男の純情
-1-
美紀は度重なる前田からの誘いを、都度断っていた。だが、前田はめげない。
美紀はめげない人間を嫌いではなかった。前田を嫌いでもなかった。だがそれは、男としてではなく、人間としての好悪だった。
これまで前田は、自分を拒む相手にはめげない情熱で、思う女を落として来た。初めは拒んでも、そんなに好かれているのかと、女は最後に自分を受け入れた。
前田は信じていた。自分の経験から。女は、最後は情熱にほだされて自分を受け入れるだろうと。だが前田は思いが及ばずにいた。それは、相手が自分を男として嫌いでないと言う前提があったことに。自分が相手に取ってそれなりに男としての位置付けにあったと言うことに。そうでなければ単なるストーカーになってしまうことに。
美紀が受動的な女ではなかったことと、美紀が思う男性観の揺らぎが前田に敵対した。元々男に余り興味を持たない美紀であったが、父親の浮気、村井の事件。男の身勝手と欺瞞に生々しく触れて、男性観は嫌悪に振れた。前田に取って最悪の巡り合わせだった。
美紀の気持ちははっきりしていた。男と付き合う気などまったくないと。
今までの言い寄る男は、何度かはっきりと拒絶すればあきらめた。前田から受けた恩を思う気持ちが、前田を人間的に好ましく思う気持ちが、断り方に弱さを生んだ。何度か断ればあきらめると思った。だがその攻勢がやまず美紀は鬱陶しくなって来て、この鈍感男がと、前回はきつい断り方をした。美紀は前田との断絶を覚悟した。
この頃から、美紀は外出して一人でいると、自分を監視するような視線を感じるようになった。気になって周辺を見回すが、それらしき存在は見当たらない。
美紀は気持ちが悪くなってひとみに相談した。男っぽい性格の美紀だが、やはり女の子だ。
「私も視線を感じることがあるよ。美紀だったら美人だから、もっと見られてるんじゃないの?」
「私もそんな視線は感じたことはあるけど、一瞬でしょ。ずーっと長く見られてるって感じ」
「もしかして、それってストーカー? 思い当たる人いる?」
「いない。あっ、前田さん。言ってなかったけど、しつこく誘って来るの」
「まさか、刑事だよ。そんなことするはずないよ」
「そうだよね。でも刑事って尾行するの得意そうじゃない。何か分かるかも」
「だったら、会って相談してみたら? でも、変な男事件でいろいろお世話になったばかりだから相談し辛いね」
「それに、この前しつこいのに苛々して、ちょっと感情的になってすげなく誘い断ったから、今更会ってなんて言えないよ」
「何でそんなことしたの。美紀らしくないよ。いつもの美紀だったら、最初からはっきり言って断るでしょ。あれだけいろいろと力になってくれた人なのに、前田さんに悪いよ。会って素直に謝まろう。二人だけが気まずかったら、私が一緒にいてあげるから」
「いろいろしてくれた人だからそうなっちゃたの。最初からはっきり言えばよかったのよね。前田さんの気持ち、もてあそんだみたいになっちゃって。私って最低だよね。ちゃんと私の気持ち言って謝る」
「謝って、ついでに相談しちゃおう。私が電話しようか?」
「ううん、私の問題だから美紀、頑張りま~す」
美紀は気まずさに耐え、謝りたいとも言えず、聞きたいことがあるから会いたいと、前田に電話をした。ひとみも一緒にと付け加えて。翌日、場所は警視庁に近い、以前会った八重洲のカフェで、時間は前田の指定した夕方五時に会う約束をした。
前田は、美紀がこれまでの女と勝手が違うと実感させられていた。誘う度に語気がきつくなり、前回は理由を付けない直截的な断り方になった。さすがの前田もめげた。嫌われた、もう駄目だと思い、美紀に電話が出来なくなっていた。
そんな時の美紀からの電話だった。一瞬喜び、ひとみが一緒だと聞かされ、最後通告かとも思い、一喜一憂し、でも会いたいと思い承諾してしまった。十歳も年下の美紀の言い成りになる自分が情けなかった。出来る男と自負していた自分が少年のようになってしまった。だが、好きなのだからしょうがない。
前田は冷静に戻ってから、ふと思った。聞きたいことって何だろう。美紀からの電話に舞い上がり、美紀とのことしか考えていなかった。美紀だけでなく、ひとみも来る。藤尾に黙って会って後で知れたら、又余計なことを教えただろうと言われる。一応、報告はしておこうと思った。
藤尾に話をして監視役に来ますかと冗談を言ったら、瓢箪から駒が出た。藤尾が同行すると言った。監視したいのか、ひとみに会いたいのか、表情からは窺い知れない。
藤尾がいれば、美紀から振られる悲劇の瞬間が回避出来るかも知れないと、微かな期待を持つ前田でもあった。
美紀とひとみはカフェに早めに来て待っていた。五時に少し遅れて、前田が藤尾と連れ立ってカフェに入って来た。
藤尾が来たのは意外だった。美紀は会ったらまず詫びるつもりでいた。だが上司の藤尾の前で謝罪したら、前田の行動を暴露して男のプライドを傷つけてしまう思った美紀は謝罪を憚った。
ウエイトレスにコーヒーを注文して、椅子に座りながら前田が言った。
「待たせちゃったかな。ごめん」
「いいえ。藤尾さんも一緒なんですか」
「何か聞きたいことがあるって言ってたじゃん。だから係長にも来てもらったんだよ。本当はね、俺が余計なことを喋らないか心配で来たの。俺、美紀さんの前だとお喋りになっちゃうから」
「お前が監視に来てくれって言ったんだろう」
藤尾はひとみをちらっと見て、有らぬ方に視線を向けた。
「相変わらず輝いているね。若いっていいね」
「そんな、前田さんだって若いじゃないですか。とても逞しく見えます」
前田も美紀も、いらぬ追従を言ってしまったと思った。美紀は前田を冷淡にあしらった引け目に、前田はこれから予想される悲劇に、ぎくしゃくする二人であった。
「それで、聞きたいことって何?」
「あっ、その前に、この前は電話ですみませんでした」
「いや、その話は……」
前田は口ごもった。
美紀は、そんな前田を気にもしないように藤尾に話した。
「この前、お世話になったばかりなのに、又すみません。藤尾さんは、今時の若いもんは遠慮を知らんって思われるでしょうけど、遠慮がないのは若さの特権で、すみません」
美紀はニコッと照れ笑いをした。
前田はたまらなく可愛いと思った。何でもすると思った。
藤尾はこいつめと思った。こんな可愛い顔をされて拒む男がこの世にいるか。女は怖い。こんな小娘でも男を操る術を知っている。藤尾はそんなことよりも、自分がじじいと思われているのが気に入らない。
「黒川さんには、俺がそんな風に思うじじいに見えるのかよ。寂しいよな。君等の父親より年下だぜ」
若ぶった話し方になった藤尾の心情を察した前田が、フォローした。
「そうだよ。藤尾さんは、ばりばりのアラフォー。あのキムタツだって、フクチヤマだってアラフォーだよ。じじいに見える?」
「彼等と比較したら、藤尾さんが可哀想なんじゃないですか?」
「どういう意味?」
「だって、彼等はスターでしょう。スターと比較したら見劣りするのはしょうがないじゃないですか。私が沼尻エリカと比較されたら、私、可哀想ですよ」
「似てるって言われてるんだ。美紀さんは沼尻エリカより可愛いよ。いや、だから、そういう意味じゃなくて。藤尾さんは若いって言うこと」
さりげない自慢かと藤尾は少し嫌悪感を持ったが、美紀には自慢する気などまるでなく、他人と比較されるのを嫌う思いからの率直な言葉だった。美紀に間接的な表現は似合わない。
「似てるなんて言われません。全然違うし。アラフォーで若いって、年が違いすぎてよく分からないんですけど、藤尾さんをおじいさんとは思っていません。言い方が悪くてごめんなさい」
ひとみが解説を加えた。
「キムタツで思い出しましたけど、美紀はナンバーワンよりオンリーワンなんです。他人と比較したってしょうがないっていつも言っています。他の人と比べなくても、藤尾さんは大人の男性として素敵ですよ。ねえ、美紀」
今度はひとみのフォローだった。美紀は小さく頷いた。
藤尾は何とも言えない顔をした。ひとみの本心とは思えなかったが、大人の男の自分がひとみに気を遣わせた。優しい娘だと思った。嬉しくもあり、自分の男の部分を露呈させて恥ずかしくもあった。
