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変な男

     -1-


 藤尾は捜査一課のフロアにある喫煙室でタバコを吸いながら物思いに耽っていた。

 村井事件は記者発表された。意外な事実にマスコミの反応は大きかった。殺害、自殺の動機、状況の説明に対する質問よりも、自殺を他殺と見誤った点と捜査過誤に記者の質問は集中した。

 村井の意図に警察がはまった失態を正当化する為、具体的な状況証拠、物証を挙げ捜査に誤りはないと強く表明し、村井の手紙の内容開示要求には、情報提供者の守秘要求を理由にして拒否し、一切触れなかった。

 事件は終息したのにもかかわらず、警察が踊らされた事件、女の愛憎劇として、人の好奇心を刺激する話題はその後もしばらくマスコミを賑わした。警察幹部はこの状況に苦り切っていた。

 捜査にミスはなく嶋野逮捕は当然の帰結であり、それが事実であると藤尾は思っている。捜査一課としての判断も同様だった。だが、真実を見極められず警察の失態と見られたのも事実であった。

 藤尾は思った。四十二歳で警部にまで昇って来たが、もうこれで出世は終わりだ。類い稀な執念と頭脳、実行力を持った村井みどりの事件に関わったことが不運だった。藤尾に不運を恨む心が生じたが、村井への感慨故か、淡々とした物だった。

 前田が喫煙室に入って来た。

「係長、タバコの時間長いですよ」

 前田もタバコに火を付けながら言った。

「ここは俺の憩いの場所だって知ってるだろ。じっくり物が考えられる」

「そうでしたね。さっき俺の携帯に黒川美紀から電話がありましたよ。会いたいって」

「何で黒川美紀がお前の電話番号知ってるんだ」

「マンションに行った時、名刺渡したじゃないですか」

「それだけじゃないだろう。俺に内緒で捜査名目で何度かマンションに行っただろう」

「すみません」

「まあ、いい。今後勝手に動くなよ。それで、事件の真相を教えくれってことか」

「さあ、聞いてもらいたい話があるって言ってましたけど」

「それは口実だろう。俺に電話したら拒絶されると思ってお前に電話したんだ。お前も分かっていただろう。前田、あの娘が気に入っていたな。まさか教えたんじゃないだろうな」

「まさか。これでも俺は捜査一課の刑事ですよ。でもあの娘だったら、教えてやりたくなりますけどね。係長だってお気に入りの小野ひとみに教えてやりたいんじゃないですか」

「馬鹿言ってるんじゃない。娘のような年だ」

「あれ、俺、女として気に入ってるなんて言ってませんよ。あの年代には今時珍しい純な娘だって係長が気に入ってると思ってましたが、そうだったんですか。係長、若いですね。今は年の差なんて関係ないですからね。独身だし、頑張って下さいよ」

「そんなことがある訳ないだろう。冗談言ってるんじゃない」

 藤尾は狼狽した。その狼狽が藤尾の心中を物語ってしまった。藤尾はひとみに連絡出来ずにいる自分を思い出した。 

「あっそうですか。冗談のつもりはないんですけどね。ねえ、係長。被害者家族じゃあなくても、恋人だったら家族みたいなもんですよね。深く傷を負ってるんですよ。憎むべき犯人が違っちゃたらどう思いますか? 事情を知りたいですよね。我々刑事も被害者関係者へのフォロー必要なんじゃないですかね。話せる範囲で真相を教えてやってもいいんじゃないですか?」

「俺達のどこにそんな暇がある。黒川美紀に会う口実を作りたいだけだろう」

「係長だって小野ひとみに会いたいでしょう?」

「まだ馬鹿なことを言うのか」

「刑事だって男ですよ。出会いのチャンスは活かさないと。今度のヤマ、中野でしたね。三鷹に近いな。聞き込み、足を伸ばしてみますか、係長」

「却下だ」

「素直になりましょうよ、係長」

 前田忠。野放図な所があり、押しが強く、その癖誠実さを持つ性格を刑事に向いていると思い可愛がっていたが、時々神経を逆撫でするようなことを言う。藤尾は前田を(にら)み付けて喫煙室を出た。前田はにやにやしながら藤尾の後に続いた。

