#11 その闖入者、豪傑にして雄弁
首を巡らせたノエルの視線の先では食堂の入り口で仁王立ちする大柄の男がいた。
この距離からでも筋骨隆々なのが見て取れる。
男は大きく息を吸い込み、再び声を張り上げた。
「喧嘩大いに結構!だが、やるなら外でやれ。食堂は、食事するところだからだ!」
「そういう問題?」
遠くて聞こえていないだろうが、つっこまずにはいられないノエルである。
このタイミングで現れたということは、騒ぎを止めるために恐らく誰かが呼びに行ったのだろう。
ノエルはこの男を見た覚えがないが、イーギスの関係者であることは間違いなさそうだった。
ガタイの良さと滲み出る雰囲気から察するに、武芸科の教官の一人かもしれない。
生徒の数もさることながら教官の数もやはり多いのがこの学校の特徴の一つでもある。
ノエルたちの元まで来た男は一通り場の惨状を一瞥し、深く嘆息した後ジャスに向き直った。
「ジャスよ、お前はデスマッチでもしたいのか?いつも一線を越えすぎだ。ボロボロじゃねえか」
「俺なりのルールは守っているつもりなんですがね」
お互いに顔見知りのようだが、ジャスに悪びれた様子は微塵もない。
いっそノエルが感心するほどの強気な不機嫌さだ。
こいつは誰に対してもこんな態度を取れるらしい。
「男同士だ。拳でしか解決しないこともあるだろう。俺はそれを止めん。何があったのかもしらんしな。だが、手は抜けお前は」
腰に手をやり、ジャスを睨み付ける。
ジャスが獰猛な豹なら、この男は勇猛な熊だ。
「それは強制ですか?」
「強制じゃねえ。これは俺からの頼みだ。お前と同じように、俺もよ、強制するのもされるのも大嫌いなんだわ」
突然現れたが、インパクトのある男だった。
一度見たらそう簡単に忘れることはできないほどの存在感がある。
生命力溢れる褐色の肌は日焼けによる代物ではなく生来のものだろう。
彼のルーツが聖シオンではないのは明らかだった。
髪の色も肌の色も目の色もまるで異なる人種が一つの国の元で生活する聖シオンは多民族国家として知られている。
ライムの緊張が痛いほどに伝わってくる。
まだまともに会話するのは難しそうだ。
彼女に話しかけるのは後にしよう。
実際のところいかんせん両者に雰囲気がありすぎて、ノエルも迂闊にこの空気を破るのを躊躇われているくらいだ。
「悪いがいくらあんたの頼みでも、俺は俺のポリシーを曲げるつもりはありませんよ」
「そうか。そりゃ残念だ。でも、わけねえと思うんだがなあ。お前には器があると勝手に踏んでたんだが」
場違いなまでの朗らかな声にジャスの視線が細められる。
「…頭痛がする」
緊迫感に満ちた男同士の睨み合いはいつまで続くかと思われたが、ジャスが目を逸らすことで唐突に終わった。
苛立たしげな表情を隠そうともせず、無造作にポケットに両手を突っ込む。
踵を返したジャスの横目がノエルを去り際に見やる。
ノエルはそれに言葉を返さない。
何事もなかったように去っていくジャスの後ろ姿はどこまでも不機嫌そのものだった。
「ちっ、いっちまった」
頭をボリボリと掻く巨木のような男の表情は渋い。
ノエルはライムに終わったよと声をかけた。
ようやく過度の緊張から解放されたライムが目を何度か瞬かせる。
見る見るうちに表情が強張っていった彼女だったが、心の底から安堵の表情を浮かべられるようになるにはもう少し時間がかかりそうだ。
「おいお前ら。コイツを医務室へ運んでやれ。おれが行くと都合が悪いからな」
顔面を殴られた男は失神してしまったらしく、残骸の下で完全に伸びていた。
男は力なく立ちあがる他の三人に声をかける。
ノエルが引き寄せた椅子にライムを座らせている内に、覚束ない足取りで男たちは食堂から去っていった。
「後始末を預かってやったのはいいが、せっかくのランチタイムが台無しになっちまったな。おーおー、ぐちゃぐちゃにしやがってからに」
こっちの予定も台無しだ。
いや、台無しではないが、気分は晴れやかとは言いがたい。
訳も分からず巻き込まれ、挙句ジャスの凶暴な大立ち回りを目の当たりにしたせいで、ノエルの気分は上がっているのか下がっているのか自分でもよく分からなくなっていた。
とはいえ派手に動いた分、まだ若干心拍数が高いが。
というか、返す返すもあの物騒な男は一体何者だ。
会話の流れからして自分よりも一学年上の先輩であることは分かった。
まあ、百歩譲って先輩であることは許容できる。
ただ、大前提として、こんな狂犬みたいな男がうろうろしていることが信じられない。
鉄の首輪か何かでも嵌めて隔離しておいた方がいいんじゃないか。
同じ学び舎で過ごす以上、これから何度か顔を合わすこともあるだろう。
だからといって逃げも隠れもしないが、ここ数日で実に嫌な奴に会っていることに辟易するノエルである。
ジャスと向かい合ってる時、実は内心結構焦っていた。
