姉妹
生島悟郎は前田からの連絡を待っていた。由佳と会った結果はどうなったのか。翌日になっても連絡が来ない。焦れた生島は前田に電話をした。
間が悪く、その日に事件が発生し担当となった前田は、忙しいを連発して、うまく行ったとしか答えてくれなかった。何度も電話をしたがうるさがられるだけで、最後には暇になったら電話するからそれまで待っていろと怒鳴られ、生島はうまく行ったと言う言葉を信じて、前田が暇になるのを待つしかなかった。
十日程が経過して前田から電話が掛かって来た。
「生島です。前田さん待ってましたよ」
「邪険にして悪かったな」
「うまく行っただけじゃ安心出来なくて。すみません」
「そりゃそうだよな。詳しいことを話すとな、どうもおかしな結果になっちまったんだ」
「どういうことですか」
「美紀さんも一緒に大木と話した方がいいと思って、美紀さんのマンションに行ったら大木がいたんだ。びっくりしたよ」
前田は美紀の部屋に入ってからの顛末を掻い摘んで話した。
「じゃあ、大木は美紀さんに悪さしようとしていたんじゃないんですね」
生島は安堵感を滲ませて言った。
「美紀さんもひとみさんも大木を信じているんだけど、何かしっくり来ないんだな。違和感があるんだ」
「どうしてですか」
「フィーリングだな。刑事の勘とも言う」
「大木は何もしないって安心出来ないんですか?」
「何とも言えんな」
「前田さんが終わらせるって言って、何とも言えないなんて無責任じゃないですか」
生島は語気を荒げた。
「怒るなよ。曖昧なことを言って悪かった。お前に取っては大木が一番大事だからな。しっくり来ないのは事実だが、十何年も会っていなかった幼馴染に悪意なんか持つ理由もないだろうし、大丈夫だよ。俺の勘も当てにならんしな。心配するな。ひとみさんに連絡したら、二人は羨ましい程仲がいいって言ってたよ」
最後は芝居じみた口調で言って、前田は電話を切った。
「これにて一件落着」
心配性の生島は心配するなと言われたら余計に心配になった。美紀の話をした時の異様な由佳を思い出した。好意を持っていたらあんな顔はしない。前田の勘が当たっているのかも知れない。由佳に電話をしても出てくれない。
不安の消えない生島は由佳の母親の洋子に、幼き頃の由佳と美紀が前田から聞いた通りであったか電話して確認してみようと思った。そうであったら完全に安心出来る。
高校のクラスメートで家が近く仲の良かった生島は、何度も由佳の実家に行き、洋子とも気心の知れた間柄だった。
「はい、大木です」
「生島です。大変ご無沙汰しています」
「え~、生島くん。久し振り。何年振りかな。高校卒業して以来よね。懐かしい。東京でも由佳が面倒掛けてるんでしょ?」
「いえ。由佳さんはしっかり者だからそんなことありません。お母さんにちょっと聞きたいことがあるんですが」
「何?」
「黒川美紀さんって人のことなんですけど」
「どうして生島くんが美紀ちゃんのことを知ってるの? そうか、由佳が話したのね。私の気持ちを分かってくれたらなって思っていたんだけど、生島くんに話すなんて、簡単に気持ちは変わらないのよね。やっぱり面倒掛けてるんじゃない。由佳は美紀ちゃんのこと悪く言ったんでしょうけど、当時、美紀ちゃんはまだ三歳。そんな小さい子を憎むなんて由佳どうかしてる。あっ、美紀ちゃんに会うなんて言ってないでしょう? そんなこと言ったらやめさせてね。お願い。変なお願いしてごめんね」
お母さんは何を言ってるのか。幼い頃美紀を恨むような何かがあった。仲良しではなかったのか。
「由佳さんが小さい頃何があったんですか。由佳さんからは、黒川さんが幼馴染だったってことしか聞いていなくて」
