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由佳の情念

 依田誠が逮捕され警察署に連行された日、大木由佳も警察署で事情聴取を受けた。由佳は、覚醒剤使用を強要されたが絶対やっていないと強く否定し、任意の尿検査も行い帰宅を許されマンションに帰って来ていた。

 慣れぬ取調べに疲れた身体をソファーに預け、まどろむように眼を閉じている由佳。だが眠ってはいない。由佳の脳裏を去来する塩田。顔が、言葉が、姿が。脳裏に依田に殴られる塩田の姿が映った。怪我をしたが、たいしたことはなさそうだと刑事が言っていた。大丈夫だろうか。由佳は警察署を出てすぐに塩田に電話をしたが、電源が入っていないメッセージが流れ繋がらなかった。

 依田に恐怖を感じた時、誰かに助けてもらいたいと思った時、塩田の顔が浮かんだ。依田なんか好きになっていなかった、まだ塩田が好きなんだと由佳は思った。あきらめたのに。あれから会ってもいないのに。あきらめたのと、好きでなくなるのは違うのだから仕方がない。単なる友達である塩田が助けてくれるだろうか。きっと塩田なら助けてくれる。あきらめの悪い女の片思いだけど、助けてくれたら嬉しい。

 塩田は自分を助けてくれた。それも怪我をしてまで。由佳は塩田のこの行動に期待感を持ってしまった。自分に何の感情も持たずに、怪我が一番怖いサッカー選手があんな行動をするだろうか。由佳の持つ常識では有り得ないことだった。であったら、自分に好意以上の感情を持ってくれるようになったのではないのだろうか。恋する女子のいじらしい女心であった。


 由佳は塩田の単純なファンではなかった。女子大の友達がトレイス多摩FC所属選手の彼女で、その友達との関係で塩田と知り合いファンになった。塩田と接し親しくなる内に、塩田に惹かれ恋する乙女になっていた。だが、ファンの立場から踏み出せない片思い状態が続いた。それは、塩田の周囲から洩れ聞こえる、塩田は女に興味がないと言う話が悪しき結果を想像させ、明確な意思表示を躊躇させていたからだった。

 由佳は強くなる恋慕の情に抗し難く、思い切って塩田に自分の気持ちをほのめかしてみた。塩田は鈍感な男ではない。前々から由佳の気持ちは察していた。塩田は直截的な反応も見せず、由佳ははぐらかされたような気がしたが、突然自分の人間性について語り始めた。

「俺ってさ、ある意味欠陥人間なんだよ。急に変なこと言うなよって思うかも知れないけど、由佳には知っておいてもらいたいなって思ったんだ。詳しくは言えないんだけど、ガキの頃、母親で凄くいやな思いしてさ。それから女が大嫌いになってさ。もう女でいやな思いしたくない。だから、他の奴等みたいに女を好きになるとか、恋したいとか思えないんだよ。みんなは女の話ばかりするのに、俺、普通じゃないんだよな。分かっているんだけどさ。どうしようもないんだ。俺ってそんな奴だけど、よろしくな」

 塩田は過去に仲が良かった女に告白されて、理由も言わず拒絶して気まずくなり、女は去り、男と女の友情のはかなさはを思い知れされた経験があった。由佳個人ではなく、異性である女そのものを受け入れられないと由佳が理解してくれれば友情は保てると塩田は思った。由佳と友達でいたいから。だが恋情と友情は違う。

 由佳は消沈した。結果は予想通りだった。いつもは、試験問題でも自分の予想は当たったこともないのに。由佳は喚き散らしたい気分になった。又、振られた。所詮自分はこうなる運命。不美人に生まれた自分を呪った。

 二度目の真剣な恋だった。一度目は付き合っていた彼氏が他の女を好きになり、ぶすと言われむごい振られ方をした。今度は女が好きになれないと振られた。本当だろうか。ゲイじゃなくて女を好きになれない男がいるのだろうか。分からない。塩田の顔を見た。優しく、いたわるような眼で自分を見ている。きっと塩田の言うことは本当なのだろう。ぶすだからじゃない。だが振られた結果は同じ。優しくされた分、前よりましなのか。

 由佳はこの時以降、塩田とは会わなかった。会えば未練たらしい自分がみじめだ。そのくらいのプライドはある。だが塩田のことが忘れられない。由佳は、やり場のない思いのはけ口を刹那的な快楽に向けた。クラブ遊びが好きな友達とクラブに通い始め、依田にナンパされ、無意識ではあるが、依田の素振りに塩田の面影を感じ、依田に惚れて付き合い始め、一時由佳の心から塩田の存在が消えた。


