女子大生 美紀とひとみ
-1-
夜の十一時過ぎ。昼と見紛う渋谷駅前の雑踏。
足早に駅に向かう一人の女。黒く長い髪。愛くるしさの中にあでやかさを漂わせる容貌。背はそれ程高くないがモデルを思わせるスタイル。服装の色合いは地味だがセンスのある着こなし。行き交う男の眼を引くのに充分な好い女。
女は歩を止めた。女の子が髪を染めた軽薄そうな若い三人の男に言い寄られ、付きまとわれているのを見た。女の子は明らかにいやがって逃れようとしているが、男達が回りを囲んで逃さない。
通行人は見て見ぬ振りをして通り過ぎて行く。
女はナンパかと思ったが、ナンパにしては度が過ぎる。女の正義感に火が付いた。
女は側に行き、怒鳴った。
「あんた達、何やってんのよ」
男達の視線が女に集まった。
「ん、何」
「その娘いやがってるじゃない。離しなさいよ」
「透、まじいい女。こっちの女の方がいいよ」
「ねえ、これから面白い所行かない? 楽しいよ」
男達の矛先は女に向き、手前の男が女の肩に手を置いて女が後ずさった刹那、男の顔を女の強烈な回し蹴りが襲った。男は何が起きたか分からずその場に崩れ落ちた。
他の男達も何が起きたのかすぐには理解出来ず呆然としていたが、次々と繰り出す女の回し蹴りに倒れ落ちた。
通行人は路上ダンスパフォーマンスと思うような、女の一瞬の早業だった。
男達は起き上がり反撃しようとしたが、空手の型のような威嚇に、捨て台詞を残し逃げ去った。
「化け物女が!」
「ありがとうございました」
言い寄られていた女の子が頭を下げた。日本人形のような娘だと女は思った。
「強いんですね。凄い」
女は憧れにも似た賛辞を無視して言った。
「あなた、怖かったでしょ。大丈夫?」
「ええ、少し興奮しています」
「あなたみたいな真面目そうな娘が、一人で夜遅くこんな所にいちゃ駄目だよ。どこまで帰るの?」
「三鷹です」
「えっ、本当? 私と同じじゃない。じゃ、送ってってあげる」
二人は歩き始めた。
「あなた、高校生?」
「違いますよ。大学一年です」
「へ~、そうなの。擦れてないんだね。あなたもしかして、大学に入って東京に出で来た?」
「はい」
「それで大学の側に住んでる。違う?」
「そうです」
「それじゃ、大学は千代田女子大学」
「何で分かるんですか?」
「三鷹には千代女しかないでしょ」
JR中央線の三鷹駅。大学の近辺に多くの学生が部屋を借り住んでいた。
「良く知ってますね?」
「だって、私も同じ大学だから」
「お姉様、先輩なんですか。びっくりです。よろしくお願いしま~す」
女の子は又、軽く頭を下げた。
「あなた、人を見る眼があるの? 何がお姉様よ。そんな老けて見える? 私も一年生。あなたと同じだよ。失礼しちゃう」
「え~、嘘。信じられない。どう見たって私より年上ですよ。浪人したとか」
「現役合格よ。ふざけたこと言ってると送ってってあげないよ」
「あなただって、私のこと高校生のガキって言ったでしょ。お互い様です。でも、お姫様の危機を救ってくれたナイトがこんな綺麗な女の子とは。何か残念です」
「誰がお姫様よ」
「私、小野ひとみです。こっちでお友達あまりいなくて。仲良くして下さい」
「同い歳なんだから敬語はよそうよ。私、黒川美紀。よろしく」
旧知の仲のように、帰途の電車の中でも会話は弾んだ。翌日キャンパスで会うことを約束して二人は別れた。
黒川美紀。上場一流企業の役員の娘で、親の愛情に包まれ奔放に育って来た。ただ最近は父親の浮気が発覚し家庭内がぎくしゃくして、美紀はそれを嫌い大学入学を機に、親に強引に認めさせ一人暮らしをしていた。美紀は大好きだった父親の醜態に男性不信に落ち入っていた。
空手は武道好きな父親の影響で小学生低学年から始め、中学、高校と全国大会で優勝した猛者であったが、空手で助長された男っぽい性格と裏腹に、女性的な細やかな優しさを持つ美紀でもあった。
小野ひとみも地方都市の資産家の娘で、物に頓着しない、良い意味での、いわゆるお嬢様なのが気が合った一つの理由なのだが、大きくはその精神的清廉さにあった。
二人の資質、親の教育、環境が良かったことが、欲望が精神性を陵駕してしまった現代の世相の中で、二人の年代には稀な女子に成長させていた。だが稀であるが故の、純粋であるが故の、若き乙女達のこの麗しき性格が彼女達に苦悩を与えているのも事実であった。
ずる賢い、不誠実等、受容し難き人間に対し、美紀は勝気な気性のままに言葉で拒絶して来た。引っ込み思案のひとみは、相手の存在そのものから逃避して相手を拒絶して来た。
忍耐してまで人間関係を保つことを好まない二人は、当然の結果として親しい友人は少なかったし、親友と思える友はいなかった。だが二人はやっと親友に巡り会えた。
-2+
ひとみはホストクラブ好きの、数少ない親しい友人に誘われて、初めてホストクラブへ行った。
ノーメイクに近い化粧、地味な服装、控えめな所作。美人の部類に入るのだが、自分の好みもあり、ひとみは目立たない女であった。決して男嫌いではなく片思いの淡い恋情を抱いた経験もあったが、男から求愛されたこともなく、男と付き合ったこともなく、今時珍しい精神的にも肉体的にも正真正銘のバージンであった。
このような男に対する免疫のない女が、イケメンの男にちやほやされ、擬似恋愛を仕掛けるホストの手練手管に翻弄され、擬似である認識も持てず、ホストへの恋に落ち入るのに時間を必要としなかった。
ひとみはホストに溺れ、ホストに貢ぎ稼がせ、親からもらう小遣いでは足りなくなりキャバクラで働くようになった。
ホストクラブはイケメンが女を楽しませてくれる場所程度の認識しかなかった美紀は、ひとみのホストクラブ通いを最初の内は、ひとみも遊ぶようになったと微笑ましく見ていた。
だがホストの為にキャバクラで働く姿を目の当たりにして、ホストのことを調べホストの実態を知り、眼を覚まさせようと何度も説得したが、熱に浮かされているひとみは何を言っても聞く耳を持たかった。
何を言っても言うことを聞かない。理詰めでも、感情に訴えても反発ばかりでひとみの心は正常な反応をしない。美紀は感情に支配された人の心を動かすことの難しさを実感させられた。
このままでは風俗に身を落し、深い傷を負うまで正気には戻らないと思った美紀は、傷の浅い内に親友のひとみを救わなければと方法を必死に考えた。何をしたら良いのか。
ひとみの恋愛は自然のものではない。ホストが作った恋愛の陥穽にひとみが落ち入ってしまった。どこかで聞いたことがある、マインドコントロールに類似している。恋愛経験の乏しい美紀でも導き出せた結論は、マインドコントロールからの解放であり、解放の為にはひとみの恋愛の熱を冷まし、真実を認める理性を取り戻させることであった。熱冷ましは何か。
美紀は何度か会ったことがある、ホストクラブに誘ったひとみの友達の仁村しのぶを大学で探し、話があると大学近くのコーヒーショップへ誘った。
しのぶとひとみは高校の時に一年、海外留学して留学先で知り合い、同じ大学に入学した関係で親しくなっていた。
美紀が感じた初対面の印象はメーク、ファッションともにひとみと真逆で派手だが、変な作為感はなく自然な感じで、東京でも高ランクの洗練された小悪魔的女子大生に思えた。だが眼差しに時折漂わせる知的な光に、美紀はただならぬものを感じていた。
店内は昼食時間を過ぎているせいか、客の数もまばらで閑散としていた。
それぞれ注文したカップを持ち、テーブル席に座るなり美紀が聞いた。
「仁村さん、ひとみのことなんだけど知ってるでしょ?」
しのぶはカップにミルクを入れ、スプーンを掻き回し始めてから答えた。
「かなりのぼせ上がっちゃてるみたいね」
「ホストクラブ、まだ一緒に行ってるの」
「二度目まではね。私はクラブへ楽しみに行くの。愛しい人に会いたくてクラブに行きたい娘と行ったって、重くて楽しくなくなっちゃうでしょ。だからクラブ変えちゃった」
「ひとみ、あなたが連れてったからこうなったんでしょ。友達だったら面倒見るのが普通じゃないの」
しのぶは抗議するように、わざとらしい膨れっ面をして言った。
「やだあ、私を責めに来たの。ひとみがホストに夢中になったからって私の責任じゃないよ。変なこと言わないで」
美紀はこのぶりっ子が、と不快になったが、不快感を辛うじて心内に止めた。
「責めてる訳じゃないの。熱くなっちゃって、私が何を言っても駄目なの。このまま行ったらひとみ大怪我しちゃうから助けるの協力して欲しいの。お願い」
「ああなっちゃたんじゃ何をしても無理。何をさせようって言うの。私、何も出来ないよ。力もないし」
「あなた、ホストには詳しいんでしょ。あなたが言えばひとみも少しは聞くかも知れない」