「やだ、私余計なこと言っちゃった? 生島くんだからいいか。由佳がまだ美紀ちゃんを憎んでいるんだったら、間違ってるって生島くんからも良く言って聞かせてやって」
洋子は由佳の思いを話した。
「パパちゃんですか。切ないですね。由佳さんの気持ちは分かります。あっ、すみません」
「いいの、私も由佳の気持ち痛い程分かるから。そんな思いをさせたのはずるい大人の私。生島くん、由佳のことよろしくお願いね。頼りにしてるから。又、遊びに来てね。聞きたいこと他にある?」
「いえ、もういいです。突然電話してすみませんでした」
生島は電話を切って、唇を噛んだ。前田の勘が当たってしまった。安心して電話を切りたかった。だが、真実を知れて良かった。もう由佳に直接会って説得するしかないと思った生島は、由佳のマンションの前で待ち伏せようと決めた。
ひとみは大学からの帰り、マンションのエントランスにまで来て、マンションの側に佇む男が気になった。ひとみは変な男事件以来、不審者に少し敏感になっていた。10分後にエントランスに行って気付かれないように見てみると、まだ立っている。美紀はまだ帰って来ていない。由佳と買い物をして帰ると言っていた。今は一人。しっかりしなくてはならない。
ひとみが下した判断は不審者発見であった。前田に電話をした。
「前田です。ひとみさんが電話くれるなんて珍しいね」
ひとみは緊張していた。余計なことは言わない。
「不審者がいるんです」
「不審者?」
「マンションの側に不審者が立っているんです。10分以上動かないでいるから不審者です。誰かを待ち伏せしているんです、きっと」
「今、仕事中で動けないのよ」
「美紀がまだ帰って来ていないんです。美紀のストーカーだったらどうするんですか?」
「又、ストーカー? 本当に?」
「本当に怪しいんです。信じてくれないんですか? 分かりました。藤尾さんにお願いしてみます」
「係長は出張。電話しても行けないよ」
「もういいです。美紀に何かあったら困るんで私が自分で男に聞いてみます」
脅迫だ。純情そうなひとみでも男を操ろうとするか。それともそれだけ必死なのか。美紀ならやり兼ねないが、ひとみには出来ない、と思ったが、万が一がある。前田は操られることにした。ちょっと天然な、ひとみの勘違いだったらと思うと所轄の警官を行かせる訳にもいかない。
「一時間くらい掛かるけど、これから行くからじっとしていて。念の為、美紀さんにすぐ帰って来ないように電話しておいて。不審者なんて言うと自分で捕まえるなんて言い出し兼ねないから適当に理由付けてね。その不審者が動いても後なんかつけちゃ駄目だよ、絶対に」
「はい、了解しました」
ひとみは嬉しそうに明るい声で答えた。
マンションに着いた前田は辺りを窺った。一時間経ってまだいたら正しく不審者だ。確かにマンションのエントランスから10メートル程離れた電柱の陰に立っている男がいる。
良く見ると見覚えのある顔だった。前田は男に近付き声を掛けた。
「生島、張り込みか。いつ刑事になった」
生島は驚いたように前田を見た。
「前田さん、どうしてここに?」
「不審者がいるって通報があったんだよ」
「前田さんは捜査一課の刑事でしょう。そんなの地元の警察がやることでしょう」
「ホットラインの電話があったんだよ」
「誰ですか?」
「そんなことより、お前何をしているんだ」
「大木が帰ってくるのを待っているんです。電話に出ないし。どうしても会わなければならないんです」
「美紀さんとの件か」
「前田さんの勘、ビンゴでしたよ」
「何だと、幼馴染は嘘だったのか? 誰から聞いた」