「いや、何か小野さんに気を遣わせちゃったね。大人気なくて済まなかった。それで何が聞きたいの?」
美紀が伏し目がちに言った。
「すみません。刑事さんなら詳しいと思って。私、何か監視されているような気がするんです。外に出ると、いやな視線を感じることが多いんです」
藤尾より先に前田が答えた。
「君だったら男の眼を引くでしょう。ねえ係長」
藤尾はこの出しゃばりがと思ったが、大人の対応をした。
「うん」
「そんなんじゃないんです。ずーっと見られているような感じで」
「そりゃ、魅力的な君だったら、ずーっと見ちゃうわな」
「茶化さないで下さい。そうだったら視線の方を見れば眼が合うでしょう。でも誰もいないんです」
「気のせいじゃないのかな」
「前田さんだって、視線を感じることってあるでしょ」
「たまにあるけど」
誰かに見られていると思って振り向いたらおばさんで、落胆したことがあった。前田は見栄を張った。
中々本題を切り出さない美紀に、ひとみが柄にもないおせっかいをした。
「刑事さんて尾行するのが得意なんでしょう?」
「そりゃ、まあ」
「美紀、誰かに尾行されているんでしょうか。ストーカーとか」
「誰か心当たりあるの?」
「冷たくしちゃった前田さんしかいないって、美紀言うんですけどね。尾行のプロだし」
「ちょっと待ってよ。何で俺がストーカーなの。プロだったら相手の足元を見るとか、視線を感じさせない尾行をするよ。変なこと言うなよ」
前田は真剣な顔をして抗議をした。藤尾は前田の狼狽をにやにやして見ていた。前田をストーカーと思っていたら、二人はこんな穏かな顔で前田に会いに来ない。そんなことも判断出来ない重度の恋愛病の前田がおかしかった。
ひとみは前田の思いもしない反応に驚いたが、おかしくなり、悪戯っぽい顔をして笑いながら言った。
「冗談ですよ、冗談。私も美紀もそんなこと思っていませんから」
美紀も笑いながら前田を見た。
「勘弁してよ。笑うなよ」
前田は赤面している自分を感じ、顔を見せぬように下を向いて羞恥に耐えていた。
「可愛い」
美紀の言葉に、前田は更に体を小さくした。
若い女は残酷だ。悪意はないが、男の純真な部分を手酷くいたぶる。<KBR>ひとみですらそうだと藤尾は思った。
「まあ、前田で遊ぶのはこのくらいにして。本当に尾行されているとしたら、黒川さんは刑事に尾行される理由もないし」
藤尾は言葉を切って、わざとらしく前田を見た。
「係長まで。もうよして下さいよ」
前田の立ち直りは早い。わざとらしい拗ねた顔で言い、皆の笑いを誘った。
「前田の言うように探偵とかのプロではなく、素人のストーカーの可能性が高いな」
「プロのストーカーっているんですか?」
美紀が聞いた。
「前田とか」
藤尾が言って大笑いし、前田も含め、皆はつられるように爆笑した。
「しつこいんですよ、係長。真面目に話しましょうよ。ひとみさんが一番悪い」
「ごめんなさい。それで、尾行している人を見付けるにはどうしたらいいんですか? 美紀、気持ち悪がっていて」
「尾行されているかどうか分からないから、今度の休みに俺が美紀さんの後を歩いて、尾行されているかどうか確かめてあげるよ」
「せっかくの休みなのに、そんなことまでしてくれなくていいです。見付ける方法を教えて下さい。ひとみに協力してもらって、自分で見付けます」
前田の好意に甘えてはならないと自分を戒め言った言葉であったが、少しでも機会を作って美紀の近くにいたいと思う前田には拒絶に聞こえた。美紀には恋する男心の純真が分からない。
「素人が簡単に出来ることじゃない。それに、本当にストーカーがいたら危険だよ。君達にそんなことはさせられない。代わりに俺と付き合ってなんて言わないから、安心して。善良な市民の悩みに応える警察官の義務だからさ」
前田は寂しそうに言った。
「ごめんなさい。私、前田さんに甘えちゃいけないから」
それ以上何も言えず、美紀は黙った。
「全然気にしなくていいよ。俺がそうしたいんだからさ」
ひとみが美紀の代弁をした。
「私達、お二人にたくさんお世話になって、又変な相談しちゃって、お二人の優しさに甘えちゃって、でも何のお返しも出来ないんです。いくら世間知らずの私達だって、そんなこと許されないって分かります」
これまでの会話から、前田と美紀の関わりを理解した藤尾が言った。
「別に、返さなくってもいいんじゃない。前田は黒川さんのファンだろ。俺は小野さんのファン。親衛隊みたいなもんだ。だから存在していてくれて、笑顔を見せてくれればいいんだよ。それが、男の純情だ。なあ、前田」
話を振られた前田は、自分の気持ちを余り表に出さない藤尾が、からかっても無視していたひとみへの思いを口にしたことに驚き、堅物が一歩前進したと喜ぶと同時に、俺達、あせらず、地道に行こうとのメッセージを感じた。
「係長、いいこと言いますね。その通り。でも、男の純情って何ですか? 演歌ですか?」
「男の心は演歌だよ」
「わ~、係長やっぱりじじいだ」
美紀とひとみは笑っていいのか戸惑い、笑いを噛み殺した。
「馬鹿野郎、演歌に年は関係ない。心だよ心。黒川さん、前田に頼りなさい。お返しなんていらないんだよ」
美紀は素直に藤尾の言葉に従おうと思った。こんな男達もいるのかと、爽やかな気分になった。ひとみは藤尾がかっこ好い男に見えた。
-2-
前田は美紀の姿が遠くに見える程度の間隔を空けて、美紀の後を歩いていた。美紀が徒歩で通学している大学までのルートだ。美紀がマンションを出る時がポイントだと思ったが誰も現れない。しばらくしてから追尾したが、その後もそれらしき男は現れない。
前日、前田は電話で約束を実行すると告げ、美紀の行動予定を確認してあった。この二、三日視線は感じないと美紀は言ったが、油断は出来ない。
美紀とひとみは学部が違い、講義も違う為、通学も別々であった。美紀は外出時一人であることの方が多い。何度も視線を感じるのは、美紀の居宅も把握されているからと前田は思ったが、尾行されていると確証がある訳ではない。大学に到着するまで何事もなかった。前田は美紀に大学を出る時に電話で連絡するように指示をして、それまで暇つぶしをすることにした。
前田は美紀の指定した校門の脇の木の陰で、目立たぬように美紀が出て来るのを待っていた。五分程して、美紀が一人で校門を出て三鷹駅行きのバス停の方へ歩いて行った。
少し間を置いて、前田も同じ方向に歩き始めた。怪しい男は見当たらない。
バス停に着くと、下校する多数の女子大生達が並んでバスを待っていた。前田はバスが来てから最後尾に並ぼうと様子を見ていたが、バスの車体が見えると、どこから現われたのか、大学生風の男が列の後ろに並んだ。ひょろりとした体型に真面目そうな顔付き。その印象からストーカーの偏執的な気配は感じさせないが、女子大生ばかりの女子大のバス停に男。違和感に前田の刑事の触覚がざわめいた。さりげなく、周りに気付かれぬようデジカメで男の写真を撮った。
バスが到着し前田は最後尾からバスに乗ったが、女子大生で混み合い、さながら車内は女性専用車状態になり、男は異物のように女子大生達に睨まれ、居心地悪そうに吊革にすがり付くように立っていた。この状況は前田も変わらない。
三鷹駅に着くまで降車する者もなく、バスは三鷹駅前に到着した。
後から乗った者から先に降りなくてはならない。<KBR>前田は降車して不自然にならぬよう、携帯電話を見ている振りをして脇に身を置いて降車者をやり過ごした。男は美紀の進む方向に歩いて行く。前田も歩き始めた。
しばらく歩いても男の歩く前に、遠く見え隠れして美紀の姿が見える。
美紀は駅前スーパーに入った。男もスーパーに入り買い物客を装っているが、品物を一つも買い物かごに入れない。美紀を直接見る様子はないが挙動は明らかに美紀を尾行している。
こいつが美紀に不安を与えているストーカーだ。前田は怒りを覚え、すぐにでも男に掴み掛かり問い詰めたい衝動に駆られたが、尾行しているだけではストーカーとは言えない。問い詰めても否定されたら終わりだ。刑事の冷静さが前田を押し止めた。
前田は男が尾行に手馴れているのも気になった。おそらく美紀は視線を感じていないはずだ。美紀が言った、プロのストーカーと言う言葉が思い出された。
