自立と反発
今ではアオとミハエルは、ベッドで一緒に寝ている。
と言っても、何かセクシーな展開がある訳ではない。どちらかと言えば、
『母親が幼い子供と一緒に寝ている』
感じに近いだろうか。
もっとも、この二人の場合、どちらが<母親>でどちらが<幼い子供>かと言えば、だいたいがお察しの通りだろうが。
「ん~ふふふ♡ ミハエル~♡」
同居を始めて約五ヶ月。初めて一緒にお風呂に入った頃の狼狽えぶりはどこへやら。もうすっかりただの<甘えっ子>になっていた。
アオが。
「はいはい……♡」
甘える我が子を愛しむ母親そのものの表情で、ミハエルは自分に寄り添ってくるアオを抱き締めた。
アオは今、子供に戻っている状態だった。幼い頃に両親に甘えられなかった分を取り戻すように。
いや、実際に子供の頃からやり直していると言った方がいいか。
アオはかねてより、自分にはたくさんのものが欠けているという自覚があった。
他人との共感性や、自立心といったものだろうか。
今では立派に独立して両親からも自立しているように見えるアオだけれども、それは厳密には<自立>ではなくただの<反発>だっただろう。今の自分を維持するモチベーションそのものが、自分を欠陥品のように見下していた両親や兄への反発だったのである。
反発による自立と、満たされて巣立っていくこととは違うのかもしれない。
なぜなら、<親に対する反発心>を拠り所にしているということは、それは結局、親の存在に依存していることに外ならないからである。もし親の存在がなくなれば、何を拠り所にして自立心を保つのだろうか。
他人に対する反発心か?
そうやって一生、誰かを自立心の支えにして、結果的に依存して、生きていくのだろうか。
それは果たして、本当に『自立している』と言えるのだろうか?
もちろん、誰かを心の支えにすることは必要かもしれない。けれど、<心の拠り所>と<自立心の拠り所>は、似て非なるものとは言えないだろうか?
少なくともアオはそう感じている。
『……私は結局、あの人達への反発心や反抗心を頼りにして生きてきただけなんだ。こうやってミハエルと出逢ってそれがよく分かった……
だって、ミハエルとこうしてるといい意味で頑張ろうって思えるのに、あの人達のことを思い起こしたらすっごく嫌な気分になるんだよね。同じ『頑張ろう』でも、全然違うんだ。<やる気の質>が。
ミハエルのことを思うと言持ちが充実してる感じがするのに、あの人達のことを思うとただ単にささくれ立ってるって感じかな……』