「大木のお母さんから。幼馴染は本当です。でも、幼い時に大木が美紀さんを憎むようなことがあって、大木も忘れていて、最近お母さんから聞いたようです」
今度は生島が、掻い摘んで話す番だった。
「成る程な。そんなことがあったのか。今まで何事もなくて良かったな。そんなガキの頃のことを恨むなんて俺には理解出来ないけど、憎んでるのは事実か。でも、おかしいよな。パパちゃん取り戻して、美紀さんにいやな思いをさせるって言ったんだよな。そうだったら、会って憎しみをぶつけるだろう、普通。何で仲良しの幼馴染だったって嘘をついて、大木は美紀さんに取り入ろうとしたんだろう。何で美紀さんに取り入る必要がある。美紀さんの男を見付けようとした本当の理由は何だ。大木は美紀さんに何をしようとしているんだ。謎だらけだな」
「前田さん、謎解きをしようなんて思わないで下さい。大木の美紀さんへの悪意がなくなればいいんです。そうすれば美紀さんに悪さしようなんて思わない。俺が大木の気持ちを変えさせます。俺に任して下さい」
「電話にも出てくれない男の言うことを聞くかな。無理だろうな。だが、お前の言っていることは正しい。大木の気持ちを変えればいい。大木の嘘が大木の気持ちを変える。まず、美紀さんに本当のことを言って、大木と向き合わさせる。嘘がばれて仲良しでいられなくなるから、何か分からないが、本当の目的は諦めるしかない。だったらパパちゃんの憎しみだけでもぶつけてやろうと、大木は美紀さんを責める。そこで俺の出番だ。美紀さんにも本心を言わす。恐らく美紀さんは大木の気持ちを分かろうとするだろう。そういう人だ。嘘で穢れた自分と、そんな自分を受け入れようとする美紀さん。美紀さんの真心に触れ、大木の気持が変わる。揉め事は大体、意思の疎通を欠いて、気持ちの行き違いがあって、誤解しちゃって起きる。腹を割って話し合えば解決するさ」
「男ならそうでしょうけど、女同士ですよ」
「真心に女も男も関係ない。俺に任せろ。お前は帰れ、後で電話する」
「今度はちゃんと連絡下さいよ」
楽観的に過ぎると思ったが、大木を説得する自信もなく、生島は前田が出した結論に従うことにした。
前田は顔見知りになった管理人に挨拶して、無言の許可を貰いインターホンでひとみを呼び出し、部屋に入った。
「どうでした?」
部屋に入ると前田にまとわり付くようにしてひとみが聞いた。
「その前に、今日は特別だよ。仕事を放って来たんだから。しょっちゅうこんなことがあったら困る」
「ごめんなさい。お礼に心を込めた晩御飯をご馳走しますから」
「そんな気を遣わなくていいよ」
早く話せとひとみの眼が催促していた。
「不審者はいたよ。だが不審者じゃなかった。俺の知り合いだった」
「何をしようとしていたんですか?」
「勿論、理由はある。美紀さんと大木さん、いや君達三人のこれからの関係に重要な問題だ」
「問題があるんですか?」
ひとみは不安そうな顔をした。
「俺はこれから仕事に戻る。八時過ぎになると思うけど、又ここに来て、その時話すから。俺が来たことも、又来ることも二人に絶対言わないように。分かったね」
前田は念を押して帰って行った。
約束通り、八時半頃前田はマンションに来た。
三人の夕食は終わり由佳は自分の部屋に戻っていた。
部屋に入って来た前田を見て美紀は訝しんだ。
「何かあったんですか?」
「夜遅くに女の子の部屋に来て悪い。実は重要な話があって来たんだ。聞いて欲しい」
「重要な話って何ですか?」
「大木さんの話なんだ」
前田は生島から聞いたことを話した。