 膨れ上がる期待感が、すぐにでも塩田に会いたいと由佳に思わせた。だが電話は繋がらない。何で電源を切っているのだろうか。気になったが住まいも知らず、連絡の仕様がない。そんな時、由佳の携帯電話が鳴った。塩田からの電話だ。由佳は期待に胸を弾ませ電話に出た。

「由佳です。今日は本当にありがとう。怪我大丈夫? 電話したんだけど繋がらなくて」

「ごめん、壁にぶつかった時にポケットに入れてあったスマホが壊れちゃって、新しいのに交換して来たんだ。俺は大丈夫だけど、そっちは大丈夫? 警察に連れて行かれてたんだよね。クスリやってないって分かってくれた?」

「今、家に帰って来た所なの。私、絶対やっていないから大丈夫」

「そうか、心配していたんだけど、それなら良かった」

「私なんかの為に怪我までさせっちゃってごめんなさい。お礼がしたいな。今どこにいるの? 会いたい」

 少し甘い声になった。塩田の返答が来ない。

「もしもし?」

「礼なんていらないよ。今月、ホームで試合あるから応援に来てよ。それで十分。その時に会おう。由佳は大事な友達だ。体くらいいつでも張ってやるよ。何かあったら連絡くれよ。じゃあ」

「あっ、もしもし」

 電話を切られた。もっと話したいのに。

(大事な友達なんかじゃなくていい。女として好きになってくれたと思ったのに。女嫌いだから仕方がないの? 二度も振られるなんて馬鹿みたい)

 期待感が膨らんだ分、落胆は大きかった。由佳は自分の浅はかさを恨んだ。又、一から傷心に耐えなければならない。

 一週間程の後、由佳は授業を終え下校しようと大学の門に向かって歩いていた。

(えっ!)

 門の横に塩田が佇んでいるのが見えた。まだ門まで距離があるが塩田に間違いない。視力には自信がある。何でいるのだろうか。サプライズで自分に会いに来てくれたのか。由佳は又、浅はかな自分を恨むことになる。

 由佳は足早になった。早く塩田の側に行きたい。その時、右の校舎の方から走り寄る女がいた。後姿で顔は見えない。由佳は歩を止めた。又、自分の思い込みの勘違いか。

 女は走り寄ると頭を下げ、塩田と何か言葉を交わした。何を話しているのか分からない。待ち合わせに遅れた詫びを言っているように由佳には思えた。

 塩田はこぼれるような笑顔で、嬉しそうに女に相対している。自分に見せたこともない笑顔だと由佳は思い、塩田はこの女が好きなのではないかと直感した。女嫌いじゃなかったのか。

 二人が並んで歩き始めた時、女の横顔が見えた。由佳は愕然とした。見覚えのある顔。小生意気な隣の住人、黒川美紀。

「何で黒川美紀なの」

 由佳は恨めしそうに呟いた。

 振られた結果は同じだからどうでも良いと思っていたが、女嫌いだとの塩田の告白は嘘ではないと由佳は思っていた。だったらなぜ。美紀が美人だから。どうしようもない女嫌いでも美人には惚れるのか。よりによって、あの憎たらしい黒川美紀に。何なのか。ふざけるな。そんなの許せない。ただ、美紀が可愛い顔をして生まれただけじゃないか。自分だって美人に生まれていたら美紀になんか負けはしない。不公平過ぎる。由佳は憤った。だが、悔しがっても何の意味もないと分かっていた。今までも同じような思いをして来たから。それは抗えない人間の運命(さだめ)。我慢するしかない。

 人間の不条理と美紀への妬み。憤懣が由佳の心に鬱積した。

 由佳は尾行するつもりもなかったが、二人は由佳の前を歩き駐車場に止めてあった車に乗りどこへか去って行った。由佳は走り去る車を無表情で見ていた。


 会いはしなかったが、美紀は塩田と事件後も連絡を取り合っていた。

 美紀は塩田がひとみの恋人になれば良いと思った。時折ひとみが見せる寂しそうな顔を見るのが辛い。新しい恋がひとみを前のように明るくする。そうさせるのが自分の役目。使命感のような思いが美紀を動かした。塩田はひとみが好きだ。だが、ひとみは拒絶している。美紀は塩田に恋の成就に助力すると話し、塩田は大いに喜び、美紀を救世主のように頼りに思った。

