時間は止まらない、愛するあなたの為に
『 世界で一番あなたを愛してる。
だから、私はこう言ってやったの。
「あなたなんて世界で一番大っ嫌いよ」 』
ハンドルを握る手とアクセル、ブレーキを踏む足にまるで鉛を流し込まれたのかと思うほど、私の体はいつも通りには動かなかった。
体がいつもより数倍は重く感じる。
アクセルを強く踏み込むが、いつものような力強さはない。踏み込んだつもりになっているだけなのだろう。
本来、私と同じ目的地に向かっているもので足取りが重くなるものなど珍しいだろう。
なぜならそこには夢があるから。
多くの子供たちに時間を忘れさせ、多くの大人たちを童心に帰らせるそんな夢が。
私の今向かっている場所はそういうところだ。
しかし、私にはそれは当てはまらない。
車外には、雪が降っていた。エンジンですっかり暖められたボンネットに雪がはらりと落ちては儚く消えていく。そんな様子を見ていると、ともすれば私も消えてしまうのではないかと思う。
思うと言うより願望かも知れない。
そんなバカなことを考えて車を走らせていると『森の国遊園地』と書かれた看板が見えてきた。
……今日の私の目的地である。
天候と平日という要因が重なったせいか、駐車場は思いの外、空いていた。ここを最後に訪れたときとは雲泥の差であった。
……最後にここに訪れてから四年近くがたった。もしかすると空いているのは単なる経営不振かもしれない。なんて陰鬱な考えが頭をかすめて私の暗い気持ちを助長する。車を入り口近くに止め、外に出ると森の動物たちに冬眠を促すような木枯らしが私の体を通過していき体の芯まで染み透るように感じブルッと体をふるわせる。
……あの時の季節は夏で底冷えなどとは無縁だった。
いや、もしあの時と同じ状況ならこの季節に来ていても、ここまで寒いとは感じなかったかもしれない。
入場門の前で入園チケットを一枚係員に頼む。
「大人一枚ください」
「一枚ですか?」
係員はこんな所にいい歳した大人の男が一人で来ることに疑問を抱いたのか多少疑問形の口調を含んでいた。
「……えぇ、一枚です」
この言葉を発した今の私はどんな顔をしていているだろう。
私には想像もつかない。
「では千五百円になります。」
私は、よれよれの千円札と錆びついた百円玉を五枚係員に渡す。係員はその後は淡々と仕事こなし私は遊園地の中に入る。
園内に足を踏み入れた瞬間私の全身が震える。
もちろん寒さによるものなどではない。
園内の奥に見える多少塗装のはげている色とりどりのゴンドラがぶら下がっている観覧車。私はそこに向かわねばならないのだ。頭ではわかっている。でも体が情けのない悲鳴を上げなかなか観覧車に向かおうとしない。
近場の白がくすみつつあるメリーゴーランドやカップの底にゴミのたまったコーヒーカップに乗ってだらだらと時間をつぶす。
いい歳した大人が情けないことこの上ない。
本当に私は何をやっているのだろう。ここで過ごす時間が長くなれば長くなるほど辛くなるというのに。
周りからするとふらふらと千鳥足で歩く不審者に見えたかもしれない。それでも私からすれば真っ直ぐ歩いているつもりなのだ。それほど私にとって、あの観覧車に向かうのは覚悟がいることなのだ。
体中の血がざわつく、頭の中で鐘でも突いてるんじゃないかと思うほどの頭痛がする。
視界を雪国以上に白くする目眩、今年食べた物が全部出るんじゃないかと思うほど首元を締め付ける吐き気、背後から虎でも来ているのかと思うほどの動悸、数えられないほどの危険信号が体中から発せられている。
それらを私は、すべて無視して進む。
たかだか三百メートルもあったか怪しい距離が私にはシルクロードよりも長く感じたが、ついにあの忌まわしい観覧車についた。だいぶ覚悟が決まったのか体も落ち着きを取り戻してきた。
もちろん並んでいる人など皆無で私は観覧車の入り口まですんなり来られたが、その時何の気なしに目に入ってしまった。
……端のほうに取り外して片付けられた観覧車の一部であったであろうドアの外れたゴンドラ。長らく放置されていたのかコケが生えたり地面の雑草が一部を覆ったりしている。
…頭が真っ白になる…思考が薄れていく
「うぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
耳元で大きな声がする。その声が自分の喚く声だと気が付くのにどのくらいかかっただろう。
係員が近付いてくる。
異変だ。当然だろう。何か話しかけられている? わからない。自分の声も聞こえなくなった。でも、私は叫び続けているのだろう。喉が震えている。係員が私の肩に手を置き揺する。頭が振り子のように揺れていく。
あぁ、なんだったっけ?
