幸田露伴「蹄鐡」現代語勝手訳(7)
其 七
どういう理由があるのか、スチヴンソンとダンカンは同国人でありながら、互いに仲が良くなく、ある会合で馬のことから自慢話となり、お互いそれが高じて衝突し、あちらが昂奮すればこちらも怯まず、遂に競馬で決着を付けようではないかということになった。面白半分の野次馬からは、それは面白かろうと囃す者も出て来たり、又、それなら私も一つ出馬してみようかと、我が馬自慢の男どもが、これを好い機会にと乗り出す者もいたりした。
「俺はダンカン氏の方に乗って百ドル賭けようと思うが、敵手の方に乗って百ドル賭ける人はいないか」と言えば、
「いや、俺はスチヴンソン氏の方に乗ろう」と、賭けをし始める者もいて、この話がたちまち大きく広まって、いよいよその日を迎えるまでには、番数も十以上にもなり、居留地の各外国人はもとより、横浜一体が、指折り数えてその日が来るのを待ち望んだ。
その日は朝から人の往来激しく、競馬場は客で塞がって、一勝負終われば喝采、拍手が天地を揺るがすかのように響き、風もないのに塵は躍り、火も無いのに煙が立って、蹄の響きはあたかも夜叉、神将等が雲に乗って飛んでいるかのようである。
一番、二番と次第に進んで、落馬で恥を晒す者もあり、勝って意気揚々としている者もいたりしたが、第五番目は皆が待ちに待った二人勝負。すなわち、ダンカンとスチヴンソンの勝負である。前者はジュピターという馬、後者はマルスと呼ばれる馬で、互いに今日こそ思い知らせてやるとの意気込み強く、合図と共に一鞭くれて、駈け出したが、馬はどちらも逸材で、調整も十分行き届いており、乗り手は馬に馴染み、ただ見る蹄は地には着かず、虚空の中を飛んでいるよう。
『鞍上人なく、鞍下馬なく』両馬ただちに龍と化して天に昇るかと思う間に、勝敗の太鼓が響き、たった一、二歩の差でダンカンの勝ちが決まった。
さっきから様子を見ていた傳五は、頻りに躍り上がって、マルスの名を叫んでいたが、スチヴンソンの負けとなって、ムッとしながら不平に堪えられず、歯を咬み鳴らして怒っていた。そこへ濃い海老色の天鵞絨で、派手な飾りを付けた花唐草の模様の服を着て、羽根の見事な帽子を被った若い西洋婦人がやって来た。それがスチヴンソンの妻であると昨夜、家に招待された時に知っていたので、丁重に挨拶すれば、碧く円らな大きい愛らしい目に涙を浮かべ、辛うじて話せる日本語で、
「貴男、ダンカンに勝つよろしい、よく勝つ、私お礼します」と、おろおろした声で話しかけた。国は違っても人は同じ人情を持つというもの、夫が負けた口惜しさから、仕返しをしてもらいたいのだなと、傳五は『いかにも承知しました』としっかり請け合った。
傳五はその後、見事恨みを晴らして、あのダンカンに打ち勝てば、スチヴンソンから千円を受け取り、又、その妻からは三百円を得て、その後のことは知らないが、一日だけはまず、裕福な男となった。
(了)
「蹄鐡」は今回で終了しました。
この章は「風流微塵蔵」の中でも、少し異色の内容となっていましたが、次回「荷葉盃」からは、話は再び眞里谷と青柳の家のことに及びます。