4-2
「わたし、分かってなかったんだと思う」
七崎麗奈の繊細な声が、夜の静寂に奉仕する。
あまりに清らかで、故に切ない。
「何も分かってなかったんだよ。自分のこと。あの日、あの公園で、わたしはあなたに出した問いに、自分なりに答えを出したつもりだった。でもね、あなたはわたしに言ったの。それが君かい、って」
七崎が深く息を吸った。
「答えられなかった。そうだよ、とも、違うとも言えなかった」
あまりに近い距離で響く彼女の声は、鼓膜から潜り込むまでもなく、私の骨を伝ってくるようであった。
邪魔する音のない世界で、七崎麗奈の声だけがプールサイドのコンクリートを這っている。
七崎は夜空を見上げた。髪から覗く首はあまりに細い。
「わたし、普通になりたかったの」
発する音が変わった。腹の底にある感情が声という管を通っているようであった。人の心は表情に出る。声もその一つであると、私は考える。
「でも、七崎麗奈って普通だね、とは思われたくなかった。わたしはわたし。誰かの物差しで測って、君は普通だね、なんて言われたくなかった」
七崎は細く白い足を抱えるようにして、囁くようにして吐露し始めた。
「――だからね、普通にはなりたくなかったの。矛盾してるでしょ? でも本当にそう。普通な自分を否定したかった。絵を描くとき、人の顔を紫色に塗って、髪の毛を緑色にして、服は着せなかった。各駅停車の電車に乗って、用もないのに終点まで行って、何もせずに帰って来たりした。特別なことをしようとは思わなかった。でも特別なことをしたとは思った。でもね。
幼稚園生の頃、皆で描いたお母さんの絵がずらっと教室に張り出されたの。ある女の子が描いた絵はね、色を塗ってなかったの。色なんていらない、って思ったんだって。色を塗らなきゃ駄目なんて誰が決めたんだ、って言ってた。その言葉が、今でも忘れられない。
少し前に、通勤客も殆どいない早朝、大垣発豊橋行きの電車に乗ったの。終点まで二時間。豊橋で降りようとするとね、始発駅から乗ってたサラリーマンが一人いることに気付いた。寝過ごしたのかな、と思ったけど、全然慌てる様子もなかった。それどころか座席にお尻を沈めて、諦めたような目をしてずっと駅のホームを見てた。乗務員に促されるまで座席を立とうともせずに。そういうときに思うの。わたしにとっての特別は、誰かにとっては当たり前で、本当の特別なんてわたしにはないんだって、そんな気になる」
時折吹く風が私から体温を奪っていく。
好奇心も高揚も、今ばかりは彼女に寄り添っていた。
「普通ってなんだろう。普通じゃないってなんだろう。そんなこと、ずっと考えてた」
初めてのことかもしれない。彼女が自らの言葉で、はっきりと心の内を曝け出してくれるのは。
己の感情を類推するでも、観察するでも、覗き見るでもない。今の七崎麗奈は自らが感じたままの言葉を発していた。すぐ隣にいるのだ、私にも伝わってくる。彼女が発する音に振動する久瀬涼人の骨は、この瞬間確かに七崎麗奈の心の声に触れていた。
だからこそ問おう。
「……何か、あったのかい」
明確な変化を見せた七崎麗奈を、明確と言えるまでに変質させた何か。
七崎は、口角を僅かに上げた。
「お見通しってわけ?」
私はかぶりを振る。
「いいや。分からない。分からないから訊ねている。知りたいから訊ねている」
「そっか。正直者だ」
七崎は大きく息を吸い、鼻から吐いた。
「わたしね、昨日蜂屋を蹴ったの。結構本気で」
彼女は横目で私を見遣る。
「知ってるでしょ。噂になってたらしいし」
「君ほどではないが、生徒らよりは」
「……さすがだね」
七崎は自嘲気味に笑い、抱えた膝に顔を埋めた。