このことは誰にも言うまいが自分に嘘はつけない。
あの鮮烈な格闘術の前では、認めたくないが自分の本気は通用しないだろう。
ただノエルも腕に自信がないわけではない。
聖シオン全土にその雷名を轟かせるイーギス、歴史と格式を兼備した門を叩いた自分自身を下手に貶めるつもりはない。
しかしそれでも、ちょっとなーとノエルは思うのだ。
重心移動から来る身体のいなし方、点を射抜く拳の正確性、一切の非効率が削ぎ落された動きなど、ジャスが自分より秀でている点を挙げればキリがない。
根本的なところでいくと、力も速さも段違いだった。
つまり逆立ちしても、今の自分ではあの男には勝てない。
自分の自信など所詮田舎という狭い空間の中で培ってきたものであることくらいハッキリと自覚している。
世界は広いと強がりたいが、あんな危険人物とぶつかりあう事態はできれば御免被りたい。
いくら強くなりたいと願っていても、あんなやつを相手にしていては身が持たない。
まあ、過去を振り返ってもこれほどムカつかされたことは片手で数えるくらいしかないので、自分から手を出してしまう可能性、これが決してゼロにはならないのがノエルなのだが。
そんなことを考えるノエルの耳に低く野太い声が届いた。
声の主は大きな身体を窮屈そうに折りたたみ、食器の破片を丁寧に拾っている先ほどの闖入者だった。
「お前らにも手伝わせてやろうか?なんせ掃除は手分けしたほうが早く済むからな」
「え、あたしたちが?」
「ああ、あたしたちだ。お前たちの他に誰がいる」
男は分かりきったことを聞くなという顔つきだ。
身体を動かすたびに、首元で揺れるサングラスがカチャカチャと音を立てている。
「うえー、関係ないのにー」
「まあそう言うなって」
ノエルの嫌そうな顔を全く意に介さず、男はニッと笑う。
黒い薄手のニット帽の下に見える日に焼けた表情には年齢を感じさせない無邪気な力強さがあった。
「大先輩の言うことは聞いておくもんだぜ?おいライム、お前は塵取りとほうきを持ってきてくれ」
こくんと頷いたライムが足早に駆けていく。先の刺激的なシーンから目覚めたらしい。
「え、知り合い?」
大先輩と言うからにはイーギスの卒業生なのだろうか。
仮に教官なら自分を先輩という言い方はしないだろう。
「ライムのことか?まあここで一年間見てきたからな」
食堂のテーブルなど一撃で叩き割ってしまいそうな太い腕にはタトゥーが彫られていた。
大胸筋で盛り上がる白いTシャツに所々が色褪せたジーンズ。
あの太い首から繰り出されるヘッドバットはノエルのそれよりきっと痛いだろう。
綺麗に刈り揃えられた口髭と顎鬚にはそこはかとない渋みがあり、年は確実にノエルの倍はいっていると思うが、見た目も身なりも実に若々しかった。
「んっ、あー、そう言えばどこかで見たことあると思ってたんだ。イザイアっていうカフェの店員さん!」
ノエルの脳裏に残っていた小さな記憶がかちりとはまる。
「店員じゃねえって。お前こそ見ない顔だな。一年か?」
反対に、男のほうは記憶に思い当たるものがないらしく、太い首を傾げている。当然だ。
ロキに案内された時にノエルが遠目に一方的に見ただけだからだ。
挨拶どころか会釈すら交わしていない。
とはいえ、ノエルにしても厨房にこんな人がいたなという程度の記憶でしかないのだが。
「そうだよ、ノエルって言うの。この前イーギスに来たばかりのピカピカの一年生だよ」
この自称大先輩という人から話を聞けば色々分かることもあるかもしれない。
ノエルは他の一年生よりも二ヵ月遅れて入学しているので、細かなところでまだまだ分からない事が多い。
これからこのイーギスで四年を過ごすのだ。
知らないでは困ることもたくさんあるはずだ。
それにいつまでもロキに頼ってばかりはいられない。
学長専属秘書の彼女に聞けばノエルの疑問などたちどころに解消されるだろう。
ただそれではダメなのだ。
自立した強い人間になるために、わざわざイーギスに入学しているのだから。
今はもう、何でもかんでも頼ってばかりいられた子どもの頃とは違う。
姉と慕う彼女には少女を卒業した自分がこれからすることを見てもらいたい。
まだ再会を果たせていない三人の兄にも成長した自分の姿を見てもらいたいのだ。
そう思い直し、幾分か気分が引き締まったノエルは膝を曲げて地面に落ちた破片を一枚摘んだ。
「よろしくお願いします、大先輩!」
「はっはっは。新参者ってわけだな。おっと自己紹介が遅れたな。オレの名はオリバルド=ヴェーガー。オリバーとでも呼んでくれ。お前が言ってるカフェ、イザイアのマスター様だ」
長身に髭面。
そして分厚い胸板に焼けた褐色の肌。
歴戦の猛者のような雰囲気を漂わせたオリバーには有無を言わさぬ迫力があるが、ニヤリと笑ったその顔には不思議な愛嬌があった。