美紀が買い物を終え、駅前スーパーを出て自宅マンションに向かった。男は着実に尾行を続けている。
時間的に人通りの少ない公園に差し掛かった。前田は男が美紀に接近しないか緊張した。その時、思わぬ事態が発生した。
美紀が左の方から来た男に話し掛けられるのが遠く見えた。美紀は歩みを止めた。他にもストーカーがいたのかと危機感を募らせた前田は早足で、尾行の足を止めた男を追い越し美紀に接近した時、話し掛けて来た男は離れて行き美紀も歩き始めた。
美紀を思う強い気持ちが前田の失態を生んだ。道でも聞かれたのか。前田は臍を噛んだ。尾行していた男を追い越してしまった。男に自分の姿を晒した。だが自分の存在を知られた訳ではないと思い直し、男を先に行かせようとタバコを吸う振りをしてベンチに座り、顔を伏せて横目で後方を見た。男の姿がない。男が消えた。
訝しんだ前田は男を捜すように後戻りをして、木の陰からの呻くような男の声を聞き、そっと近付き二人の男を見た。
前田と男の間を歩いていた野球帽を被った男が、前田が自分を追い越し歩き去った時、後方を確認してからいきなり走り出し、尾行の足を止めた男を羽交い絞めにして、脇に立つ木の陰に引きずり込み投げ飛ばした。
男は何が起きたのか理解出来ず、驚愕の表情で野球帽の男を睨み、反射的に殴り掛った。
「何するんだ。この野郎!」
野球帽の男は一歩前に歩を進め、身を翻し相手の力を利用するように腹に軽く拳を入れた。
男は前かがみに膝を折り、男の戦意は喪失して、しばらく苦痛に顔を歪め呻いていた。
この時、前田は二人の男を見た。男が腹を手で押さえて苦しんでいる。男の前に立つ野球帽の男が暴行を加えたのか。野球帽の男。濃いサングラスと削げ落ちた頬が冷酷な印象を与える。思い返せば美紀が駅前スーパーを出てから、自分と男の間を歩いていたような気がする。
同じ男を尾行していたのか。それなら大学から駅まではどうしたのか。タクシーを使ったのか。この野球帽の男は何者なのか。何で暴行を加えたのか。雑多な思念が湧き、前田はもう少し様子を見ようと思い、木の陰に身を潜めた。
「お前、何で美紀をつける。ストーカーか?」
「いきなり何しやがるんだ。俺にこんなことをしてただで済むと思うなよ」
男は虚勢を張った。
「もう少し痛い目をみたいようだな」
男の胸倉を掴み締め上げた。男は顔を赤黒くさせ搾り出すような声で哀願した。この時、男は支配された。
「苦しい、助けて下さい。何でも話します」
男は手を離され、ほっと息をついて話し始めた。
「俺はストーカーなんかじゃありません。彼女を尾行するように頼まれたんです」
「誰に、何の為に」
「友達です。彼女の男を見付けろって」
「それで男はいたのか?」
「それらしい男はいませんでしたよ」
「いつからつけている」
「四日前からです」
「お前、よくそんな暇があるな。学生か?」
「そこらのアルバイトより、いい金くれますからね」
「アルバイトで尾行していたのか」
「俺、探偵社でアルバイトしてましたから、そこんとこ見込まれて」
「その友達、探偵やってるのか?」
「違いますよ。女子大生ですよ。好きな男の浮気調査かなんかじゃないですか」
「おかしいんじゃないか? 浮気調査なら、好きな男を尾行させるだろ」
「知りませんよそんなこと」
「お前、学生だろう? 学生証を見せろ」
「いやです」
強引にポケットをまさぐりパスケースから学生証を取り出した。
「立東大学四年、生島悟郎か。いい大学行ってるじゃないか」
「返せ」
恐怖心が薄らいで来た生島は、強引さに再び怒りを発し、学生証をひったくった。
「頼まれて尾行していただけで、何で俺がこんな目に合わなくちゃならないのよ」
「どうだ。今度は俺のバイトをしないか」
野球帽の男は、財布から一万円札を三枚取り出し生島に見せた。
「あんた何者なんだ。黒川美紀の何なんだ。あんたがストーカーなんじゃないのか。正体が分からない人間の言うことなんか聞くもんか」
「じゃあ、これでどうだ。こんなバイト他にないぞ」
一万円札を二枚上乗せした。生島は五万円に眼を引き付けられた。
「俺の名前は山田。美紀の知り合いだ。悪党じゃないから安心しろ」
「いいでしょう。やばいことじゃなければやりますよ。何をやればいいんですか?」
「これからその女子大生を呼び出して、男はいなかったと報告しろ。それから、何で男を見付けようとしたのか意図を聞き出せ」
「いと?」
「お前、大学生だろ。そんな意味も分からないのか」
「分かりますよ。何を考えているかでしょう。あいつが話すかどうか確信が持てなかったんで」
「友達なら話すだろ」
「そんな深い友達じゃないんで」
「飯でも食って酒を飲ませろ。金を使ってまでお前に尾行させたんだろ。男が絡んでるんだよな。深いぞ、これは。相談に乗ってやれよ。酒代は俺が出してやる」
「聞けたとしても、友達の気持ちを他人になんか話せませんよ」
「お前、いい奴だな。その女が好きなのか?」
「違いますよ」
「心配するな。お前は俺に話さなくていい。お前等の近くに座れば話が聞こえる」
「盗み聞きですか。どうして、そうまでして知ろうとするんですか」
「昨日、たまたまお前が美紀をつけているのに気が付いてな。知り合いの、それも可愛い女の子が尾行されていたら気になるだろ。何かやばいって思うわな。それでお前を取っ捕まえて見れば、操る女がいた。美紀に、なんか悪いことされたらまずいだろ」
「あんたが彼女の男なんですか。気が付かれていたら見付けられる訳ないよな」
「そんな訳ないだろう。俺がそんなに若く見えるか?」
「そう言われれば、そうかな。すみません」
「それで、やるのか? バイトが終わったら全部忘れてやるから安心しろ。ストーカーみたいなお前の写真も消してやる」
「彼女に何もしないですよね」
「当たり前だ。警察沙汰はごめんだからな」
「俺を殴ったでしょ」
「美紀をストーカーから守っただけだ」
「俺は尾行しただけだ」
「写真を見て、警察はお前の言うことを信じるかな」
生島はしばらく山田を睨み、山田の持つ五万円に眼をやった。
「やりますよ。先にバイト代下さい」
生島は手を前に出した。山田は持っていた金から三万円を右手で掴んで生島の手に乗せた。
「残りは、うまく話が聞けたら呉れてやるよ」
「そんな、話が違うでしょう」
「ビジネスの世界じゃ当たり前だ。やる気になるだろ。頑張れよ」
生島は渋々金を受け取った。
山田と生島は連れ立って、三鷹駅に戻るように歩き始めた。
前田は意外な展開に驚いたが、とりあえず二人の後をつけることにした。尾行のホンボシが分かる。
前田は歩きながら二人の話を反芻した。尾行していた男はストーカーではなかった。尾行させた別の人間がいた。それも女子大生だ。女子大生がストーカーか。何でもありの今の世の中、有り得ないことでもない。その女子大生が来れば分かるだろう。
山田と名乗る男、美紀の知り合い。美紀を守ろうとする男。目深に被る野球帽とサングラスに、自分の面貌を隠そうとしているような胡散臭さを感じる。だが若い男の扱いは見事だ。恫喝と懐柔、慣れている。
前田は尾行をしながら美紀に電話をして確認した。名前や風貌に思い当たる人はいないとの返答だった。だが美紀を知っている。何か怪しい。
山田は三鷹駅近辺の炉端焼きの店を見付け、生島と店に入りカウンターに座った。時間が早いせいか、店内の客はまばらだった。
前田は少し間を置き、顔を見せぬようにうつむいて店に入り、前田達が座る奥のカウンターの後ろのテーブルに座った。山田は女子大生が来た時の為に、手前の方に生島と席を二つ空けて座っていた。
山田は女子大生に電話をさせ、ビールを飲みながら生島と雑談をしながら女子大生を待った。前田もビールを注文し、耳をそばだてながらのどを潤した。
どんな女が来るか。前田は化け物の出現を期待するような好奇心で女子大生が現われるのを待った。しばらくして、見覚えのある若い女が店の中に入って来た。あの女、暴行の現行犯で逮捕した男の女。美紀のマンションの隣に住む大木由佳。まさか、こいつが女子大生ストーカーか。
由佳が生島の隣に座り飲み物を注文した。
「悟郎、強引に呼び出して、報告なんて電話でいいって言ったのに。あっそうか、バイト代ね。それとも、私に会いたくなった?」