「私だってまだ十九だよ。ホストのことそんなに知らないよ。ホストの言うこと、やること、真に受けないで、お姫様気分を楽しんで。これが私のクラブ遊びの秘訣。私、高一の時、大学生の人に夢中になって、周りのみんなは心配していろいろ言ってくれたけど、何にも耳に入らなくて、酷い目に遭ってやっと分かったんだ、男が。ひとみも酷い目に遭わないと恋が覚めないんじゃない」
「もう酷い目に遭ってるの。気付いてないだけ」
「だったら気付かせればいいじゃない」
「それが出来ないから頼んでるんじゃないの」
「あっ、そういうことか。気付かせたいんだ」
「最初からそう言ってるじゃない」
「そう言ってないよ。熱くなっちゃたひとみを助けてって言ったでしょ。めちゃ好きになっちゃったひとみの恋心はどうしようもないの。反対されれば余計燃えるでしょ。私がそうだったから。私達は相手がホストだから騙されてると思ってるけど、ひとみに取っては普通の男だよ。ホストがいい奴で本気かも知れないし。まあそれはないか。奴等も商売だしね。恋の熱に浮かされてるひとみの熱を冷ますのは難しいけど、ひとみ、酷いことになってるよって気付かせるのは出来ると思うよ。幾ら貢いだとか、何でキャバクラで働いてるのとか、現実を指摘すれば理解するんじゃないかな。でも熱は冷めないよ。愛する人の為には苦労は厭わないってね。もっと燃えちゃうよ。ひとみってそういう女だよね」
「そうか、ホストだから騙されてるって言わないで、普通の男として最低だって分からせればいいんだ」
「どうかしらね。あそこまで好きになっちゃうとね、最低だって分かっても、自分で理由探して良くしちゃうんだよね。あばたもえくぼって言うでしょ。それに男から、愛してる、お前に辛い思いさせてごめん、なんて言われたらもうおしまい。ホストってそんなこと言いそうじゃない」
「あなた十九なのに古い言葉知ってるのね。それに恋愛にも詳しくて凄いね。私なんか経験がないから分からない」
「そう、経験が一番なの。壮絶な恋愛経験をした経験者が語るって奴よ。説得力あるでしょ。私これでも小説家志望なんだ。本もたくさん読んだしね」
「恋愛知識豊富なあなたが言うと確かに説得力あるよね。もうどうしようもないのかな。大怪我するまで見てるしかないの?」
「大怪我しても気付かないかも。違う。悪い奴と気付いても熱は冷めないかもよ。さっき言ったでしょ。相手を悪く思いたくないから、自分で自分を説得しちゃうの。人によるけどね。ひとみはそんな悲しい女のタイプだよ。ひとみ、ずたずたにされて終わりだね」
マインドコントロールの解放なんて考えたのが甘かったのか。美紀は生々しい話しを聞かされて暗澹たる気分になった。それと同時にひとみの深刻な状況を、他人事のように軽々しく話すしのぶに腹立たしさを覚えた。
暗い表情でうつむいてしまった美紀に、気が咎めたのか、助ける気になったのか、しのぶが励ますように言った。
「暗い顔しないで、ちょっと言い過ぎたね、ごめん。方法はあるから。分かり易く言うから良く聞いて。私考えたんだけど、相手が最低な男って分からせても駄目だって言ったよね。それに男からのフォローがあったらおしまいって。フォローって愛情を餌にして女を操って自分を信じさせようってことでしょ。女を愛してもいない自分の嘘がばれたら終わりって男も分かっているのね。何言っても駄目なのは、男を信じ切ってるから。愛されていると思ってるから。だから男の嘘をはっきりと分からせるの。今までのように口で言っても駄目。まず男がフォロー出来ないように男に会わせない。そう、海外旅行にでも行って来てよ。そこに私の友達を同行させて。旅費あんた持ちでね。帰国の前の日がいいね。あんたがひとみとその娘を二人だけにして、その娘に、ホストに騙されて転落したその娘の友達の話をひとみにさせるの。無関係な第三者の話でしょ。現実を分からせるのに効果あると思うよ。海外だから男に会えないし、ひとみの心が不安で揺れるね。ああそうだ、ひとみに絶対携帯持っていかせないでね」
「その娘の友達に騙された人がいるの? だったらその人をひとみに直接会わせて」
「あんたも天然だね。いる訳ないじゃない。作り話よ。いたらこんなまどろっこしいことしないよ」
美紀は自分の世間知らずが露呈された気恥ずかしさを押し隠し言った。
「ごめん。でもひとみを不安にさせたら良くないんじゃないの」
「そこが大切なの。詳しい話は後でするから。あんたのすることは、海外旅行を決めてひとみを必ず連れて行くことと、それとあんたすぐにひとみと同じキャバクラで働いて。寝る時以外はひとみの側を離れないで欲しいの。一人でいさせるのは良くないから。あ~あ、あんたのせいで面倒なこと背負わされっちゃた。旅行決まったら電話ちょうだい。番号教えるね」
携帯電話番号とメールアドレスを交換してから美紀は祈るような表情で言った。
「あなただけが頼りなの。よろしくね」
「頼られても困るけど、あんたに女同士の本当の友情を教えてもらったから、出来ることはやるよ」
美紀はトレイを棚に戻し、店員の「ありがとうございました」の声を後ろに聞き、その言葉をそのまま視線に乗せしのぶに送り、コーヒーショップを出て二人は別れた。
美紀は大学の図書館に行き、ひとみから聞いていたキャバクラの場所をインターネットで調べ、キャバクラへ行って店長に働きたいと頼み、即決でその日から働くことにした。
ひとみがキャバクラで働き始めてから美紀と生活時間のずれが生じ、二人は頻繁に会わなくなり、美紀がひとみを必死に説得して以来会っていなかった。
美紀はひとみの携帯に電話をして居場所を確認して、ひとみの家へ向かった。ひとみは大学に近い女性限定のオートロック他セキュリティ万全なマンションに住んでいた。母親が知り合いの不動産屋に探させた、一人暮らしをする娘を心配する親心が窺えるマンションであった。
美紀がマンションのエントランスに着くと、オートロックドアが静かに開いた。
美紀の他に人影はない。ひとみの部屋の窓からエントランスが見える。美紀が来たのを見て開けてくれたのか。電話した時は暗く、くぐもった声だったが、ひとみは自分を待っていてくれたのかと思った美紀の期待はひとみの顔を見て、はかなくしぼんだ。
部屋の玄関のドアを開けたひとみの表情から、警戒心が有り有りと見て取れた。美紀は何も言わずひとみを一瞥して、清潔で女の子らしい装飾が施されたリビングルームへ行き、ソファーに座った。
無言の美紀に不安を覚えたひとみも、無言で美紀を追うようにリビングルームへ入り美紀の前に立った。
ひとみが何か言おうとするのを遮って、美紀が柔らかな表情で言った。
「ひとみ、この前はごめん。私、ひとみの気持ちを何も考えず、言いたいこと言っちゃった。親友失格だよね。謝りたくて来たの」
ひとみの表情が一瞬にして、花びらが開いたように明るくなった。
美紀はこんな、心を隠さない純なひとみに愛おしさを感じ、何としてでも守ってやりたいと強く思い、同時にこんなひとみを騙す男に激しい憤りを感じた。
「美紀に嫌われたくなかったから良かった。謝らなくてもいいよ。分かってくれたらそれで充分。でもこれからは反対するんじゃなくて、応援してね」
美紀も感情を隠せる程成熟しておらず、心情的にも同意する言葉は言えない。美紀は感情の表出を辛うじて抑え、あわてて話題を変えた。
「あっ、そうだ。仲直りにどこか海外に旅行に行こうよ。一週間くらい講義出なくても大丈夫だよ。ねっ、そうしよう」
「学校はいいけど、キャバクラは休めない」
「それも大丈夫。びっくりしないでね。私ね、ひとみと同じキャバクラで働くことにしたの。さっき店に行って今日から働けるって店長にOKもらっちゃった。休みは私が店長にうまく言うから。それに私のお給料、ひとみに愛の献金しま~す」
「え~、そんなの駄目だよ。美紀がキャバクラで働く必要なんかないでしょ。お金だって友達から恵んでもらうみたいのいやだし。そんなことしたら友達じゃなくなっちゃうもの」
「親友だからそうしたいの。私達一ヶ月以上会ってなかったでしょ。それまで毎日会って、一日中一緒にいたのに。私、凄く寂しかった。そんなのもういや。ひとみと一緒にいたいからキャバクラで働くことにしたの。だからお給料なんていらない。だけど、ただ働きって訳にはいかないでしょ。ひとみに使ってもらうのが一番いいの」
「美紀、寂しい思いさせちゃってごめんなさい。美紀の気持ちが分からなかったなんて、私馬鹿だよね。本当は私もとても寂しかったの。拓馬にもそんなに会えないし。私も美紀と一緒にいれて嬉しい。でもやっぱりお金もらうのは駄目。旅行もやめよう」