「今の大木さんが美紀さんをどう思っているか、どうしようとしているのかは本人に聞かないと分からない。大木さんと向き合って、話し合ってみないか? お互いの本心を話せば、必ず分かり合える」
ひとみが口を挟んだ。
「仲良しの幼馴染なんて嘘言って美紀と親しくなろうなんて、何か企んでる、きっと。私、あの人は最初から性に会わなかったの。美紀が三歳の小っちゃい頃にしたことを恨むなんておかしいし、美紀はお人好しで先輩を何も悪く思ってないから話し合う必要なんてないと思います。嘘つきって言って、絶交すればいいんです」
ひとみの口調は強かった。美紀はひとみにお人好しと言われたくないと思ったが、余程由佳が気に入らないのだとも思った。
「そんなことをしても、いつまで経っても問題は解決しない。大木さんの心に美紀さんへの憎しみは残る。そんないやな感情がいつまでも残るのは二人に取って良くない。分かるよね、ひとみさん」
ひとみは下を向いて頷いた。
「私、幼い頃にそんな酷い仕打ちを先輩にしていたなんて思ってもいませんでした。自分が覚えていなかったり、意識していなかったり、知らない内に他人を傷付けているのってあるんですね。先輩の辛い気持ち分かります。私の親、もう駄目みたいなんです。離婚するって母から言われて。母に取って駄目な夫でも、最低な男でも、私に取っては大好きな父。親が離婚しても父には会えるけど、やっぱり離婚なんかして欲しくない。ごめんなさい、プライベートな話をして」
美紀の話にひとみがすぐに反応した。
「え~、親が離婚するなんて、そんな大変な話、何でしてくれなかったの?」
「今日、母から電話が掛かってきて。明日、実家に帰って詳しい話をするの」
「それじゃ、先輩との話、後にしよう」
「ううん、早く話しておいた方いい。先輩、私を凄く可愛がってくれるし、私を憎んでるなんて全然感じない。先輩も性に合わないらしくて、ひとみには冷たいけどね。親のこと、先輩にも相談したいし」
美紀は電話で由佳を呼んだ。
由佳はリビングルームに入って来て前田の存在に気付き、一瞬不快そうな表情を見せた。前田はこの部屋で言い争って以来由佳とは会っていなかった。嫌われていて当然と思っていたから気にもならない。
「前田さんが来ていたんですか。だったら来なければ良かった」
由佳は露骨な嫌味を言ってソファに座った。
「君から嫌われるのは当然。いろいろいやなことを言ったからな。生島悟郎、君の高校からの友達。今日もこのマンションの前で会ったんだ。いろいろ話した。いい奴だな。君のことを本心から心配しててな。生島な、美紀さんを尾行させられた時から、君が美紀さんに危害を加えるじゃないかって心配していたんだ。そんなことをして君が犯罪者になったら大変だ、絶対止めなくちゃてな。君と美紀さんが幼馴染で仲良くなったって俺が話してやっても安心出来なかった。君のこと本当に好きなんだな。生島、君のお母さんとも親しいんだろ。君と美紀さんとの関係、お母さんに聞いたんだな。そうしたら、お母さんも君のことを心配して、まだ美紀ちゃんのこと憎んでいるのなら、良く言って聞かせてやってくれって君の思いを話してくれた。それで生島は君が美紀さんに何かするって確信して、やばいって、マンションの前で君を待ってて俺と会った。俺が君を説得するって言ったら生島は俺を信じてくれたよ」
由佳は理由もなく生島からの電話に出なかった訳ではない。思ってもいない生島の告白に動揺し、生島と話すのが気恥ずかしくて電話に出れなかった。何度も電話して来たのは、伝言メッセージに残した会いたいの言葉は、このことを話したかったからなのか。由佳は変に生島を男として意識してしまった自分を笑った。美紀もひとみも黙ってうつむいている。生島の話を聞いているのだろう。嘘を皆に知られてしまった。可愛い妹と思う美紀にまで。母親から聞いたと言われれば、反論も出来ない。早くこの場から去りたいと由佳は思った。