由佳は首をかしげ、上目遣いに生島を見た。高校のクラスメートであった生島は由佳のそんな思わせ振りな仕草に慣れていた。誰彼構わずそんな仕草をする。勘違いした男が恥を掻かされたのも見て来た。何の意識もない由佳の習性と思っていた。
「違うよ。これ以上尾行を続けても何にも出ないと思ってさ。もう終わりにしてもいいんじゃない」
「まだ四日目でしょ」
「えらく真面目な女でさ。あれだけいい女だったら、男の一人や二人はいそうな感じだけど、そんな雰囲気はまるでないんだ。一日目は夕方東京駅に行って、男が現れて、これかって思ったけど、これが彼女に似合わない男でね、それもだっせえおっさん二人。何話しているか分からなかったけど、同居の娘、小野ひとみって言ったっけ、その娘も一緒だったし、感じからして彼女の男じゃない。三日目に、日曜だから男とデートするかと思ったけど、小野ひとみと渋谷へ出てショッピング。男は誰も現れないし、男に声を掛けられても無視。二日目、四日目は大学へ行って、家に帰る。それの繰り返し」
俺はださいおっさんかと、前田は生島の後姿を睨み付けた。
「私ね、悟郎に頼む前に二日間美紀の後をつけたの。そうしたら振り返ったりされて、何度も見付かりそうになって、かなりやばかった。女って勘が鋭いじゃない。素人じゃ駄目なのよねきっと。それで悟郎が探偵社でアルバイトしているって聞いたの思い出して頼んだんじゃない。絶対男はいるの。悟郎、プロでしょ。見付けてよ」
「俺、プロじゃないし、ただのバイトだし。俺が彼女と付き合ってたら毎日会ってるよ。だから男はいない。間違いない」
「あんたも美紀に惚れたの? 男がいない方がいいと思っているんでしょう。男はみんな同じ。可愛い顔をしていたらみんな好きになる。みんなそうよ」
由佳の目線は生島を離れ、虚空に漂い、表情が険しくなった。
何を考えているのか。今まで見せなかった、自分の世界に入り込んでしまったような由佳に異様さを感じ、正気に戻そうと肩を揺すった。
「大木」
一瞬間を置いて由佳は生島に眼を向け、きっと睨んだ。
「だからどうなの?」
「何が?」
「好きになったのかって聞いてるの」
「そんな訳ないだろう。俺は顔だけじゃ女に惚れない。大木ってすげえ魅力的だよ」
「私と美紀を比べたでしょ。どうせ私はぶすな女よ。あんたになんか慰められたくない」
生島のさりげない告白であったが、言う場面を間違えた。完全な逆効果であった。
由佳は美人ではなかったが、自分が思う程のぶすでもなかった。
眼は大きく印象的なのだが、鼻が丸く少し上を向いている。ぽちゃっとした輪郭が美人のイメージから逸脱させていたが、これ等が逆に愛嬌を生み、持ち前の女を感じさせる所作が男の感性を刺激する。いわゆる男好きのする女であった。
過去のトラウマ、付き合っていた同じ高校の彼氏に、ぶすと言われて振られた失恋の痛みが心にこびり付き、自分を不美人と決め付けていた。言い寄る男もいて、自分が男に取って全く魅力のない女だとは思っていなかったが、美人に対するコンプレックスと不公平感が由佳の心に沈殿していた。
由佳の反発に、鈍感な生島でも言い方の誤りに気付き、山田に聞かれているのも忘れ挽回に躍起になった。
「そんな意味で言ったんじゃないよ。俺は、大木が魅力的で可愛いと本当に思っているんだ。嘘じゃない」
由佳はしばらく黙って生島を見詰めた。生島は大きな瞳の凝視に気恥ずかしさを感じたが、視線を逸らさなかった。
注文した生グレープフルーツサワーを店員が由佳の前に置いた。由佳はグレープフルーツの果汁を絞ってグラスに入れ、生島のジョッキにグラスを合わせ一口飲み微笑んだ。
「感情的になってごめんなさい。悟郎って優しいのね。もういいから」
由佳はバッグから財布を取り出し、二万円を抜いてカウンターの上に置いた。
「これでいいでしょ。この話はもう忘れて」
「ちょっと待てよ。大木の頼みだから理由も聞かずに引き受けたけど、大木が彼女の後をつけるなんて、そんな面倒臭いことをするのは余程のことだろう。何があったんだ、言ってくれよ。力になるから」
「心配させちゃった? ごめんね。そんな大したことじゃないの。ただ、美紀みたいな美人の彼氏ってどんな男か知りたくなって。冴えない男だったら面白いでしょ。それだけ」
「本当にそれだけか?」
心配した生島の気持ちに偽りはなかった。
「他に何があるって言うの? 私、これから用があるから。悟郎、ありがとう」
由佳は、もう話すことはないと言わんばかりに、椅子を立ち素っ気なく店を出て行った。
生島は店を出て行く由佳の後姿を眼で追い、姿が見えなくなると悄然としてうなだれた。由佳の言うことをそのまま信じてはいない。本心は言わずにごまかされたと思った。思わず自分の気持ちを吐露してしまったが、受け入れてはくれなかった。ごまかされたのがそれを物語っている。告白するつもりなどなかった。なんでこうなった。自分を由佳に無理やり会わせた男のせいだ。
生島は山田を睨み付けてやろうと横を向いたら、目の前に山田の顔があった。
「わぁっ」
生島は反射的に顔を引いた。
「学生、やっぱりあの女が好きなんじゃないか。でも残念だったな。相談相手にもしてもらえないとはな」
「あんたのせいだ。大木に会わなければこんなことにならなかった」
「小僧、何甘ったれたこと言ってんだ。てめえの魅力がないからだろうが」
山田は右手で生島の首を掴んだ。生島は首をすくめ怯えた表情をした。
「まあ、いいか。あの女の気持ちが大体分かった。ぶすな女の妬みだな」
「ぶすなんかじゃないですよ」
「お前、美紀との関係知ってるのか?」
「同じ大学ぐらいしか知りませんよ。山田さんは美紀さんと知り合いなんでしょう? 聞いてみればいいじゃないですか」
「二人に何があったんだろうな。見た所、普通の女子大生だけど何か普通じゃないよな。名前は何ていうんだ」
「由佳」
「字は」
カウンターに指で字を書いた。
「住所を教えろ」
「知りません」
「友達なのに知らないのか」
「手紙出すこともないし、必要ありませんよ。俺の知り合いはみんなそうです」
生島は、知り合いから聞けと言われる前に先手を打った。これ以上由佳の情報を得体の知れない怪しい男に知らせるのは、由佳を売るような気がした。生島にしては上出来の機転だった。
「お前等、年賀状も出さないのか?」
「メールで充分でしょ」
「お前等、日本人か? 嘆かわしいな」
「住所を知って、大木に何しようって言うんですか。大木は美紀さんの彼氏がどんな男か知りたかっただけだって言ってたでしょう」
「まさかお前、大木の話を鵜呑みにしているんじゃないだろうな。それ程の馬鹿じゃないよな」
「……」
「深くない友達も、告白したら情が湧いて守りたくなったか。冴えない学生と思っていたが、お前も男だな。お前、心配じゃないのか。愛する女が何かやらかすかも知れないんだぞ。警察沙汰になったらどうする。人生終わりだぞ。俺はそれを止めてやろうって言ってるんだ」
「そんなことする訳ないでしょう」
「お前、言ったよな。人の後をつけるなんて余程のことだって。その通りだ。それだけ知りたいことがあるんだよ」
「だから大木はそう言ったでしょ」
「浮気調査とか、容疑者の尾行は何の為にする」
「証拠を掴む為でしょ」
「証拠を掴んだらどうする」
「容疑者を捕まえるとか、離婚するとか」
「そうだよ。事実を知る為じゃないんだよ。知った事実で何かする為に尾行するんだ。冴えない男だったら面白い。女の妬みがそれだけでなくなるか? 女の浅知恵のごまかしだ。何かしようとしているんだよ」
「何を」
「それが意図だよ。お前が聞けなかったな」
「大木は犯罪みたいなことするような娘じゃありませんよ」
「深くない友達がそこまで分かるのか? まあ、犯罪行為かどうか分からんが、、美紀に何かダメージを与えようとしているのは間違いないだろう。もうお前も使えなくなった。大木が自分で何かしようとするんだろうな」
「だったら俺が止める。あんたは美紀さんを守れればいいんでしょう。あんたは大木に何するか分からない」
「だから、警察沙汰はごめんだって言っただろう」
「俺、これから大木をもう一度呼び出します。それで美紀さんに何もしないように説得します」
「そんなことしても、又白ばっくれられて終わりだ。美紀に何かしようとしている所を押さえるしかない」
