#19 LONELY BRAVER
場違いなまでの低い怒声が響き渡り、人々の喧噪と賑わいは一瞬にして掻き消された。
ざわめき、笑い声、歌声など音という音の一切が聴衆から消失していく。
その異様さにノエルは眉をひそめた。
何か起きたのだろうか。
唐突過ぎて事情が呑み込めない。
ノエルの現在位置からでは分からなかった。
その時再度、男のがなり声がステージ付近から聞こえた。
次いで女性の悲鳴が上がる。
「ヤな予感」
カップの中身が零れないように注意しながら、ノエルは急いで駆け付ける。
辿りついた先では人だかりが黒山の塊をなし、みな同じ一点に視線をやっていた。
場に渦巻く様々な感情の半分以上は怯えだった。
若者や女子供たちの表情には不安の色しかない。
「おじさん、何かあったの?」
先ほどジュースを買った売店の店主を見つけたノエルが目立たない調子で声をかける。
彼は腕組みをし険悪な視線を飛ばしたままノエルに答えた。
「ああ、さっきのお嬢ちゃんか。いや俺もよく分かんねえが、どうやらあの黒い服を着たやつらがルゼルの兄ちゃんたちに難癖つけてるみたいだな。チンピラが、場が白けてしょうがねえぜ」
そう吐き捨てる店主の視線の先には、およそ調和を掲げる都市公園に似つかわしくない黒尽くめの男たちが五人いた。
高圧的な態度を無遠慮に撒き散らし、みな下衆な笑みを浮かべている。
「あー、なるほど。何となく分かった」
その典型的な悪人面に思わずため息が漏れた。
「このライブはゲリラですから当局から許可はもらってません。だけどロフタスパークは公序良俗を守れば、やってもいいはずです。だから問題ないでしょう」
毅然と反論するのはボーカルをしていた青年、ヤクトだった。
仲間の三人を庇うように前に出て、漆黒のスーツに身を包んだ男たちに対峙している。
絡まれているのはバンドメンバーのようだった。
ベースとギターの青年の手にはそれぞれの楽器が握られており、まさにこれから演奏が再開される直後だったのだろう。
男たちは意味もなく下品な哄笑をひけらかせた。
「んなこと聞いてねえよ。おれらにハナシ通してんのかどうか聞いてんだよ!」
胸元を大きく開けた猫背の若い男が声にドスを利かせる。
何重もの金属製のネックレスがジャラジャラと不愉快な音を立てた。
「おれたちは正規の申請はしていませんけど、そもそもここは許可が必要な場所じゃないでしょ。公序良俗を乱した覚えもありませんよ」
「さっきから公序良俗公序良俗ってうっせえんだよ。世間知らずにもほどがあるぜ。世の中のルールってもんが他にもあるだろ!」
猫背男が舌を出しながらヤクトに近づき、襟元を掴みあげる。
人垣の中にどよめきが走った。
ヤクトはまっすぐ金髪の男の目を見据え、ゆっくりとした口調で尋ねる。
「何ですかそれは」
「まだ分からねえか?おれたちへの許可に決まってんだろ。ヘハハハハ!」
確実に洗髪していないだろうギトギトの長髪が揺れ動く。
要は場所代を払えと言うことだろう。
どこまでもパターンに忠実な男たちだった。
そしてまた哄笑。
「まあでも、俺たちは優しいからよ。許してやらなくもねえぜ?土下座して出すもん出せばな」
「お兄ちゃんたち、こいつの言うことは聞いておいたほうがいいぜえ?切れやすいからよ。音がだせない体になっちまうのもイヤだろ?」
「よく見れば、女の子もいるじゃん。可愛い顔をしてるじぇねえか。名前なんてえの?」
「おら、てめえらも何みてんだ。あっちいけ、見世物じゃねえんだ!」
取り巻きの男たちが一斉に呼応し、場の空気がさらに荒んでいく。
どいつもこいつも頭の悪そうな顔をしていた。
店主の指摘通り、適当に因縁をつけては無茶難題をゴリ押しする悪質なチンピラだった。
獲物は誰でもいいのだろう。
目の前でカモれる対象が今回はたまたまルゼルだったのだ。
男たちの一人が手にしていた缶を地面に叩きつける。
どこからか子供の高い泣き声が上がった。
「うるせえぞ!黙らせろ!」
さらに大きくなる泣き声に苛立ちをあらわにする男たちが人垣を睨み付ける。