 自分の席に戻った前田の携帯電話が鳴った。美紀からの電話だった。前田は美紀に十時頃までに警視庁の近くまで来て電話をするように話してあった。

前田は生真面目な顔をして藤尾に聞いた。

「係長、黒川さんが近くに来ているから会いたいって言ってるんですけど、どうします? 小野さんも一緒のようですよ」

「これから所轄に行かなければならないだろう」

「あわてることないですよ。行くついでに会ってやりましょうよ」

 藤尾の気持ちを読んでいる前田は、藤尾の答えを待たず、東京駅での待ち合わせを約束して電話を切った。

 藤尾は、本意ではないが仕方なく部下に従ってやった体を装い、東京駅の八重洲口改札で二人に会い、無言で地下街のカフェに入った。

 一言も言葉を発しない藤尾を気にしてか、美紀が詫びた。

「藤尾さん、お忙しくてお疲れのようなのに、すみません」

 前田が答えた。

「疲れてなんかいないよ。係長のパワーは凄いんだから。久し振りに君達に会えて照れ臭いの」

「え~、藤尾さんが? 嘘ですよね~」

 美紀がおどけた素振りで首をかしげ、下から覗き込むように藤尾を見た。藤尾は気恥ずかしさを隠すように、美紀の視線を外し言った。

「何で俺が二人に会うのが照れ臭いんだ。前田、いい加減なこと言うな」 

「本当は二人じゃなくて一人なんだよね」

「何ですか? それ」

 藤尾は前田の暴走を止めようと、前田の足を蹴った。

「いて、口で言って下さいよ」

「あなた達が何を聞きたくて私達に会いに来たのか、言わなくても良く分かります。理由も。小野さん、そりゃ最愛の人を殺されて憎んでいた犯人が突然違っていたって言われれば混乱しますよね。事情が知りたいですよね。マスコミの調査能力は大したもんです。ほぼ事実です。それで事情は分かりますよね。捜査にミスはありませんでしたけどね。一つだけ小野さんに言っておきましょう。塩田さんは村井みどりから一方的に愛され、裏切られたと思われ殺されました。塩田さんは村井を好きでも何でもなかった」

 藤尾は伝えたかったことを、しっかりとひとみの眼を見て言った。

「ありがとうございます。大丈夫です。拓馬は私の心の中に生きていますから」

 藤尾はひとみの返答に、恋人の死から立ち直れたのかと安堵したが、素っ気なさに自分の思いが空振りしたような空しさを感じた。

 美紀が申し訳なさそうに言った。

「藤尾さん、すみません。私達、事件のことを聞きたくて会ってもらったんじゃないんです。もう事件のことは忘れたいくらいなんです。気を遣わせてしまってすみません」

 前田がちらっと藤尾を見てにやっとした。眼で、考えが外れましたねと言っていた。

「そうだよね。いつまでも引きずりたくないよね。それで、聞いてもらいたいことって何?」

 美紀が答えた。

「私達の住んでるマンション、女子学生専用で男子禁制なんですけど、隣の部屋に変な男が来るんです。見た感じが変な男が、何度も部屋に入るのを見たんです」

「今時、男子禁制なんてあるの。そりゃ若い女の子だったら、男を部屋に入れたいよね。余計な金掛けないで済むし」

 美紀が前田を睨んだ。

「あ~、ごめん。余計なこと言った。男子禁制なら管理人とかのチェックがあるんじゃないの?」

「隣の人と付き合いないし、他人のことと放って置いたんですけど、ひとみがその男にエレベーターの中で迫られたんです」

「何!」

 話は前田に任せようと思っていた藤尾が敏感に反応した。

「それで、無事だったのか?」

「部屋が三階だから、すぐに一階に着いて逃れられたんです。ひとみから話を聞いて、すぐに管理人さんに抗議に行きました。管理人さんも度々注意していたらしいんですけど、自分はマンションの所有会社の社長の娘だとか言って、管理人なんかいつでも辞めさせられるって脅されたそうで、管理人さんも大変ですねって話が終わっちゃって。管理人さんには頼れないし、私、隣の部屋に抗議に行ったんです。ネームプレートで名前は大木由佳って知っていたんですけど、話すのは初めてで。同じ大学の四年生って分かって、先輩に文句言いに来るなんていい度胸ねって逆切れされて、話にならないんです。いつも私がひとみの側にいてあげられればいいんですけど、そうも行かなくて。これからが心配です」