 塩田はサッカーで伸び悩んでいた。チームでは後輩も増え、二十四歳でも若手から中堅の位置付けに変わって来ており、後輩の台頭もあり、技術・フィジカル面を強化しないと生き残れないとの危機感を持っていた。人一倍練習していたが結果が付いて来ない。

 そんな時、塩田は美紀が空手の達人と知り、美紀との会話がヒントを与えてくれた。空手の蹴りは重要かつ強力な武器であり、尚且つ、左右の蹴りを同等に稽古する。右利きの塩田は、ボールコントロールも当然右足中心である。空手の蹴りの訓練で両足を強化する。左足で強烈なシュートが打てるようになるかも知れない。上手くなる為には何でもする。効果があるかどうか分からないが、藁にもすがりたい心境の塩田は美紀に指導を頼んだ。

 塩田は美紀の通う道場で指導を受ける為に、美紀を迎えに大学に来て門で待っていた。その光景を由佳が見た。そんな事情を由佳が知る由もない。


 考えてもどうにもならない。不快になるだけ。由佳は塩田と美紀の姿を脳裏から振り払おうと努力した。だが努力は報われない。自分の意思に関係なく嫌味のように二人の姿が現れては消える。何かで気を紛らわすしかないと思った由佳は実家に帰り、気心の知れた友達に愚痴ろうと決めた。暫く会っていない友達も愚痴が溜まっているだろう。

 由佳は友達何人かに電話をして実家に呼び、実家に帰って友達と飲み、騒いだ。塩田も美紀も現れなかった。

 翌日、由佳は昼前に眼が覚めた。友達は昨夜に帰っていた。由佳の身体のサイズからすると無駄に大きいクイーンサイズのベッドから気だるそうに欠伸をしながら立ち上がり、トイレを済ませてキッチンの冷蔵庫から水を持って来てソファに座った。今日は授業がない。ゆっくり出来る。久し振りに親と食事でもしてやろうと由佳は思った。

 広い由佳の部屋は、いつ帰って来ても良いようにしっかり掃除がされており清潔だった。由佳を思う親心であったが、掃除をするのは家政婦だ。

 昨夜の憂さ晴らしの効果か、由佳の心は穏やかだった。

 グラスや皿で雑然とした、昨夜のままで後片付けのしていないテーブル。由佳はテーブルに置かれた数冊のアルバムに気が付いた。何でアルバムが置いてあるのか。由佳は久し振りに飲み過ぎて霞んだ記憶を手繰り寄せ、昨日三人でアルバムを見たのを思い出した。

 知美と優子。昨夜呼んだ友達二人とは由佳が小学校一年の時に転校してからの仲良しだ。由佳が転校する前の話になり、三人で幼児時期のアルバムを見て盛り上がったのだ。

 由佳は昨夜の会話を思い出そうとするように、一冊を手に取りアルバムを開いた。数ページ目の写真を見て、ページをめくる由佳の手が止まった。

『由佳六歳 美紀ちゃんと』とコメントが書かれた、由佳が三歳くらいの可愛い女の子と写っている写真を見て心がざわついた。

 女の子よりも、女の子が抱いている熊の縫いぐるみが由佳の幼い頃の記憶を刺激した。何か記憶はあるが朧げで、何なのか実態がはっきりしないのがもどかしい。このもどかしさを解消出来るのは母親しかいない。

 由佳はアルバムを持って母親が昼食の用意をしているキッチンに来た。母親は昼食を作り終え、ダイニングルームで一人で食べ始めていた。

 由佳の母親の洋子。二十代後半に離婚してシングルマザーで苦労をしたが、再婚の相手に恵まれ、四十六歳になった今は金を掛けたケアのせいか、顔の皴も少なく由佳と姉妹に見えると言われるのが自慢の女。由佳は母親似だ。

「一人で食べてるの?」

「さっき、起きたばっかりだからまだいいって言ったでしょ。食べたくなった?」

「いらない」

 由佳はアルバムを洋子の側に置いた。

「お母さん、この写真見て。覚えてる?」

「今、食事しているんだから後にして」

「ちょっとくらいいいでしょ。はっきり思い出せなくて、凄くじれったい気持ちなの。お願い」

 洋子はアルバムの写真を見て、即座に答えた。

「覚えていないの? 由佳小さかったからね。黒田さん、覚えてる?」

「お母さんが凄くお世話になったって言ってた黒田さんでしょう」

「この子はね、その黒田さんの娘さんの美紀ちゃん。由佳と遊び友達だったんだよ」

 黒田さんの娘の美紀ちゃん。黒田美紀。憎たらしい美紀の顔が又現れた。だが由佳は単なる同姓同名としか思わなかった。女の子はどうでも良い。気になるのは熊の縫いぐるみだ。