由佳は悲しそうな表情を見せ言った。
「悟郎とあなたが知り合いになっていたとは思わなかった。みんな知られちゃったのね。もうお終い。あなたの考えが正しいって証明出来て良かったわね。さすが刑事。美紀ちゃん、寂しいけどお別れね」
由佳は立ち上がり部屋を出て行こうとした。
嘘を知られた由佳が本心を露にして美紀を責める。仲に入って、美紀と由佳をしっかり話合わせて解決に導こうと思っていた前田は、由佳の意外な行動に慌て、由佳を止めようとした。その美紀がいきなり由佳の前で土下座をして由佳に詫びた。
「先輩、ごめんなさい。私、小っちゃくって覚えてなくて、先輩の大事な熊の縫いぐるみ、パパちゃんを奪ってしまって済みませんでした」
由佳はいきなり美紀に謝られて面食らった。
「美紀ちゃん、ソファに座って。もういいの。私が美紀ちゃんをどう思っていたか前田さんから聞いたんでしょ。私は嘘つきなの」
「先輩は凄く優しくて、私を可愛がってくれて、私を憎んでるなんて絶対思えないんです。嘘つきなんかじゃありません」
「今はね。美紀ちゃんに会って、真心に触れて、本当の美紀ちゃんを知って、美紀ちゃんが本当の妹のようで、大好きで可愛くてしょうがないけど。美紀ちゃんに会う前にパパちゃんのことで美紀ちゃんを憎んだのは本当。こんなこと言うの恥ずかしいんだけど、美紀ちゃんには言っておかなくちゃいけないから。塩田さん、知ってるわよね。私凄く好きになっちゃって、でも二回も振られて。そんな時、塩田さんが美紀ちゃんと待ち合わせて会ってる所を見ちゃって。美紀ちゃん全然関係ないのに、美紀ちゃんに塩田さんを奪われたと思って。その時は我慢したんだけど、パパちゃんのことを知って美紀ちゃんが許せなくなって、大事な人を奪われる苦しみを美紀ちゃんに与えてやろうと思って。でも私なんかに美人の美紀ちゃんから恋人を奪えないって気が付いたんだけど。こんな嘘つきの私は美紀ちゃんの側にいちゃいけないの。悲しいけど、お別れ」
「いやです。私も先輩が大好きです。せっかく出来たお姉ちゃんを奪わないで下さい。今は先輩が私に取って大事な人なんです。先輩に会えなくなったら、私に大事な人を奪われる苦しみを与えることになるんですよ。それでいいんですか」
「美紀ちゃん、嘘つきの私を許してくれるの?」
美紀は由佳に抱き付いた。
前田は感動の姉妹再会シーンを思い出した。今度は嘘偽りのない感動のシーンだ。女同士が抱き合っているのは美しい。自分と美紀が抱き合うシーンはもっと美しいと前田は思った。
ひとみは複雑な表情で二人の姿を見ていた。美紀がとても嬉しそうだ。これで良いとひとみは思った。だが、この雰囲気の中にいるのが苦痛だった。
「前田さん、食事まだでしょう。暖めますね」
ひとみは前田の為に作っておいた夕食を用意しようとキッチンに行った。
美紀はキッチンに行くひとみを見た。表情が悲しげに見えた。美紀は感じていた。美紀が由佳を慕うのをひとみが心良く思っていないと。それはひとみが由佳を嫌いだから。自分と同じように由佳を好きになって欲しいと美紀は願った。話もした。だがひとみは頑なだった。
前田も、自分の為に夕食を用意しようとしているひとみを手伝おうとキッチンに行った。
美紀と由佳はソファに座った。
由佳はバッグから、一枚の写真を取り出して美紀に見せた。
「これ、私の本当のパパ。この人への思いで大好きな美紀ちゃんを恨んじゃった。本当にごめんね」