 前田は自分が頼られていると思い、強い口調で言った。

「黒川さんが側にいればいいって話じゃない。黒川さんが一緒にいたって、襲われたら女二人じゃどうしようもないでしょ」

「美紀、強いんです」

 ひとみが言った。

「はあ?」

「もしかしたら前田さんより強いかも知れない。空手の達人なんです」

「それにしたって男の力には女はかなわない。自信過剰は禁物。その男、小野さんの体に触ったりした?」

「いいえ、その前に一階に着きました」

「どんな感じの男?」

「だから、見た感じが変な男なんです。眼がギラギラしていて、暴力を振るわれそうでとても怖かったです」

 ひとみは思い出したように身震いした。

「シャブですかね、係長」

「可能性はあるがこの状況じゃ動けんな。所轄も相手にしないだろう」

「何かあったらどうするんですか。犯罪を未然に防ぐのも警察の仕事です。俺は動きますよ」

 二人の美女が頼もしそうに前田を見た。二人に、単純な男供を乗せてやろうと言う計算がないと言ったら嘘になる。

 前田は下を向き、小さな声で藤尾に言った。

「チャンスですよ、チャンス」

 藤尾は無意識に咳払いをして、前田を見ずに言った。

「お前は俺が何言ったって聞きゃしないしな。あっ、それから君達、部屋から出る時や帰って来る時は、男に会わないように充分に注意して。エレベーターも使わない方がいいな」

 前田は藤尾の暗黙の了解だと思った。本気でひとみを心配している。

「その男、調べてみますよ。美紀さん、男が来ている様子があったら電話くれる。すぐに行くから」

 呼び方が黒川から美紀になり、美紀への親密化アプローチの第一歩は、抵抗感もなく受け入れられた。

「はい、お願いします」

「それじゃあ係長、所轄に行きますか。美紀さん、中野だから一緒に行く?」

「せっかく東京駅に来たので、駅弁買って帰ります。今日はどうもありがとうございました。これからよろしくお願いいたします」

 美紀とひとみは自分達の代金をテーブルに置き、立って頭を下げカフェを出て行った。藤尾達も支払いを済まして外へ出た。

「いい娘ですね。今時の若い子がちゃんとコーヒー代置いて帰りますか? 感動もんですよ。完全に惚れた。俺は絶対美紀を守る。係長もひとみを守って下さい」

「前田、調子に乗るな。俺達は事件の捜査をしてなんぼの刑事だ。仕事の手を抜くなよ」

 藤尾は突っ走る傾向がある前田の手綱を締めた。燃えている前田にどれ程の効果があるのか分からないが。


    -2-


 前田は美紀達の住むマンションのリビングにいた。美紀から、ベランダに出たら隣の部屋から男の声が聞こえる、男が来ているようだとの連絡があったのだ。男子禁制と言われていたので管理人に警察手帳を提示し捜査名目で入室許可を得た。

 入ることを待望していた美紀の部屋だった。前田は男が出て行ったら尾行をして身元を確かめるつもりでおり、玄関のドアを少し開け、リビングルームのドアを開放し、廊下の音が聞こえるようにして様子を窺っていたが、美紀の住む部屋にいる高揚感が落ち着きを失わせ、前田は集中を欠いてしまっていた。

 隣の部屋の玄関チャイムの音が小さく聞こえ、玄関のドアーを叩く音がした。すぐに動いたのは美紀だった。ドアの隙間から見ると、ドアが開き例の変な男が部屋に入って行くのが見えた。前田が来て美紀をどかせて廊下を見た時には、ドアは閉まっていた。

