異能結社の中でも指折りの異能構成員である。かつて夢見た戦いの熱を求める彼は、今日もまた強者という犠牲を重ねる。
退屈を紛らわす身勝手な期待の押し付け。
全ては自分の為に、あの日の渇望を再び浴びる為。だから彼は戦う。
己よりも遥かに弱い少年とも、遥かに強い獣とも。
「苛烈だな……正しく獣。これが伝説。伝承にあった孤高の銀狼の力……素晴らしい。最高だ! 今日の俺はなんて幸運なんだ! この胸の高鳴りがその証明だ……ありがとう、感謝するぞ小僧……故に、死ね!!」
「言動の不一致! なんなんスかその殺意は!」
「ガウ」
「えっ……あ、違う! こん人礼言いながらふっつーに殺意ぶつけてきてる!? 怖いッ! アンタ洞月先輩の同類ッスか!?」
「ガオ!!!」
両手を交差させて獣兵衛の重い拳を防いだ涼偉は、文句ありげに、苦しげに吠える。
生まれてこの方15年。彼にとってそれは未知だ。
ここまで激しく、終わりの見えない戦いは生まれて初めてなのだ。自称叔父との戦闘訓練でも、入部した異能部で始めた鍛錬でも、空想や異能犯罪者との戦いでも……
ここまで苛烈で、死に満ちた空間は初めてだった。
獣兵衛は高揚した気分を隠さず、その戦闘狂の血を滾らせて戦場を舞う。神獣ラオフェンは気性の荒さをここでも発揮し、戦場を駆けて駆けて大暴れ。
廃墟を破壊する殺意の応酬。風が、拳が、幾つもの獣性が、互いを貪り喰らわんと繰り出される。
壁は分厚く、空は高く。一人と一匹の苛烈な戦いに置いてけぼりの涼偉。
……それでも涼偉は、諦めずに食いついている。
「<風刃斬>!」
「っと、……風を刃に固めたのか。器用だな。俺には到底できそうにない」
「軽々と避けながら言われても嬉しくないッスよ!」
「まだ未熟だからな……そら、そこの神獣も、お前を認めてない様子だぞ?」
「ッ、あがっ!!!」
「アォォォォーーーーーン!!!!」
「む……使役できん空想ほど厄介なものはないか……いい教訓になりそうだな……」
幾重にも重ねた風の斬撃は回避される。顔を顰めて打開策を練る思考は味方である筈のラオフェンによる巻き添えを考慮しない猛攻によって吹き飛ばされる。
壁に身体を打ち付けながら、自分を無視して戦いに興じる神獣に涼偉は苦虫を噛み潰したような顔をしてしまう。
……ラオフェンの目は自分を見ていない。
契約者である自分も巻き込んで、嫌がらせのような攻撃を加えてくる神獣には嫌気すら差してくる。
「はぁ、はぁ……こーなんのはわかってたっスけど、あんまりじゃないッスかね……」
信仰対象からの嫌悪の感情にはくるものがある。
召喚せずに戦えば無駄な傷を得ずに済んだだろう。かといってここで召喚しなければ獣兵衛にここまでの傷をつけられずにただ負けていただろう。
だが涼偉はそれ以上の文句は言わない。何故なら、これは勝利と身の安全を天秤に掲げて決めたこと。
自分の我儘と実力不足でラオフェンを喚んだのだ。
ここでウジウジと項垂れていれば、それは神獣への侮辱であり、自分自身への敗北である。
今ここでラオフェンに認めてもらう───せめて、こっちを見てもらえるよう、痛みに歪んだ顔を笑みに変えて立ち上がるり……印を結ぶ。
敵味方関係ない。これは認められる為の戦いだと。
そう定義して、涼偉は自分ができる現状最大の技で二頭の戦いに割り込む。
「その領域に行くには……足りないモノが多すぎる。それでも俺は諦めないッス……だってそこに、欲しいモンがあるんだから! 吠えろ、<風守りの狩人>!」
「ッ!」
『アォォォォーーーーーン!!!!』
「グルル……」