気が付くと私はベットの上にいた。記憶の前後がない。
「あっ、気が付かれましたか? 菅さん」
と初老の男が私の顔を覗き込みながら訪ねてきた。
「あなたは? ここは? どうして私の名前を?」
私は当然の疑問を初老の男にぶつけた。
「私はこの遊園地の観覧車の当番をしていたものなんですが、お客さんが突然大声あげて倒れちゃったので医務室まで運んだんです。その時悪いとは思ったのですが、ご家族に連絡するために身分証明となるものを確認させていただきました」
そこまで聞いて私は、さっきまで奇行をはっきり思い出した。
「……ご迷惑をおかけしてすいません」
「いえいえ、いいんですよ。それも仕事のうちですから……それより大変聞きづらいのですが、どうしてお倒れになったのでしょうか? 私ども遊園地の運営側に不備があったのなら速やかに改善しようと思うのですが」
……初老の男からきた質問への返答に私はかなり悩んだ。初老の男からの質問は私に対する当然の質問だが、どう答えるかが肝心だ。適当に煙に巻こうかと思ったが、出来そうもない。
老人独特の安心感とでも言うのだろうか、それに加え真っ直ぐと優しく私の目を見据えるのだ。
「……恋人が四年前あの観覧車で死んだんですよ」
……私はこの四年間ため込んできたものを誰かに話したかったのかもしれない。
「……そうですか……」
初老の男は優しく相槌を打った。この時、初老の男はどんな顔をしていただろうか? 私は彼の顔が見られなかった。
向こうから聞いてきたこととはいえ、いきなり赤の他人がこんな話をしてきたら誰だって困惑するだろう。私はさっきまで話したがらなかったくせに今は話をやめたくなかった。
だから相手の反応も見ずに私は医務室の真っ白な天井を見つめて語った。
「……私は暗い男でした。そんな私を彼女はいつも太陽のように照らしてくれたんです。彼女は周りにも好かれ、いつも明るい性格をしていました。四年前ここに来たのだって仕事がうまくいってない私を励ますために彼女が誘ってくれたものでした」
ゆっくり私は言葉を紡ぐ
「せっかく彼女が連れてきてくれた遊園地でしたが、仕事でいつまでも駆け出し扱いだったことにいじけていて、やはり楽しめませんでした。」
また少し動悸がし始めた。
「そこで彼女が観覧車に乗ろうと言い出したんです。高いところから景色を見ればすっきりするだろうって」
乾いた唇を舐める。
「そこでも俯いていた愚図な私に彼女は『見てごらん』とゴンドラのドアに寄り掛かった時でした。」
喉がひりつく。
「老朽化に加え、その年の異様な温度の上昇もあってかドアの留め具は変形しきっていて外れてしまったそうです」
最後の言葉を振り絞る。
「それで彼女はゴンドラからバランスを崩して落下したんです。……私の目の前で彼女は消えてしまいました。急いで病院に運び込まれましたが、数日後に息を引き取りました。さっきの端のほうに寄せて片付けられていたドアのない観覧車のゴンドラはその時のものだったんです。……見間違えるはずがない。」
出し切ってしまった。
実際には、数分も経ったか怪しいが私には何時間にも感じた。
ここでようやく私は、初老の男の顔を見る。彼は当初と変わらず柔和な表情だった。
そして私と目が合うとゆっくりと今の話についての感想を述べる。
「それは、さぞお辛い思いをしましたね。私は定年退職してからこの仕事について二年程度ですので、その当時のことは知りませんが、なぜそれほどの思いをしたのにまたここに?」
その質問は予想済みだ。
と言うよりこの話を聞けばほとんどのものはそう問うだろう。
「……お見合いをするんですよ」
もちろん彼女のことを忘れたいなどということではないし今までだって忘れたことなんてない。
その気持ちを組んでくれたのか初老の男は静かに言った。
「……そのけじめのようなものですか」
私も静かにその言葉に首肯して答える。
「えぇ、それもこのお見合いの話、私の両親からではなく死んだ彼女の両親からなんです。『いつまでもあの子のことで縛られないで、あの子の分まであなたは前に進んで』って……断れるわけがない」
「お互いの気持ちは想像するに余りあるものですしね」
「えぇ、彼女によく似た両親ですよ。ははっ、逆かな。彼女、集中治療室で私に何といったと思います?」
初老の男は答えない。無言で続きを促してくれた。
それが私には心地よかった。
「あなたのことなんて大っ嫌いだって言うんですよ」
私は力なく眉尻を下げる。
俺は弱り切って意識もはっきりとしない彼女のあの言葉が忘れられない。
「きっと、死んだ後に私が彼女に未練を残さないよう言ったんでしょうね」
『でも』その言葉を口にしようとして、つっかえる。
それほど慌てて言いたかった。