「前田さん、動作遅いですよ。刑事さんて機敏に動く人と思っていましたけど、違うんですね」

 美紀の容赦のない指摘に、前田はいつもの俺じゃないとも言えず、失点を後悔した。

 リビングルームに戻って美紀がいぶかしげに言った。

「おかしいです。今、あの変な男が部屋に入って行きました。だったら、声が聞こえた男は誰だったんですかね」

「今時、男が二人いたって不思議じゃないよ。間違いなく変な男がいるのが分かっただけで十分だ」

 そんな会話をして、美紀が冷めたコーヒを淹れ替えようとキッチンに向かった時、隣の部屋のドアが乱暴に開く音がして、怒号が聞こえた。

 脱兎の如く、今度の前田の動きは早かった。素早く靴を履き廊下に出た。少し遅れて美紀とひとみが続いた。

 由佳の部屋にいた、もう一人の男と思われる男が、変な男に胸倉を掴まれていた。玄関のドアは開けられ、由佳がドアのノブを握り、心配そうに二人を見ている。

 変な男の方が顔半分くらい背が高い。変な男が怒鳴って、もう一人の男の顔を殴った。

「てめえ、とっとと消えやがれ」

 もう一人の男は倒れず耐えているが、反撃しようとしない。

「由佳にクスリやらせようなんてとんでもない野郎だ。お前こそ消えろ」

「うるせえんだよ」

 二発目の強烈な殴打に、もう一人の男は耐え切れず廊下の壁にしたたか体を打ち当ててうずくまり、さらに足に蹴りを入れられた。

 前田はクスリと言う言葉に敏感に反応した。

「警察だ。暴行の現行犯で逮捕する」

 警察手帳を提示すると、変な男に飛び掛り、素早い動作で逆手を取り、後ろに回って足を払ってうつ伏せに倒し、手錠を掛けた。武道家の美紀は、流れるような前田の動作に見とれた。男は何が起こったか認識出来ぬ間に、無抵抗で逮捕されてしまった。

 前田は由佳の承諾をもらい、由佳に先導させて逮捕した男を引きずるようにして部屋に入り、男のバッグから覚醒剤らしき物を見付け、藤尾に誇らしげに電話をした。

「係長、変な男を逮捕しました」

 前田の唐突な話に、藤尾は苛立ちを隠さず言った。

「結論から言うお前の悪い癖だ。何があったのか順序立てて話せ」

「あっ、すみません。男性への暴行がありましたので現行犯で逮捕しました。男の名前は依田誠。それと依田のバッグからシャブを発見しました」

「まだ何だか良くわからん。後で詳しく報告しろ。所轄を行かせる。場所は小野さん達のマンションか?」

「そうです。俺がいるのは、隣の301号室です」

「俺もこれからそっちに行く」

「来る頃には、依田は所轄ですよ。直接所轄に行った方がいいんじゃないですか?」

 前田は意地の悪い言い方をした。

「お前だってその男を所轄に引き渡したら、そこに居残るんだろう」

「そりゃ、暴行を受けた男性と、隣の女性の事情聴取がありますからね」

「そんなのは、所轄がやることだろ」

「部屋でシャブをやったかも知れないじゃないですか」

「鑑識にやらせろ」

「それでいいんですか?」

「まあいい。俺が着くまでそこにいろ」

 

 美紀は廊下でうずくまっている男に近寄り、声を掛けハンカチを手渡そうとした。

「大丈夫ですか? これ使ってください」

 男は顔を上げ、ハンカチを受け取り血が滲んだ唇に当てた。

「すみません」

「痛くありませんか? お医者さんに行きましょう。案内します」

「このくらい平気ですよ」

 男は、美紀の側で心配そうに自分を見ているひとみに眼が移り、驚愕して思わず聞いてしまった。

「あなた、ひとみさんですよね」

「えっ、何で私を知ってるんですか? どこかで会いました?」

「あっ、いえ、いいんです。余計なことを聞きました」

「途中でやめないで下さい。気になります」

「こんな所に座ってないで、私の部屋に来て下さい。消毒薬くらいはあるから傷の治療しましょう。ひとみ、そっちを支えて」

 美紀が男の脇に手を入れ立ち上がらせようとした。

「自分で立てますから」

 男は自力で立ち上がり、足を引きずって美紀達の部屋に入った。

 前田は廊下の殴られた男が気になったが、逮捕した男の側を離れる訳にはいかない。加害者の男を逮捕したら、被害者の負傷を気遣うのが取るべき行動であったが、クスリへの意識が先走ってしまった。

 そんな時、美紀から前田の携帯に電話が掛かって来た。

「美紀さん、びっくりしたでしょう。まだ廊下にいます?」

「いる訳ないでしょ。前田さんてどういう神経しているんですか? 犯人逮捕出来て嬉しいんでしょうけど、怪我人ほっぽといて何してるんですか」

「俺も逮捕した男をほっぽって置く訳にもいかないんだよ。所轄、んー、近くの警察署の警官が来たら病院に連れて行くから、廊下から男性をこの部屋まで連れて来てくれない。お願いします」