新たに地上に顕現する二体目の銀狼。
異能【風迅奔狼】の真骨頂である人体から獣体へと変化する秘技。
ラオフェンになった涼偉が、風と共に戦線に立つ。
召喚されたラオフェンよりも一回り小さいが、その力強さに陰りは無い。
数年ぶりの召喚で地球に降り立ったラオフェンは、己が知らないうちに契約主である涼偉が同族に成れる力を身につけていることに内心驚きながら、それでもまだまだ、弱すぎると鼻を鳴らす。
魔力の流れも綺麗でない。これではすぐに解ける。
脆弱な幼子の悪足掻き。見るに堪えない弱者の姿。だというのに。
銀狼となった涼偉の目に、不思議と魅入られた。
実力なんて認めていない。己を降ろす器としても、己と契約する隣人としても認めていない。
心の底から認める日なんてきっと来ない。
例え見違えるような強さを手に入れ、見るからにも強くなろうとも……ラオフェンは涼偉を認めない。
かつて抱いた嫌悪感は今も変わらず。きっと明日も変わらない。
「グルル………」
あの目が気に食わない。かつて見たその瞳の色が。
澄んだあの瞳が。消えてしまった番の瞳に写った、かつての自分の生き写しのような姿が。
その全てが気に食わない。
きっとこの想いは変わらない。擦れ切った獣の心に涼偉の姿は眩すぎた。
目の前で失った息子とそっくりな、そのか弱い獣の姿さえも。
「………ガウ」
『クゥーン……』
少年への殺意を、敵意を、苛立ちを押さえ込んで、ラオフェンは涼偉の澄んだ瞳を見つめ返す。
───勝手について来い
仕方ないことだ。仕方のないことなのだ。
不本意にも自分から折れたラオフェンは、一先ずは目の前の敵を狩る為に……未熟な幼狼の手を取った。
「ガオ」
『! ガウ!!』
短期決戦。これでも契約者の事を考えている神獣はこの戦いを早々に終わらせる選択を取る。
意識を切り替える。
かつて契約を強行して涼偉とラオフェンを結ばせた獣面の男を思い返しながら、目の前に立つ敵を確実に葬らんと駆ける。
さっさと喰らって、愚かな契約者を叩き潰さねば。
いつまでも過去を引き摺って、涼偉に固執し続けるわけにはいかないのだから。
そう考えて、ラオフェンは己と瓜二つの銀狼と共に獣兵衛へと牙を向けた。
「空想の二体同時討伐……腕が鳴るな、これは」
肉薄する銀狼を前に、獣兵衛は際限なく膨れ上がる戦意を隠せない。両手足、頭部、尾といった順で獣の力を混ぜて発現させ、獣兵衛もまた力を振るう。
己の強さを証明する為に。
その退屈を紛らわせ、更なる高みへ。戦いの魅力を再熱させてくれる戦いへ挑む。
「グルラァ!!」
「ぬぐっ……!」
ラオフェンの蹴りが胴に入り、獣兵衛は吹き飛ぶ。
幾つもの廃墟を突き破って後方に飛ばされた彼は、額から血を垂らしながらも好戦的な笑みを止めない。
吹き飛ばされた位置から元の位置まで、兎の脚力で一気に跳躍……異常なスピードでラオフェンに肉薄、蹴撃をお返しする。
「おぅら!! お返しだ!!」
「ッ、グルル……」
『───ガウ!!! ガオーーー!!!』
「チッ!」
ラオフェンの背を掠めた蹴撃。美しい銀の毛並みが千切れ飛ぶが、それすらも構わないと言わんばかりの大立ち回りで追撃を加える。
更に涼偉が巨腕を振るい爪を立て、口腔の中で作り溜めた風の弾丸を打ち出す。
互いに休む暇を与えずに、その猛攻を途切れさせない。
「埒が明かん……だがこれがいい!! これだ。これが俺の求めていた戦いだ!」
血反吐を吐きながら、獣兵衛は獰猛に笑う。
「礼をくれてやる……受け取れ! <禍獣拳>!!」
