回想録1
昨年の十月。妙に肌寒い夜のことであった。
ぷりぷりとした若々しい肌を光らせながら、ぴかぴかの一年生である私こと久瀬涼人は、週刊言責編集長の責務として誌面を彩るネタを求め夜の校内を徘徊していた。
セキュリティなんぞ公立高校には皆無と言って良く、校門をひょいと飛び越えさえすればどんな阿呆であっても敷地内に入り込めてしまうのだから問題である。私のような可愛らしい悪人の餌食になる程度で済むことを切に願うが、おかげで私はうろちょろと出来るのだからあまり強くは言えまい。
目的はあった。
日本全国津々浦々、恐らくは新設されたばかりの学校であっても存在するであろう学校の七不思議。しかし当校に於いてそういった類いのものを耳にする機会はてんでなく、それはおかしな話だ! と私自らが七不思議に相当するものを探そうと息巻いて校内に忍び込んだことから全ては始まった。
定番ありきたりから探るのが良かろうと、トイレで花子さんに「そろそろ出ておいで」とまるで引きこもりの子を説得するように呼びかけてみたり、階段の段数を何度も何度も数えてみたりしたのだが、花子さんは出て来やしないし、段数が変わる時は概して私が一段目をどこに設定するかに迷った時であった。
音楽室の肖像画は常に凜々《りり》しく、ピアノは沈黙を保ち、理科室の人体模型はぴくりともせず、問いかけにはうんともすんとも答えなかった。
既存の七不思議の真偽や如何に! というなら答えは簡単である。七不思議なんぞ所詮は噂に過ぎない! と叫べば済むのだ。だが困ったことに私は七不思議となり得るものは存在するか否かを問うているのであって、いわば有りもしないものを掴めと言われているのと同義であることから容易にどうこうなるはずもなく、詰まるところ、何も見つからないのは当然の結果であった。
しかし、我々人間は無駄な足掻きという無駄にもほどがある行動を取ることの出来る数少ない生き物でもある。意気消沈も束の間。私はプールへ向かうことにした。
十月の夜空。まん丸に近い月が、薄ら雲の広がる空で星の光を凌駕する。屋内よりも幾分明るく思えるのは宇宙からの光のおかげなのだろうか。
当然ながらプールの入り口の錆びた鉄柵は施錠されているが、こちらもセキュリティはザルである。私を止めたくば有刺鉄線でも張り巡らせておくがいい。
背丈ほどもない鉄柵をやっとの思いで乗り越える。土足で立ち入るのも如何なものかと、僅かに残った良識で律儀に靴を脱ぎ、いや待て、そういえば教師は土足のまま足を踏み入れていた気がするぞと思い出したときには既に私は真っ白な靴下でコンクリートの階段を上っていた。手遅れである。足なのに手が遅れるとは何ぞや。
水辺と言うこともあってか幾分空気も冷たく感じながら、視界が少しずつ開けていく。
そして私はそこに、我が校の七不思議を見た。
薄ぼんやりと、目の前に光のたまが浮かんでいた。少なくとも私にはそう見えた。
ばくんっと跳ねた心臓の鼓動が、スパートを掛けた競走馬のように早くなる。内に秘めていた緊張が顔を覗かせた瞬間でもあった。夜の学校に忍び込むことは容易。とは言え精神的ハードルは幾つか飛び越えて来たわけで、冷静さを幾らか欠いていたのは間違いない。そんな私なのだから、眼前に浮かぶ光を見た瞬間咄嗟に「幽霊か!」と思うのは至極当然のことである。
しかし現実は非情なもの。この世界に蔓延る七不思議が七不思議の域を出ないのは、大抵の不思議は現実に証明されないからであって、実際には何てことのない存在が不思議を纏って面白おかしく伝えられるからそうなってしまうのである。
そこにいたのは、一人の少女であった。
飛び込み台の上。裸足の少女。制服姿ではあるが当校のものではない。どこにでもあるセーラータイプで、それを着ている少女にはどこか幼さを覚えた。
月明かりを纏ったように輝いている様はこの世の物と認識するのに時間を要する。
無意識にそろりそろりと歩いていた私は、恐らくその立ち姿に見蕩れていたのだ。後頭部と華奢な背中と紺色のスカートに、私は青春の全てを見たような気がした。