「俺が監視しますよ」
「ただでか」
「大木を守る為だ。金の問題じゃありませんよ」
「お前、見直したよ。俺も美紀を守る為だ。時給千円出してやるよ。千円じゃせこいか」
「いえ、充分です」
「それで、大木の今の居場所分かるのか?」
生島は、ばつが悪そうに下を向いた。
「そんなことだろうと思ったよ」
山田が生島の頭を揺すり、笑い飛ばした。
前田は、美紀の相談から始まった尾行事件の経緯を理解した。もうこそこそと盗み聞く必要はない。
美紀を守ろうとする山田、何者なのか。正体を知る必要がある。生島は危うい。惚れた弱みで由佳に取り込まれる恐れがある。生島との会話から、山田は外見からの胡散臭い印象と裏腹に、かなりの洞察力と良識を備える人物であると思われた。直接話しても問題ないと判断して、前田は二人の前に出ようと決めた。
前田はカウンターの山田の隣の席に座った。
「監視しても無駄なんじゃないですか」
見知らぬ男に突然話し掛けられて、山田は訝しそうに前田を見た。
「ん、誰だあんた」
「突然済みません。前田と言います。黒川美紀さんと関係ある者です」
生島が思い出したように言った。
「あっ、東京駅で美紀さんが会った男ですよ」
「覚えてましたか。美紀さんと知り合いなのは証明されましたよね」
「美紀とどんな関係だ」
「友達ですよ。実は、美紀さんからストーカーの相談を受けて、ストーカーを見付けてやろうと思いましてね。そうしたら、あなた方二人が現われた」
「俺達をつけて、俺達の話もみんな聞いていたのか」
「済みません。ストーカーを見付けたかったんで」
「あんた素人じゃないな。それに友達でもない。若い奴等は友達と東京駅なんかで会わない。もう一人おっさんがいたんだろ。おっさん二人が友達な訳がない。何で東京駅でかは分からないが、美紀に調査依頼された探偵社か何かの人間だろ。大木の住所が知りたいのか」
「勝手に決め付けないで下さいよ。まず俺はおっさんじゃない。東京駅に若者はいっぱいいますよ。年の離れた友達がいてもおかしくない。友達なのは事実ですし探偵社とか関係ありません。生島さん、大木さんが美紀さんと同じマンションの隣の部屋だって知っているんでしょう?」
「……」
生島は警戒するように前田を見て、答えなかった。
「この前の、大木さんが関わった事件知ってますよね。友達ならば当然聞いているでしょう? 答えて下さい」
前田は少し強い口調で言った。
「そんな話知らないよ。あんたが何で大木のこと知ってるんだ」
「本当にお前は深くない友達だったんだな。大木さんの男がクスリやっててな。大木さんもやらされそうになって、拒むと暴力を振るわれてな。俺が大木さんに危害を加える男を逮捕した。お前の大好きな女を守ってやったんだよ。守れたのも隣に住む美紀さんからの情報があったからだ。それにしても、その大木さんがストーカーの張本人だったとはな」
前田は大学生である生島のため口にむかつき、ぞんざいに答えた。短気な男だ。
生島は、凄みのある前田の目線から逃れるように眼を逸らして言った。
「大木はストーカーなんかじゃありませんよ」
山田はまじまじと前田を見た。
「逮捕した? あんた刑事さんか。なるほどな。美紀に刑事さんの友達がいたのか。そりゃ、ストーカーの相談をするのには最高だわな」
「あなた、美紀さんと知り合いなんでしょう? 刑事の友達がいるって話聞いていませんでしたか? あなたも深くない知り合いですかね。俺もあなたの話聞いたことありませんし」
「親戚だよ。長く会っていないからな」
「久し振りに会おうとして、この男の尾行に気付いた」
「そうだよ」
「この男に、何で美紀さんの親戚と言わず知り合いと言ったんですか」
「尋問か? 俺は何かの容疑者か? いい加減にしろ」
「気に障ったら済みません。俺に取ってあなたは正体不明なんで」
「あんただって正体不明だろ。刑事だって言うのなら警察手帳を見せろ」
「今日は非番で、公務じゃないんで見せられません。公務中に友人のストーカー調査なんか出来ませんからね。あなたに不愉快な思いさせて、ここまで聞くのは刑事の立場からではないんです。実は、さっき電話で美紀さんにあなたのことを聞いたら知らないって言ってました。美紀さんの知らない人がこんなにまでして美紀さんを守ろうとしている。だから美紀さんに害意があるとは思えませんが、性分ではっきりさせないと気が済まないんです」
「覚えていないんだろう。遠い親戚だからな」
「そんな疎遠だった親戚の人が会おうとしたのなら、普通、連絡してから会うでしょう」
「どう会おうと、俺の勝手だろう」
「連絡もしないで会おうとすれば、相手の家を訪れるしかない。そんな時に尾行している人間に気付きますか? あなたは会おうとしたのではなかった。美紀さんの何かを探ろうとして様子を窺っていた。違いますか?」
「そんなこと、どうでもいいだろう。美紀に何事もなければそれでいいんだ。あんただってそれが目的でここにいるんだろう」
「そうですね。何であなたが正体を明かさないか分かりませんが、美紀さんを守りたい思いは信じていいでしょう」
「あんたに信じてもらう必要はない」
前田は、拒絶反応を示す山田の気持ちをやわらげようと柔和な表情をして、自分は取調室での藤尾を真似ているのかと思った。
「まあ、そうおっしゃらずに。私達の共通の目的の話をしましょう。生島さんが大木さんを監視すると言いましたが無駄だと思いますね。大木さんが美紀さんに何か暴力的な危害を加えようとするとしたら女の手では難しい。生島さんみたいな、言い成りになる男を使うかも知れない。そこまでするとは思えませんが、万が一がある。美紀さんを監視した方がいい。でも監視する労力は大変ですよね」
「刑事なら慣れているだろう」
「俺は仕事がある。出来ませんよ」
「だから、こいつにやらせればいいだろう。時給も払ってやるんだ」
生島が頷いた。
「もう一つ、さっき山田さんがダメージって言いましたけど、ダメージは暴力的な危害だけじゃない。インターネットに嘘の書き込みをするとか、大学に中傷のメールを送るとか、いろいろ方法はありますよね。監視しても無意味になる」
「どうしろって言うんだ」
「俺のことを刑事だって大木さんは知っています。事情聴取をしましたからね。これから大木さんに会って、知った事実を全て話して説得します。美紀さんの友達って明かしてね。恐らく何も話さないでしょうけど全てを知られ、美紀さんにも知られたと思ったら何も出来ないでしょう。警察が無言の圧力になるでしょうしね」
生島がぼそぼそっと言った。
「でも、それって押さえ付けただけで、気持ちは変わりませんよ」
「まあ、警察権力で犯罪者を押さえ付けて来た人間の考えそうなことだ。効果はあるだろう。だがな、生島の言う通り大木の気持ちはくすぶり続けるぞ」
「美紀さんに聞けば二人に何があったか分かりますよ。美紀さんは恨まれるようなような人じゃないし、何か誤解があったんでしょう。原因を取り除けば解決しますよ」
「そうだといいがな。大木の様子がどうも気になる。それで、前田さん。後は自分に任せろって言うのか?」
「任せて下さい。俺が終わらせますよ」
「俺達は用無しってことか。気張っていたのにな。プロに任せれば安心か。しかし俺達、妙な関係だな。会ったばかりの無関係だった三人の男が、二人の女を守ろうとしている。二人が守られればそれでいい。刑事の前田さんが二人を守ってくれるって言うのなら間違いないだろう。妙な関係はそこまでだ。俺達がこれ以上の関係になることもない。解決したら又、無関係に戻る。俺達の関係はそれで終わる。俺と会ったことも忘れてくれ」
「あなたみたいな人のことを忘れられませんよ。それに美紀さんと本当に親戚なのかも分からない」
「調べたいのか」
「はっきりしないと気が済まないって言ったでしょう。性格なんで済みません。だけど今は美紀さんを守るのが優先です」