獣兵衛の右拳に魔力が集まり───爆発するように右腕が破裂する。あまりにも惨い光景は、宙に解けた筋繊維が再集合して絡まり、結び、象る形でまた別の光景へと移り変わる。
───拳とは形容できない、巨大な獣の頭がそこに生えていた。
【縺願?貂帙▲縺滄」ッ鬟溘o縺帙m───!!】
鼠とも、狼とも、獅子とも取れない……もしくは、全てが混じったと言える……矛盾した混沌の獣。
自我を持たない化け物が、死の咆哮を天に捧げた。
化け物の頭を右手に生やした獣兵衛が突進する。
「破ァッ!!!」
あまりにも禍々しい一撃が、小柄なラオフェン……涼偉を食い千切らんと牙を剥く。
『!』
「速いな……!」
『グルル……!』
危機一髪、獣頭の一撃を涼偉は回避する。
その一撃は廃墟に激突、壁を打ち砕き粉々に変え、ボリボリと瓦礫を貪り食らう。
食らってしまえば食い殺される……ありありとその未来が描けてしまう。
更なる危機感を抱きながら、二頭は攻撃に出る。
「ガァ!!」
『スゥー……ガォッ!!!』
「クハハハハッ!!」
【縺?◆縺?縺阪∪縺呻シ───!!】
激突。幾度目かの獰猛な獣の咆哮が廃墟を揺らす。
今、遠方から見てわかるほどの巨大な竜巻が天空に渦巻いている。神獣ラオフェンが持つ風の力が涼偉の異能と相乗効果を起こして強化された強烈な風の渦。
その中心点で獣たちは激突する。
台風の目は静寂である───…だが、この戦場ではその当たり前が通用しない。吹き荒れる強風に逆らいながら、然して猛攻の手を緩めずに獣兵衛は前へ前へと前進する。
壁のような風など意味を成さないと言わん力で。
地面を破壊しながら跳躍した獣兵衛は、再び涼偉を目掛けて突進。獣頭となった拳で顎を食い破らんと、刺突の要領で腕を突き刺す。
ラオフェンが発生させた風を味方にした拳は加速に加速を加え、涼偉が避ける隙を与えない。
「───破ァッ!!!」
『バウッ!!』
「ぬっ───ここで風の防壁かッ!! こんなものすぐ食い破って……チィッ! ここで来るか神獣めッ!!」
「ガウラァ!!」
間一髪。涼偉も風を味方にして身を守る。
咄嗟に張った風の防壁で牙を立てる拳の侵攻を抑え追撃を防ぐ。その隙を狙ってラオフェンが獣頭の腕を切り落とさんと切り裂く風の弾丸を放つ。
獣兵衛は避け切れず、攻撃が腕に着弾。
ゴリゴリと獣顔が削られる。数秒は耐えたが、風の弾丸はあっという間にその腕を破壊した。
本家本元、最強格の風の魔法は獣顔を食い破る。
吹き飛ぶ化け物の頭。腕を切り落とされた獣兵衛は後ろに飛んで追撃を避ける。
「仲間割れしてればいいものを……!」
ボタボタと垂れる赤い血が地面を濡らす。
爆ぜた右腕を獣兵衛は抑えながら、然して好戦的な笑みを絶やさない。
「風の脅威度は把握した。腕一本など安いものだ……再構築すればいいのだからな!」
欠けた右腕が隆起して、膨張し、再び無数の獣性が溢れ出て獣頭の拳を形成する。
戦闘態勢を整えた獣兵衛は、再び二頭に肉迫する。
殴打、暴風、蹴撃、斬撃、突進、噛砕、咆哮……
あらゆる攻撃を、己の身を傷つけ合いながら互いに繰り出す。応戦するラオフェンも幾つか傷を負って、動きに精細さを欠く……わけでもなく、より強い風を纏って躍動する。
対して涼偉の動きは徐々に悪くキレがなくなって、被弾する回数も増えていた。限界が近い。
それは獣兵衛も同じこと───だが、ラオフェンの猛攻を防ぎきれていない。
『ガゥ、グルル……』
「グルルルル……」
「……想定以上の消耗だ。賞賛に値する。思ったより熱が入りすぎてしまったな……故に、これで仕舞いと行こう」
