【後編】スオル・フレイデルセン
マッチは一箱も売れることなく、街路には人の姿すらほとんどなくなっていた。辺りはもう暗くなっていて、路地に面した家の窓には明かりが灯っている。加えて、どこの家から流れてきたのか、路地には夕ご飯のいい匂いが漂っており、スオルのお腹がグゥと音を鳴らした。
だが、スオルは帰れない。今日はこのマッチを全て売り捌かなければ家に帰ってくるなと言われているためだ。もし、このまま帰ったものならイガルドに殴られ、蹴られることになるだろう。
スオルは白い息を吐くと、街路のベンチに腰をかけた。昼間降っていた雪は今は落ち着いており、空には大きな満月が輝いていた。
「……すごい」
あまりに綺麗な月に思わず声を漏らした。天高く輝くそれにスオルは手を伸ばした。もちろん、届かないことはわかっている。だが、掴んでしまえそうなほど、大きく美しいそれに手を伸ばさずにはいられなかった。
「ちょっと!」
すると、突然声がかかってスオルは声のする方へと顔を向けた。
「……貴方は」
それは昼間にセーターをくれた女の子だ。女の子はスオルの元へと駆け寄ると、白い息を切らし、焦った表情を浮かべる。
「帰りなさいって言ったじゃない」
「……これを売らないと帰れなくて」
スオルは目線を落として自身の横に置いた木のカゴに目を向ける。すると、女の子はハァとため息をついて腕を組むと口を開いた。
「それ、いくらよ」
「え、銅貨二枚です」
「何個あるの?」
「えっと、箱には四十本は――」
「違うわよ。そのカゴに何個入ってるの?」
「え……たぶん、百個ほどですが……」
「じゃあこれで足りるわね」
女の子はそう言って、懐から出したコインをピンと指で弾いて、スオルが広げた手のひらの上に落とした。
「――! これ、白金貨ですよ!? 多すぎます!」
ルルハンスでの通貨は銅貨、銀貨、金貨、白金貨と高くなる。銀貨は銅貨の百枚分。金貨は銀貨の百枚分。そして、白金貨は金貨の百枚分である。
つまり、白金貨は銅貨の百万枚分。マッチ箱百個に対してあまりに過剰の支払いだ。
スオルは慌てて女の子に返そうとするが、彼女は首を横に振った。
「いいのよ。貰っておきなさい」
「でも、こんなに貰えません!」
「いいから、私には必要ないもの」
「お金が必要ないなんてこと……」
「いいから!」
女の子の突然の大声にスオルはびっくりすると、昼間よりもずっと深くお辞儀をした。
「……ありがとうございます」
「早く、帰りなさい」
女の子の言葉にスオルはまたお辞儀をすると、その場から立ち去った。
「……ただいま帰りました」
スオルは恐る恐る玄関の扉を開けて、帰宅したことを告げる。すると、コツンと何かがドアに当たり、スオルは目線を落とした。
そこには見たことのないハイヒールが転がっており、来客があったことにスオルは気づいた。
それは向こうも同様であり、スオルの帰宅に気付くと、イガルドとその隣にいた女性がスオルをキッと睨み付けた。
「誰よ! この子。アンタ子供いたの?!」
「ち、ちげぇよ! これは兄貴の子供で」
「兄貴って、アンタの兄貴死んだって言ってなかった? てことは引き取ったってこと?! 信じられない。私は無理よ他人の子供なんて!」
女性はそう言うと、ベッドから出て、脱ぎ捨ててあった服を着始めた。
「お、おい待てよ。まさか帰るなんて言わないよな?」
「帰るどころか、もう私たちは終わりよ」
「は?」
「さよなら」
「ちょ、待って。待ってくれよ!」
イガルドは女性を引き止めようとベッドから降りるが、床に転がっていた空き缶を踏み付けてその場にひっくり返った。
その状態に女性は目もくれず、玄関にいるスオルの横に立つと、「ふん」と鼻を鳴らして外に出ていった。
