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イーギスプライド  作者: 生雪京
第三章 意図した成果は日々の弛まぬ努力の果てに
15/50

#15 THE STRONGER

その鮮烈な瞬間を青い双眸に映した時、ノエルはかつて味わったことのない激しい焦燥感に苛まれた。


脳髄の奥深くにまで浸みこんでいくような不快なイメージが動悸を一層に強めていく。

両の脚で地面を強く蹴った。

ほとんど無意識のままだ。

一心不乱に人混みを掻き分け言葉を発することもなく、一秒でも早くそこに辿りつくために全神経を集中した。

周囲で鳴りやまない歓声は全て雑音となり、認知していた景色は視界から余計な情報として消えていく。


眦を上げ色をなしたノエルの尋常ならざる様子に気付いた周囲が道を譲る。

圧迫感から解放されたノエルはその先で力なく横倒れになった小柄な金髪の女の名を腹の底から叫んだ。




イーギスを出たノエルの隣ではライムが同じ歩調で歩いていた。

ノエルは女性の平均身長を上回るサイズがある一方で、ライムはそれには全く満たない。

近づけば彼女のつむじを上から見下ろすことができるほどで、ちょうど胸の中に彼女の顔を埋めてしまえるほどの差があった。

綺麗な金髪を持つライムの猫っ毛が陽光に弾かれ、足を踏み出す度に風でふわふわと揺れている。

お互いに初対面ながら午前中で一気に意気投合した二人は、合間にちょっとした事件を挟みながらも、予定通りにマーセルの街に繰り出していた。


午後は元々学校併設の図書館で過ごす予定のライムだったが、イーギスに来て間もないノエルの希望に付き合ってくれたのだ。

「ごめんね、図書館行けなくして」

「ううん、気にしないで。用事があるといっても予約してたものを取りに行くだけだったから」

この広い街をたった一人で外出すれば、二度目の迷子になるのは必至。

道順が分からないくせに、まるで最短距離を知っているかのように、脇目も振らずにずんずん進んでしまう。


そんな悪癖をロキには深く呆れられているのだが、未だ治る気配はない。

分かっているのだが、なぜかやってしまう。

だがそれをした結果、初日に大ポカをやらかしかけた。

今それを回避できているのは、ひとえにライムがいるからに他ならない。

活かせた教訓に気分を良くし、彼女の心遣いに感謝したノエルはおもむろに空を見上げた。


初めての休日は雲一つ見当たらない澄み切った晴天だった。

夜になると肌寒さを感じる今の季節だが、日中の陽気にはついつい眠気を誘われてしまいそうになる心地良さがある。


ノエルの地元レーンヴァルトと同じく、ここマーセルも比較的雨の少ない土地柄なのは助かった。

朝起きた時に窓の外が雨空だと一日中憂鬱な気分を抱えてしまうノエルにとって、傘の出番が少なくて済むそうなのは嬉しい。

肌に馴染んだ地元の温暖な気候とはまた一味違った気持ち良さを満喫しながら、ノエルは歩を進めていく。

時折顔に感じるそよ風に前髪が左右に揺れた。

イーギスを出て一番最初の大通りに足を踏み入れた二人の前に待っていたのは賑やかな喧噪だった。


人通りが一気に増え、自然歩く速度が落ちていく。

その分左右にある店舗の外観を幾分じっくりと眺めることができ、ノエルに不満はない。

どの店舗にも人がたくさん入っているようで、マーセルが第二の州都でありながら、聖シオン一の人口を誇り、首都を抜く経済力を秘めていると言われる所以がなんとなく分かった気がした。

初日のあの時は辺りを見渡す余裕もなかったが、改めて見てみると、何から何まで地元のそれとは違っている。

田舎の時間の過ごし方と空気感に慣れたノエルとしては目の前のこの活況には正直なところ少し圧倒されるものがあり、良い意味でノエルの喉からは声にならない感嘆の声が零れた。