腰を落として、両腕を前に。獣兵衛の身体に渦巻く魔力が、血管とリンパを経路として五体を駆け巡り、獣の気配を宿した魔力の流れが獣兵衛を強化する。
バフにバフを重ねて、更なる強化を。
一撃で沈めるという意志を、殺意を、強者への礼を最大限ぶつける準備を……
それを目の前で見せられて、黙っていられるものはいない。
『アォォォーーーン!!!』
涼偉もまた、体内の魔力を四肢に流し込み、美しく淀みのない魔力の流れを形成。変身により手に入れた人外の剛力を、更に強靭なモノへと進化させていく。
……その様子を、ラオフェンは眺めている。自分の手を下さずに、後方に下がってその結末を見届ける。
互いに示し合わせることなくそう取り決めた。
ここでトドメを刺せねば殺す。本気の殺意を送り、破れば必ず実行される命令で縛って……涼偉を最前線に立たせた。
それぐらいやらねば、契約してやった意味もない。
無意識にそれを理解した涼偉は、身震いしながらも不敵に笑う。
近付く自分の死。倒せねば殺される。
だぁ、恐怖に身を強ばらせることはない。自然界で鍛えられた野生の力が、ここまで積み上げられてきた涼偉の戦意が恐怖を上回り、戦うことへの喜びに繋がる。
互いにボロボロな身体を引き摺って、両者構える。
「行くぞ! <亜神劫>!! 身体の欠片一つ残さず、俺の糧となれ!」
『ガウラァァァ────ッ!!!』
【▁▂▃▄▅▆██▆▁▃█───!!!】
獣兵衛の踏み込みと共に巨大な肉塊が襲いかかる。
それは、蠢動する獣の集合体。無数の獣頭が乱雑に盛り上がり膨れ上がり咆哮を上げる───
異形と化した両腕から伸びる獣頭の群れが、地面を抉りながら前進する怪物が……涼偉の視界を埋める。
対して涼偉の姿に───小さなラオフェンの容貌に変化はない。いつも通り普段通り、ただいつもよりも清浄な翠緑の風を纏っている。
清らかで美しい、神聖さすら感じさせる魔力の風。
そよ風と言ってもいいぐらいの弱い風。それでいて辺りを蹂躙する暴風に干渉されない不思議な風。
その風を全身に纏う……のではなく。犬鼻の先端を重点的に、守護ではなく武器として収束させている。
それは涼偉の全身全霊をかけた決死の技であった。
下手すれば選手宣誓が終わってしまうような───今の自分にできる全力を。その一撃に込めていた。
悠然と一歩踏み込み……瞬時に加速。暴風の化身が獣頭群へ突進する。
『───!!』
それはまるで一本の槍のような、最速にして最硬の風の槍が、獣頭群と───激突、正面衝突する。
「『【─────!!!】』」
声にならない怒号が、咆哮が、悲鳴が上がる。
肉を抉る音、物を壊す音、全てが崩れていく音……両者の命を削りながら、不吉な音が鳴り響く。視界は明滅して、傷は開き、血は吹き出る。身体が千切れて飛んでしまいそうな……そんな恐怖も高揚する戦意に飲み込まれて消えていく。
突進、激突、破壊破壊破壊。
涼偉が纏うそよ風は、その実幾重にも重ねに重ねた鋭利な風である。ただ相手を切り裂き殺すことのみを考えた凶器。
直線上の全てを喰らい尽くす獣頭を、粉微塵にして破壊していく……
「ぅ、ぉぉおおおおおおお!?」
その猛威が、獣兵衛本体に届く───その寸前に。
「ッ、不味い───ぬっ!?」
「!?」
『わふッ!?』
横から殴りつけるように、淀んだ色の大きな濁流が二人に襲いかかった。
それは異能。距離を取った先にいた魚飼耶央の力。
怪魚を伴う死の海の余波が、この戦場にまで猛威を届れに流れてきた。
ギリギリの拮抗状態で押しあっていた二人は濁流を避けれず、流れに逆らうこともできずに沈み流される。