「何言ってんの。私達これからも、前みたいに一身同体でしょ。ひとみの物は私の者。私の物はひとみの物。みんな二人の物。分かった? そうだ、ルームシェアしようよ。ここ2LDKでしょ。私の住んでる部屋より新しくて広くて安全だし、ひとみとずっと一緒にいられるし、お家賃も半分になるし。そうしたら本当の一心同体。もうお金にこだわることなんかないの。ねえ、そうしよう」
「いいけど」
まだ一度も来てはいない愛する男、拓馬を部屋に呼びたいと思っていたひとみは美紀から眼を逸らし口ごもった。そんなひとみを見て、本当に分かり易い娘だと思い、美紀は声のトーンを上げて言った。
「あっ、彼氏のこと考えてるんでしょ。駄目よ、ひとみ。お母様が前に言ってらしたでしょ。このマンション男子禁制って。男は入れないの。忘れちゃた?」
思っていることを言い当てられたひとみは狼狽した。
「そ、そんなこと思ってないから。ルームシェアいいんじゃない。私も賛成。いつ越して来る?」
ひとみが動揺して一瞬平静さを欠き、取り繕おうとしたことがひとみを美紀の意のままにしてしまう結果となった。
美紀はその日、ひとみと出勤してキャバクラで働き始めた。
翌日、大学へは行かず、初めての接客の疲労と睡眠不足に耐え、海外旅行の予約と引越しの準備に忙しく動いた。
引越しを一週間後に決め業者を手配し、ひとみに家主への同居者の届けをするように連絡した。旅行は二週間後の東南アジアツアーの空きを見付け、三人の予約をした。
予約をしてすぐにしのぶの携帯に電話をしたが、伝言メモのメッセージが流れたので、旅行の概要をメール送信しておいた。
二時半頃、しのぶから携帯に電話が掛かって来た。
「はい、美紀です」
「しのぶで~す。電話出れなくてごめん。講義中だったんだ。メール見た。やること早いね。これから空いてる?」
「私、昨日からひとみのキャバクラで働きはじめたの。出勤は八時だから、六時頃までなら大丈夫。家にいるんだけどどこで会う?」
「渋谷に出て来れるかな」
「いいわよ」
「マルキュウ知ってるよね。四時に入口で。旅行に一緒に行く娘、紹介するから」
「じゃあ四時に」
渋谷で会った二人は、しのぶお気に入りの、ワインとチーズフォンデュがメインの店で食事をした。
美紀はその店でしのぶに、遅れて来た今野留美を紹介された。ショートカットのボーイッシュな、タカラジェンヌの男役のような印象を与える娘だった。だが美紀は実際に話してみて印象とは違う、女らしい細やかな情感を持つ娘だと思った。
美紀は今回の旅行で留美にしてもらう役目への礼を言った。
「今野さん、変なことお願いしちゃってごめんなさい。お礼言います」
「気にしないで下さい。しのぶから昨日話を聞いて、私なんかでも悪い男に騙されてる女性を救う手助けが出来たらなと思ったんです。演技はバッチリですよ。高校の時は家が近くだったので、宝塚いっぱい見てますから」
しのぶが笑いながら口を挟んだ。
「ヅカファンだったら芝居がうまいなんて聞いたことないけど。旅行だってもっともらしいこと言ってるけど、わ~、ただで海外旅行に行けるなんてラッキー、何でもするって、言ってたの誰」
「ウフ、ばらさないでよ」
留美が、その見かけにはそぐわない女の子っぽい仕草を見せた。美紀は思わず笑みがこぼれた。芸人のギャグとまでは行かないが、このギャップでいつも周囲をなごませているのではないかと美紀は思い、留美の柔らかさを感じた。
「留美、昨日話したストーリ、ひとみに話す時には迫真の演技なんかいらないんだからね。自然によ、自然に。それと、黒川さん」
美紀が言葉を遮って言った。
「美紀でいいわ。私も名前で呼ばせてもらう」
「そう、じゃあ美紀。日本にはいつ帰って来るの」
「十月十八日の朝。迎えに来てくれるの? 荷物もあるし、助かる」
「行く訳ないでしょ。そんな暇じゃないもん。ひとみの眼を覚まさせる方法色々考えてるんだけど、決めたら連絡するね」
それから三人は店自慢の料理とワインを堪能し、賑やかに女の子らしい会話を楽しみ、六時前に店を出た。
美紀は旅行前に、打ち合わせとひとみの紹介も兼ね、もう一度会おうと留美と約束して別れた。
-3-
スワンナブーム国際空港を定刻に少し遅れて離陸した帰国便は巡航高度に達し、巡航に入り座席ベルト着用サインは消えていた。
深夜の為、暗い照明の機内。美紀達はエコノミークラスの窓側の座席に三人並んで座っているのだが、皆女性な為か窮屈感は余りない。
バンコクでの旅行最終日、バンコク市内観光をして、成田への帰国便は夜の十一時発の予定であった。
留美は観光や食事をしている時に、仁村しのぶ作〈暗い人生転落ストーリー〉をひとみに話すことも出来ず、美紀と相談して帰国の機内で話すことにした。
窓側に座った美紀は離陸後すぐに寝てしまったが、実際は寝た振りをしており、留美の話に耳をそばだてていた。
通路側に座った留美は、真ん中に座っているひとみと雑談をしながら、自然の流れでストーリーを話せるきっかけを探っていたが、今にも瞼を閉じそうなひとみを見て、自分の役目を果たさずに眠らせてはならないと思い、その思いが焦りを生み、焦りが話すきっかけを閃めかせた。
「ひとみ、眠たいの」
「うん、今日は一日中動き回ったから疲れた」
「私、眠たくなって眠れる幸せにいつも感謝してるの。私、とても悲しくて怖い思いをして、一時不眠症になったことがあるから」
「不眠症になったの?」
ひとみは興味を感じたのか、ぐったりと背もたれにもたせかけていた頭を上げ、留美を見詰めた。
留美の閃きは間違わなかった。ひとみを会話に引き込めると思った留美は、不眠症の経験はなかったが、役目遂行の為には嘘も方便と割り切り、何かの本で読んだ記憶を頼りに話を続けた。
「今は治ったけど、PTSDって良く聞くでしょ。心的外傷何とか障害って言うの。怖かったいやなことが、思い出したくないのに頭に浮かんで、中々寝付けなくて、寝られても夜中に目が覚めてしまうの。凄く辛かったわ」
「どんな怖い思いしたの」
留美はしのぶのストーリーと、咄嗟の閃きで言ってしまったPTSDをどう結び付けようかと必死に思考していた為、すぐには返答が出来ず数秒の沈黙の時が流れた。
「ごめん。怖い経験を思い出させちゃいけないんだよね。又不眠症になったら大変だから、もう聞かないから」
留美はひとみの気遣いに後ろめたさを感じたが、これもひとみの為と自らを励まし、しのぶストーリーに留美の創作を加えた合作ストーリーを話し始めた。
「ううん、もう完全に治ったから大丈夫。それに私が言い出したことだから。私、三個上の従姉がいたの。家が近くて姉妹みたいに育ってとても仲が良かったんだけど、二年前に自殺しちゃって。それも私の目の前で。もの凄くショックだった」
「え~、そんな酷いことがあったの。大変だったね。それでPTSDに?」
ひとみは体を留美に向け、慰めの眼差しで留美の手を握った。
「駅のホームで電車を待っていたら、従姉が入って来た電車にいきなり飛び込んで。止めることも出来なかった。可愛らしかった顔も」
留美は顔を両手で覆って嗚咽した。ここでしのぶが言った自然に、を思い出し素人芝居のオーバーアクションになっていないか少し気になったが、ひとみの反応は上々だった。
「留美、大丈夫。もう話さなくていいから」
留美は顔から手を離し、正面を向いて強い眼差しで言った。
「あの男が悪いの。従姉はあの男に殺されたようなものなのよ」
「あの男って」
「従姉を騙して自分に夢中にさせて、どん底に突き落とした奴。お金をさんざん貢がせて、邪魔になったらごみ屑みたいに捨てた奴。絶対許せない奴」
「どんな男なの」
「汚らわしいホスト。顔だけが取り柄の男。従姉は規則が厳しい女子高だったせいか、ちょっと奥手だったから男に免疫がなかったの。そんな無垢な従姉があの男の餌食になっちゃった。捨てられた時には、従姉はあの男の為に風俗で働いていたのよ」
留美はホストと聞いた時のひとみの反応を窺っていたが、何の反応も示さないひとみに意外な思いがした。
「自殺する前に助けられなかったの」
「その頃は受験勉強で暇がなかったから、会っていなかったの」
「あれ、あなた付属高校って言ってたよね。だったら試験ないんじゃない」
付属高校から大学に進学したとひとみに話していたことを忘れていた留美は、自分の迂闊さを恨み、辻褄を合わせねばと、又必死に思考した。
「親の敷いたレールに乗るのがいやになって、他の大学を受験しようと思ったの。でも結局楽な道を選んじゃったけど」
「でも、自殺した時には一緒にいたんでしょ」
鋭い追及に、留美はストーリーの真実性の矛盾を指摘されているような気持ちになり、矛盾の修復に脳内で大汗をかいていた。