ゆっくりと回り込むように歩を進める。どうしても、彼女の表情を見たくなったのだ。
徐々に横顔の輪郭が露わになる。日本人的な、しかし凹凸のハッキリした美しいものだった。
「ねえ」
ぞくっ。と、全身に冷たいものが走った。
静かな夜に少女の儚い声がしたのである。
私は動きを止めた。意思ではない。だるまさんが転んだの魔法に掛かったようであった。
彼女はこちらを見もしない。私は彼女から目を離さなかったが、彼女は一瞥もくれず私の心と体を鷲掴みにした。
水面の揺らぎが月の光を屈折させ、彼女の頬で波打っている。
この瞬間の私は、夜に蔓延る肌寒さや静寂の一切を彼方へ放り投げ、彼女が佇むプールサイドという隔絶された空間にのみ生きていた。
私は何故だか、彼女の姿から目を離せないでいた。何故だかというくらいなのだから理由は分からない。推測するに、何をしでかすか分からない危なっかしさと、目を離した瞬間には消えてしまいそうな儚さを感じたからだろう。それは私の心理的状況や、この場所と時間が成せるものなどではなく、彼女が放つ彼女だけの形容しがたい何かに他ならない。それらがきっと、私の目を奪ったのだ。
そして、彼女はふっと微笑んだ。
こちらを見遣ることもなく、
「月って、壊せると思う?」
私は、その意味を考察する間を欲した。欲したということは、思考する時間は与えられなかったのだ。
彼女はそれを口にした瞬間、既に身体を傾けていた。
お世辞にも上手いとは言えない姿勢で、セーラー服の少女は水瓶となった十月のプールへと飛び込んだのである。
些細な音なら掻き消してしまいそうな静寂に、決して優しくない爆ぜた音が響く。
一瞬にして拘束を解かれた私の身体は、無意識に彼女を助けねばと動き出していた。
水飛沫がぱらぱらと降り注ぐ。
「何を馬鹿なことを!」私は水面を覗き込んだ。
そんな私のことなどお構いなしに、彼女は勢いよく顔を上げ、頭をブンブンと振って纏わり付く水を散らした。前髪を掻き上げ露出した瞳は僅かな光をも吸収し輝く、さながら上質な宝石のようである。
私は濡れた少女に、この世の芸術を見た。
プールの水は涙のように頬を伝い、彼女は僅かに笑む。
「ほら、月、壊れたよ」
理解の外であった。宙に浮かぶ月を、我々人間は壊すことなど出来ない。
だが彼女は、確かにそれを成したのだ。
空でなく、水面に揺れる月を。自らの肉体という名の弾丸で、木っ端微塵に。
「月なんか壊せるわけないよって笑う人、わたし嫌い。でも、こうしたら壊せるよって言う人も嫌い。わたしは、壊して見せる人になりたい」
彼女は手のひらを広げ水面を叩いた。
「口だけなら何とでも言えるから」
彼女は空を見上げなかった。水面を見つめているでもなかった。私とは違う世界を見つめているような目をしていた。心に何かを抱えた人間は、時折自分にしか見えない世界を見つめることがある。今の彼女がそうであった。
一体どんな世界を見ているのだろうか。私は、彼女の瞳が語るありとあらゆる言葉の数々に耳を傾け、彼女の全てを余すことなく知りたいとさえ思っていた。
それほどまでに彼女が存在する光景は美しく、例え華やかさの欠片もない夜のプールサイドであっても、その眩しさは霞むことがない。
恐らく私は、既に彼女の瞳に呑み込まれていたのである。
「何をしているのだ。今すぐ上がりなさい」
と私は手を差し伸べるが、彼女がそれを掴むことはなかった。自ら水を掻き、両腕でプールサイドに手を突き身体を持ち上げる。
水を吸ったセーラー服からキャミソールが透けて見えていた。扇情的とも思われかねないそれも、今の私には美術館に飾られた一枚の絵と同様の芸術である。
この一瞬が夢でないことを願いながら、私は僅かな夜風に身を委ねるようにして、まん丸な月を見上げた。夜色を支配せんが如く、時に傲慢とさえ思うほど煌々と照る彼も、まさか一人の少女に壊されるとは露ほども思っていないだろう。
ふんぞり返っているがいい。
天体に勝る輝きは大地にもあると知れ。
私は今しがた、それを思い知らされたところである。
次回更新は九月中旬頃を予定しております。