「女の子はどうでもいいの。この熊の縫いぐるみ覚えているんだけど、何で覚えているか思い出せないの。お母さんなら覚えているでしょう?」

 洋子が一瞬気まずそうな表情をしたのを由佳は見逃さなかった。

「あぁ、それね。由佳が美紀ちゃんにあげたのよ。だから覚えてるんじゃないの」

「えっ、私の物だったの。何であげちゃったの?」

「由佳があげたいと思ったんでしょう」

 由佳は考える風をして、洋子の眼を見据えた。洋子の眼が少し泳いだ。

「違う。私は自分の物を人にあげたりしない。だって、お母さんに似て子供の頃からけちんぼだったから、こんな可愛いい熊ちゃんを人にあげるはずないもの。誰があげたの? お母さん」

「美紀ちゃんが欲しがって駄々をこねてね、それで。もういいじゃない。昔のことでしょう」

「私は素直に言うことを聞いたの? そんな大人しい子だった?」

「そりゃ、泣いていやがったけど、話したらちゃんと分かってくれた。由佳は賢い子だったのよ」

「何が賢い子よ。お母さんは幼い我が子を泣かせて、黒田さんの機嫌を取ったのね。最低」

「しょうがないでしょう。お世話になっている人の娘さんなんだから。家賃ただでマンションに住ませてもらって、由佳と二人で暮らせたのは黒田さんのお陰なのよ。分かってる?」

「分かってる。何度も聞かされたもん。だけど、可愛がっていた熊ちゃん取上げられて、六歳の私可哀想」

「別の熊の縫いぐるみ買ってあげたのよ。なのにパパちゃんじゃないから嫌いだって抱こうともしなかったんだから」

「パパちゃんって何?」

「それも覚えてないの? 離婚してからも、伸司が何度も由佳に会いたいって言って来て、一年くらい拒絶していたんだけど、調子が良くて、憎めない奴で、根負けして、これっきりって約束させて、由佳の四歳の誕生日に一回だけ許したの。伸司、熊の縫いぐるみを誕生日プレゼントだよって由佳にプレゼントして。由佳、伸司が好きだったから。私に取って最低の男だったけど、由佳には優しいパパだったから。由佳が伸司に会いたがるのを諦めさせるのに大変だったのよ。とても辛かった。その頃からかな。縫いぐるみをパパちゃんって呼ぶようになったのは。伸司を思い出して不愉快だったけど、由佳には大好きな父親だからね。何も言えなかった」

 由佳は気が付いた。この熊の縫いぐるみだけは忘れられずに、心の片隅に消えることなく、ひっそりと記憶を残していたと。だから写真を見て気になった。

「パパちゃん」

 由佳は写真を見て言ってみた。切なくなり涙ぐんだ。記憶なのか、感傷なのか。由佳は幼き頃の切ない気持ちが蘇ったような気がした。

「私、本当のパパの顔覚えていない。写真見せて」

「みんな捨てちゃた」

「一枚くらいあるでしょう。本当の父親の顔も知らない不幸な娘にしておくの?」

 洋子は何枚かの写真を持って来て由佳に見せた。

「いつかそう言われると思って、取って置いたの」

 由佳と一緒に写ってる写真。由佳は写真に見入った。自分とどことなく似ていると思った。

 由佳は実の父親の存在を意識していなかった。今の父親を本当の父親のように思っていた。この点でも洋子の再婚は成功であった。再婚後、妹が出来たが新しい父親は由佳を実子のように愛情を注ぎ、幼い由佳も新しい父親に懐いた。伸司の存在は由佳の心から消えて行った。

 微かに残したパパちゃんの記憶が、母親に過去の事実を語らせ、実の父親のことを思い出し、忘れ去っていた幼い頃の心の痛みを追体験させた。今、由佳の心には二十二歳の感性での、幼い頃の悲しみと悔しさが満ちていた。