────それから暫く経って。
水が引き、何事も無かったかのように濁流は消えて更地のみが残る。
水に濡れ、横たわる涼偉の姿が───異能が解けて人型を晒した涼偉が、苦しめに呻いて倒れていた。
「ぅ、ぐ……ちくしょぅ……」
息も絶え絶えな涼偉は満身創痍。傷がないところを探す方が難しい……死の直面に立っていた。
「くっ……アイツは……何処に……」
「───ここだ」
「ッ、!? ガハッ!!? ァ、グ……ッ、ちょーっと容赦無さすぎやしないッスかねェ……!!」
「あの突進を放った男が……何を言う」
更に追撃。地面に伏す涼偉の背に鋭利な槍のように尖った獣兵衛の足が突き刺さって……貫通した。
心臓を狙わなかったのは余裕の表れか。
両腕を失った状態の獣兵衛は、戦いに水を刺された苛立ちを胸に秘めながら、荒れた呼吸を正す。
「あの小娘は後で殺す……小僧。お前との戦いは年甲斐もなく楽しめた。あの熱を感じられたのは、本当に久しぶりだった……こいつは礼だ。楽に殺してやる」
「ッ……俺も楽しかったッスよ。でも、死ぬつもりは毛頭無いッス……!」
「いや、死ぬ。お前を守るものはもういない……」
背中からお腹、地面にまで貫通する攻殻の足槍を、グリグリと動かして激痛を与える。奮闘した強者への礼として、慈悲として、確実に涼偉を殺すつもりだ。涼偉はあまりの痛みに泣き叫びたくなるのを、グッと我慢して……打開策が無いことに気付く。
魔力はもうない。体力なんてもってのほか。
身体はズタボロで指と顔を動かすのが精一杯。もう戦う力なんて、微塵も残っていない。
……頼みの綱である銀の神獣も、どこにもいない。
魔力切れで存在を維持できず、濁流に飲まれたまま霧散してしまった。終の住処である翠の風原に返ってしまった。
つまり、今ここに……涼偉を助ける者はいない。
それでも生き延びようと身体を震わせるが、なにも起きず、意味を成さない。
涼偉の死が、ラオフェン以外から齎される。
「じゃあな」
その一言を最後に、獣兵衛は刺した脚を変形させて涼偉の身体を内から破裂させんとして───
「ガァアァァァァァァァァァァ!!!」
───崩れた廃墟を飛び越えて、轟音を立てる風を纏って現れたラオフェンが獣兵衛に喰らいついた。
「なっ!? ガアッ!!!」
「ラオ…フェン、様……ッ、あぐっ……!」
「グルル……」
噛みついた獣兵衛の身体を引き上げ、涼偉の背から離したラオフェンは……強靭な顎力をもって獣兵衛を噛み砕かんと牙を立てる。
───その瞳には、殺意を練り混ぜタールのように重く淀んだ“死”が宿っていた。
正気を失い、ただ目の前の塵を狩猟する───否、鏖殺せんとする神獣の姿があった。
召喚の魔力を自分で補い、顕現を維持していた。
かつてのトラウマを───目の前で愛する息子達を失った恐怖、無力感、喪失感、殺意が想起されて……あの時の子供たちを思い出させる涼偉の死を恐れて、がむしゃらに飛び出て噛み付いた。
普段涼偉に感じていた不快感を上回る殺意が、親が向ける子への想いが、捨て切れなかった死の情景が、暴走するラオフェンの背を押していた。
「ラオフェン様!!」
涼偉の言葉は耳に届かず、神獣の牙が獣兵衛の胴を両断する───
「───なにこの状況。帰っていい?」
虚空から溢れ出た影が───否、昏暗の闇が銀狼の肉体に絡みつき、締め上げ、飲み飲むように。
泥のような質感の闇が、獣兵衛の死を食い止めた。
「んー、なにこれ。分裂? ……いや、本物? 成程、すごいねキミの異能は……死にかけなのはナンセンスだけど」
