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落書き云々が生徒達の話題に上るのは時間の問題であると思われたが、どのような口止めがなされたのか拡散は非常に小さなコミュニティの中に留まっている感があった。しかしそれも時間の問題であろう。誰かが小耳に挟み、実際に雨風に晒されてなお落ちることのない赤色が僅かながら体育倉庫の壁面に残っているのを見れば、それは確たる証拠となって一斉に生徒らの話の種になるだろう。
午前中の授業は体調不良であると偽りを叫び、私は取材という名のサボタージュを決め込んだ。
皆が勉学に励む中、校舎などという小さな箱に留まってなるものかとばかりに外へと飛び出した私は校区内をかけ回った。無論相棒は切っても切れぬ間柄である自転車殿である。
連日のランデブーでいよいよ悲鳴を上げ始めた臀部と大腿部に更なる苦行を課し、近隣に数箇所点在する落書き現場へ向かった。
落書き現場は自転車のペダルをぐるぐると回しさえすれば一日足らずで網羅できる距離にあるが、とは言え私も一つのことに集中し無際限に時間を浪費するわけにもいかない身。落書きを近場に集中させたことを胆力とすべきか怠惰とすべきかは議論の余地があるが、さすがに彼か彼女か分からぬ人間が数日掛けて走り抜けた場所を一日で回ってやる道理はない。端的に言えば、そこまでの体力はないのだ!
「まあ、犯人が同一であると決まったわけではないが」
平日午前の県道沿い。
北上し、アンダーパス。南下し、新幹線高架下。そして、通学路沿いの公園。
移動距離はそれなりであるが、七崎麗奈を探し回った昨日のことを思えばなんてことはあるまい。ただ人間の肉体は一日ごとに綺麗さっぱりリセットされるわけではなく、蓄積された疲労と現役高校生としてはあるまじき自転車の漕ぎすぎによる筋肉痛には何度苦悶の表情を浮かべたことか。自分の顔なんぞ鏡で見なければ分からないので、本当にそんな表情を浮かべたのかは定かではない、ということは書いておかねばなるまい。誇張くらいは私もするのだ。
閑話休題。
落書き現場を三箇所巡って分かったことは、どれも現状にさほど変わりはないということである。
赤いペンキの名残はあるが、どれもすぐさま消されたようである。妙に凝ったデザインのものであるとは思えないことから、恐らくはどこもかしこも阿呆極まりない文字がでかでかと書かれていたのだろう。
割れ窓理論というものを聞いたことがある。
割れた窓を放置すると犯罪の呼び水となる為、軽微な犯罪であっても取り締まることが治安維持には重要である、といった理論であったと記憶しているが、現に落書きだらけだったニューヨークの地下鉄はその理論を元に清掃と取り締まりを徹底したというエピソードはあまりに有名である。
その理論の賛否、正否はともかく、落書きを放置するとその隣に別の阿呆が落書きをすることは容易に想像出来るため、すぐさま対策するに越したことはなかろう。
新幹線高架下には小学生の通学路であることを示す標識が立っていることからも、早急な清掃活動は必要だったと考えられる。そう思えば、単なる落書きとは言え実に罪深い。好ましからざるワードがそこに記されていたとするのなら尚のことであろう。
「やはり同一犯であると見るのが自然であろうな」
落書き現場は今日中に回ることを諦めさえすれば、自転車で比較的容易に行くことが出来る場所ばかり。これが割れ窓理論による連鎖的落書き事件とするには少々短期かつ近場過ぎることから、やはり犯人は同一人物、または同一グループと見るべきである。
私は通学路沿いの公園でベンチに腰を下ろし、考えを巡らせていた。
一つ、学校の体育倉庫に書かれた落書きと他の場所に書かれたものとでは違いがあるように思えた。
他と比べて、学校の落書きはあまりに綺麗に消されていたのだ。
調べたところ、落書きに用いられるようなスプレータイプのペンキは一時間もすると乾いてしまい、そうなってしまえば簡単に消せるものではないらしい。であれば、体育倉庫の壁は我々が登校する直前に書かれたと考えるのが妥当であろう。教師らが落書きを落とすために用いたものは水とブラシ。専用の溶剤のようなものは見当たらなかった為、私の見方はそこまで外れてはいまい。
他方、各所の落書きは学校ほど早い対処が出来ず、想像するに何らかのアイテムで以て落書きを落としたのだろうが、ボランティアが熱心にしたとて限度があったと見るべきである。故にペンキは目に見えて残っており、公園に至っては赤がこれでもかと赤々していた。
犯人は早朝、日が昇るか昇らないかの時間に落書きをしていたのだろう。すぐさま対応出来る学校でなければ難儀するのは当然と言える。
「早起き落書き犯の意図や如何に」
落書き如きに意図なんぞを求めるのは酷ではないか、との訴えが私の内側から起こったが、一切の逡巡もなく棄却した。
意味なきイタズラにも意味を求めるのが我々であり、学びの園にまで触手を動かしたのか問い詰めるまではこの件も追いかける覚悟である。
直に正午を回る。そろそろ学校に戻ることも考えた方が良いだろうか。体調不良も長引けば立派な病。早々に戻らねば大事にされかねない。
その時であった。
珍しいことに、谷汲華奈から着信があったのだ。普段は極力会話をしないようメールやSNSでのやりとりで済ますというのに。
私はスマホを耳許に当て、声を潜めた。
「どうした」
『一大事』華奈の声が緊迫感を纏っていた。やはり緊急事態が起こったらしい。『すぐ来られる?』
「生憎、今は外だ」
『すぐ来て』
「何があった」
『七崎麗奈。蜂屋先生と、鉢合わせた』
「駄洒落か」
『七崎麗奈が……蜂屋を、な、殴った』
ぞぉっと、寒気が走った。
私は鼻で息を吸い、急いで自転車に跨がる。心ではなく、身体が勝手にそうしたのだ。
「韋駄天の如く、すぐ戻る」