私の投資先の会社がクソ決算を出した件について①
目が覚めると彼女がいた。
長いまつ毛を憂い気に伏せ、その視線は手元の本の文字を追っている。
そのしなやかで白く長い指に頁がめくられていく様は、ゆっくりと静かなもの。窓から差し込む日の光に薄ぼんやりと照らし出され、まるで絵画の中に迷い込んだかのような錯覚に陥る。
「僕が目覚めた事に気付いた彼女は、優しく微笑み、その艶のある唇を動かして言う。‐おはようございます‐と」
「言わないわよ」
「あだっ」
僕の脳天を文庫の背でコツンと叩いてきた彼女に大げさに反応してみせた…までは良いのだが、その後の反応が無い。ちょっと寂しい。
僕は知っている。このまま黙って寂しがっていても彼女は無反応を貫いてくると。それはもう、頑なに口を開かない。
いつもは最終的に僕が折れて会話が再開するのだ。
が、ちょっとした悪戯心が芽生えてくる。
見つめる。唯々、見つめる。というか、見つめ合っている。
恥ずかしがったり、話しかけた方が負けだ。よし、今決めた。
今僕と見つめ合っているこの美人な彼女が何者かというと、彼女だ。
文字通り、僕がお付き合いしている、彼女だ。
彼女とは同じ小学校・中学校・高校と上がってきた。同じクラスになった事もある。しかし、特別に仲が良かったとか、話をする機会があったわけではない。
そんな僕らのお付き合いが始まったのは、今年の3月、中学校の最後の日、多くの生徒が涙した感動の卒業式の日…ではなく。高校受験前にインフルエンザと麻疹が大流行し、長期の学級閉鎖と自由登校期間により消し飛んだはずの卒業文集‐それを書かせる為に、受験が終わり皆仲良くインフルになっても差し支えない状況になった只の平日、半強制的に3年生全員が集められたその日という、何とも意味の分からないタイミングだった。
卒業式当日に製本が間に合わなかった卒業文集は、式からそう日数を置かず郵送で各家庭に届けられた。
あ、タイミング的に高校受験の合格発表後に書かれたからだろうか…一部生徒のそれは非常に暗い内容でしたよ。
まぁ、それはこの際いいとしよう。いや、当人からしたらたまったものじゃないのだろうけど、それよりも、だ。
「学校から何か届いたよ」と、母から渡された卒業文集(開封済み)を、僕は居間で読んだ。友達が何を書いているのか、気になってしょうがなかったからだ。
…ごめんなさい、僕に友達とかいなかった。
付き合いたての彼女さんがどんなことを書いているのか気になって、自分の部屋に行くのも惜しんでその場で読んだのだ。
そして知る。その文集で僕の彼女さんが盛大にやらかしているのを。
『 好きです 3年D組 神田 楓 』
タイトルからして、もうアレである。地雷臭が漂っている。
ええ、そうは言っても僕の彼女ですから。生れて初めて出来た僕の彼女さんですから。出だしから地雷臭しかしないその作文でも気になるわけです。いえ、もはや興味しかないわけで。ええ、読むわけで。
そこに僕の名前がはっきりと書かれていたのを見た時は、ちょっと…いや、かなりテンションが上った。
…んだけど、すぐに頭が冷えました。
これは自慢だが、僕の彼女である楓さんはとてもお綺麗である。成績もそれなりに良く、それよりなにより、運動神経が抜群である。
小学校・中学校は運動が出来る子がモテる傾向にある。
例違わず楓さんはモテた。
モテてモテてモテまくっていた。女子に。
いや、もちろん、男子にも楓さんが好きと言っている人はいたのだけれど、何て言うのかな…女子の壁というか、空気感というか、バリアー的な不可思議な力場によって楓さんに安易な接触が出来る男子は少なかった。
勇気を出して告白しようものなら、次の日から総スカンを喰らう。…田中よ、お前の事は忘れないよ。
そう、僕は失念していたのだ。
楓さんの人気というものを。
それを、卒業文集を読み終わって思い出した。
……ツギハオマエノバンダ……
妄想の田中が僕の肩を叩いた気がした。
幸いな事に、中学の卒業式から高校の始業式までのその空白期間、僕の連絡先を知る者がいなかった為か、とても平和に過ごすことが出来た。ボッチを極めし僕、最強。
あ、違う。忘れていた。
