一般論とリアル
「あれ? 今回は一緒にお風呂に入るシーンで悶々とするシーンはやめたんですか?」
数日後、また部屋を訪れたアオが次回作の草稿をチェックして、声を上げた。いつもはだいたい入っている、今回もやはり入っていた<一緒にお風呂に入るシーン>での、欲望と理性の葛藤に数ページを割くという描写がなかったことに、さくらが思わず声を上げる。
そして察した。
「……さてはミハエルさんと一緒にお風呂入りましたね?」
「ぎくっ…!」
「ああ、でも、この描写を見るに、何もなかったということなんでしょうけど」
「……まあな」
「先生も、邪な気分にはなれなかったということですね」
「…そうだな。てっきり自分を抑えるのに苦労すると思ってたが、それは風呂に入るまでだけで、実際に入ってみると、案外、普通で、自分でも驚いたよ」
落ち着くまでの間に盛大に鼻血を噴いた件には触れずに、アオは僅かに苦笑いを浮かべながらそう答えた。さすがに鼻血の件は気恥ずかしかったからだ。
「そうですね。読者としては一緒にお風呂に入るとなればそのドキドキ感を疑似体験したいと思うものかもしれませんけど、必ずそうなるかと言えば、そうじゃないんですよね」
さくらのその言葉は、今ならアオにも分かる。
ただ、さくらは続けた。
「でも、一般論だと『両方とも裸の場合、性的に興奮するのが当然』っていうのが認識としてありますよね。だから、まったく何もないと逆に不自然って思われる」
彼女の言葉に、アオはうんうんと頷きながら言う。
「そうなんだよなあ。現に実例があっても、読者の思った通りじゃないと『こんなことある訳ないだろ! リアルじゃない!』とか言われる」
さらにくわっと目を見開いて天を仰いで、
「だがな! お前の知ってる<リアル>がこの世の全てだとでも思っているのか? お前は何百年も生きて、世界のあらゆる場所を訪れて、あらゆる人間に会って、すべてを自分の目で見て耳で聞いて体験してきたとでも言うのか? 笑わせるでないわ!!」
拳を掲げて力説するアオに、さくらはニッコリと微笑みながら、
「だけど先生もちょっと前まではそう思ってたんですよね? だから必ず、葛藤するシーンを入れてた」
と指摘する。
「ぐ……ま、まあそうなんだが……」
それがまた図星過ぎて、アオはぐうの音も出なかった。そんなアオの様子に、さくらの笑顔が一層柔らかくなる。
「自分が知ってる範囲のことが世界のすべてだと思ってしまいがちなのは、割と誰でもそうなんだと思います。私もそうでした。吸血鬼とかバンパイアハンターとか、そんなのは作り話の中だけのことだと思ってた。
だけどそうじゃなかった。
でも同時に、多くの人が認識してることじゃないと、やっぱり多くの人から共感を得ることは難しいと思うんです。だから葛藤するシーンはあってもいいんじゃないですか?」
けれどアオは、その指摘を受けて、逆に思ったのだった。
「だが、『一緒に風呂に入ったら必ずセクシーな雰囲気になるものだ』というお約束に違和感を覚えている読者もいるはずだ。私はそういう読者の感性を無視するのもおかしいとは思うんだ」