「昨日もね、ちょっと遅れて登校したの。廊下を歩いてたら、運悪く蜂屋が前から来てね、遅いぞ、とか言ってきたけど無視したの。あんなことあったばっかりだし。それにイラッとしたんだろうね。いきなり肩掴まれて壁に押しつけられたの。まじで痛かった」
華奈が撮影した動画にはなかった場面だが、華奈が目撃したことと一致する。当人の証言により事実の解像度が上がるのは願ってもないことであった。
「思わず舌打ちしたかも」
それくらいはするものだろう。本来なら瞬時に股間を蹴り上げてもおかしくない案件である。
「そしたらさ、急に言われたの。学校にあった落書き、お前がやったんだろ、って」
「ほう」そんなに唐突だったとは。
「まじでどうかしてると思った。体育倉庫に落書きしたのは俺への当てつけか、とか、遅刻ばかりするお前だからやりかねない、とか言ってきて。そもそも陸上部の顧問やってるとか知らないし、落書き程度で当てつけになるとか思わないし。そんなことするほど暇じゃない」
七崎は僅かに唇を尖らせ、しかし口調は淡々と言う。
七崎は恐らく、蜂屋新太郎という人間に特段興味がないのだ。彼女は教室で怒号を浴びせられた時にも、蜂屋に対する恨み辛みを吐き出さなかった。それが七崎麗奈だ、と言えばそれまでだが、感心を持っていないからこそ、蜂屋が着せてきた濡れ衣が意味するところを分かっていないとも言える。
「でもまあ、そこまではどうでも良かったんだけどさ」
しかし七崎は、途端に表情のトーンを落とした。意図したものではないだろう。彼女は静かに、小さな息を吐いた。
「少し言い合いになってね、何かむかついてきて、わたしさ、小さく、うざい、って言ったの」
「ほう」
「そしたら、蜂屋が吐き捨てるように言ったんだよ」
ここに、再び無音が訪れた。
七崎麗奈の言葉を待つ。僅か数秒。彼女の躊躇いをそこに見た。
すうっと、七崎が息を吸った。
「なんでお前みたいな奴が俺のクラスなんだ――って」
一滴の氷水が私の背中に落とされた。全身に寒気がはしるのが分かったのだ。肌の感覚が鋭敏になってきた証拠である。今の私は、七崎麗奈がこの世に落とす言葉の温度さえも感じられるような気がしていた。気のせいである。
「まさか蜂屋がそんなことを」
「その時ね、頭の中で何かが切れた感じがした。むかついたとかじゃなくて、ぷつん、って何かが切れたの。気付いたら思いっきり蜂屋のこと蹴ってた」
いつの間にか走って逃げてたし、と付け足しながら、七崎は掠れた笑いを漏らした。
相当な蹴りであったことは映像でみた通りである。生半可なことで人を蹴りはすまいと思ってはいたが、まさか教師が生徒にそのようなことを言っていたとは思ってもみなかった。
七崎は言う。
「その時は、何が自分をそうさせたのか分からなかったんだけどさ、今日、学校来て、その理由が分かった気がして」
「理由?」
「クラスの子が皆、わたしを見てたんだよね。蜂屋に暴力を振るった人だって目でこっちを見てた。まあわたし問題児だし? これまでも変な視線を感じたことはあったよ。でも、今日のは違った。嫌悪とか、蔑みとか、そういう感じの、痛い視線だった。その時分かったの。わたし、こういうのが嫌でここに逃げてきたんだな、って」
私は思わず首を傾げた。
「どういうことだい?」
「ダンススクールやめた理由だよ」
思わぬワードであった。
何故そこに繋がるのだ! と答えを急ごうとする己を通せんぼして、暫し静寂に耳を委ねた。
七崎は目を細め、まるでプールサイドに大海を見ているかのようであった。水平線などありもせず、地上から幾分せりあがったプールからは地平線もなく、ただ家々の明かりがちらほらと見えるだけである。
恐らく、彼女はこの景色などこれっぽっちも見てなどいない。
その視線の先には過去がある。彼女がいつか見なければならなかった過去だ。
あの日出せなかった答えが、きっとそこにはあるのである。