「本当のパパのお陰ですよね。お姉ちゃんが出来たの」
美紀は写真を手に取り、由佳の父親の顔を見てはっとした。
「あれ、パパ見たことある」
元々、このマンションはひとみが一人で住んでいた。美紀がルームシェアしようと言い出し、一緒に住み始めた。だからリビングルームの棚には、ひとみの趣味で綺麗に装飾された幾つもの写真立てが飾られていた。これまで意識することなく、美紀は何度もそれらを見ていた。
美紀は棚の前に行き、一つの写真立ての写真を見詰めた。ひとみの小学校の入学式に校門で撮った、両親と写っている写真だった。由佳の写真とひとみの写真を見比べた。両方の父親の顔が同じだ。服装も髪型も違うが、似ているレベルではなく同一人物のように見える。
美紀は混乱した。まさか、由佳とひとみの父親が同じはずがない。でも、同じに見える。良く似た双子か。この事実を二人に言うべきか。黙っている訳にはいかない。父親が同じだったら二人は姉妹になるし、双子だったら従姉妹になる。
美紀はその写真立てを取ってソファに持って来て由佳に見せた。
「先輩、これ見てください。この人、先輩のパパと同じ人ですよね」
由佳の表情が変わった。驚きの目でひとみの写真を見ている。
「パパ、何でひとみと写ってるの?」
「その人、ひとみのお父さんです」
「嘘、パパが何でひとみの父親なの? 違う、この人私のパパじゃない。他人の空似よ、絶対」
信じ難き物を見て由佳も混乱していた。
「双子じゃないんですか?」
「パパは一人っ子だってお母さんが言ってた」
「先輩のお父様のお名前、何て言うんですか?」
「伸司」
美紀はキッチンにいるひとみに大声で聞いた。
リビングルームとダイニングキッチンの間の仕切りにドアはなく、声は良く聞こえる。
「ねえ、ひとみ。お父さんの名前、何って言うの?」
「何でそんなこと聞くの?」
「いいから、教えて」
「伸司」
美紀と由佳は顔を見合わせ、愕然とした。
「名前が同じだけじゃないの、きっと。ひとみの苗字は小野でしょう。絶対に他人。お母さんに聞いてみる」
由佳は洋子に電話をした。
「もしもし」
「お母さん、悟郎によけいなこと言ったでしょう。もうやめてよ」
「由佳が心配掛けるからでしょう。文句が言いたくて電話して来たの? そうなら切るわよ」
「全く、自分勝手なんだから。そうじゃなくて、本当のお父さんのこと聞きたいの。お父さんの苗字って何」
「苗字なんか聞いてどうするの。パパちゃんを思い出して会いたくなったの? あの時は言わなかったけど、伸司は亡くなったの。十二、三年前だったかな。連絡はしておくって伸司の親から手紙が来てね。お線香を上げにも行かなかったけどね」
「そうなんだ。もう絶対会えないんだ」
会いたいとも思っていなかったが、由佳は少し感傷的になった。
「それで、苗字は?」
「だから、亡くなっちゃってるからもう会えないの」
「別に会いたいから聞いてるんじゃないから、教えて」
「何言ってんだか。村田よ」
「村田か、小野じゃないのよね」
「由佳、何調べてるの。小野って、伸司は再婚して小野になったのよ」
「えっ、だって結婚しても村田でしょう」
「婿養子に入ったのよ」
「本当に? いつ頃?」
「由佳が三歳くらいの時かな」
「離婚したのも同じ頃でしょう 離婚してすぐ再婚したの? あっ、そうか。相手がもういたんだ。何か、許せない感じね」
「由佳も大人になったから話してもいいか。伸司はね、女子大生と浮気をしてね、子供が出来ちゃって。静岡の金持ちの娘でね、堕ろす訳にも行かないって、離婚して婿養子になるんだったら許すって言われて、欲に釣られて私達を捨てたの。最低な男。死んだ人のことを悪く言ってもね…」