「偶然にあんたに会ってしまったのも、何かの戒めかな。美紀に俺のことを話さないで欲しいんだ。俺は美紀の母親の又いとこで、若い頃付きまとって嫌な思いをさせた。それ以来一回も会っていない。そんな俺のことを誰にも話しはしないだろう。母親は結婚していて赤ん坊がいたんだが、その子が自分の子のように思えて可愛がっていたんだ。それが美紀だ。ひょんなことで親戚から美紀の消息を聞いて、娘になった姿を見てみたかったんだよ。俺の話をしたら母親に聞くだろう。自分の知らない親戚がいるかって。母親にいやなことを思い出さて、美紀に不愉快な思いをさせるだけだ。余計なことをした。俺のことは忘れてくれ」
山田はそれまでの高圧的態度を一変させて、穏かな口調でうつむきがちに言った。
山田が正体を明かして事情を話した。<KBR>美紀に自分の存在を知られたくない。知られたら美紀を不快にするから。理由はそれだけか。あそこまで正体を明かすのを拒んだ理由としては弱くないか。前田はそこまで考え、何でも疑う刑事のの悪い癖だと思い直し、考えを止めた。
「分かりました。あなたのことを美紀さんに話すのはやめましょう。わざわざ美紀さんに不愉快な思いをさせることはない。でも、俺のことを忘れろなんて言わないで下さいよ。せっかくの出会いじゃないですか。俺は人との出会いを大事にしているんです。いろいろ教えてもらえる。それに、どうなったか結果が知りたいでしょう。連絡先を交換しましょう」
前田は情報収集用の名刺を出し、携帯電話番号を書いて二人に渡した。
山田は行き掛かり上、自分のプライベートを会ったばかりの前田に話さなくてはならなくなったことが不快だった。こいつが現われなければ。そんな人の気も知らず、せっかくの出会いと言う。不快感が増幅した。だが、こいつが美紀を守ってくれる。解決してくれるまでの我慢と思い山田は感情の表出を抑え、携帯電話を取り出し前田から渡された番号に電話を掛けた。生島もそれにならった。
-3-
前田は二人と別れてから、美紀に会う為にマンションへ行くことにした。
山田と話した時は自分一人で由佳に会い説得するつもりであったが、女の部屋に一人で入るのは不適切であり、美紀を同席させ当事者同士で話させた方が誤解も解け、解決も早いと考え、美紀を伴い由佳の部屋を訪れようと思った。
前田は真剣な話をするのに酒臭いのはまずいと思い、近くのコーヒーショップに寄り濃いコーヒーを飲んで少し時間を置いてからマンションに向かった。
マンションに到着して、管理人に挨拶して依田事件の事後捜査名目で入室許可をもらった。事件の時に何度も訪れ、顔見知りになっていた管理人だった。エントランスのインターホンで美紀の部屋を呼び出すとひとみが出た。何か楽しげだ。オートロックドアを開けてもらい、部屋の前に来たらひとみがドアを開けて待っていた。気遣いの出来る優しい娘だと前田は思った。
前田は部屋に入りリビングルームのドアを開けて思わず立ち尽くした。思いもしない光景がそこにある。前田は眼を疑った。由佳がキッチンで美紀と談笑しながら楽しそうに料理をしている。
「前田さん、どうしたんですか? さあ、ソファーに座って下さい。今、二人がお鍋を作ってくれているんです。もう少しで出来上がりますよ。前田さんも食べてって下さいね」
前田はひとみに促されてソファーに座った。前田は考えた。なぜ由佳がここにいるのか。答えは容易に出て来ない。
美紀が前田にキッチンから声を掛けた。
「前田さん、お疲れ様でした。もう少し待ってて下さいね」
前田は由佳の事情聴取を思い出していた。
由佳は、あくまでも自分は被害者であると主張した。一時は好きであったであろう男を散々こき下ろした。男に対する愛情や思いやりは微塵も感じなかった。最悪な男に巡り会った不運を嘆いた。自らの意志で付き合い始めたのではないのか。自分に男を見る眼がなかったとは思わないのか。
前田は由佳を、何事も全て他人の責任にする自己中心的な女だと思った。見た目からは想像も出来ない、外見と内面とのギャップに女の怖さを再認識したのを思い出した。
そんな由佳が親しげに美紀の前にいる。尾行までした由佳の心が変わるはずはない。美紀に好意があって親しげにしているはずはない。美紀に接触して直接危害を加えようと言うのか。何を企んでいるのか。前田はこの場で企みを明かしてやると決意した。理解を超えた由佳の行動が、当初の、解決への楽観的な思惑を消失させた。
料理が出来上がり、女三人がいそいそとテーブルに料理を並べ、美紀と由佳、ひとみと前田がそれぞれ並んで座った。由佳は前田と眼を合わそうとしない。それぞれのグラスに飲み物を注いで美紀がグラスを取り、皆も促されるようにグラスを取った。
「それじゃ、乾杯しましょう。楽しい今日に乾杯」
美紀が楽しそうに笑っている。前田は若い女の子三人が醸し出す華やかで楽しい雰囲気に浮ついてしまう自分を苦々しく思った。何の為にここに来た。心地良い楽しい雰囲気を壊してでも言わねばならない。前田は意を決した。
「ここに来て大木さんがいるんでびっくりしたよ。大木さんは美紀さん達と親しかったっけ。あの事件の時は関係悪かったよね。その後親しくなったって聞いていないし、何でここにいるの?」
前田は雰囲気を壊さず、誘導するように相手を追い詰めるような器用さに欠けていた。刑事として不足している所だと藤尾から指摘されていたが、前田の性格に馴染む物ではなかった。表現は抑えたが、直截的に由佳を問いただし、反応を窺おうとした。だが、由佳は表情も変えず黙っている。反応したのは美紀だった。
「前田さん、大木先輩がいたらおかしいですか? まあ、事件の時はいろいろありましたからそう思いますよね。先輩は事件で私達に迷惑を掛けたのが気になっていて、今日わざわざ謝りに来てくれたんですよ。お詫びだってお鍋まで作ってくれて。フランソワのケーキまでいただいちゃって。凄く美味しいんです。先輩とはもっと早く仲良くなっていれば良かった」
(お前等、食い物に釣られてんじゃねえよ)
前田は腹を立てたが、大好きな美紀に感情を露にも出来ない。
「大木さん、何で今日なの?」
「それでね、先輩が白状してくれたんです。ストーカーは先輩だったんです」
「えっ?」
前田は意外な話に表情を動かした。由佳が自分で話した。なぜ。何か思惑がある。
前田の反応に満足したように、美紀が茶目っ気たっぷりな表情をした。
「嘘で~す。でも、私を見ていたのは先輩なんです。ストーカーなんかじゃありませんよ。私を心配して尾行してくれていたんです。事件のことで先輩から謝られて、怖い刑事さんの話になって、それって前田さんのことですよ」
美紀は機嫌が良い。悪戯っぽい眼で前田を見た。前田はそんな気分ではなかったが、可愛い美紀の表情を見ていると、つい頬が緩んでしまう。前田は調子を合わせ、眉間にしわを作っておどけて見せた。
「はい、はい。どうせ俺は怖い刑事でございますよ。大木さん、ごめん下さい」
「ねえ、先輩。前田さんって、私の言った通りの優しい人でしょう」
由佳はにこりともしないで、微かに頷いた。
「良かった、分かってくれて。私、先輩の前田さんへの印象が誤解だって分かってもらいたくて、前田さんにお世話になったこといろいろ話したんですよ。ストーカーの相談したことも。今日だって休みなのにストーカーを見付けに行ってくれていて、これから来てくれるって。そうしたら、先輩が話してくれたんです。尾行していたのは自分だって。私、びっくりしちゃって。でも理由聞いてとても嬉しくなって。先輩は私が悪い男と……」
「ちょっと待って」
前田が言葉を遮った。
「大木さんってこんなに無口だったっけ。美紀さんばかりに話させないで、理由は大木さんが話してよ」
由佳と話さなければ本心を探れない。前田は由佳に強い視線を向けた。由佳は眼を合わせようとしない。
「先輩は……」
「大木さん、俺はあんたに話しているんだ。何で答えない」
態度を変えない由佳に苛ついた前田は語気が強くなり、由佳はふしめがちに前田を見てすがるように美紀の体に身を寄せ、美紀の二の腕を握りつぶやいた。
「怖い」
美紀とひとみがきつい眼をして前田を見ている。
前田は由佳の態度にわざとらしさを感じた。事情聴取した時にも覚醒剤使用の疑いがあったから語気は強かったが、由佳はこんな弱々しい態度は見せなかった。
由佳に頼られた。弱者を守る。美紀の男気が大いに刺激された。
「先輩、前田さんはいい人だから怖がらなくて大丈夫ですよ。前田さん、先輩を怖がらせるなんて最低です。女の子には優しくして下さい。先輩は前田さんと面と向かうと事情聴取の時を思い出して怖くなっちゃうから私に話してって言ったんです。これからも私が話します。せっかく前田さんと打ち解けてもらえるようにしたのに」