「男の人は私達の部屋に連れて来て、傷の消毒をしました。だけどそっちの部屋には連れて行きません」

「どうして?」

「変な男の顔も見たくないし、大木さんと顔も合わせたくない」

「分かった。所轄が来たら俺がそっちへ行くから、男性をよろしく」

 前田は所轄を待つ間、詳細の状況を藤尾の携帯電話にメール送信した。

 唇に絆創膏を貼り、顔と蹴られた足を氷で冷やして、男はソファーに座っていた。

 傷の治療はひとみがした。男は、水に濡らしたガーゼで丁寧に傷口を拭くひとみに、母親に愛撫されているような母性と、情感細やかな女性を感じた。

 ひとみは薬箱を仕舞い、美紀は冷たいお茶をリビングルームに持ってきて、二人は床に敷いたカーペットに直接座った。

 美紀が、男を見上げるようにして聞いた。

「傷、痛みませんか?」

「いえ。すみませんでした。見ず知らずの人間の俺に、傷の手当までしてもらって」

 ひとみが聞いた。

「あなたに取っては、私は見ず知らずの人間ではないんでしょう?」

「それは」

「どこで会いました? 私は覚えていないんですけど」

 男は下を向き、ためらうような素振りを見せたが、顔を上げ言った。

「俺の名前は塩田満男です」

「塩田さんですか」

 ひとみは名前を聞いて誰か思い当たらなかった。だが美紀はピンと来た。拓馬の本名が塩田だ。拓馬の何なのか。

「塩田順一の兄です。順一の葬式に来てくれたでしょう」

 ひとみが気掛かりで美紀も一緒に葬儀に行ったが、会場には入らず外で待っていた。

「あっ、拓馬の本名塩田順一だった。拓馬のお兄さんなんですか。ごめんんさい。私、あの時取り乱していて、お兄さんのこと何も覚えていなくて」

 拓馬の甘い顔貌とは違う、奥二重の日焼けした男性的な顔付きからは、美紀もひとみも兄弟であると思い至らなかった。

 拓馬の兄が現れた。塩田の逡巡が美紀の心にアラームを鳴らした。ひとみを知っている。拓馬との関係を知っている。ためらうのは、何かひとみに後ろめたさを持っているからなのか。自分の素性を明かしたのは、後ろめたく思う何かを言おうと決意したからではないのか。拓馬の所業を謝るとか。

 余計なことを言わせてはならない。拓馬がやっと美しい思い出になったひとみの心を乱してはならない。だが美紀の思考がまとまるのが少し遅れた。

「ひとみさんに会うべきか心を悩ませていたんです。住所は葬式の芳名帳で分かりました。まさかこのマンションとは思ってもいなかったけど。今日、こうして会えたのも順一の意志だと思います。それで……」

 美紀が話を遮った。

「あの、ちょっといいですか。さっき前田さん、あの刑事さんが、塩田さんを隣の部屋に連れて来て下さいって言われていたのを忘れていました。怒られちゃうんで、さあ、行きましょう」

「え~、話が終わってないんだけど」

 美紀は塩田を立たせて、マンションの廊下に出て表情をきつくした。

「ひとみに何が言いたいんですか」

「あれ、隣の部屋に行くんでしょ」

「それは口実です。ひとみはやっと拓馬の、ごめんなさい、順一さんの死から立ち直って普通に戻れたんです。余計なことを言わないで下さい」

「兄として弟のやったことは謝る義務がある」

「律儀ですね。でもあなたの自己満足でしょ。今でもひとみは順一さんに愛されていたと信じているんです。そっとしておいてやって下さい」

「そうでしたか。あれだけマスコミを騒がして、順一もいろいろ言われたから。ひとみさんから憎まれていると思っていました」 

「あなたが順一さんのお兄さんと知った時、ひとみが憎々しげな顔をしました? それで分かるでしょう、ひとみの気持ちが。あなたは感度が鈍いんです。順一さんを信じ切れる。馬鹿に見えるでしょうけど、それだけひとみの心は綺麗なんです。それで、ひとみに謝ろうかどうか心を悩ませていたんですか?」

「いや、順一と同じように憎まれてもいい。兄だから。ただ順一の最後の本心を伝えたかった。死んでも憎まれている順一の為に。でもそれって君の言うように、自分の都合の自己満足ですよね。そんなこと知ったって順一のやったことは消えない。憎しみも消えない。でも伝えておきたい、順一の為に。思い悩みました」