それは、ライムとはぐれないように注意しながら、どこからか漂ってくる甘い匂いを辿り、夢中になって首を巡らしている矢先のことだった。

「ひゃっ!」

前のめりになったノエルがつまづきそうになる。

お尻に何かがぶつかったのだ。顔を赤らめて背後を振り向くと、小さな男の子が尻餅をついて転んでいた。


すぐに状況は察した。

いきなり男の子の前に出てしまった自分の不注意のせいで、避けきれずにぶつかってしまったらしい。

よく見れば三歳くらいの男の子だった。おでこを押さえながらべそをかき始める。

「ごめんね!怪我しなかった?」

腰を屈めて声をかけると、男の子は目に涙を溜め始めた。

ノエルがおろおろしている横で同じく中腰になったライムが男の子の栗色の頭を撫でる。

彼女には年の離れた弟と妹がいるようなので、こういう時どうすれば良いか分かっているのだろう。

「スヴェン」

視界の外から女の声が聞こえた時、男の子が振り向いた。


ノエルが見上げた先には柔和な笑みを浮かべた少女がいた。

この子の姉だろうか。年端もいかない小さな女の子は端正な顔立ちにどこか男の子と同じ雰囲気を持っていた。

「大丈夫です。この子が犬に引っ張られて走っていたので。ご迷惑をおかけして、こちらこそすみませんでした」

「ううん。こっちこそボーっとしてて本当にごめんね」

自分よりも十歳は年下であろう女の子の立派な言葉にノエルは感心した。

男の子は目に溜めた涙が流れ出すのを必死に堪えているようだった。

その時、一匹の大型犬が鼻息荒く戻ってきた。

そして間髪入れずに男の子の頬をぺろぺろと舐め始める。

まるで、男の子がこれくらいで泣くな!と叱りつける男親のように。


「そんなに舐めちゃ、スヴェンの顔が鼻水と涎だらけになってしまうわよ」

舐めるのを辞めようとしない犬の頭と少年の頭に少女の掌が置かれた。

決壊寸前だった幼い男の子は結局泣くことはなかった。

黙って立ち上がり、口をへの字に曲げた少年は何事もなかったように犬と一緒に走り去って行く。

少女は丁寧にお辞儀をして、早足で彼らの後を追っていった。


「かわいらしい姉弟でしたね」

立ち上がったライムが何気なく呟く。

男の子と女の子が先の角を曲がって見えなくなるまで、ノエルは二人の後ろ姿をぼんやりと見つめていた。

ふいに蘇ってきた懐かしい思い出が脳裏をよぎる。




流行り病にかかることも学校を休むことも一度もなく、生まれつき体が丈夫だったノエルは幼い頃から年の離れた兄代わりの三人の少年たち、ルカ、ミロ、ライと野山を走り回る活発な日々を過ごしていた。

来る日も来る日も、いつもみんなと一緒だった。


人の手がほとんど入っていない大自然の雄大さはレーンヴァルトが誇れる数少ない資産の一つだ。

そんな途方もなく広がる自然の荒々しさの中で、ノエルは崖の上から池に飛び込んだり、猿に倣って木登りをしたり、木の棒でちゃんばらをしたり、川魚を釣って食べたり、時に出くわす猛獣から逃げ回ったりしながら、多くの時間を活発すぎる少年たちと供に過ごした。


おかげでノエルは退屈した覚えが全くない。

また少年たちの方も、三人に遅れまいと後を必死に付いてくる小さなノエルを実の妹のように可愛がっていた。

レーンヴァルトは雨季がほとんどないため、稀な大雨には子ども心を異常に騒がせるものがあった。

大人たちは危ないから家で遊びなさいと嗜めるが、素直に言うことを聞く三人ではない。


しかし言わんこっちゃないと言うべきか、五歳のノエルが増水した川で足をとられ下流まで流されてしまい、懸命の救助でなんとかノエルの溺死を回避できたものの、ルカの背中で死んだようにぐったりするノエルの姿を見た大人たちが目をひん剥いたのは言うまでもない。

実際ノエルも九死に一生を得たおかげで、今もこうして空の青さを実感できているわけだが、ノエルの雨嫌い水嫌いはそもそもここに原因がある。


ここから先は後から両親に聞いた話だ。

あの後それぞれの親が少年たちに対して烈火の如く怒っていたらしい。

今にして思えば当然といえば当然かもしれない。

こんな日に後を付いていった自分にも大きな非があるが、それを止めず悪天候を軽く見たせいで、身内と呼べる五歳の少女があわや事故死になりかけたのだから。

特にミロの母親は強烈だった。


普段どれだけひどい目に会っても弱音どころか泣きべそ一つかかないミロが半泣きにまでなったらしく、そしてそこに十二歳のロキも加勢。

いつもは三人の威勢の良さを後ろで呆れた笑顔で眺めているだけの彼女だが、ノエルが半死半生だと分かれば話は別らしい。

半殺しにしかねない剣幕で怒り狂うロキを周囲の大人たちが逆に諌めたほどだ。

ロキの怒りにうなだれる少年たちを想像するのは容易だったが、いざ自分が逆の立場だったらと思うと身の毛もよだつ。

後日談として、三人がノエルを後ろに伴う時には以後お目付け役のロキから了承を得るのを厳命されたと教えてもらった。


もちろん兄たちに悪気があったわけではない。

普段の自分への関わり方を知っているからだ。

おかげで色んな無茶をたくさんしたし、死にそうな目にもあったが、今となってはどれもこれも笑って語れる良い思い出だ。

加減を知らないワルガキたちと多くの時間を共にしたせいか、風邪すら寄せ付けない身体は一層丈夫になり、身長も日増しに伸びていった。


女の子らしい遊びには興味を一切示さず、手足に生傷ばかりをこさえたノエルを両親は案じたが、だからといって、今更ながらほいほい女の子路線に変更するノエルではない。

ルカとライが通っていた町の剣術道場の門を叩いたのは彼女が六歳になった年だった。


両親にしてみれば、同じ無茶でも、一人っ子のノエルがこれ以上自分たちの知らないところで暴れまわるよりも、良識ある大人たちのいる道場に預けてしまった方が安心できるという天秤が働いたのかもしれないが。

しかし、そこでノエルは見る見るうちに剣の腕を上達させていった。

元々剣才があったというより、努力が彼女をそうさせたというのが、彼女の入門を許可した師範の言葉だ。


それ以降、十五の歳になるまで敗北はたったの八回。


それも自分より遥かに年上のパワーとサイズに勝る男子との勝負だ。

一方で、同年代はおろか、一つ上のクラスくらいでは加速度的に成長していくノエルが相手ではまともな試合が成立しなくなるほどだった。

このようにしてノエルの名前は徐々に広がっていき、ついには隣町で開催される少年少女剣術大会に越境枠で特別に招待されるまでになった。

迎えた個人戦三回戦で残念ながら僅差で敗れはしたものの、ノエルの中では悔しさよりもむしろ清清しさのほうが勝っていた。

田舎ではほぼ敵なしだった自分だったが、上には上がいるとその身を以って体感できたからだ。


そこからのノエルの鬼気迫る打ち込み方に周囲の大人達は一人の少女の将来を嘱望した。

「かつてのルカやライのような才能はないかもしれん。だが、ノエルは努力を続けられる天才だ」


これは穏やかな中にも峻厳な響きを持って評する師範の評である。

一心不乱に剣を振るノエルに他者を圧倒できる才能はない。

だが、意図した成果は日々の弛まぬ努力の果てに、という文言を構える道場の精神を体現できるのがノエルという名の少女だった。

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