その様子を見て取ったヤクトが意を決した表情で声を張り上げた。
「お客さんに手を出すのはやめてください!わかりました。でも駆け出しなのでおれたち金は持ってないんです。すぐに撤収しますから今日のところは勘弁してください。お願いします」
女性ベーシストが後ろから青年の腕を掴む。
全員怖い思いをしているに違いないが、奮い立つヤクトの勇気になんとか踏みとどまっているようだった。
普段から大勢の客の前で演奏することに慣れてはいても、このような悪質なトラブルに慣れているわけがない。
「ああー?金はない、手は出すな、勘弁してくれ。お願いばかりで、そんな要求通ると思ってんのか?」
物事が思い通りにならない苛立ちからか、チンピラの罵声はいよいよピークに達しようとしていた。
どうしようかと、ノエルはここまでかなり真剣に迷っていた。
黒尽くめのチンピラたちが何者か知らないが、これでこの場を去るならノエルは何もしないつもりだった。
因縁をつけたりつけられたり、というだけで毎回介入するわけにもいかないからだ。
ノエル自身は問答無用の介入派でもイーギス生という新しい立場がある以上、ガキ大将だった昔と同じではいられない。
「介入には慎重を要するから、闇雲に突っ走ってはだめよ。もうそういうの分かる歳でしょ」
ノエルの幼少期を知るロキは当然のごとく口酸っぱい。
ただその時はなんとなく子ども扱いされて憮然と首肯しておいた。
ノエルにはイーギスの看板を背負い現場を動いた経験がない。
だから、微妙な問題への介入の仕方とタイミングがまだ今ひとつ測りづらいのだ。
もちろん、障害は独力で払いのけることができるならその方がいいという考え方もある。
実際、ここまであしざまに扱われても自分を見失わず、仲間を庇い、観客への飛び火を気にかけられるヤクトの勇気にノエルはいたく感心させられた。
「お願いします。これからは本当に気をつけますから」
ヤクトが直角に頭を下げる。
流石に焦燥を感じ始めているのかもしれない。
険悪な雰囲気が場に立ち込めていく様子が感じられた。
観客からの無言の敵意だ。
彼らはルゼルのファンであり、もはや言いがかりにも近い罵詈雑言で一方的にヤクトを追い詰めるやり方に怒りを抑えられずにいるのだろう。
場違いな無法者たちに注がれる敵意の視線はノエルの隣にいる売店の店主も同様だった。
ここまでくればばもう完全に一触即発ムードである。
観客の一人でも早まった行動に出れば、この張り詰めた緊張が怒涛のように崩れ去り、最悪の結果を引き起こしてしまうかもしれない。
ノエルとしては正直あまり考えたくない事態である。
口元をヘの字に曲げた猫背が背後にいる男の仲間を振り返った。
「どうするお前ら」
「このまま帰るのもな。いつものアレでチャラにしてやろうぜ」
そう言ってギターを指さす。
ギターを手にした青年は体をびくっと震わせた。
かけていたメガネが地面に落ちる。
楽器を指し出すことを渋るギタリストの青年を強引に払いのけ、奪い取ったギターの感触を確かめるように猫背がヘッドの部分を撫でる。
弦に指がばらばらと触れる度、ひどく不愉快な低音が零れ落ちた。
同じ物でも扱う者によってここまで音色に落差が生まれるらしい。
ノエルは無意識に顔をしかめる。
その時、仲間の一人がメガネを拾い上げ、小さな掛け声を放ち、無造作に宙に放り投げた。
ノエルの視界に信じがたい光景が飛び込んでくる。
「ああっ!」
メガネが空中で四散し、レンズが破片と化す。
ギターでメガネを粉砕したのだ。
ギタリストの青年の悲痛な叫びが引き金になり、悲鳴が次々に上がる。
「おれはよ、音楽好きじぇねえんだわ。ムカつくなあ、お前らよぉ。こうなったら徹底的にぶっつぶしてやるぜ!」
続けざまに、猫背の男が今度は奥にあるドラムセットにギターを上段から振り下ろした。
二度、三度。
ぐしゃぐしゃに破壊される衝撃に弦が弾け切れ、きしむような甲高いノイズがけたたましく周囲を震わせる。