由佳は呆然とした。父親の浮気もショックだが、ひとみが腹違いの妹とは。これに勝るショックはなかった。由佳は黙りこくった。ひとみのことは母親には関係ない。
洋子は実の父親に捨てられたショックで由佳が黙ってしまったと思った。
「由佳、酷い父親だったけどもう死んじゃったんだからね。忘れよう」
「分かった。又電話する」
美紀は、電話を切って呆然としている由佳を訝った。
「先輩、どうしたんですか?」
「美紀ちゃん、どうしよう。大変なことが分かったの」
「何ですか? 大変なことって」
「ひとみって、実家静岡だよね」
「そうですけど」
「顔、名前、静岡、全部同じ。ひとみの父親は私の父親と同じ。ひとみは私の妹なの」
「本当ですか? やっぱりそうだったんですか? 信じられない」
「ひとみは私が嫌い。私はひとみが嫌い。何か性に合わなくて、お互いに嫌い合ってるのに、何で本当の姉妹なの? 私、ひとみに姉妹だって言って仲良くなる自信ない」
「そんなの、気持ちの問題ですよ。姉妹だって言う事実が気持ちを変えますよ」
ダイニングキッチンで前田が食事を始める声が聞こえて来た。
「いただきます。ひとみさん、これ旨いよ」
美紀はひとみを呼んだ。
「ひとみ、ちょっと来て」
「どうしたの?」
ひとみが戻って来てソファに座った。
「ひとみ、これ見て」
美紀はひとみに由佳の写真を渡した。
ひとみの反応も由佳と同じだった。
「何でお父さんが先輩と一緒に写ってるの? 先輩小さいからこの写真、私の生まれる前よね。お父さん、先輩の家族と知り合いだったの?」
「その人、先輩のお父さん」
「えっ、先輩のお父さんって言われたって、私のお父さんだし、美紀、何言ってるの」
「ひとみ、小学校の時に亡くなったお父さんの話良くしてくれたよね。大好きなお父さんのことをひとみが見間違える訳ないよね。その人、ひとみのお父さんでもあるの」
「美紀、冗談言わないでよ」
「本当」
「そんなの信じられる訳ないでしょ。住んでる所も違うし」
「パパちゃんがひとみのお父さんだったの。離婚してひとみのお母さんと結婚したの。名前とか、先輩のお母さんに確認したから間違いない」
ひとみの表情が見る見る険しくなり、声が大きくなった。
「それって、先輩のお父さんと私のお父さんが同じ人ってことは、先輩と私が姉妹ってことでしょう。何で、有り得ない。信じられない」
「事実なのよ、ひとみ」
ひとみは眼を大きく見開いて、叫ぶように言った。
「何よ、突然そんなことを言われたって。私、先輩の妹になんかなりたくない。妹は美紀が一人いればいいでしょう」
「ひとみ、何でそんなこと言うの。ひとみと先輩は血が繋がっているんだよ」
「血の繋がりが何よ。血が繋がってるからって、先輩に会った時に懐かしくもなかったし、親しみも感じなかったし、フィーリングなんて全然合わなかったし。DNAが近いだけじゃない」
うつむいてひとみの話を聞いていた由佳が、顔を上げひとみを見詰め、寂しそうに言った。
「ねえ、ひとみ。そんなに私が嫌いだったの。そうよね、私もひとみが嫌いだから。ひとみ、自分が妹って思ってくれなくていいから。私がお姉さんって思ってくれなくていいから。ひとみの言うように妹は美紀ちゃんで十分。私をお姉ちゃんって慕ってくれる妹が出来て幸せ。私、本当の妹が一人いるの。新しいお父さんの子。ひとみと違って母親が一緒の妹。名前、美菜って言って、生意気で全然可愛くないし、顔を合わせれば喧嘩ばっかりしてるし、どっちかって言えば嫌い。でもね、そんな仲の良くない、可愛くない妹でも、病気になったら心配だし、幸せになって欲しいって思ってる。それって、良く分かんないけど、妹だと思ってるからだと思う。だから、ひとみが嫌いでも間違いなく妹だから、妹だって思っちゃたから、ずうっとひとみのことを気にすると思う。ひとみが辛い思いをしていたら助けたくなると思う。ひとみが私のことをどう思っても構わないけど、これだけは言っておくね」