「話せば長くなるんだけど、従姉が風俗で働いていることが親に知られて、従姉は何も言わなかったんだけど調べられて男のことが分かったの。親から凄く責められて家から逃げ出して男に会いに行ったんだけど、疫病神みたいな目で見られて、二度と会えないって言われたの。その時にはもう親がホストクラブへ怒鳴り込んでいて、男に娘と絶対会わないって約束させていたのね。親は警察の偉いさんで、警察権力でもの凄く脅されて、ホストをやってるくらいだから、叩けば埃の出る体だったんでしょうね。男はびびっちゃって。従姉は男が何で急にそんなことを言うのか分からなかったんだけど、すぐに察したのね、父親が男に会いに来て責められたって。それで従姉は家を出るから一緒に暮らそうって男に言ったのね。男が自分を愛してるって信じてるから。でも男に取って従姉は金づるで、愛のかけらもないから、そんなこといいって言う訳ないわよね。しつこくすがって来る従姉が煩わしくなった男はとうとう本性を出して、お前なんか愛していない、最初からただの金づるだって言って店から放り出されたの。その時の従姉の気持ち想像出来る。心が張り裂けそうだったでしょうね」
留美は心が高ぶり、実話を話しているような気分になり、不意に涙がこぼれ話を中断した。留美の無意識な迫真の演技は、ひとみの感情を同化させるのに充分であった。ひとみは憤りと切なさが混じったような表情をした。
「酷い話ね。従姉の人、可哀想。その男絶対許せない」
留美は作り話に感情移入してしまった自分の愚かさに舌打したが、思わぬ効果に気を良くし、悲しそうな表情は維持し、話の詰めに入ろうとした。
「心が酷く傷ついて一人で居られなかったんでしょうね。私に電話して来て、迎えに行って、私の家に連れて帰ろうとした途中で電車に飛び込んだの」
「そんな状態じゃ慰めても耳に入らないでしょうね。でもよく事情が聞けたよね」
又、鋭い指摘。
「泣きながら、少しづつ話してくれたの。伯父さんからもいろいろ聞いたし」
留美は苦し紛れに指摘をごまかし、話を続けた。
「それから私、ホストのこといろいろと調べてみたら、同じような話沢山あるのよね。女の生き血を吸う蛭みたいな人間よね、ホストって。私、ホストの奴等が絶対許せないの。ひとみも純な所があるから、絶対ホストクラブになんか行っちゃ駄目よ」
「ホストは悪い奴って決め付けちゃいけないんじゃないかな。いい人もいるよきっと。ホストってただの仕事だから。そのホストは最低、最悪の人間だったのね。これから幾らでも幸せになれる人の人生を奪ってしまったんだから。悔しいよね。でも悔しがってもどうしようもならないんだよね。ご両親は本当に辛かったでしょうね。その男どうなったの。警察権力で復讐されちゃった?」
留美はそこまで考えていなかった。
「えっ、そう、その男ね。姿を暗ましちゃったみたい」
留美はホストを悪魔のようにののしっても動じないひとみを見て、ひとみに取ってホストに特別な認識はなく、好きになった男の仕事がたまたまホストであり、出会った場所がホストクラブだった程度にしかひとみは思っていないことを理解した。
留美はしのぶが自分にストーリーを話した時のことを思い出した。
この話でひとみが相手の男に騙されているとは思わない。ただホストが女を騙す具体的なやり方を聞かせる。ひとみも同じようにされたはず。だから少し不安になる。不安は疑いを生み、疑う心はどんどん膨らんで行く。信じたい心と疑う心が次々に堂々巡りして、少しの疑いもなく信じていたことが本当のなのか確かめたくなる。確かめた結果が嘘だったら、少しの疑いもなく信じていた時より、疑った分だけ真実を受け入れ易くなる。だからホストは悪い奴だって意識させればいいと言った。
焦りから一番重要な、女を騙す具体的なやり方を話すのを忘れてしまった。
これだけ懸命になって考え、話したことは無駄だった。留美は自分の浅はかさを悔やみ、成田に到着したら電話するように言われていたので、その時にしのぶに不首尾の話をしなければと思った。
-4-
成り行きとは言え、ひとみの問題解決への助力を請け負ったことになってしまったしのぶは、しばらくは本腰を入れて考えはしなかったが、三人が旅行に旅立つ数日前の夜、家に帰ってバスタブに漬かりながら方策をまとめようとした。物事を真剣に考える時のしのぶの癖だ。結論が出ない時は皮膚がふやける程長く漬かっていることもある。
ひとみの眼を覚まさせる重要なポイント、ホストの嘘をひとみに知らしめ、それが真実だと分からせるにはどうしたら良いか考えを巡らせた。
直接、ひとみがはまったホスト本人、拓馬からひとみに本心を言わせる。これが一番良い方法だが、まず不可能だ。ならば他の人間が拓馬に本心を語らせ、会話を録音してひとみに聞かせる。これは可能性がある。誰がどうやって拓馬に本心を語らせるか。誰にでもそんなことを簡単に喋りはしない。
お互いの苦労が分かるホスト同士ならどうだろうか。うまく誘いをかければ話すかも知れない。
しのぶはあるホストから、擬似恋愛で客を虜にするやり方を否定するような話を聞いたことを思い出した。
ターゲットは同じホストクラブ、ナンバー2の修二。しのぶがPurple Angelに通っていた頃、気に入って指名していたホストだ。
ナンバー2に甘んじることを良しとはせず、ナンバー1の座を狙っているようなのだが、そのくせギラギラした所を感じさせず、自然体で客を楽しませることを自分の楽しみにしているような、その接客とキャラクターが客の人気を呼び、ファンに支えられてナンバー2になっているような不思議なホストだった。
しのぶはすぐに実行に移し、翌日ホストクラブに行き修二を指名した。
ブラウンを基調とした豪華な内装の店内。女性客を優雅な気分にさせる充分な効果を発揮している。
時間が早いせいか客もまばらで修二も接客していなかったのか、すぐに少し垂れ眼な持ち前の癒し系にこやか顔で、しのぶの席に来て立ったままで挨拶した。
「しのぶさん、お久し振りです。又お会い出来てとても嬉しいです」
「修二、それご無沙汰していた嫌味? まあ座って」
「とんでもありません。来て下さらなかったのは、私の魅力が足らなかったからと思っていますので」
「相変わらず謙虚ね。それにその敬語喋りも変わらないね。他人行儀みたいでいやだな」
「前にもおっしゃられていましたよね。でもお客様にため口は失礼ですから」
「お姫様に仕えるナイトを貫くってこと。だけど私は親近感がなくていやだな。他のホストは恋人同士みたいに話してるよ」
しのぶは修二の考えを確かめようと探りを入れたが、修二の笑みが一瞬静止したように見えた。
「しのぶさんはそういうのがいいんですか。私そういうの下手で。感情がこもらないと言うか。違うやり方で楽しんでいただくしか出来ない不器用者ですみません」
修二が恐縮して頭を下げた。しのぶはその姿に、不器用で出来ないのではなく、したくないからしないと言う信念のような物を感じ、説得への期待感を持った。
「ごめんなさい。修二と擬似恋愛みたいな関係になりたいんじゃないの。私の言い方が悪かった。ここに来て修二と話していると楽しくて、いやなこともみんな忘れられて物凄く元気になれるの。だから前来ていた時も修二を指名したの。ただ、お友達同士みたいに話せたらもっと楽しいかなって」
「しのぶさんの意のままに。しのぶさんがもっと楽しんでいただけるなら友達になりましょう」
「ありがとう。あっ、それからしばらく来なかったのは修二の魅力がなかったからじゃないよ。今言ったように修二と話してると、とても楽しいもの。席、別にしたから覚えてないよね、友達連れて来たの。友達に付いた確か、拓馬って言ったかな、その拓馬に一晩で友達が夢中になっちゃって。それから連れてけ連れてけってうるさくて、何度か連れてきたんだけど恋人に会いに行くみたいに浮かれちゃって。相手は本気じゃないよって言ったって聞いちゃいないし。うぶな娘だったからしょうがないんだけど。私、うっとうしくなってPurple Angelに来るのやめたの」
「そうだったの。俺が失格だったんじゃなくて安心したけど、その、ほっぽっちゃった友達の恋愛まだ続いてるの」
「ひとみって言うんだけど、今じゃキャバ嬢になっちゃった。お金持ちのお嬢様なのにね。落ちるとこまで落ちちゃうかも。私がここに連れて来なければと思うと罪悪感疼いちゃうんだよね。ごめん同じホストに言うことじゃなかった」
しのぶは会話の流れに乗り、愚痴っぽく核心に触れる話をした。心を開かせ、心に沈殿する毒を吐き出させ、客の心を軽くさせるのが修二の接客だとしのぶは感じていた。
「言いたいことどんどん言って。それにさっきも言ったけど、俺は同類のホストじゃないいから気にすることない」
「分かってる。修二がそんなホストじゃないって。修二に悩みを話しちゃったついでに聞いていい?」