僕の連絡先を唯一知る友人の西塚君が「ねぇ、これって宮内の事だよな」とメッセを送ってきたのだ。
楓さんが卒業文集にてフルネームで名指しし、告白までかました宮内なる人物が僕以外にいるなら逆にこっちが知りたい。
それはつまり、楓さんが無類の宮内好きであり、同姓同名の人物に等しく好意を抱き二股する人物という面白設定になるからだ。もしそうだったなら、僕はその宮内なる者を打ち倒し、楓さんの好意を独占しようと思う。
いや、そんな事はないわけなのだが。
西塚君には「そうだよ」と返事をした。
「まじかよ。付き合っているのか?」という次の質問にも「そうだよ」と返した。
大量の呪詛の言葉が送られてきたが、そこから先は全て既読スルーだ。
「なぁ、宮内。お前、教室内で公然といちゃつくのはやめろよな」
おや?この恨みがましい声で僕の回想をインターセプトしてくるのは、その西塚君じゃぁありませんか。
「いちゃついてなんかいませーん。気のせいだと思いまーす」
「ずっと見つめ合っちゃって、視線で会話しているお前らをいちゃついてないと言うのなら、いちゃつくとは何なんだ?教えてくれませんかね?」
「ごめんね、西塚くん。宮内くんがガン飛ばしてくるから睨み返していただけなの」
「…え?楓さん、そんな…」
「あ、そうだったんですね。おい、宮内。彼女にガン飛ばすとか、何様?オレオレ系でも目指してんの?え?マジで?」
「ち、違うって!!変な誤解はやめてくれ」
「宮内くん、私にオラつくなんて、新しい自分の魅力をアピールしたいの?そんな事をされたら私確実に反撃に出ちゃうじゃない。あ…もしかして、それが目的?宮内くんがMである性癖を恥ずかしがって言えないというのなら、その意を酌むのもやぶさかではないわ。どう罵ってほし…」
「違う!!違うから!!何言い出すの!?楓さん!!!」
唐突に西塚の野郎に悪乗りしだした楓さんの勢いにちょっと呆気に取られてしまったけど、これ以上言わせるのはまずい気がする。ってか、もうかなりの事を言わせてしまった気もしなくもないが、口から出てしまった言葉は消しようがない。
ほら、教室に残っていたクラスメイト達がチラチラとこちらに視線を向けてくるし。
しかも、なんかヒソヒソと話している。「エム?」「罵る?」「え?そういう趣味?」「うわー…」とか、当人は聞こえてないとか思っているのかもしれないけれど、ちゃんと聞こえてるからね。
…少しずつざわめきが大きくなっている気がする。
よし、逃げよう。
「楓さん、僕を待っていてくれたんだよね?部活行くんでしょ、部活」
「え?急に話題を変えようとするとか、宮内くん、まさか本当にエ」
「ムじゃありません。ねぇ、楓さん、分かって言ってるでしょ」
コテンと首をかしげる仕草に合わせ、彼女の長い髪がさらりとその肩を撫で落ちた。
口では「え?」とか言っているが、薄ら笑いを浮かべているその表情から、楓さんが僕をからかって楽しんでいるんだと確信が持てた。
それにしても…ぐっ、可愛い…じゃなくて。
「ほら、行きますよ」
「もう、寝ていたのは宮内くんじゃない」
席から立ち上がった僕の様子を見たまま動こうとしない彼女の腕を掴み、立ち上がらせる。
鞄も持って、逃走の準備は完了だ。今日はもうこの教室に戻ってくることはあるまい。
「それじゃぁね、西塚君。部活頑張れよ」
「おう、最速記録を叩き出してやるぜ」
ちなみに、西塚君は帰宅部である。僕の皮肉に即座に返してくるとは、中々レベルの高い帰宅部だ。
しかし、だ。
彼の言う最速記録とは学校から家までのタイムの事を言いているのだろうけど、元帰宅部エースの僕から言わせれば、放課後にこうして喋っている時間もタイムに入れるべきである。彼は既に大幅なタイムロスをしており、今更最速記録なぞ狙えるわけがない。
校門を出てから自宅の玄関に入るまでが下校?お前がそう思うんならそうなんだろうな。お前の中ではな。
「楓さんも、また明日。宮内をよろしくお願いします」
「言われるまでもないわ。よろしくしてやろうじゃない」
「あ、なんかエロ…」
「はいはーい、楓さん、行きますよー」
西塚君、お前は俺の何なのだ?オカンか?