ひとみとしては稀な、感情を爆発させてしまった反動か、その後悔か、うつむいて静かに由佳の話を聞いていた。
ひとみの声を聞いてリビングルームに戻って来ていた前田が、由佳の言葉を繋ぐように話し始めた。
「大木さん、いいこと言うな。それが血の繋がりだよ。肉親だからって、血の繋がりが何か眼に見えない力を持ってて、お互いを引き付け合うなんてことはない。だからひとみさんのように、会ったからって特に懐かしくもならなきゃ、親しみも感じない。大木さんが言うように、自分達は血が繋がってるって思うことなんだ。そう思ったら、そう思うだけで、他の人と全然違う存在になっちゃうんだ。その人を大事にする気持ちができちゃうんだ。それでお互い守り合う。親が子を守る、家族が家族を守る。一族が一族を守る。人間が生き残って来れた本能だよ。理屈じゃない。ひとみさん、君がどう思おうと大木さんがお姉さんなのは事実なんだ。きっと、君の気持ちも変わって来る」
ひとみが顔を上げ、真っ直ぐに由佳の眼を見た。
「私、先輩に酷いことを言ったのに、どうしてそんなに優しいんですか? 今までの意地悪な先輩はどこに行っちゃたんですか? 本当の先輩はどっちなんですか?」
答えにくそうな由佳をフォローして美紀が言った。
「今の先輩が本当の先輩。ひとみのお姉さんになったから優しいの。前田さんが言っていたでしょう。優しさって言うよりも肉親を大事に思う心かな。だから嫌いな人でも大事にする。好きにならなくてもいいけど、早く先輩を大事な人にして」
「私を大事に思ってくれる人を、私も大事な人と思いたい。だけど好き嫌いは別」
「あんたって本当に頑固ね。本当の先輩を知ったから、すぐ好きになると思うけどね」
美紀はにこやかな顔を由佳に向けた。由佳も微笑んでいた。
「先輩、私、弟と妹がいるんですけど、二人も先輩の大事な人になるんですか?」
「そうよ。急に三人も兄弟が増えちゃって、何か大変。今度会わなくちゃね。でも、縁ってあるのよね。私がここに押しかけたのも、塩田さんが美紀ちゃんを好きだと私が勘違いしたせい。それがなかったらひとみと私が姉妹だなんて絶対に分からなかった。私と塩田さんが知り合ったのは、存在することも知らない姉妹を合わせる為の巡り会わせ。そう思うと、ひとみと塩田さんの関係って縁を感じるわよね。塩田さんの片思いなんでしょう。私も片思いだったけど、塩田さんとは縁がなかったから振られた。ひとみと塩田さんは縁があるから抵抗しても無駄。早く付き合いなさいよ」
「人のことを簡単に言わないで下さい」
ひとみは抗議するように由佳を見た。前田は自分と美紀の縁を語ってくれと由佳に念を送った。
人は色んなものを与えられこの世に生を享ける。能力、容姿、性格等々。
優れたものを与えられる者がいる。優れたものを与えられない者がいる。理不尽だが、否応もない運命。
与えられない者は、与えられた者をうらやむ。うらやむ程度が丁度良い。由佳は美紀を妬んでしまった。害意が生じた。美紀に与えられた天真爛漫な性格が由佳の心のわだかまりを解かした。由佳に一つの喜びを与えた。与えられた者が、与えられた物で、喜びを作った。与えられた者のあるべき姿。勿論、美紀はそんなことに気付いてもいない。