前田は心内で溜め息をついた。美紀は由佳を何も疑っていない。それも仕方がない。自分が由佳を疑うべき情報を美紀に何も与えていない。由佳の行動、告白を想定もしていなかった。由佳が尾行したのは自分を心配してくれていたからと美紀は言った。このままでは何の疑いもなく由佳の言うことを受け入れてしまう。由佳のいない時に話せば、美紀は由佳への中傷と受け取るだろう。前田は美紀に嫌われても自分の疑念を話さねばならないと心に決めた。
「そう、大木さん、そんなに恐かったの。それは悪かった。謝ります」
前田は由佳に頭を下げた。
「あの時は犯罪を捜査する刑事の俺。今は美紀さんを心配する普通の男の俺。きついこと言わないから話をしてよ」
「もう何も心配はいらなくなったんです。もういいでしょう」
美紀はあくまでも自分で答えようとする。誠実な女だ。
「今日、美紀さんを尾行する若い男を見付けてね。その男の身元を確かめようと尾行を続けていたら炉端焼き屋で大木さんが現われて、びっくりしたよ。顔を覚えていたからね。側に座っていたら話が聞こえて来て。ストーカーは大木さんだったじゃない。耳を疑ったよ」
美紀が口を挟んだ。
「だから、さっき言ったようにストーカーじゃありません。先輩は……」
「まず、俺の話を聞いてよ。大木さん、いつでも反論していいからね。大木さんが美紀さんにどこまで話したか知らないけれど、その男、名前、悟郎って言ったっけ。悟郎は美紀さんの男を見付けろと言われた。大木さんが二日間尾行をして悟郎に四日間尾行をさせた。悟郎が大木さんに聞いたんだ。尾行するなんて余程のことだ。何があったのかって。そうしたら大木さんがこう答えた。ただ、美紀さんの彼氏がどんな男か知りたかった。冴えない男だったら面白いでしょって。大木さん、ここまで事実だよね?」
由佳がようやく口を開いた。
「それは口実です。美紀ちゃんと同じサークルの私の友達から、美紀ちゃんが悪い男と付き合ってるって聞いて、そう、依田みたいな男と。心配になって、男を見付けて別れさせようと思ったの。悟郎に美紀ちゃんのそんなプライベート話したくないから」
「そうだったんだ。だったら直接アドバイスすればいいじゃない」
「美紀ちゃんにはマンションで会っても眼をそむけられるし、嫌われているって分かっていたから。そんな私から自分の彼氏が悪い男だって言われたって、写真とかの証拠がなければ信じる訳ないでしょう? いやがらせとしか思われない」
「でも、今日は来た」
「男が見付からないし。私みたいになったらいけないと思って、勇気を振り絞って来たの。そうしたら受け入れてくれた」
「何かおかしいな。迷惑を掛けて気になっていた程度で、男と別れさせようとして自分が尾行したり、悟郎に尾行をさせたり、勇気を振り絞ったり。そこまで美紀さんを心配するかな~」
「何が普通の俺よ。やっぱり事情聴取の時と同じじゃない。だからあんたとなんか話したくなかったのよ」
「前田さん、いい加減にして下さい。先輩、もう話さなくていいから」
美紀は話をもう終わらせようと思った。だが、前田の話から、由佳に対する一抹の疑念が生じたのも事実だった。
由佳がいまいましそうに言った。
「いいの。あんたなんかに話したくないけど、おかしいなんて思われているのいやだから。ねえ、美紀ちゃん。美紀ちゃん小さかったから覚えていないでしょうけど、私、美紀ちゃんと幼馴染みなのよ」
美紀が驚いて由佳を見た。
「えっ!」
「あの事件の後、一人でいるのが辛くなって実家に帰ったの。小学校からの友達が家に来てくれて癒された。子供の頃の話になって昔のアルバム見ていたら、大きな家で小さな女の子と写ってる写真があったのね。私、その子が誰だか覚えていなかったんだけど、一緒に遊んだような記憶はあったの。それで、この子誰だったっけってお母さんに聞いたら、黒川さんちの美紀ちゃんって教えてくれた。黒川美紀って聞いてすぐ気が付いた。隣の憎たらしい女と同姓同名だって。ごめんね、その時はそう思っていたから。だから、写真の美紀ちゃんがあなたとは思わなかった。お母さんがその当時のことをいろいろ話してくれて、はっきりと思い出したの。私、その時は一人っ子で妹が欲しかったから、美紀ちゃんを妹のように思って可愛がっていたって。すごく懐かしかった。今どうしてるかなって聞いたら、お母さん今でも黒川さんと親しくさせてもらってるらしくて、黒川さんに送ってもらった、美紀ちゃんが高校生の空手全国大会で優勝した時の写メが残ってて、写真見てびっくりしちゃった。あなたが写っているんだもん。そうしたら憎たらしい思いはどっか行っちゃって、ずうっと会えていなっかった妹に巡り会えたような気持ちになっちゃったの。それですぐに会いたかったんだけど、よく考えたら美紀ちゃん小さかったから私のこと覚えていないだろうし、覚えてもいないこと言われても美紀ちゃん困っちゃうだろうし、私だけが懐かしがってるの変だなって思って、会うのやめたの。そんな時、美紀ちゃんの男の話聞いて、妹がやばいって思って。でも彼氏がいないって聞いて安心した」
前田は半信半疑の眼で由佳を見ていた。
美紀は視線を宙に置き、記憶の深奥を覗こうとしたが思い出せない。
「先輩、ごめんなさい。覚えていません」
「やっぱり困らせちゃったね。美紀ちゃんは狛江の大きな家に住んでいて、私のお母さんシングルマザーで、美紀ちゃんちの家政婦やってたの。家の側にマンションいっぱい持っていて、その一部屋に住まわせてもらって。近くの公園でよく一緒に遊んだんだよ。美紀ちゃんが大好きだった熊の縫いぐるみ覚えてる? 私があげたんだよ」
美紀は感動したように眼を輝かせた。
「そう、お姉ちゃんにもらったんだ。思い出したような気がします。それが先輩だったんですね。会えて嬉しいな」
美紀は幼い由佳の姿は思い出せなかった。だが、朧げながらお姉ちゃんの姿が心に浮かんだ。
「それで、いつまで遊んでくれていたんですか」
「良く覚えていないんだけど、一年くらいかな」
「私も、今まで知らなかったお姉ちゃんに巡り会えたような気持ちです。何か感動しちゃった。私長女だから、お姉ちゃんが出来たみたいで嬉しい」
美紀がにこやかに由佳に抱きついた。
「美紀、よかったね」
ひとみも嬉しそうに二人を見ている。
まるで、離れ離れになっていた姉妹の感動の再会シーンのようなムードになった。
前田はその場のムードには流されない、刑事の醒めた眼で三人を見ていた。
由佳の告白は美紀の反応を見ても真実だろう。美紀を心配した理由もうなずける。由佳への疑念は杞憂だったのかと前田は思った。だが、前田の感じていた由佳のキャラクターと、今の由佳とがしっくりこない。心の隅に漠然とした違和感が残った。
美紀を思っての行動は全て裏目に出た。由佳に嫌われるのは気にもならないが、間違いなく美紀の自分に対する心証が害されただろうと思うのが辛かった。だが何も言えない。弁解するのも逆効果だ。問題が解決したからそれで良い、それが男だと、前田は強引に自分を慰めた。
自分だけ場の雰囲気にそぐわぬ暗い顔をしている訳にもいかず、前田は笑顔を作り言った。
「美紀さん、幼馴染みに会えて、問題も解決して良かったね。大木さん、いろいろと不愉快な思いをさせて済まなかった」
「もう先輩に酷いことを言わないで下さいね」
美紀の口調がとげとげしい。
由佳が前田を見て、したり顔をした。前田は敗北したような不快感が込み上げて来て、美紀に気取られぬようにうつむいた。
横に座るひとみには前田のそんな表情の変化が見えた。辛そうな表情から前田の気持ちが察せられた。
美紀が由佳のことばかり気にして、前田の気持ちなど何も考えていないとひとみは思った。美紀の為に動いてくれたのに。美紀を大好きな前田が、わざわざ美紀がいやがることをするはずがない。由佳にきついことを言ったのも美紀を思う気持ちからだったのじゃないか。そう思うと、前田が可哀想になった。
美紀が鍋をつつきながら由佳に話し掛けようとするのを遮って、ひとみが言った。
「美紀、前田さんに今日はお休みなのにお仕事みたいなことさせちゃって、お礼言わなくていいの?」
