ひと星
僕の名前は“ユエ”
“故あって”の“ユエ”じゃ無くて“月”と書く。
僕たちの住む日本のお隣りさん、中国では“月”を“ユエ”と読むそうだ。
名前の読みが中国風だからと言って僕が中国人な訳じゃ無くて、もちろん両親共に何代逆のぼっても中国の“ち”の字も出てこない。
お父さんが中国支部に転勤になって引っ越した時に僕が産まれて、中国国籍だからこの名前になった訳でも無い。
じゃ、何でわざわざ中国読みになんかしたんだとよく聞かれるけど、何の事は無い。ただ単にお母さんが中国史好きだからだ。
(お父さんが必死に止めなければ今ごろ僕の名前は“孔明”か“関羽”になっていたそうだ)
歴史好きで読書が趣味の文学派文科系のお母さんと、数理学に詳しくてコンピュータープログラマーでスポーツ好きなお父さん。
そんな凸凹夫婦から産まれたお陰で僕は理数系も文科系も、あまつさえ運動系も“不得意”な物が何も無い、一見オールマイティな子供に育った。
けど現実問題として、“何でも出来る”って事は“何にも出来ない”って事で…まぁ、よく言えば“好奇心旺盛”悪く言えば“八方美人”と言う事になるそうだ。
(でも僕はこの言葉の意味がよく分からないんだけどね)
そんな僕たちが住んでいる家の隣は…長い間空き地だった。
けどこの間から何だかきちんとしたスーツを着ている人や、普段着を着た大勢の人が代わる代わる隣の空き地を見に来ていた。最初は何だか解らなかったけど今なら分かる。
家を建てに来ているんだ。
隣りの空き地はとても広い。どのくらいかって…僕の家が2つは建つんじゃないかってぐらい広い。(大人達は百坪はあるんじゃないかって言ってた)
最初は何件かの『集合住宅』とやらになるんじゃないかって皆言ってたけど、土台が組み上がって木材が組まれ始めるとでっかい家とひっろい庭で成り立つだだっ広い一軒家な事が解った。
「この暑いのに職人さんも大変ね」
と、お母さんが近所の人と話していた。
確かに“マレに見る猛暑”って騒がれている今年は本当に暑い。
どんなに暑いかって、“学校のコケが生えてる汚いプールでもいいから冷たいなら入りたい”って思うくらいに暑い。
(ほんとに入れよって言われたらイヤだけどさ)
そんな中、重たい荷物を持って、力仕事をするのは大変なんだろうと思った。
けど僕は暑くて汗をかく様な中さらに汗の出る様な労働をした事が無かったのでどのくらい大変なのかがよく解らなかった。
「すみませーん。責任者の方はどの方でしょうかぁー?」
学校から帰って、自分の部屋でダラダラしていた僕の耳にそんな声が入って来た。窓から隣りを見てみると僕と同じ位の子供が、作業員のおじさん達に声を掛けていた。
何となく興味を引かれたのでそのまま見ていると作業員の一人がその子に近付いた。
(なんだろう?)
さすがにさっきみたく大声で会話するわけ無いから、二階の僕の部屋まで二人の会話は聞こえてこなかったけど、その子が何か大きめのビニール袋を作業員に手渡していたのが見えた。
袋を渡すとその子は帰ってしまったけど、僕は直ぐに袋の中身が何なのか解った。
飲み物だ。
今の時間は調度うちの家が影になっておじさん達の休憩時間になる。そこでさっき袋を手渡されたおじさんが他の人達を集めて受け取った差し入れを飲み始めたんだ。
何処の親切な家の子だろうと僕は思った。この近所じゃ無い事は確かだ。ここら辺には僕と同い年の子はいない。
だけど何日も工事をやっていて大変な事は近所の人じゃないと知らないだろうし、ずっと見ていないと差し入れを持って行ってあげようなんて思わないよな、とも思った。
「あっちぃー……」
そんな事を呟いても暑さが引かない事は百も承知だけど(所で百も承知の“百”って何だろうね?)思わず呟いてしまいたくなるのは…やっぱりこの暑さのせいだろう。
家に近付くに連れてトンテンカンテン軽快でやかましい音が聞こえて来る。工事は順調に進んでいる様で、すっかり家の骨組みが出来上がっている。
(今日もあの子来てるのかな?
この間差し入れにやって来たあの子はほとんど毎日作業現場にやって来ていた。
最初は飲み物を渡して帰るだけだったのが最近ではおじさんたちと一緒に休憩をして行くようになっていた。
(あ、来てる)
隣の家(まだ家じゃないのか?)の前を通りかかった時、作業員のおじさんが僕に気がついてペコリと頭を下げた。
僕も何度か顔を合わせたことがあるから隣の家の子だと覚えられたらしい。
お返しに軽く頭を下げて立ち去ろうとした僕を後ろから引き止める声がした。
「あの……!」
「? なに?」
差し入れの子だ。
「あ、あの。今、ここ僕の家を建てていて、それで、毎日うるさくてごめんなさい」
ペコッと上半身全部を折って大きなおじぎをされて驚いた。
工事がうるさいのはあたりまえだし、その音を出してるのはこの子じゃないんだから、別にこの子があやまる事じゃないんじゃないかと思った。
そして、それ以上にこんな大人みたいな事を言えるその子にびっくりした。
「あの…僕なんか変だったかな?」
「え?」
驚いている間にそう聞かれた。
「なんか、ああ言う事言いなれないから、なんか変な事言っちゃったかなって」
「別に変じゃ無かったよ。ただ大人みたいな事言われたの僕も初めてだったから、驚いた」
「そっか。よかった」
にこっと、その子は笑った。
何がよかったのかわからなかったけど、その笑顔がとても嬉しそうだったから僕もつられて笑った。