「順一さんの本心って何ですか?」

「殺される少し前に、何年振りかに順一に会ったんです。兄弟の縁なんですかね。突然俺に会いに来て、店が持てるのが嬉しかったんでしょうね。その時に順一、ひとみさんの写真を見せて言うんです。ホストなんかやっていなかったら、ひとみを本当に好きになっただろうなって。自分を何も疑わなくって、何も要求しなくって、自分みたいなホストには最高のカモだけど、嫁にしたら可愛くって最高の女だろうなって。母親みたいな女とは全然違うって、店を持ってやり直そうとして気付いたそうです。ひとみさんと切れる約束をしたから、もうどうしようもないって悔やんでいました」

「そうだったんですか」

「だから、酷いことをしたけど、死ぬ前の順一は、ひとみさんを好きだったって伝えておきたかった。ひとみさんが順一を信じてくれているなら、そんなことどうでも良かったんですね」

「塩田さん、ひとみにこう言って下さい。塩田さんは、順一さんから村井みどりは援助してくれる女性として尊敬していて、男女の関係ではないことを聞いて知っていた。だけどマスコミの報道から、ひとみが二人に男女の関係があると疑っていると思った。愛しているひとに死んでも疑われているのは弟が不憫だ。真実を話そう。だけど兄の自分が言ったら、かばっているようで逆効果にならないか。疑いを確信させてしまうのではないか。そう思い悩んでいた。順一さんの気持ちは嘘じゃないでしょ」

「順一の気持ちはそうですが、援助してもらう為に、村井みどりとは関係があったと言ってた。だからそこは嘘になる」

「塩田さんて真面目な人なんですね。お願いします。私の為に言う通りにして下さい」

 美紀は頭を下げた。

「いいでしょう」

 二人が部屋に戻ろうとした時、前田が依田を引っ張って部屋から出て来た。それと同時にエレベーターが3階に着き、どやどやと出てきた所轄の刑事達が前田に歩み寄り、依田の身柄を受け取り、何やら話し、二人の刑事が依田を連行し、残りの刑事が部屋に入った。前田は所轄の刑事に入出の為、マンションのオートロックドアの開放を管理人に依頼するように指示し、近くに立つ二人に気付いた。

「美紀さん、こっちの部屋に来てくれる気になったの? 来なくていいよ、俺がそっちに行くから」

「行く気なんてありません。廊下でちょっと話をしていただけだから」

 前田は塩田に顔を向けた。

「怪我、大丈夫ですか? これから刑事が病院にお連れします。それから、警察署で事情をお伺いしたいのですが、よろしいですか?」

「待って下さい。塩田さんとの話が済んでいません」

「塩田、あなたのお名前、塩田さんですか。あれ、一度お会いしてますよね。塩田順一さんのお兄さん」

「はい、塩田満男です」

「そうですか。何かの因縁なのかな~」

 前田が驚いたように言った。

「俺も因縁を感じます。小野さんに会いたいと思っていて、会えずにいて。順一がここに来させたと思っています。小野さんに償ってくれって」

 塩田と話していた事情が分からない前田に、美紀が簡単に説明をした。

「だから、塩田さんにはひとみにまだ話してもらわなくてはならないことがあるんです」

「だけどな~」

「大木由佳は自分の部屋で事情聴取を受けているんでしょう?」

「いずれ警察署に行ってもらいますけどね」

「俺も美紀さんの部屋で話しますよ」

「だけど、塩田さんのプライバシーもあるでしょう」

「小野さんに真実を知って欲しいんで、構いません」

 こいつ、小野、小野って、小野ひとみに好意を持っているのかと、前田は思った。

(やばい、係長のライバル出現だ。どう見たってこいつにはかなわない。係長、ご愁傷様)

「塩田さんがそうおっしゃるなら」

 三人は部屋に戻った。

 塩田はひとみに美紀に言われた通りの話した。、

「そんなこと、私分かっていましたから。悩ませちゃってすみませんでした」

 塩田はちらっと美紀を見た。美紀が僅かに頭を下げた。

 もうお前等の話は終わっただろうとばかりに、前田が聴取を始めた。

「塩田さんが依田に、逮捕した男ですが、暴力を振るわれた経緯を話してもらえますか」

「由佳に呼ばれて。あの男、由佳が今付き合ってる男で、少し前から強引に部屋に来るようになって、それはそれで良かったらしいんですが、気持ちいいからクスリをやれと強要されて、拒絶すると暴力を振るわれて、別れたいけど怖くて別れられない、助けてってSOSがあったんです」