現れたのは洞月真宵。眠そうな目を細めて、廃墟の向こう側から歩いて現れた。
雫の背は早々に遠退き、諦めて歩いた真宵。
やっぱり迷子になりながら星見廻の通信介護で無事目的地に辿り着いたのだ。途中濁流に襲われたが闇で薙ぎ払って回避。怪魚は闇に呑ませて消滅させた。
あらゆる障害を無視して救援にやってきた真宵は、まず噛みつかれていた獣兵衛を“逃がす”為に狼の顎を開かせて解放。
殺意を滲ませた睨みに無表情を返して、一つの命を助けた。
「ぐっ、ゥッ……」
「先、輩……」
「……んー、丁嵐くんも死にかけか。でもま、まずはこっちからかな?」
地面に横たわる二人からすぐ目を離して、すぐ傍に浮かぶ、浮かばされたラオフェンと見つめ合う。
「グルル……」
「丁嵐くん。こいつ殺していいの? それとも殺さない方がいいの? どっち?」
「ッ……殺さない、で、くださいッス……」
「そう。じゃあちょっと待ってて」
その言葉を皮切りに、膨大な闇が天へと立ち昇る。
巨大な闇柱がスラムに現れ、廃墟の残骸を巻き込みながら展開されていく。真宵もラオフェンもその闇に飲み込まれて……闇は涼偉の目の前で止まる。
無音が支配する。本能的恐怖を感じさせる闇を前に涼偉は息を飲む。
「───あー、これ通信機。喋っときな」
「えっ」
締まりのない……そう感じさせてしまう声で真宵が闇の中から腕を飛び出させ、涼偉のちょうど掌の上に起動済みの通信機を投げ渡した。
腕は直ぐに引っ込み、再び静寂がスラムに漂う。
茫然とする涼偉は自分の通信機が壊れていたことに今更気付いたり、通信機から聞こえる安否確認の声にちょっぴり涙を流しながら、ようやっと生きてることを実感した。
『無事か、丁嵐! おい、返事をしろ!』
「────スゥ〜……あーー、生きてる……お、俺、なんとか生きてるッス……生き残ったッスゥ〜……」
『そうか……怪我は』
「あ、死にかけッス……がふっ」
『丁嵐ーー!!?』
生き延びた安堵からか、涼偉は意識を手放した。
◆◇◆◇◆
───何も聞こえず、何も臭わない。
耳鳴りがするほどの静寂と、何も感じれないせいで頭がおかしくなりそうな程の無臭。
目の前に広がるのは、万物を塗り潰す暗闇の空間。
肌を撫でる風一つ吹かず、己の力で吹かすことすらできず……足元に広がる土の温度も感じない。
そも自分が立っている場所が地面なのか床なのか、浮かんでいるのか沈んでいるのかすらも不明瞭な……上下感覚もままならぬ無限に広がる虚ろな空間。
どこまでも“何も無い”場所。
そこに彼は───正気を失い殺意を剥き出していた神獣ラオフェンは存在していた。
声が出ない。動くことも、目を閉じることも、何もできない。
───ただ、いつの間にか己の目の前に立っていた人間の女の姿を真似するナニカのみ知覚できていた。
「落ち着いた?」
虚空に浮かび、足を組んだ少女───洞月真宵。
黒く染まった紫色の瞳が、何も映さぬ暗黒の虚無が己を見つめている。
少女が───否、忌々しい暗闇の王がそこにいる。
「……わかるんだ。野生の勘かな。それとも神獣たる所以からか……」
古の時より生きる魔王は、表情の読み取れない顔で嘆息を一つ。己の正体を勘づく数少ない者が目の前にいることに苛立ちを覚えながら、言葉を重ねる。
この暗闇の中に入ったからこそ、正体に勘づいた。
魔王特有の死の闇の中、己を簡単に殺せる亜空間に連れ込まれても尚、ラオフェンは怯えるどころか牙を剥くような気持ちで苛立ちを向ける。
───何故邪魔をする
「するよ。異能部は弱肉強食の野生社会とは違うの。御法度なの……殺人犯になりたくない、なってほしくないって想いが蔓延ってるのさ」