「どうぞ」
「この前ひとみの親友に、あんた友達なのに冷たいって言われて。私、勝手にしろってひとみを見捨てて平気だったのね。それって、友達にするようなことじゃないでしょ。友達付き合いしてたのにね。私、自分がいやな冷たい女って思っちゃった。私、性格ドライな方だけど、人から言われると結構効いちゃうのよね。それからずっと罪悪感。修二、ひとみを助けないと罪悪感消えないよね」
修二の頭の回転は速い。ひとみを救う方法を同じホストの自分に聞きに来たのかと、しのぶが久し振りにここに来た意図を察した。だが自分を巻き込もうとしていることまでは思い及ばない。
いつもは客の心情を斟酌し、相手の心をなごませるように受け答えする修二だが、同じ店のホストが絡むややこしい、こんな悩み相談には乗れぬと、話の流れを断ち切ろうとした。
「しのぶさんがそれだけ優しい人ってことでしょう。ひとみさんがそうなったのはひとみさん自身の責任だよ。友達としてちゃんと忠告もしたんだから、しのぶさんに何の責任もない。だから罪悪感に悩む必要はないと思うよ」
罪悪感を持つ必要がないというのは、助ける必要もないと言っていること。罪悪感なんて持たなくて良い、悩まなくて良い、と言ってくれている修二の優しさは感じるが、私の気持ちが分からない冷たい男だと、しのぶは腹を立てた。
思惑を外させた修二の意図にも気付かず、理不尽な怒りを発したしのぶは、賢くとも、若い娘の感受性に支配されてしまう危うさを露呈してしまった。だが、皮肉にもそれが修二のガードを突き崩す力になった。
いつもはクールビューティを気取っているが、理性のたがが緩んだしのぶは、理知的な駆け引きは忘れ去り、女の武器である論理喪失・感性支配型弁舌でまくし立てた。
「責任があるとか、ないとか聞いてるんじゃないの。責任がないから罪悪感に悩む必要はないだって。責任なんかどうだっていいの。あなた冷たいんだよね。一人の純真な若い女が、くそホストに騙されて人生転落しっちゃうんだよ。くそホストの金儲けの餌食になって。ここに赤ちゃんが寝てて、すぐ側でワニが赤ちゃんを狙ってたら助けない? 黙ってワニに食べられるの見てられる? いくら冷たいあなたでも助けるでしょ。違う?」
意図を外そうとはしたが、しのぶを優しく庇ったつもりであったのに非難された。ひとみと会った記憶もないのに冷酷な、人でなしのような言われ方だ。滅茶苦茶な女だと修二は思ったが、この手の女の扱いは慣れている。怒りの原因を取り除く。
「しのぶさん、熱くならないで。いつものクールなしのぶさんらしくないですよ」
「熱くなんかなっていない。ちゃんと答えなさいよ」
「しのぶさんに罪悪感なんてない。あるのは、いつも冷静なしのぶさんを熱くする程の、ひとみさんを助けたい気持ちでしょ。だったら最初からそう言ってくれればいいのに」
微笑みながら穏やかに話す修二の言葉を聞き、しのぶは熱くなって一瞬でも分かりやすい女になってしまった自分が情けなかった。
「最初からそんなこと言ったら、修二は聞いてくれなかったでしょ」
「しのぶさんの話なら聞きますよ」
「でも上手くはぐらかされて終わりだった、きっと。ホスト仲間は裏切れないものね。私も仲間を助けたい。どうしても」
しのぶはどうしてもと言った自分に驚いた。ひとみを助けることにそんな強い思いがあったのか。我を忘れて熱くなったり、どうかしている。ひとみを助けるのは美紀の気持ちに動かされただけなのに。駄目元と思っていたのに。しのぶに取って仲間も友達も同じようなものだった。必要な時に自分の周りにいる存在。美紀の友情に感化されたのか。
意気消沈したように、うつむいて話すしのぶを修二は意外な思いで見ていた。熱くなったり、沈んだり、どこにでも居る軽薄な娘のような今のしのぶの姿と、今時な女子大生そのものに見える外見と違う、知的でクールな、どこか醒めた眼で物を見ているような、これまで修二が感じていたしのぶの姿とのギャップは何だろうか。
どちらの姿もしのぶなのだ。今のような姿を見せるのは稀なのではないか。感情が振れる程のひとみへの思いを見せるしのぶに修二はいじらしさを感じ、相談くらい乗ってやろうかと思いを変えた。
「仲間なんかじゃない」
修二はつぶやくように言った。
「え、どうして? 同じホストクラブで働くホストでしょ」
「そういう意味では仲間だけど、俺的には仲間じゃない」
「修二ってこの店でナンバー2でしょ。私もあったけど、指名が重なったらヘルプ頼むんでしょ。その人達は仲間じゃないの」
「勿論そいつ等は大切な仲間だよ。だけど全員がヘルプに付く訳じゃない。しのぶさんが言っていたように、人気のあるホストは指名が多くなり、テーブルが重なった場合信頼出来る奴にヘルプをお願いする。そういう関係のグループが出来るんだよ。拓馬のように色恋営業で稼ぐ奴等は俺達のグループにはいない」
「色恋営業ってなに? あ、擬似恋愛のこと」
「俺はそんな性根の腐ったような営業はしない。ホストの評判をおとしめるだけだ」
修二は苦々しい表情でそう断言した。
「ナンバー1グループにはそういう奴等もいる。奴等は仲間なんかじゃなく、売上を争う競争相手だ。だから奴等を裏切れないとか、悪いとかそういう気持ちはまるでない。奴等にどう思われようと平気。奴らも俺達に対して同じ気持ち」
「でもその人達に気に入らないことしたら、揉めるでしょ」
「そりゃ揉めるよね」
修二は何かに気付いたように、はっとした表情をした。
「何、俺に揉めるようなことをさせようって言うの。これまで波風立てないようにやって来たんだよね。ひとみさんを助ける相談には乗るけど、何かをするのはな~。まあ、やるかどうかは分からないけど、何考えてるか言って」
しのぶは修二にやって欲しいことを言った。
「それは無理だね」
修二はしのぶの願いを一蹴した。
しのぶはあっさりと否定され、このまま引き下がれないと思い、しのぶの性格からすれば恥ずかしさレベルMAXの、女の武器を使うしかないと一大決心をした。
「出来ないんですか。私いろいろ考えてこの方法がベストと思ったんです。何とかなりませんか?」
しのぶは急に敬語になって、可愛らしさ意識し、眼をいっぱいに見開き、上目遣いで、すがるように修二を見詰めた。
修二はわざとらしい、しのぶの表情としぐさを見て吹き出しそうになったが、笑いをこらえ苦笑いに止めた。
しのぶがふざけてそんな顔をしたのではないないことが痛いほど分かったからだ。そんな顔から、しのぶの心がひしひしと伝わって来たからだ。
「何で笑うんですか?」
「ごめん。気持ちは分かったから。それに、しのぶさんが言ったんだから敬語はやめよう。さっきも言ったように、拓馬とは同じ店で働くホストだけど仲間じゃない。だから一緒に飯を食ったこともないし、飲みに誘ったとしても、警戒して俺に本心なんか話さないだろう。だから拓馬に本心を話させるのは不可能なんだよ」
修二は諭すように言った。だがしのぶは諦めない。
「それは相手が修二だからでしょ。修二のグループで拓馬と親しい人いないの」
「万が一、拓馬の本心が聞けて録音出来てひとみさんが救われたとしても、それは俺達が直接手を下して拓馬の客を奪うことで、他の店は知らないけれど、この店ではルール違反なんだ。他のホストの客には手を出さない、売上を上げるやり方に一切関与しないというのがオーナーからの暗黙のルールなんだ。破ったら揉めるどころじゃない。報復合戦が始まり収拾がつかなくなり、店としてもやばくなる。俺はオーナーに恩があるからそんなことは出来ない」
しのぶは自分の浅知恵を思い知らされた。現実を知らな過ぎた。ここまで内情をさらけ出して話してくれた修二に好感を持った。
「そうなんだ。何にも知らなくて修二を困らせてごめんなさい。私、修二に頼むの諦める」
「諦めないでよ。俺が実行者にならなければいいんだから。今俺が考えられるひとみさんを救う方法が二つある。しのぶさんは半端ない金持ちなんでしょ?」
急に何を言い出すのかと、しのぶは怪訝な顔をした。
「私が金持ちじゃなくて、家が金持ちだけど」
謙遜もなく、てらいもない言い方に修二はいつもの醒めたしのぶを見た。
「総合食品メーカー、ニムラの創業者の孫。お母上は現役社長。これは凄い。金持ちの人脈も広いでしょ」
「何でそこまで知ってるの。あ、知恵が言ったのね。あのお喋り女。ただ私はそんな家に生まれただけ。私、何の力もないし人脈もない」
「グループ会社沢山あるんでしょ。同族経営だから仁村家一族の皆さん、みんな金持ちなんじゃないの。創業者直系のしのぶさんなら大変な人脈だよ」
「私興味ないから、会社のことも親類のことも何も知らない。何が言いたいの。早く言ってよ」