「でも、そんなのどっちだっていいんですよ! 彼女が私を大嫌いだろうが好きだろうが、私が彼女を嫌いになんてなれるはずがない‼」
私は拳を自分の足に振り落とした。
……長い沈黙があった。
「……私は乗りますよ。何度体が拒絶しようとも、あの観覧車に。だって彼女は最後の言葉に『見てごらん』と言ったんです。私は彼女の最後にまだ答えてない。……ご迷惑をおかけするかもしれませんがお願いします」
初老の男は逡巡せず答える。
「えぇ、かまいませんよ。それが仕事ですから。……それにきっとそうした方がいい」
その言葉が私の胸にはなぜか染みた。
また私はあの観覧車の前まで来た。目の前でゆっくりとゴンドラがいくつも横切る。先ほどよりはいくらか落ち着いている。
他人に話したのがよかったのかもしれない。
「じゃあ、お願いします。」
もちろんこんなガラガラの観覧車の前で話しかける人物など初老の男の他にはいない。
あたりには夜も遅くなったせいか入場者はさらに減っていた。
「その前に一ついいですか」
初老の男は私に話しかける。
「えぇ、構いませんよ」
そう私が言うと老人は話し始めた。
「私、実は観覧車の他にもう一つ担当の仕事があるんですよ。」
「はぁ」
このタイミングで何の話だろう。
私は気のない返事をしてしまった。
「それは遊園地内の落とし物を管理する仕事なんですがね。これは半年に一度持ち主が現れなければ処分する決まりなんですよ。でもね前担当もそうだったんでしょうが、どうしても捨てられないものが一つあるんですよ。そいつは奇麗に包装されていて手紙まで添えられているんです。悪いとは思ったんですが、こちらも仕事上持ち主の手掛かりになりそうなものだったんで手紙を読ませていただいたんです。でも渡す相手のことしか書いてなくって持ち主さっぱりわからなかったんです。その代り持ち主の相手のことを思いやっている気持ちが短い文章からでも嫌ってほど伝わってきてしまって処分なんてとてもできなかったんです。」
……このタイミングでそんな話をする理由なんてそう多くはないだろう。
「菅健司さんですよね? あなたに贈り物が届いておりますよ。多分恋人の方が亡くなられた日に落とされたのだと思います。」
そう言うと初老の男は私に奇麗な包装紙に包まれた贈り物を私の目の前に突き出した。
「菅さん、私は思うんです。よく太陽の様だって表現あるじゃないですか。あの太陽ってのは明るい人だからってわけじゃないんだと思うんです。相手の生活になくてはならない支えとなっているから太陽って言われるんだと思います。」
私は俯いたままその贈り物受け取る。
「……恋人さんにとってもあなたが太陽だったはずですよ」
「…………」
私は何も言い返せなかった。そんな私を横目で見て目の前に来たゴンドラのドアを開けてくれる。
「手紙はゆっくりゴンドラの中で読んであげてください」
「…………」
またしても私は何も口に出せないまま、ゆっくりゴンドラに乗りこむ。内装も外装もよく見れば他のと比べると幾分新しい。多分あの時の事故で壊れたゴンドラの代わりに取り付けたものだろう。
「……よりによってこのゴンドラかよ」
ようやく言葉が出たと思ったら、もうそれに返してくれる相手はいなかった。
ゆっくりゆっくりとゴンドラは頂点を目指し昇っていく。
四分の一ぐらいに差し掛かったところだろうか、私はようやく贈り物に添えられていた手紙を見る決心がついた。
そこには、取り留めのないことや仕事に対するエールなどがつづられていた。なんてことない文章だ。当り前だろう、この後自分が死ぬなんて思ってもいないのだ。名言、名文が大量に綴られているはずもあるまい。
でも、なぜだろう。なんてことのない文章なのに読めば読むほど涙が止まらない。
いま私は、どんな顔をしているだろうか。
涙はボロボロ出ているだろう。
嗚咽も漏らしているような気がする。
鼻水も出ているだろう。
とてもじゃないが私の歳でこんなみっともない顔をするものなどあまりいないだろう。そうは思っているのに止まらないのだ。
誰も見てない場所で良かった。
そうして最後の一文に目を通す。観覧車の方はもうすぐ頂上である。
『あなたといられる時間はとても幸せです』
ほらみろ、やっぱり大嫌いなんて嘘だったんじゃないか。
私は立ち上がりゴンドラのドアからあの時見れなかった景色を明一杯目を見開いて見る。そこで私は迷惑も顧みずに大声を上げて叫んだ。
私は世界で一番彼女を愛していた。
だから、こう言ってやるんだ。
「私も大好きだったーーー‼」
季節も違えば時間帯も違う。
それどころか涙で景色も霞んでいる。
でも、あの時彼女が見てほしかった景色を私は確かに見た気がした。
タイトルと冒頭は彼女が愛する彼へ向けた言葉です。