心を読んでくる万物の頂点に溜息を吐きたい気分になりながら、ラオフェンは対話を続ける。
───私を殺すか
「まさか。可哀想な後輩の召喚獣だ。やらないよ」
───あれが私の主? 認めん……認めるわけがない あれは弱すぎる 我らの後継としても……なにもかもが未熟すぎる
あれはダメだ お前にもわかるだろう あれは我らの理想には程遠い……
「………考え過ぎだと思うけど。ま、キミの意見だ。ちゃんと尊重しよう」
否定を重ねる神獣に、苦笑を浮かべて魔王は頷く。
「それにしても……風を司る神獣たるキミがここまで弱体化するなんて……世は無常だ。あぁ、もしかしてエーテル世界の崩壊が致命的だったの? 大変だね?」
───どの口が
「ごめんて」
旧知の間柄であった一人と一頭は、時間が許す限り千年ぶりの対話を続ける。
別段彼らは仲良しでは無い。
極稀に会う程度。互いに敵意を向けることはなく、お互いを害そうとする気すら湧かない……軽く会話を重ねる程度の関係性。
カーラにとっては魔界に生きながら自分に従わない珍しい魔獣というそれなりに興味のある対象。
ラオフェンにとっては同族や眷属を脅かしかねない警戒心を過分に含んだ潜在的な敵対者。
最終的にはお互いに譲歩することで和平を結んで、最後まで不干渉を貫いた仲。
───人間になったのか
「そう見える? なら、そういうことなんだろうね」
───謎掛けは苦手だ いい思い出がない
「ふふっ……知ってる。ま、とにかく。間接的だけど今回ばかりはボクにも非がある。キミの契約者である丁嵐くんの怪我はこちらで書き換えておこう。うん、死なせはしないよ」
───ふんっ 好きにしろ
「好きにするとも───じゃあね風の友。また今度」
己の身体から魔力が抜けていく。召喚陣を通しての顕現には魔力が必要だ。自分で補っていたとはいえ、もう限界だ。
徐々に意識が飲み込まれ、元の世界へ返っていく。
───……
そうしてラオフェンは、喋り方も雰囲気も変わった闇の友に見送られて……次喚ばれた時は、一撃で敵を仕留められなかった契約者を叩こうと決めた。
虚空が広がる暗闇に、真宵のみがポツンと浮かぶ。
「流石に予想してなかったな。生きてるのも、血族の召喚獣として契約してるのも……ホント、人生ってのは何が起こるかわからないものだね」
懐かしむように目を細めて真宵は闇を解いていく。
「いいねー、特別なナニカを持つモノってのはかなり好ましい部類だ。今の異能部は豊作だね……どいつもこいつも一筋縄では行かないヤツらばかり」
晴れていく異界の隙間からうつ伏せで気絶している後輩を見つけて、まずは手当てだなと近づいて行く。
「敵の練度も上々。くふふ、これはいい兆候になる」
異能【否定虚法】で丁嵐涼偉の身体を蝕むすべての怪我を“ある程度したら完治するよう”に書き換えて、後に後に響きそうな内部破壊は無かったことにする。
書き換えて塗り替えて、自分の都合のいいように。
……一番重傷だった背中の貫通痕は、戒めの負傷でわざと残しておく。
最後に、これで治しました! とゴリ押す為の特別な回復の魔法薬を頭からぶっかけて……施術完了。
地面に落ちていた通信機に涼偉の無事と緊急処置を終えたことを告げ、敵の異能犯罪者には逃げられたと嘘を混じえて報告する。
ガミガミ煩い通信機の電源を切り、後輩を背負ってスラムを歩く。
「さて……ここまで頑張って、収穫無しは可哀想か。ちょっとぐらいサービスしてあげますか」
それは余裕の表れなのか。真宵はニヤリと笑って、再び異能を行使した。