「大企業ニムラの支配者、仁村家の長女。経営者なら誰でもしのぶさんとお近付きになりたいよね。身分を明かしてうちのオーナーと直談判をする。拓馬の手からひとみさんを放させるように拓馬を説得しろってね。Purple Angelを応援する、知り合いにここを紹介するとか言ったら成功間違いなしだ」
修二の提案に、しのぶは深く考えることなく言った。
「個人的問題に家の名前使いたくない。仁村の名前は私の力じゃないし。それに、この店とも、親戚とも変なしがらみを持ちたくない」
「そうかな~。仁村の家に生まれたことが、そのまましのぶさんの力なんだと思うんだけどな~」
「だから、仁村の名前の力を持つのは、仁村の家に生まれれば私じゃなくたって誰でもいいってことでしょう。そんなことはどうでもいいから、もう一つの方法を言って」
「拓馬にうまく謝らせれば、ひとみさんにダメージを与えずに別れさせられるベストの方法だと思ったんだけどな。しのぶさんがいやならしょうがないか。もう一つの方法ね。まず、もう一度しのぶさんが店に来て、拓馬に顔を覚えさせる。その後にしのぶさんの身分と色恋営業を嫌っていることを拓馬に吹き込んでおく。拓馬の太客、たっぷり金を稼がしてくれる客のことだけど、金を持ってて、拓馬の色恋にはまってる客と同伴する時を調べて、偶然を装ってひとみさんと鉢合わせさせる。ひとみさんと、これからもたっぷり金を稼がしてくれる太客と、拓馬はどっちを選ぶと思う?」
「ひとみは控え目な娘だよ。拓馬の仕事の邪魔をしたくないって、そこから逃げちゃうよ」
「だから、しのぶさんが一緒にいて、拓馬に本心を吐かせるようにコントロールする。しのぶさんを見て拓馬びっくりするだろうね。しのぶさんがひとみさんの代理人みたいになって、拓馬を罵る。ひとみを愛してるって言ってたのに他の女とデートとしてるのかって。ひとみを騙してたのかって。拓馬は太客の手前これは仕事だとか、言い訳は出来ない。ここで拓馬は太客を選択する訳だ。まだひとみさんの金に未練があって何も答えられないから拓馬は逃げようとする。逃げて後からひとみさんに、君を一番愛してるとか言ってフォローすればいいと思ってね。だから絶対逃がしちゃ駄目。しのぶさんが言ったように、ひとみさんは拓馬の仕事の邪魔をしてるって引け目を感じるだろうから、あくまで男と女の関係を貫いて、この女とひとみのどっちを愛してるか本心を言えと拓馬を責める。答えないんだったら、詐欺で訴えて答えさせてやるとまくしたてる」
「訴えるって無茶苦茶じゃない。詐欺罪成立するの」
「詐欺罪なんてどうでもいいんだ。拓馬は商売柄、理性を失った女の怖さを良く知っている。無茶苦茶するってね。拓馬に取ってしのぶさんは疫病神現るってとこだ。疫病神に祟られたくない。ひとみとは色恋営業だと知られてると考える。だから、ここで拓馬はひとみさんを捨てる。ひとみさんを愛してないって言う。謝れって言えば土下座もするだろう。二度とひとみさんに近付くなと言えば約束するだろうね。最後の駄目押しに、ひとみさんから拓馬に確認させる。ひとみさんが自分から聞くと思うけどね。嘘でしょって。拓馬はひとみさんじゃなくしのぶさんに必死に謝る。仁村のバックがあるしのぶさんが何するか分からないのは怖いからね」
「又、仁村?」
「今度は仁村の名前を直接使う訳じゃない。ひとみさんを確実に救う為に、有効に利用させてもらうだけだよ」
「筋書き通りにうまく行くかな」
「それはしのぶさんの演技力次第。この方法はうまく行ってもひとみさんのダメージが大きくて充分なケアが必要だよ。自分はその場にいるだけで、拓馬から本心を言われ、謝られ、別れさせられるんだから納得出来ないよね。突然過ぎて信じられないよね。しのぶさんが恨まれるかも知れない。無理矢理別れさせられたってね」
「ひとみに取って拓馬はホストなんか関係なく愛する男なの。女を騙すのはホストだけじゃない。男に騙された女の辛さはみんな同じじゃない。誰かがケアしてくれる? 人生破滅しないだけで充分。ほっときゃいいの。ひとみはそんなに弱くない」
「醒めてるね。しのぶさんらしさかな」
しのぶは修二の言葉に反応するでもなく、視線を空に置き何かを考え始め、しばらくの沈黙の時が流れた。沈黙に耐え兼ねた修二が話そうとした時、思い決めたように修二を見てしのぶが言った。
「私、演技力がないからこの方法は自信ない。同伴の女も黙ってないだろうし」
「え~、これだけ話させてなしかよ」
「ねえ、修二は自分の店持ちたいと思ってるの?」
「そりゃいつまでもただのホストでいたくないしね」
「修二がこの店のオーナーになったら一番いいよね。仁村の名前使わなくていいし。拓馬を説得して、うまくひとみと別れさせられるし」
急に何を言い出すのか。救う方法を教えても、やってみようともせず拒否するし、今度は非現実的なことを言い出すし、所詮しのぶも金持ちの我儘お嬢様かと修二は思った。しのぶを気に入り、助力しようとしていた自分が馬鹿らしくなった。
「何言ってんの。絶対無理でしょ。オーナーいるし、俺、金ないし」
「お爺様、私をとても可愛がってくれるの。自分で言うのも変だけど溺愛って感じ」
「オーナーの話と何の関係があるの。もうやめよう、この話」
「関係あるの、だから聞いて。私の家、父親が社長だったんだけど病気で職務に耐えられなくなって、一人息子だったのと他に適任者がいなくて、嫁の能力を買っていたお爺様は私の母親を社長にしたの。子供は皆女で、お爺様は純血主義者で次は私を跡継ぎにしたいみたい。私は次期社長候補。経営の勉強したいって言えば何でもしてくれる」
しのぶは得たり顔で修二を見た。だが修二は言っている意味が分からない。自慢話にしか聞こえない。
「それがどうしたの。将来明るくて良かったね」
「まだ分かんないの? 私が修二を援助出来るって話」
「俺に金出してくれるってこと」
「そう、お金はお爺様の物だから、私を通して仁村が修二に投資するの」
「半端な金額じゃないよ。お爺さんが可愛い孫にくれる小遣いとは訳が違う」
修二は懐疑と期待が入り交じったような顔をして言った。
「小遣いじゃなくて投資。お菓子屋さんを一代で大会社にした人よ、お金にはシビア。小遣いなんかもらったことない。私を猫可愛がりなんかしない。可愛がり方が違うの。私が幸せである為には何でもしてくれるの。私が成長する為には何でもしてくれるの。だからきちんと投資計画書を作って、孫の顔じゃなくて投資家の顔をしてお願いすればOK間違いなし」
修二は自分の店が持てると本気で期待したが、非現実的だと言う思いも残った。
「この方法、今思いついたの?」
「そう」
「ひとみさんを救う為にそこまでするんだ」
「自分で決めたことだから、何が何でもひとみを助けなければ駄目なの。修二は一つ目の方法がベストだって言ったから、自分がしたくない所外したらこうなったんだよね。それに、投資すればホストクラブの経営とか、夜の世界の実態を見ることが出来るじゃない。小説なんかよりずっと面白そうだなと思って」
断固初志貫徹する精神は立派だが、修二はこんな興味と好奇心だけで大金を投資しようとする金銭感覚が理解出来なかった。お嬢様のお遊びか。いかに溺愛しているとしても世間に名の知られる大経営者が、こんな発想の投資に金を出すはずがないと思った。
突然降って湧いたような話に期待を持ったさもしい自分に嫌気が差したが、可能性はゼロではない。修二は話に付き合うことにした。
「投資はリターン、つまり儲けがなければ投資にならないでしょう。しのぶさんが言ってることじゃ、幾ら可愛がってくれるお爺さんでも金は出してくれないよ」
「私、これでも経営学を勉強してるからそんなこと良く分かってる。修二より詳しいかも。経営は理念と利益ってお爺様から叩き込まれているんだよね。修二は女性を元気にする理想のホストクラブ作りたいんでしょ。理念はあるよね。キーワードは理念と利益。あさってまでに事業計画書を作ってメールで送って。修二の本名で署名しておいてね」
投資もしていないのに、もう命令口調かと不快になった修二だったが、しのぶの話にただのお嬢様らしからぬ物を感じ、従順に従うことにした。
メールアドレスを書いたメモを渡し、返信すると言ってしのぶは帰って行った。残り香のように一言残して。
「私本気だよ。だから修二も本気になって。こんなチャンスもう来ないよ」
十九の小娘が言う台詞か。全て見透かされていたのか。修二は空恐ろしくなった。
しのぶは投資計画書を作り始めて、ひとみを助ける目的とは別の感覚で、突然閃いた投資計画が面白くなっていた。
ゲームなんかじゃなく現実世界を動かせる。現実の分からない所は修二にやらせれば良い。しのぶは生き生きと、〈ひとみ救出、加えることのホストクラブ投資成功〉ストーリーを脳裏に描き始めた。