「あっ、そうだった。前田さん、ありがとう」
美紀は鍋の具を取り皿に移しながら、前田の顔も見ず、素っ気なく言った。
「そんなこと気にしなくていいよ。俺がやりたくてやったんだから」
ひとみは人の心をないがしろにする人間が大嫌いだ。美紀も自分と同じはずだ。そんな美紀が今、最低なことをした。何が美紀をそうさせたのか。思い上がりか。ひとみは悲しくなり、そして腹立たしくなった。
「そうだったはないでしょう? 何、その態度。先輩に巡り会えて浮かれるのは分かるけど、美紀ってそんな恩知らずだった?」
ひとみの表情から穏かさが消えた。
「ひとみ、急に何言ってるの。何か怒ってる?」
「怒ってなんかいない、悲しいの。美紀が人でなしになっちゃったから」
「何よ、人でなしって。私が人でなしって言うの? 私のどこが人でなしよ」
「今、美紀がしたような態度でお礼言われたら美紀だったらどう思う。何も嬉しくないよね。美紀だったら怒るよね。口先だけで、ありがとうなんて思っていないって。そう、心がないの、感謝の心が。前田さんにいろいろお世話になっているのに感謝もしない。美紀ってそんな人じゃなかったでしょう。そんな、人の心を大事にしない人が大嫌いだったんじゃないの? だから人でなしになったって言ったの」
控え目で大人しいひとみが、自分にきつい叱責をした。初めてだった。美紀は驚きの眼でひとみ見た。
ひとみは拓馬が殺された時から変わっていた、変化を見せなかっただけなのだと思った。ひとみの指摘は正しい。だが、美紀の負けん気が指摘を受容するのを許さなかった。美紀はまだ十代、若過ぎる。
「前田さんだって言いたいこと言って、先輩の心を大事にしなかったじゃない。お互い様よ」
「人の心を大事にしない人がいたら、その人の心も大事にしないで思い知らせてやる。私もそうする。そんな人とは話もしたくないし、親しくもしない。美紀、前田さんってそんな人だっけ。これまで前田さんと親しくしてもらって、そんな人だと思ってた? そう思わないから親しくしてもらっていたんでしょう? 優しくて信頼出来る人だと思ったから頼ったんでしょう? そういう人が、平気で先輩の心を傷つけると思う? 前田さんが先輩にきつく言ったのは取調べみたいでいやだったけど、わざわざ大好きな美紀に嫌われるようなことを言って、普通そんなことする? しないよね。だったら何の為。美紀の為なんじゃないの? 美紀を心配して。私、一瞬先輩を疑ったもん。美紀もそうだったんじゃないの?」
由佳がひとみをきっと睨んだ。
「私を目の前にして、よくそんなことを言えるわね。小野、私の何を疑ってるのよ。私の言ったことが嘘だとでも言うの?」
「あっ、いえ、嘘なんて思っていません。本当です」
ひとみは言葉の弾みで言ってしまったいらぬ一言に気付き、あわてて答えた。ひとみも又、若過ぎる。
「私を疑ったって言ったでしょう」
「先輩、それは私に説教しようとして言っただけです。ひとみに説教されるとは思わなかった」
美紀は怒気を含ませ、由佳を上回る強い語気で言って由佳を沈黙させ、ひとみをかばった。だが、人でなしと言われたのがどうも気に入らない。
「ひとみ、あんたの言いたいことは分かったけど、私が前田さんの気持ちを考えなかったから人でなしって言うの? 人でなしって最低の言葉だよ。友達にだって言っていい言葉と悪い言葉があるの。取り消しなさいよ」
「言葉が悪かったら謝る。ごめん。私、言葉を知らないから。けど、私の話を説教って感じるなんて、本当に私の言ったこと分かったの?」
ひとみは、何で美紀が説教と言ったのか理解していない。由佳を黙らせる手段に使った言葉なのに。美紀は心内で舌打ちをしたが、これもひとみの持ち味でもあると思い直し、ひとみとの話を終わらせようとした。
「分かった、ひとみの言いたいことは良く分かったから。そうよね、前田さん、ひとみの言う通りですよね。私、いやな奴になっていました。ごめんなさい」
美紀は前田に向かって素直に頭を下げた。美紀の潔さだ。
「いや、俺こそ大木さんを疑って、美紀さんにいやな思いをさせたのは事実だから、申し訳なかった」
前田は、美紀に嫌われ、何も言えず、浅い関係すらも完全なる終わりを迎えたと覚悟していた。思いもしなかったひとみのフォローがはかない望みをつないでくれた。前田はひとみに感謝した。ひとみは前田を援護しようとした訳でもなく、美紀の誤りを正したかっただけだが、結果的に前田の思いをつなぐことになった。
前田は美紀に軽く頭を下げて、ひとみに顔を向け嬉しそうな笑顔を見せた。ひとみは、そんな前田の少年のような笑顔に前田の本質的な純真性を感じ、母性が刺激され、前田を応援したい気持ちになった。
「美紀も前田さんも、口で謝っただけで済むと思ってる?」
「何よ」
「気持ちは行動で示さなきゃ」
「どういうことよ」
「普段行けないような、そうね、料亭とか行ったことないでしょう。そういう所でお詫びの気持ちを込めてご馳走し合うの。私、舞妓さんのお座敷芸見てみたい」
「それ京都だよ。それにひとみは関係ないでしょう」
「前田さん、美紀ね、いろいろ引きずってて男性不信症候群が治っていなくて、男性と二人っきりは駄目なんですよ。だから私がいてあげます。その方が前田さんも照れ臭くなくていいでしょう?」
前田が困ったような顔をした。
「いや」
「ひとみ、余計なこと言わない。前田さんには本心から謝ったし、わざわざ京都まで行く気ないし。だから、ひとみの提案は却下」
「え~、京都旅行したいって言ってたじゃない。私、京都行って舞妓さん見たい~」
ひとみは頬をふくらまして、駄々っ子のような顔をした。
美紀は、前田をかばい、見せたことがない仕草を見せるひとみの気持ちを計り兼ねた。もしかして前田への恋心が芽生えたのか。そうであれば、ひとみに取って好ましい。
「だったら、前田さんと二人で行ってくれば?」
「それじゃ意味ないでしょう。いけず」
「何、関西弁使ってるのよ。怒ったかと思えば今度は我儘言って、今日のひとみ変だよ」
「そうね。ちょっと変かも。無口な私がいっぱい喋って、美紀にお説教なんかしちゃって、テンション上がっちゃったかな。私、お喋りって少し苦手だったけど、自分の気持ち話すのっていいね。もっと喋りたい感じ。あっ、先輩。気になっていたんですけど、美紀が悪い男と付き合ってるって、いい加減なこと言ったのは誰ですか?」
急に話を振られた由佳は戸惑った。
「何よ、もっと喋りたいのがその話? 旅行に行くか行かないかじゃないの?」
「ああ、それは美紀がいやだって言うからなしです。前田さん、ごめんなさい」
今度は前田が戸惑った。
「いや、それは、俺が謝られる話でもないし」
「そうよ、何で前田さんに謝るの。私が前田さんと京都へ行くのをいやがったみたいじゃないの」
「違うの?」
「違うわよ。私、お詫びの為にわざわざ京都まで行く気はないって言ったの。ひとみが行きたいだけでしょう。それにお詫びなんて、前田さんとはそんな堅苦しい間柄じゃないし。前田さんだってきっと同じ気持ちよ」
「俺はどっちでもいいんだけど」
前田がぼそぼそとつぶやいた。
「そういうことです先輩。行きません。それで誰ですか? 嘘を言ったのは。嘘を言うなんて、許せないですよね」
「嘘を言ったんじゃなくて、噂を教えてくれたんじゃないのかな」
「ちっぽけなサークルの中で噂なんかあるんですか? それって陰口ですよ」
「それに、そのお陰で美紀ちゃんと仲良くなれたんだし」
「陰口言う人をかばうんですか? 美紀だってそんな人との付き合い方考えないといけないでしょう?」
「ひとみ、ほっとけばいいの。先輩だってお友達付き合いあるだろうし。私、誰彼構わず言いたいこと言っちゃうでしょ。だからサークルでも生意気だって嫌われている先輩は何人かいるの。そんな人達と関わるのはこっちからお断り。先輩、気にしないで下さい」
「美紀ちゃん、大人だね」
(どうせ私は子供ですよ)
ひとみはほっとしたような表情を見せる由佳を、口をとんがらかして睨んだ。
「ひとみ、そんな顔していないで。今日のひとみ、本当に変だよ」
(何、睨んでるのよ)
由佳はひとみを睨み返した。そして由佳とひとみに同様な思いが滲み出た。どうも、こいつとは性が合わない。