「それで部屋にいたんですか」

「はい。女に暴力を振るうような汚い奴は、口で言ったって言うことなんて聞かないでしょう。逆切れして暴れるかも知れない。俺の力じゃ別れさせられないから警察権力を利用しようと、いや、頼らせてもらおうと思ったんです。男に電話させて、クスリをやってみるからと言って男にクスリを持って来させて、俺が部屋で隠れていて、クスリを出したら現れて男を罵ってやる。男は逆上しますよね。目撃者がいた方がいいから廊下へ出させて、俺を殴らせる。それから、警察に通報しようと思っていたんです。そうしたら刑事さんがいて。びっくりしましたよ」

「あんた、頭いいね。うまく利用されたよ」

「市民の為の警察に頼らせてもらったんですよ」

「まっ、いいか。あんたのお陰で男を逮捕出来たし。大木さんとは、痛い思いをしてまで助けてあげる関係なの?」

「俺、トレイス多摩FCでサッカーやってるんです。ホームが調布で、由佳の大学と近いので熱心なサポーターになってくれて、特に俺のファンで親しくなって。そんな関係の友達です」

「元カノなんじゃないの? 友達でそこまでやる? 特にサッカー選手だったら怪我したら困るでしょう」

「そんなの関係ないでしょう。友達が助けを求めて来たら、助けるのが男なんじゃないですか?」

「まあ、どっちでもいいけど。小野さんへの話も済んだようだし、それじゃあ刑事を呼ぶんで病院に行って下さい。警察署にも寄ってもらいたいし」

 前田は所轄の刑事を呼びに部屋を出て行った。

 塩田はしばらくの間うつむいて沈黙していたが、意を決したように、真剣な顔をしてひとみを見た。

「ひとみさん、又会ってもらえますか? 順一と俺って兄弟なのに全然似ていないでしょう? 隔世遺伝なのかな、でも本物の兄弟です。母親は子供より男を大事にするどうしようもない女で、俺が五歳くらいの頃から何人も男を変えて、そんな母親にえらい苦労させられて。俺達、母親を見ていると女ってこんなもんだと思わされて、女が大嫌いになった。そんな順一がひとみさんを好きになったんです。ひとみさんは母親みたいな女とは違う、深い何かがある。もっとひとみさんのことを知りたい。このまま行ったら俺は一生女嫌いで終わってしまう。ひとみさんに会えたのは、順一が俺も変われって言ってくれてるような気がするんだ」

「拓馬のお兄さんですから会うのはいいですけど、私深い女でもないし、塩田さんの女嫌いを治すことなんか出来ませんよ」

 ひとみは困惑したような顔をして美紀を見た。

 美紀がひとみをかばうように言った。

「さっきから、順一さんがひとみに運命的に会わせたみたいに言ってますけど、それは塩田さんの思い込みでしょう。偶然ですよ。ひとみ、困ってるじゃないですか。女嫌いなのはあなたのトラウマで治すのは自分の問題でしょう。ひとみに押し付けないで下さい。順一さんが好きになった女だから、あなたもひとみを好きになったんじゃないですか? 私にはそう聞こえます。女嫌いとか、運命とか理由付けてないで、好きだからって言ったらどうなんですか?」

「それは」

 はっきり物を言う女だと塩田は思った。これからもひとみに会いたい。腹の底から自然に湧き上がる気持ちは止められない。自分はひとみが好きだと素直に思った。

 塩田もはっきりと言った。

「そうだね、これからもひとみさんに会いたい。美紀さんは偶然って言うけど、やっと、好きになれる女性(ひと)に順一が会わせてくれたと思うから」

 美紀は塩田を率直な男だと思った。ひとみには真実でも、偽りであった拓馬との恋を決別させる、新しい恋の相手に相応しいのかとも思った。

「ひとみ、どうする。もう女嫌いは治ったみたいだし、付き合っちゃう?」

「美紀、酷いこと言わないで。拓馬はいつも私の心の中にいるの。他の男性(ひと)と付き合える訳ないでしょう」

「そうだよね。塩田さん、あなた現れるの早過ぎ。じっくり行こう」

 塩田は黙って頷いた。

 リビングルームのドアの側にたたずみ、藤尾と前田はやり取りを聞いていた。

 前田が隣の部屋に行こうとして玄関のドアを開けた時、ひとみ達の部屋の前まで来ていた藤尾と出くわし、部屋に戻って来ていた。

「あの男が、塩田順一の兄の満男です。あれだけの男が告白しても駄目ですか。係長、気を落とさないで下さい。気長に行きましょう」

 藤尾は無言であった。


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