「パパに会いたくても会えなくて、パパちゃんをパパの代わりにして、パパちゃんはパパそのものなのに。そんな大切なパパちゃんを奪われて、辛かったね、由佳」

 由佳は幼い頃の自分が愛おしくなった。写真の頭を優しく撫でて呟いた。そして、隣に写る可愛い女の子、美紀を憎しみを込めて睨んだ。

「この子、小ちゃい私をこんな悲しい目に合わせて、何にも知らずに、いやな思いもしないで大きくなったんでしょうね。何か許せない」

「そんなこと言わないの。美紀ちゃんは由佳よりもっと小さかったんだから、自分のやったことなんて何も分からない歳でしょう。由佳に悲しい思いをさせたのは私のせい。ごめんね」

「お母さんの言うことは分かるんだけど、頭で分かっても気持ちが許さないの。そんなのってあるでしょう? この子、私と幾つ違うの」

「三つだったかな」

「だったら、今十九よね。自分のやったこと分かる歳よね。私、美紀に会ってパパちゃんを取り返す。黒田さんの電話番号教えて」

「何言ってるの。今更そんなこと出来る訳ないでしょう。由佳が忘れているくらいだから、美紀ちゃんだって誰からもらったか覚えていないだろうし。縫いぐるみだってまだ持ってるかどうか分からないでしょう?」

「なかったら、ないでいいの。どっちにしても、しっかりいやな思いをしてもらう」

「由佳、お願いだからそんなことはやめて。黒田さんに申し訳ない」

「お世話になったってまだ引き摺ってるの? 昔のことじゃない」

「今のお父さんと会えたのも黒田さんのお陰なの。分かってよ由佳」

 由佳は思い込みが強い。本当にやり兼ねないと思った洋子は、懇願するように言った。

 由佳は溜め息をついた。恩義を大切にする義理堅い母親。良い人が母親の人間性。それはそれで愛すべき母親なのだが、娘の気持ちを分かろうともせず、自分の気持ちを押し付けて来る。今の由佳にはそんな母親は煩わしいだけ。後で母親の携帯電話を盗み見て電話番号を見付けようと思い、話を変えようとした。

「しょうがないなあ、分かった。お母さん、今日の夕食、焼肉にしない? 久しぶりに貴楽苑の特選カルビが食べたくなった。お父さんも来れるかな~」

「良かった。ありがとうね、由佳。今日の夕食、焼肉にしましょう。ねえ、由佳。美紀ちゃんとのことで由佳が悲しい思いをしたのはパパちゃんのことだけなのよ。いつもは美紀ちゃんとは仲良しで、由佳がお姉ちゃんぶって美紀ちゃんを妹のように可愛がって楽しそうに遊んでいたの。仲の良かった幼馴染なんて欲しくても作れないでしょう。大事にしなくちゃ。許さないなんて言わないで。仲良しだった幼馴染に会うのだったら私は賛成。そうだ、黒田さんが自慢して送って来た、美紀ちゃんが高校の時に空手の全国大会で優勝した時の黒田さんと写っている写メがあった。面影が残っているわよ、どう?」

 洋子は携帯電話を手に取り写真画像を表示させ由佳に見せた。

 由佳が言うことを聞いてくれた。嬉しくなった洋子は、由佳が美紀に対する感情を変えてくれると思った。

 話を戻され、写真を見せようとする洋子に由佳は苛立ちを感じた。だが、にこにこして話す洋子にほのぼのとさせられ、邪険にも出来ず由佳は写真を見た。

 由佳は信じられないような表情で写真を見詰めた。あの黒田美紀が又現れた。同姓同名ではなかった。由佳の脳裏に、歩き行く塩田と美紀の後姿が映った。あの時の、行き場のない鬱屈した情念が蘇った。

 由佳は思った。

 幼き頃の美紀は父親の分身であるぱぱちゃんを奪い、自分に辛く悲しい思いを与えた。今の美紀は塩田の心を奪い、自分に行き場のない辛く苦しい思いを与えた。塩田と美紀を見た時は本当に苦しかった。今も苦しい。何で二度も辛い思いをさせられる。美紀に何もしていないのに、自分は何も悪くないのに。そんなのは不条理。美紀に同じ痛みを与えてやる。こよなく愛する者を奪われる悲しみ、苦しみを。

 現在の美紀は由佳に対して意図的に不当な行為をした訳でもなく、過去の美紀は幼児で何ら罪はないが、由佳の心情にそんな理屈は関係ない。

 洋子は、無言で写真を見て表情を険しくする由佳が心配になった。

「由佳、どうしたの。大丈夫?」

「何でもないの、気にしないで。部屋に戻るから」

 由佳は固い笑顔を見せ、ダイニングルームから自分の部屋に戻った。

 由佳は自分の思いを果たすにはどうしたら良いか考えた。由佳にしては稀に見る集中だった。

 美紀がこよなく愛する者とは誰か。分からない。

 塩田が美紀に恋しているのは間違いないが、美紀が塩田に恋しているとは由佳には思えなかった。手もつながず、寄り添いもせず、どこかよそよそしく、恋人同士とは感じられない。

