悪魔の椅子
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
おおっと、危ない。この椅子、だいぶ背もたれがやられてるなあ。ぼちぼち替え時かも。
いや、椅子の座り方というか、扱い方って人によっていろいろあるっしょ? こう、背もたれに寄りかかって、足と椅子の前の部分だけ、ぶらぶらさせるやつ。
特に子供とか、いくら注意してもやるからねえ。一度、本気でケガさせた方が懲りるんじゃないかとさえ思うよ。
あと座り方以外に、ちょっかいかけられてケガするケースね。
君の学校ではなかった? 起立した前の子の椅子を、座る直前にタイミングよく後ろへ引いて、邪魔するいたずらさ。
仕掛ける側からすれば、ほんの軽い気持ち。でも、食らった側は重大なケガを負う恐れがある。背骨は曲がるし、足はマヒするし、便秘を引き起こす恐れさえ出てくるのだとか。
それでも、椅子はいまや欠かすことのできないものだ。公私を問わず、お世話にならないことの方が少ないだろう。そうして親しんでいるものゆえに、奇妙な話も多いみたいだ。
僕が体験した話なんだけど、聞いてみないかい?
僕の通っていた小学校にあった七不思議。そのうちのひとつに、「悪魔の椅子」というものがあった。
それは、見た目には何の変哲もない椅子なのだけど、腰をかけると不幸が訪れると噂をされているんだ。
いくつか話にバリエーションがあるようなのだけど、よく聞くのは、「それに腰かけた者は目が見えなくなる」というものだ。
急に目の前がぼんやりすることもあれば、真っ暗闇になることもある。椅子から立ち上がったり、取り換えたりしたならばすぐに回復するものの、一度座った時点で、視力の低下は始まってしまう。
数カ月か数年か、あるいはもっと長い時間か。いずれは目が見えなくなってしまうという話で、一部の生徒は震え上がっていたっけな。
僕はというと、「くっだらねえ」と鼻で笑っていたクチだ。
人間五十年……とは、信長の伝記のくだりで知っていたけれど、誰だって50を過ぎれば身体のどこかにガタがやってくるらしい。祖父母や親戚の方々も、そう話しているのを聞いた。
「いつか」などと逃げ道を作っている時点で、作り話としては二流。誰だっていつかは目が悪くなるんだ。
自然の摂理を祟りだなんだと騒ぐなんて、お前らどんだけノータリンなんだと、完全にバカにしていたな。
もし教室で出くわしたにしても、すぐに交換を申し出れば、どうということはない。
そうタカをくくって、いよいよ学校で過ごすのもあと一年となった、6年生にあがってからのこと。
僕のクラスから、トイレを挟んで向こう側に、教材室があった。
壁沿いの棚、引き出し、空きスペースに、そろばんから黒板に貼る巨大三角定規や世界地図まで、雑多に散らかしてある。そしてど真ん中には長机といくつかの椅子。
以前、教育実習に来ていた先生が話してくれたところによると、指導案や授業準備などを行う際に、この教材室を使わせてもらっていたらしいんだ。荷物や持参の教材なども、特別にここへ置いていくことを許されたとか。
僕はその話からヒントを得て、自分の都合がいいように悪用させてもらっていた。
運動などかったるいと、常日頃から感じていた僕。かといって、本にもさほど興味がなくて、30分近い昼休みをどう使おうか考えると、ゲームしか頭に浮かばなかった。
携帯ゲーム機なら幅は取らない。そしてここなら、隠す場所にも事欠かない。
僕は袋入りの教材のうち、かなりホコリが積もっている奴を選んで、中にゲーム機を放り込んだんだ。
ひと昔前のソフトで、無くしたとしても惜しくない、時間つぶしには最適なパズルゲームだ。バレても、しらばくれる気まんまんだった。
足しげく通うと、怪しまれるかもしれないし、先生が入ってくる可能性だってゼロじゃない。
今ならビビッて二の足踏みそうだけど、当時の僕はそのスリルすら楽しんでいた記憶があるよ。
そんな、とある昼休みのこと。
近くに人がいないことを確かめてから、教材室へ入った僕は、机周りの変化に気づく。
これまで机の長辺から向かい合うように、一脚ずつパイプ椅子が置かれていた。いずれも座や背もたれの緑色のカバーが一部、内側のスポンジごとちぎり取られていた、ひと目で分かる欠陥品。
それが今回は、比較的きれいなピンク色のカバーを持つ、ソファに近い安楽椅子が一脚だけ。
――これ、応接室とか校長室とかにしかない椅子だよな。ラッキー!