修二はインターネットで事業計画書の雛形を見付けダウンロードして、何とからしき物を作りメール送信した。二日後、返信メールで指示された六本木ヒルズのカフェでしのぶに会った。
早めに来た修二は、大きな窓で採光の良い、明るい店内の窓際の席でしのぶを待った。
待ち合わせ時間に少し送れて来たしのぶは、椅子に座ると会話もそこそこに、しのぶが見本など使わず独自で考え、プレゼンソフトで作った投資計画書を修二に見せた。
【投資の主意と提案】
私はホストクラブ業界に接し、女性に癒しを与える社会的存在意義と裏腹に内在する業界の影の部分を認識いたしました。所謂、ホストに嵌り人生転落と言う事象であります。
私はこの事象をマイナスではなくプラス要素として捉えました。男性と同様、女性も異性を求めている。人生転落してまでも異性を求めると。この事象はそれを証明しております。これは極端な例ではありますが、愛欲は人間の基本的欲求であり、この欲求がある限りこの業界は安泰です。投資対象として適切であります。
しかし、利潤成果のみの為に、暗部を内在する業界に投資することは、被害者の同姓として、又倫理的にも許容し難き側面もあります。故に投資の為には業界の暗部の排除が必須であります。
基本的欲求の明と暗の相反する要素、業界に安泰と暗部をもたらす要素から暗部のみを排除することは困難であります。なぜならば、本来この暗部を作ったのは、前述の欲求と近似の、より多くの金が欲しいと思う人間の本質的欲望故による物であり、排除はこの欲望を阻害するからであります。
排除が困難ならば新たに暗部の存在しないホストクラブを作れば良いのです。業界の暗部を発生させる営業スタイルを改善し、非日常的な愉悦の時を提供し、女性客に安らぎを与え、隠れた能力に気付きを与え、女性が元気になることを至上の歓びとし、安らぎを得た女性客は他の基本的欲求も満足させられ、固定客となり、収益が増大する。安泰と暗部の排除にる収益減少の矛盾を解決します。
この好循環の営業を実践している方がおります。
私は自身も恩恵を受けた経験から、女性に癒しを与えるホストクラブの設立と存立を熱望し、経営にも興味を持っておりました。
この人物ならば存立を実現し得ると確信しております。
以下の二つの観点から、私、仁村しのぶを仲介者として仁村家家長、仁村辰蔵様に金田光夫氏への投資を提案いたします。
一、 ストレスの充満した現代社会を生きる女性に癒しの場を提供し、訪れた女性客が癒され、安らぎ、元気になることで、女性客に活力を与え、持てる女性力を十二分に発揮し、女性客が楽しく充実した生活を過ごすことに寄与する。又、設立段階では微々たる物だが、女性力の発揮による派生的効果は直接、間接的に地域経済安定の一助となり、顧客増加の推進により更なる効果の拡大に寄与する。この二点に設立するホストクラブの社会的使命がある。
二、 利潤の追及なくして投資はあり得ない。
事業の根本は顧客であり、顧客の固定化と増加なくして収益増大はありえない。ホストクラブも同様である。又、前記一、の社会的使命の理念からも顧客増加は必須である。
顧客増加の手段としては、前記一、の理念に基づく営業スタイルを、きめ細やかに実践することが最良の方法である。心の傷みを軽減し安らぎを得た顧客の実体験は最大の広告塔になる。
既にこの営業スタイルを実践し、成果を得ている金田光夫氏ならば理念と収益増大を実現し、投資者に対し満足な結果を与えることは間違ありません。私自身も生きた経営に接することが出来る、又とない機会と思っております。
この後に修二の人となり、素性の人物紹介。投資額・条件・配当など細かく記述されていた。
修二はこの文書を読み解くのに一生懸命になった。国語をもっと勉強しておけば良かったと後悔した。何とか文書を理解して修二は驚きを隠さず言った。
「これ、しのぶさんが書いたの?」
「そう。他に誰が書くって言うの」
「俺、漫画しか読まないから、長い文章理解するのに汗掻いた」
「で、理解してくれた。修二がやってることを文章にするとこうなるの」
「何とか分かった。しのぶさん文章書くの好きなの」
「一応作家志望だから。本も沢山読んでるし。それより結果気にならないの」
「結果ってもうお爺さんに話したの? まさかもう話したとは思わなかったから」
「善は急げって言うでしょ。OKもらった」
満面笑みを浮かべてしのぶが言った。修二も顔をほころばせ嬉しそうに両手でしのぶの手を握った。
「本当に? ありがとう、しのぶさん。これで俺もオーナーか」
「喜ぶのはまだ早い、これからが始まりだよ。お爺様に会ってもらわなくちゃいけないし。それにこの投資の本当の目的は修二に新しい店作らせるってことじゃないんだよ。修二のオーナーへの思いもあるでしょうけど、ひとみを助ける為には今のオーナーを追い出さなきゃならないでしょ。分かってる?」
修二のグループのホストを引き連れ、ホストクラブを立ち上げるのは簡単だが、単に修二をオーナーにするのが目的ではなく、ひとみを助けることが目的であり、これが達成されなければまったく無意味である。修二を共同経営者にして現在のオーナーに拓馬を説得させる方法もあるが、これでは投資の意味を失い、仁村辰蔵は承認しないだろう。
ストーリーを完成させる上での障害は、現オーナーを如何にして排除するかであった。しのぶは修二が現オーナーに恩義を感じていることは認識していたが、修二は自分が念願のオーナーになれる思いの方が強く、情に引きずられることもないだろうと思っていた。
修二の顔から笑みは消えたが表情に反意の色はなく、排除に異論を差し挟まなかった。
「分かってる」
「だったらどうしたらいい?」
現実の分からない所は修二にやらせる。
「少し考える時間が欲しい」
「じゃあ、明日の同じ時間にここで会いましょう。いい方法聞かせて」
翌日修二は疲労した脳を活性化させ考えをまとめる為、早めにカフェに来て前日と同じ場所に座った。
睡眠不足と、慣れないワープロソフトの作表に脳力を使い果たし、七分程に開いた眼に疲労が滲んでいた。栄養ドリンクと苦いエスプレッソ二杯が脳を覚醒させ始めた頃、しのぶが来た。
しのぶは修二の前に座ると、いたわるような声音で言った。
「随分頑張ったみたいね。眼が閉じそうだよ。お疲れ様」
自分への投資者と言えども、十代の小娘にねぎらわれて修二のプライドが疼いた。だがこれからこの上下関係は動かない。気を取り直して無理に笑顔を作り言った。
「そんなに疲れていないよ」
「そう、無理しないで。それでいい方法見つかった?」
「今回のしのぶさんの投資の目的はひとみさんを救うことだけど、それがPurple Angelを乗っ取ることだとは思わないんだ」
「今のオーナーを切れないってこと。そんな弱気じゃ何もうまく行かないし、投資もなしだよ」
もっと冷徹で、ドライに割り切れる男と思っていたしのぶは声を荒げた。だがこの人間性がファンを作り、人徳を作り、自分の修二への信頼を作ったと認めてはいた。
「ちょっと、熱くならないで聞いてよ。問題はどうやって拓馬からひとみさんに別れを言わせて、それも出来るだけ優しく、なるべくひとみさんが傷つかないように別れさせるかでしょう。違う?」
「そうだけど」
「拓馬が欲しがる餌を吊るして、拓馬を取り込む。ひとみさんを擬似恋愛の呪縛から解放させることを条件にして餌を与える」
「そんな餌があるなら、投資は必要ないでしょ」
「餌は投資してもらえるから作れるんだよ」
「どんな餌。早く言って」
しのぶは興味津々で言った。
「拓馬の今の売上は真ん中ぐらいで、上に上がろうと必死になっている。だから色恋だろうが枕だろうが手段を選ばない。それは俺と同じで自分の店を持ちたいと思っているから。俺に投資してくれる人がいて新しい店を立ち上げるから来ないかと誘う。投資者の友達に拓馬の客がいる。その客と切れさせるのが条件の投資だから拓馬が必要だ。その代わり、近い内に自分の店を持たせると約束する」
「事情話しちゃっていいの。知ったら拓馬が条件付けて来るんじゃない。すぐに店持たせろとか、文書にしろとか。それと、あんな男の開店資金、私出さないよ」
「嘘でごまかしたら拓馬は信じない。店を持たせる日付なしの文書は作るけど、他に条件を付けたら全部蹴る。店を持てるのに何が最善か分かるはずだよ。開店資金だけど、ひとみさんを救うのにこの方法しかないんだ。俺がやらせてもらう店を成功させて充分リターンするから理性的に判断してよ。それから店を持たせる時期を明確にしないのは、店が儲かるようになったら俺が投資するって言えば、拓馬も俺の店で頑張るでしょう」
「わかった、理性的に判断した。それより、それで拓馬信じるかな~」