 塩田が美紀だけに見せるのであろう、思いのこもった、引き込まれるようなあんな笑顔をされて惹かれない女なんていない。なのに何故。美紀には好きな男がいるから。女嫌いの塩田が惚れる程の女。男が放っておかない。男がいないはずはない。必ず見付けてやる。

 ここまで考え、由佳は自分の考えの欠陥に気が付いた。

 男を見付けてどうする。塩田が惚れる程の女。美紀を振る男などいやしない。自分に美紀から男を奪う魅力などない。だったらどうする。

 由佳は男を奪わなくても良いことに思い至った。誘惑するだけで良い。男に浮気をさせるくらいの魅力はある。男の浮気を美紀に暴露して、男に裏切られる痛みを与える。自分が最も辛かったのは男に裏切られた時。同じ痛みに苦しめ。

 由佳は行動を開始した。

 どうしても美紀の男が見付からない。直接聞いてやろうと美紀の懐に飛び込んだ。美紀は男嫌いで好きな男はいなかった。塩田が好きなのは小憎たらしいひとみだった。これが由佳の知った真実。全て徒労に終わった。由佳の思いは完全に空振った。そもそも塩田が美紀を好きだと思ったのが勘違いだった。美紀が塩田の心を奪ったのではない。不条理を理由にして美紀を憎む根拠を失った。

 パパちゃんの憎しみは残っている。パパちゃんで美紀を責めるか。今更、幼馴染の優しいお姉さんの仮面を外せない。

 心内にわだかまりは残ったが、もうこれ以上何も出来ない。由佳は美紀との関係を絶とうとした。だがマンションは隣の部屋。由佳が行かなくなった分、由佳を姉のように思う美紀が頻繁に部屋に来る。美紀に接触したのが大きな間違いだと由佳は後悔したが後の祭り。

 部屋に来る美紀に煩わしい態度を取っても、美紀は意にも介さず由佳を慕って来る。無邪気に真心で自分の心に入り込んで来る美紀を拒む程、由佳の心は歪んではいなかった。由佳はそんな美紀が少しずつ妹のように思えて来る自分に戸惑った。

 美紀は大学から帰って来ると、すぐに由佳の部屋に行く。ひとみを誘う時もあるが、ひとみは行く気もない。行ったら帰って来ない。夕食はひとみに作らせ、時間になると由佳と一緒に部屋に戻って来る。夕食が終わると由佳は自分の部屋に戻る。休日は由佳と出掛ける。

 自分はいつもそっちのけだとひとみは思った。拓馬のことで疎遠になったことはあったが、それとは違う。美紀から邪険にされた訳ではない。いつもと同じ笑顔で接してくれる。嫌われたとは思わない。美紀に取ってひとみより大事に思う人が現れた。ただそれだけのことだとひとみは思った。だが心中は穏やかではなかった。

 ひとみは焦りを感じた。このままでは由佳に美紀を取られてしまう。だが由佳が美紀に何かしている訳ではない。ただ、幼馴染の優しいお姉様であるだけだ。理性では分かっていても、ひとみは嫉妬心を押さえることは出来なかった。由佳が益々憎たらしくなった。

 由佳が思った美紀への仕打ち、消えたはずの由佳の思いがひとみに仇をなしたような、美紀を奪われる危機感を感じさせられたひとみは、そこに誰の作為もなく、ただ、不運な災難に見舞われたとしか言いようがなかった。

 ひとみはどうすることも出来なかった。美紀の気を引こうと、幼子が母親に駄々をこねるように我儘を言うことも出来ない。自分は幼児ではない。美紀も母親ではない。

 ひとみは思い返した。拓馬の死に憔悴し切った自分を、美紀が母親のようにどれだけ支えてくれたかを。<KBR>ひとみは思い至った。美紀に母親のように頼り切っている自分を。美紀に求めるものが何かを。

 ひとみは美紀にその何かを求めるのはやめにした。今までどれだけのことをしてもらったか。美紀が嬉しければそれで良い。ひとみの心は少し軽くなった。だが由佳への嫌悪は揺らがなかった。


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