SLの中で
秋から始まる学校は、フランスパリの名門校コンセントヴァトワール。
でも、私にはこの素晴らしい出来事を一緒に喜んでくれる友達なんていない。
私がSLの中でずっと考えてたこと、ピエタで過ごした16年間、楽しいことは全くなかった。
車窓の眺めは目まぐるしいほどに移り変わり、私が毎日毎日嫌々過ごしたピエタの汚い孤児院を少しの間忘れさせた。
夜に出発した蒸気機関車は人気がなく夏なのにひんやりしていた。
お金がない私は一番等級の低い座席に腰を下ろした。
トランクを持って、よそ行きの帽子をかぶっても、丈の短い色褪せたボロボロワンピースは一目で私を孤児院の子供だと分からせた。
強烈に、そして誰の目にもわかるように。
窓に映る一人の孤児の少女を眺めながら、私は7歳の時のコンサートを思い出した。
イギリスの女王がピエタの噂を聞き付けコンサートを開くことになったのだ。
ヴィヴァルディ先生の新曲を「選ばれし乙女たち」として、披露することになったのだ。
ピエタの音楽監督は作曲家としても名高いヴィヴァルディ先生で、ピエタの少女たちは彼に認められ「選ばれし乙女たち」となることが、ピエタでの序列の最上位となれる道だった。
ピエタ院の経営は多額の寄付金で賄われていたため、慈善コンサートが重要視されていたことはどんなに幼い者でも理解できるものだった。
イギリスの女王様のご来訪ともなれば練習にも厳しさが増す。
ピエタ院の学院を統べる院長は、サラ・ブライトン。元はピエタの孤児だが、生涯をここで過ごした人の血が通っていない冷酷な女史である。
そのコンサートでもエイミーより少し年長の「選ばれし乙女たち」に過酷な特訓を強いていた。
ピエタ院のはこのコンサートの成功から、孤児院という面よりも寄宿舎付きの女子の音楽学校と言う性格が強まった。
それほど、ヴィヴァルディ先生の音楽が素晴らしかったのである。
私はこのコンサートで忘れられない出来事を経験することになる。
イギリス女王様への歓迎のコーラス隊に選ばれたことである。
私の他の選抜者は皆、家柄のしっかりとしたヴィヴァルディ先生が家庭教師で音楽を教えている貴族の娘たちだった。
ヴィヴァルディ先生は、私の音楽の才能を認めてくださっていた。
でも、その純粋な音楽の才能は富の力に叶わなかったのである。
春の陽光が穏やかな新緑の頃、ピエタではイギリス女王を向かえた、それ以前にもそれ以後にも無いほどの規模での慈善コンサートを行った。
女王に謁見するために各国の貴族や有力者も集まり、孤児院の小さな庭は人で溢れかえっていた。
音楽よりも多くの参加者の狙いは人脈づくりと女王だったに違いない。
しかし、幼い私がそんな状況を分かるわけがなく初めての大舞台に、ヴィヴァルディ先生からの大抜擢で口から心臓が飛び出そうなほど緊張していた。
事件は起こった。
コーラスを披露するために集められた少女たちは、慈善コンサートの寄付と引き換えに娘を舞台に上げたいと言う見栄のや欲の固まりだったのだ。
盛大な人数の聴衆を前に美しく着飾ったコーラス隊の誰もが怖じ気づき、滅茶苦茶になりかけたのだ。
音楽ではなく娘たちをひけらかす、そんな目的すら感じられた。
ここにいるのがピエタの少女であれば純粋に歌で、音楽の力で聴衆を感動させることができたはずだった。
ヴィヴァルディ先生に女王様の前で恥をかかせるわけにはいかない。
私は必死に歌った。
誰よりも練習した曲を、ヴィヴァルディ先生に認められた曲を
突然、声が響いた。
「みすぼらしい格好で女王様の前に出るんじゃない」
ここは孤児院の慈善コンサートの場なのになぜ。
娘のプライドを守るため、貴族たちは私に
ひどい言葉を浴びせ続けた。
泣いても泣いても涙が止まらなかった。
私はその日から1度も人前で歌うことはできなくなった。
声が震えて涙が溢れて、でもヴィヴァルディ先生は私にフルートを続けさせた。
その年の冬、「選ばれし乙女」になった。
それから十年、フルートと音楽だけを考えて生きてきた。
みすぼらしい服は変わらず、私はピエタとヴェネチアを後にした。
サラの話では、ピエタで10年「選ばれし乙女」として活躍した私に音楽を続けてほしいと、多額の援助があったそうだ。
ヴィヴァルディ先生の亡き後のピエタに留まり続ける意味がなかった私は、二つ返事でそれを受け入れた。
私を助けてくれる人が、まだこの世にいるなんて思ってもなかった。
あの女王様のコンサートを思い出したのは、偶然でもない。
私はあの日、一人の少年に救われたのだ。
名前も知らないイギリスの貴族の少年に。