「これ、うちの店のホストの一覧。極秘だよ」
修二はしのぶにホストの力関係の相関図と、それぞれの性格を記した表を見せた。ホストの内実が一目瞭然だった。そこに修二の秀抜した人間観察力、洞察力が見て取れた。
修二は表をしのぶの見やすい位置に置き、二人のホストを指差して説明した。
「こいつ、翔、二十一歳。拓馬と同い年で、拓馬とガキの頃から連んでて一緒に入店して。こいつ、慎也は拓馬と馬が合って、こいつら拓馬と派閥、あっ、グループが違うけど仲がいいんだ。俺が話して駄目でも、こいつらに説得させれば信じると思う」
「仲がいいのになんでグループが違うの?」
修二はちょっと照れ臭そうに言った。
「こいつら、俺が好きなんだとさ。話を戻すけど、拓馬を取り込んで目的を果たせたらグループの連中を連れて、しのぶさんの資金で円満に独立するよ。オーナーとそんな話してたしね。だから乗っ取る必要はない。乗っ取ってオーナーと遺恨を残すのは今後に良くないんだよ。オーナー、ホスト業界では力持ってるからね」
「情に負けてオーナーを切れないと思っていたけど、先読んでいたのね。さすが修二。しつこいようだけど、拓馬まだ心配。あんな冷酷な男が仲良しに説得されたくらいで心動かすかな」
「やってみないと分からないけど、あいつそんな悪い奴じゃないんだ。あいつ生い立ちが悪くてね。詳しくは知らないけど、ちょっと歪んじゃたらしいんだよね。いろいろ屈辱を受けてね、世間を見返してやりたくて金に執着を持って。悪い奴なら仲良しはいないよ。世の中、真っ黒な人間はそんなにいないんじゃない?」
「そうかな、私には分からない」
「まあ、行動あるのみだよ。今日拓馬に話す」
事の成否の経過連絡を都度すると決め二人は別れた。
その日、修二は拓馬を夕食に誘い、クラブ開店前に店の近くの寿司屋で会った。
日頃、顔を合わせるが会話をしない修二からの誘いに、拓馬は警戒心を抱いて寿司屋に来た。寿司を食べながら月並みな会話をした後、修二は用件を切り出した。
客にはいつも柔和さを絶やさない女好きのする顔から笑みを消し、拓馬は黙って真意を探るかのように、修二の眼を見詰め話を聞いていた。
「修二さんが俺なんかを飯に誘った訳が分かりました。交換条件付きでも、店を持たせると言ってくれたのは有り難いと思いますけど、この話お断りします」
拓馬にためらいもなく即答で断られて、修二は意外と言うより、恋を告白して素っ気なく振られたような気持ちになった。
「え~、そんなに俺が嫌いか。そうだよな。腹を割って話したこともないし、営業スタイルも違うし、敵対関係みたいなもんだったよな。だけど俺、拓馬買ってたんだよな」
「別に修二さんが嫌いで断った訳じゃありませんよ。営業スタイルが違うって言いましたけど、俺好きで色恋やってるんじゃないんです。翔から聞いているかも知れませんが、俺の母親、何度も男に騙されて、悲惨な生活して、それでも男を求めて、もっと悲惨になって、それがそのまま息子の俺に降りかかって。今どんな男とどこに住んでるかも知らない。母親に女を見せ付けられて徹底的に女が嫌いになりました。だけど、自分が母親を騙した男みたいになりたいと思いますか? 色恋やって母親が特別馬鹿な女だったか確かめたかった。母親は特別馬鹿じゃなかった。ただ男なしには生きられない淫乱だった。女は馬鹿だけど可愛いって分かりましたよ。色恋やめたいと思ったけど一度はまっちゃうと抜けられなかったんですよね。早く店持ちたかったし」
修二は真剣な眼差しで話す拓馬に嘘は感じられなかった。だが親しくもない自分に拓馬がなんで真情を吐露するのか分からなかった。
「だから俺の話に乗ればいいんだよ」
「俺、本当は翔みたいに修二さんに付いて行きたかった。だけどあの頃は俺壊れてたから。店のことですけど、俺には潜在能力があると言って、援助してくれる人がいるんです。初めて出会った聡明な女性です。感情だけでなく、心で俺を思ってくれます。俺の為だったらムカつくこともバンバン言ってくれます。最初は、なんだこのおばはんって思いましたが、いろいろ気付かせてくれて、やり直す気にさせてくれました」
「そうなんだ。巡り合いって不思議だよな。俺もオーナーにはいろいろ教えてもらったよ。そういう人に巡り合えるかどうかで人生変わるよな」
その女性が何で拓馬に肩入れするのか。女としてか、母性か、投資か、パトロン的趣味か。会っていないので修二には分からなかったが、女性不信に陥っていた拓馬が信じたのだ。拓馬はやり直そうとしている。俺も拓馬を信じようと、ホストをやって来た習性で人の裏を見ようとする癖を封印した。
修二は拓馬の前進的転機を喜んだが、ひとみの問題は解決しない。交換条件はなくなってしまったが、好意的な今の拓馬なら受けてくれるだろうとの希望的観測で安直に言った。
「拓馬、さっき言った交換条件だけど、交換がなくなっちゃたけど、やってくれないかな」
「両方に得があっての交換でしょ。交換がなけりゃ無理でしょう」
又あっさり拒否された。自分が安易に過ぎた。だが何としてでもやってもらいたい。
「そりゃごもっともだけど、何とかお願いしますよ」
修二は頭を下げた。
拓馬は今回の修二からの誘いがなくても、願い事で修二に会おうと思っていた。修二からの誘いは渡りに船だったが、話の内容も、願望を実現させる上で圧倒的優位に立たせてくれた。拓馬は誰に対するでもなく感謝した。
「それじゃ、俺から交換条件を出しましょう」
拓馬はもったいぶって言い、黙った。自分の優位性を演出する駆け引きのつもりだ。
「何だ。出来るだけ希望に応えるよ」
「翔と慎也を俺に下さい。修二さんも店立ち上げるのに離したくないでしょうが、俺も絶対必要なんです。受けてくれたら修二さんの希望通りしますよ」
拓馬は顔色を窺うように修二を見て言った。
「そうか。俺に取って二人を失うのは痛いが、拓馬に取っては俺以上に必要だよな。二人に取っても拓馬と一緒に一から店を作って行く方がやり甲斐があるよな。拓馬の再出発のご祝儀の気持ちも込めて二人を送りだすよ。二人がいやって言うかも知れないから、しっかり説得しろよ」
「あっ、はい」
今度はあっさりと承諾だ。
逡巡もせず即答されて拓馬は戸惑った。戸惑いを隠すように下を向き、考えを巡らした。もう少し抵抗されると思った。修二はこんな大きな人間だったのか。駆け引きを仕掛けようとした自分が愚かしい。一方、二人は修二に取ってそんなに必要な人間じゃなかったのか、自分と客を切らせることの方が重要だったのかとの疑問は残ったが、結果が良ければそんなことはどうでも良い。拓馬は交友もなかった自分への、修二の温情に素直に感謝しようと思った。
修二は下を向いて黙った拓馬をいぶかしみ言った。
「何か不満がある?」
「とんでもない。ありがとうございます。修二さんの心の広さに感謝します。すみません。二人にはもう話してあります。修二さんがOKしなければ無理って言われて。それで俺と切らせたい客って誰ですか」
「小野ひとみ。なるべく傷つかないように別れてやって欲しいんだ。知ってると思うけど、友達がひとみは今海外旅行に行ってるって言ってたから帰って来たら連絡させるよ。電話じゃなくて、必ず会って優しく別れてやってくれるかな」
「分かってます。安心して下さい。俺の交換条件きっちり果たします」
修二は予想だにしない展開に驚いたが、思わぬ良い結果に修二も誰に対するでもなく感謝した。
二人が同時に独立するので、オーナーとの話し合い等連携する必要があると修二が言い、後日詳細の打ち合わせをしようと決め、今後の互いの健闘を励まし合った。
修二は翌日、いつものカフェにしのぶを呼び出した。ミッションの成功を誇示して、開店への具体的な話を進める為だ。
しのぶは事の顛末を聞いて、複雑な心境になった。
思わぬ展開による結果だが、事が成ったのは嬉しい。だが今まで考え、やって来たのは何だったのか。美紀をキャバクラで働かせ、三人を海外へ行かせ、修二と会っていろんな方法を考えさせた。修二に投資なんかしなくても、翔と慎也を拓馬に差し出せば同じ結果になっていた。苦労して投資計画書を作ることも、お爺様を説得することもなかった。だが勉強になった。これからホストクラブで現実の世界を動かせる。楽しみだ。
一寸先は闇。闇にするのは情報の欠如。今回も拓馬の情報が有れば闇ではなかったかも知れない。余計なことをしなくて済んだかも知れない。しのぶは情報の重要さを感じ取っていた。
修二は目的を果たしたから開店の準備を始めたいとしのぶに求めた。しのぶは現実にはまだひとみが拓馬と別れていないからもう少し待てと言ったが、しのぶの現実社会への興味も手伝って、修二に押し切られ準備を許した。