教室でお世話になる、木とフレームでできたスクールチェアの味気ない座り心地に、飽き飽きしていたところでもあった。
僕はいつもの隠し場所からゲームを取り出して椅子を引くと、ぼふんと音が出るくらい勢いをつけて、腰かけたんだ。
一瞬、何が起きたか分からなかった。
昼の明かりが差す室内を、一点のゆがみなくとらえていた視界。それが椅子に腰かけたとたん、真っ黒く染まった。何も見えなくなってしまったんだ。
「え?」と、反射的に立つと、すぐに視界は元へ戻る。ただ、尻から腰にかけてに、かすかなしびれがあったんだ。
不覚にも、このときの僕はすぐに「悪魔の椅子」へ考えが至らなかった。何かの間違いだろうと、今度はおそるおそる、ゆっくり腰を下ろしていく。
やはり、スイッチが切り替わったように、暗闇がきた。
目を閉じている感覚はない。むしろかっと見開いているはずなのに、一向に光は戻ってこなかった。
ことここに及んで、ようやく「悪魔の椅子」を思い出した僕だけど、先の理由もあって、むしろゆったり構えていたんだ。
皆のいう悪魔の椅子という名の「幽霊」。その正体たる「枯れ尾花」の部分を見極めてやろうと思ってね。
たっぷり30秒くらい経っただろうか。
不意に、視界がまた教材室内へ戻ってくる。飛び込んでくるのは机に、向かいの棚。ガラスで仕切られた戸の向こうには、椅子に座る前も見た、低学年用の単語カードの入った箱がいくつか入っている。
「なんだ、悪魔の椅子なんてたいしたことないな」
と、つぶやいてから、ようやく僕は異変に気付いた。
しゃべれない。声が出ていないんだ。
今のセリフ、ちゃんと口に出していった感覚があるのに。
それだけじゃない。注意深く見ると、僕の目線は先ほどより少し低い。意識してゆっくりまばたきをしてみたけれど、視界は少しも閉じられなかった。
そこへがらりと、戸を開ける音。どんどん、と重たい足音は担任の男の先生のものだ。
ばれた!
僕はとっさに、無駄なあがきとばかりに隠れようとするも、両手両足すべて動かず。
対する先生も、ここへとどまる僕へのとがめ、一切なし。それどころか、あたかもそこへいないかのように、僕の目の前を横切り、地球儀を握ってまた戻っていく。
完全無視のまま、教材室のドアから先生に出ていかれて、僕は確信を強めたよ。
僕は悪魔の椅子になっているんだ。誰かの力なくてはここより動けない、ピンク色をした一脚の安楽椅子に……!
ややあって。
わっ、と部屋の外で生徒数名が騒ぐ声がしたかと思うと、あれほど閉じなかった視界に、また闇が訪れた。
今度はさほど時間をおかない。再び見えるようになったときには、僕は天を仰いでいた。
痛い。
真っ先に感じたのはそれだ。背中と両腕の裏側に、声をあげたくなるような痛みが、じんじんと広がっていく。
片手には何かを握っている感覚。首をひねると、それは先ほど取り出したばかりのゲーム機。中央に入った液晶から、本体を真っ二つにする勢いで、大きくひびが入っていたんだ。
体は、動かせないことはない。けれども力を少しでも込めると、痛みもぐわっと一気に強まり、口がきけないくらいだったよ。
ほどなく、近くから声と足音が近づいてくる。やがて先生に抱き起されて、僕ははじめて自分が校舎の壁と壁のすき間。台風の目で使う長い棒などをしまう、半ば倉庫化しているスペースに倒れていたことを知ったんだ。
後で聞いた話によると、僕は窓から身を乗り出して、そのまま落ちたらしい。その直前までは廊下をフラフラ歩いていたとのこと。
体は廊下の前へ向きながら、顔は窓の外を向いている奇妙な格好だったそうだ。それが急に、くっと身体も窓へ向けると、その空いた個所へどんどん迫っていき、あっという間に外へ落ちていったとか。
あのとき、僕が悪魔の椅子になっていたならば、悪魔の椅子は僕の身体になっていたのだろう。
窓から出てしまったのも、飛び降りようとしてのことじゃないと思う。たまたま見ていた窓の向こうの外に面白いものを見かけた。ただそれをもっとよく見ようとして、ためらいなく近づいていった。
その結果じゃなかろうかと思うんだ。