あと、楓さんで下世話な妄想は許さん。
さて、西塚君に別れを告げたなら、もはやこの教室に心残りは無い。というか、既に隠しもされていない視線と話し声が痛い。とっくに何を言われているのか分からないぐらいに騒めきは大きくなっているけれど、その何言われているのか分からない状態というのがまた強く心を波立たせにくる。
僕は楓さんの手を引いたまま、自分の教室を足早に後にした。
「ねぇ、宮内くん」
教室を出てから部室までの道。一階から二階へと続く階段の踊り場で楓さんが急に話しかけてくる。
「何でしょう?」
「私は嬉しいのだけど、いいの?」
問いの意味が分からず、彼女の方を向く。
目と目が合って数秒、ニコッと笑った彼女がその手を目線の高さまで上げてフリフリと振った。僕と繋いだままのその手を。
「あっ」
急に恥ずかしくなって、勢いよくその手を放す。恥ずかしさからか、自分の手の平からじっとりとした汗が沸き出しているのが分かる。
…どうしよう、勢いのまま繋いできちゃったけど、手汗キモイとか思われてないかな?
どうしたらいいか分からず、手汗をズボンに擦りつけるようにして拭いた。
「あー、私の手は汚くないよー。それともアレかな、宮内くんは潔癖症なのかな?」
どうやら、急に手を拭いた事で彼女に変な勘違いをさせてしまったようだ。誤解をそのままにしておくのは非常にまずいと、焦る気持ちに頭が軽くパニックになる。
「ち、違うよ!!汚いとかじゃなくて、その、手汗!手汗かいちゃって、その…」
「ふーん」
一言そう返した後に、楓さんが僕を追い越して階段を駆け上っていく。
そして、綺麗な姿勢でくるりと振り返って僕を笑顔で見下ろすと「分かってる」とだけ言って先に進んで行った。
綺麗な外見とは裏腹にどこか子供っぽさも感じさせるその仕草に、思わずドキッとしてしまい、暫くその場に佇んでしまう。
もうそこには居ない楓さんの先程の振り向き様の笑顔がまだそこにあるような気がして。
しかし、すぐにその笑顔は霧のように掻き消え、僕の思考は現実に引き戻された。
置いていかれた。ここで呆けている場合じゃない。
「あ、ちょっと待ってよ、楓さん!!」
階段を駆け上ったら少し先で楓さんは待っていた。
悪戯に笑う彼女の顔を見て、何かからかわれたのだという事だけは分かった。何をからかわれたのかは分からないけど。
「ぐぬぬ」
「ネット以外で本当にぐぬぬって言う人初めて見た」
「…」
「もう、ほら、拗ねないで。行こ?」
そう言って楓さんは手を差し出してきたけれど、僕にその手を掴む勇気は無く。
内心で今からでも手を繋いでいいかなぁ…と、悶々としたまま、それなりの距離感を保ちつつ、あっという間に部室の前に到着。
着いたのは『社会科準備室』。ここが僕たち【政治経済同好会】の部室だ。
まだ僕と楓さんの2人しかいない同好会だけど、専用の教室…いや、部屋を貰えたのは、楓さんのクラスの担任である朝比奈先生が社会科の先生であった事が幸いした。ちなみに、同好会の顧問も朝比奈先生だ。
僕が寝ている間に既に先生から借り済みであったらしく、楓さんがポケットからすっと鍵を取り出した。
開錠をしている楓さんの背中に、今湧き上がってきた疑問をそれとなしにぶつけてみる。
「そういえば楓さん、僕のこと待ってないで起こしてくれたらよかったのに」
「ホームルームが長引いて先に待たせちゃったのはこっちだし、何か悪い気がしてね。それに、彼氏の寝顔をノーリスクで見られるとか、中々ないチャンスだったし」
「え?それって、どういう…あっ」
お付き合いしている者同士で寝顔を見る機会とは、つまり、アレですね?楓さん、アレの事を言っているのですね?
「あって何かしら?」
背中をこちらに向けたまま、準備室の扉を開ける楓さん。
顔は見えないけど、ほくそ笑んでいるであろう彼女の顔が見える気がする。
分かって言ってきている。楓さんは、僕が恥ずかしがって上手く返せない事を知っていてからかってきている。
だが、それもそう思い至ってしまえば何のことはない。これを逆に利用し、楓さんを恥ずかしがらせてやるのだ。
や、やるの、だ。
だ…
無理。
「今日の楓さんは意地悪です。何か嫌な事でもありましたか?」
「…だったのよ」
「え?」
「…決算が、悪かったのよ」
振り向いた彼女の瞳に光は無く、死人のそれだった。
そんな彼女の様子を見て、僕は本日の【政治経済同好会】の議題が『私の投資先の会社がクソ決算を出した件について』である事を悟った。
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何卒!何卒!