電流が通っていたのか、火花が散った。
「やめろ、何するんだ!」
猫背の男に掴みかかったヤクトだったが、男達にあっという間に背後から羽交い絞めにされた。
「あと、おれがこの世で一番嫌いなものを知ってるか?イケメンだっ、てめえのようなな!いけすかねえ!」
燃えるような瞳をしたヤクトの顔面を殴る。
青年の口からは鮮血が零れ落ち、目を覆いたくなるような暴挙の数々に子どもの泣き声がけたたましく上がった。
ギターのネック部分を握った猫背は肩で笑っている。
ご満悦な表情で男は不潔な舌を見せた。
「ちょっと、やめなさい!あんたたち、なにやってんの!」
ノエルの体は反射的に動いた。
そもそも目つきからしてまともではなかった。
色々な縛りを考えている内に静止に入る時機を完全に逸した。
その代償は機材の大破、ヤクトの負傷だ。
もう少し早く決断できていればこんな悲劇を目にすることもなかったと思うと、ただただ悔やまれる。
ライムがいればもっとマシな判断ができたと思うが、別行動をして以降、あいにく彼女の姿はまだ見えない。
致命的な判断の遅れだった。とはいえ、これ以上手をこまねいて見ているわけにもいかず、ここにいない誰かに判断を委ねるわけにもいかなかった。
自分で決めて、一人で動かねばいけない。
イーギスの存在理由の一つに、外的からの脅威の排除がある。
この不埒者たちが外的に該当するのかどうかは知らないが、目の前で起きているこれは、市民に対する立派な脅威に違いない。
ノエルはそう判断することにした。
もしかすると規約違反の一つも犯してしまうかもしれない。
後から叱責を受ける可能性もあるが、重要なのは自分一人でこれ以上の被害拡大は何としても食い止めねばいけないということだ。
難しい理屈は全部後回しだ。イーギスであるかどうかも関係ない。
助けること。
ただ、それだけが明確だった。
「いい加減にしろ!」
ノエルは眦を上げ、ブチ切れた。
「あんだてめえは?」
「誰でもいいでしょ!それよりいきなり殴るか普通?とんでもないわねあんたたち!」
ヤクトの呻き声が聞こえてきた。
猫背の男は似合わない指輪をした拳で殴りつけたので、歯の一本も折れているかもしれない。
手にしていたジュースをおじさんに渡し、ルゼルのメンバーを守るようにしてノエルが前に出る。
「うるせえよ。お前もこうなりたいのか!」
「おお、女じゃねえか!」
「知らないよ~、女の子がしゃしゃり出てきちゃってどうなっても」
歯の隙間から漏れる三流の笑みにノエルの怒気が逆に急速に冷えていく。
口々に色めきたつ下品な男たちに向けて、ノエルはわざとらしくため息をこぼし、盛大に肩をすくめた。
「さっきから女女と馬鹿の一つ覚えみたいにうっさいわね。どこの女があんたらみたいなボンクラを相手してくれるって言うのよ。絶対ありえないから」
こういう場面での啖呵の切り方はミロ譲りだ。
ロキのように理詰めで相手をへし折ることは出来ないが、本家に近い歯切れの良さを並べ立てることなどお手の物だ。
平然と暴力を振るうやつらに愛想をくれてやることもない。
「なんだてめえ!」
顔を真っ赤にした太った男が声を荒げる。
挑発に乗り安すぎる。
勢いに任せ今にもノエルに掴みかかろうとしている様が短絡過ぎて滑稽だった。
「俺らはこの坊やたちに許可してねえんだよ。社会のルールを守れなかったから、こうなったんだよ」
猫背が険のある顔つきを見せつけてくるが、それしきのことではノエルをビビらせるには至らない。
何やら挑発してきているようだが、ノエルは冷静だった。
相手があまりに小物過ぎる。
幼い頃、札付きさえも黙らせるミロの凄味のある目つきを身近に見てきた者として、迫力不足も甚だしい。
「そのお兄さんの代わりにあたしがもっかい言うよ。ロフタスパークなの、ここって。あんたたちの許可なんて全くもって必要じゃないどころか、あんたらなんてお呼びじゃないの。さぁ、でてって。あ、でも、その前に一つだけ聞いておいて上げるわ。あんたたちどこの誰?警察にチクッておいてあげるから」
「…!生意気な女だな。てめえ、俺らが誰だか分かってんのか?」
「生意気で結構。あたしはノエル。とある学生よ。で、あんたは?」
深い考えがあるわけではないが、一応この場では伏せておく。
「黙りやがれ!承知しねえぞ!」
「バカ相手だと会話するのも大変だわ。名乗れない筋の人たちってことでいいわね?」
ノエルの指摘に猫背の男は分かりやすい位に顔を歪めた。
「いい?何でごろつきみたいなあんたたちから許可が必要なのよ。百歩譲って許可が必要なら、もっと穏便に対話できない?あたしにはさ、あんたたちが一方的に難癖つけてるようにしか見えないんだけど。ねえおじさん、間違ってるかなあたし?」
ノエルがジュースを預けたおじさんに振り向く。
「いーや、間違ってねえぜ。嬢ちゃんが正しい。正しくないのはお前らだ。ロフタスパークに相応しくねえんだよ、ここから出て行け!」
そうだそうだ!と周りの観客たちが応戦するかのように声を上げる。
溜まりきった鬱憤を一気に吐き出したようだった。
ノエルの冷静な物言いと有無を言わさぬ周囲の剣幕に男たちが一瞬たじろいだのが分かった。
「てめえら、なめてんのか!」
スラスラと言えていることに内心驚いていた。
自分の中でそれだけ許せないと言うことなのだろう。
猫背は手にしたままのギターを地面に叩きつける。
その衝撃でギターは今度こそ完全にヘッドから真っ二つに折れ、無残な姿を曝け出した。
ああ!という悲鳴がギタリストの青年から上がる。
「だからやめなさいって!あんたらこんなことしてたら」
足を踏み出したその時、ノエルは背後から声を掛けられた。
「ノエル、どうしたの?」
振り返るとアイスクリームを舐めているエルフがいた。
今この場においてこの差し迫った状況を理解していないのは彼女だけだろう。
その証拠に表情は何の緊張感もなく、アイスを舐めるのに必死だ。
いつの間につけたのか、左腕に先ほど分け与えた腕輪が見えた。
「エルフ?こいつらがルゼルの人たちに一方的に言いがかりをつけてるのを見てね。止めに入ったところよ」
元はといえばこの少女を探している最中に偶然この場に遭遇したのだ。
とはいえ、向こうから出てきてくれたのは良かったが、今は再会を喜んでいる場合ではない。
「ふーん」
「エルフ?」
気のない返事をしたカラフルな少女が人垣を掻き分け、ノエルに近寄っていく。あまりに場違いな乱入者の登場に男たちは目を丸くした。
「なんじゃ、てめえは」
その声に反応する素振りすら見せず、エルフは窮地に追い込まれたバンドと黒服の男たちの周りを歩く。
毒気を抜かれ力が一瞬抜けたのか、太った男に羽交い絞めにされていたヤクトはその場に崩れ落ちた。
「ヤクト!」
メンバーたちがヤクトに駆け寄り、頬の腫れた青年の上半身をゆっくりと起き上がらせた。
その様子をエルフは気のない様子で見つめている。
散歩でもするような気軽な歩調で太った男の傍に近寄った少女は男を仰ぎ見た。ノエルの位置からはエルフの後姿しか見えない。
そして何が起きたのか知らないが、その男はか細い悲鳴をあげ、勢いよく後ろに飛び移った。
「ふーん、なるほど」
エルフの童顔に浮かぶのは似つかわしくない思案顔だ。
アイスを最後まで食べ終わったのか、指に付いた残りを猫のようにぺろぺろと舐め取っている。
「おい、このガキはお前のツレか?」
いやさっき知り合ったばかりだ。
猫背の質問には答えず、ノエルは背の低い少女の挙動を注視している。
何か突拍子もないことをしでかすのではないか。
言いようもない不安が押し寄せるノエルの胸中を知ってか知らずか、猫背男の正面に移動したエルフがノエルの方に振り向く。
彼女の顔を見た時、テンションが異常に高ぶっているのが分かった。
悪戯好きのする猫が獲物を前に舌なめずりをする表情だ。
いっそ獰猛と言い換えてもいい。
「ねーねー、ノエル。あーしも結構強いんだよ、見ててね」
「え?」
エルフがそう言い終わるや否や、ノエルの目の前で目にも留まらぬ閃光が走った。