「……クソが」
「イガルドさん。鼻から血が……」
「うるせぇ!」
「きゃ!」
鼻から血を流したイガルドを心配して、近づいたスオルをイガルドは躊躇なく殴りつけた。
「何で帰ってきやがった! 今日はマッチ箱売り切るまで帰ってくんなって言っただろうが!」
「……全部売ってきたんです! だから――」
「んなわけあるかよ!」
「っあ!」
イガルドはスオルに有無も言わさないまま、今度は腹部を強く蹴り付けた。
ゴホゴホと咳込むスオルを見下ろして痰を吐きつける。そして、イガルドはソファにどかっと体を預けると、ローテーブルに置いてあった箱からタバコを取り出して火をつけた。
「出て行け! もう一生! 俺に顔を見せるな!」
「う……っ!」
スオルは玄関を飛び出した。蹴られた腹部がひどく痛む。もしかしたら骨が折れているかもしれない。でも、あの家から離れたい一心でスオルは街路を駆ける。
そうしてどれだけ走ったかはわからないが、流石に疲れたスオルは足を止めて、路地の壁に手をついた。
切らした息を何とか落ち着かせようと、ゆっくりと深呼吸する――
すると、スオルの目の前にハイヒールがあることに気づいた。真っ赤に輝くハイヒール。それは先ほど見たハイヒールと全く同じもので、片方だけが道の真ん中で街灯に照らされていた。
スオルは恐る恐るそのハイヒールを拾おうと近づいて手を伸ばす――
……グチャ
ふと聞き覚えのない音がして、スオルはゆっくりとそちらの方へと視線を向ける。
「――――」
街灯が切れかかっているのか、裏路地はチラチラと明かりが瞬いており、スオルはその暗がりをジッと見つめる。
……ジュル ……キュ ……グチャ
音は静かに、だけど確かに聞こえる。まるで水を含んだ何かを手で掬って食らうかのような。生々しい音が。
「――――っ」
チラチラと瞬いていた街灯が一瞬その明かり取り戻し、その音の正体が露わになるとスオルの喉の奥がヒュっと音を鳴らした。
――白と灰色が混じった毛に身を包み、後ろに伸びるふわふわの尻尾。その四つ足で立つ姿は雪国で見かける狼と何ら遜色はない。ただし、首がキリンのように長く伸び、顔がまるで人間であることを除いてだが。
その異形の獣の口元には赤い血がベッタリとついており、伸ばした舌にはグジュグジュに潰れた何かが纏わりついている。
人間だ。人間を食べているのだ。そして、その人間は先ほどの金髪の女性に間違いなく、地面には血と共に金色の髪の毛が散らばっていた。
スオルはそれに気付くと、思わず吐き気が込み上げてきて、赤と黄色が入り混じった液体を吐き出した。朝から何も食べていないからおそらく血と胃液だ。
嘔吐の音に気付き、その長い首がクルッと回ってスオルを見ると、獣はニヤっと微笑みを浮かべた。
「――――!」
あまりに気色の悪いその笑みにスオルは全身を凍らせた。
……怖い
獣は動けないでいるスオルを嘲笑うかのように、顔をゆらゆらと揺らしてゆっくりと近づいてくる。
……来ないで
スオルは震える手足を何とか動かして、逃げようとするが、雪で滑ってその場から動くことができない。
そして、獣がその首を伸ばし、スオルを喰らおうと大きな口を開く――
「換装・光線銃」
スオルに獣が襲いかかる直前――光線が獣に直撃し、その長い首から真っ二つに割った。
スオルの目の前に獣の首が落ちると、ビチビチと小さく動いた後、砂煙のようになって消えていった。
「――――」
「なんでここにいるのよ!」
スオルの下に降り立ったのはあの白いローブの女の子だ。だが、真っ白だったはずのそのローブには、赤い血が付着して柄ができてしまっていた。
「……今のは」
スオルは震える声を振り絞って、今しがたの異形の獣のことを問う。
女の子はハァとため息をつくと、獣に喰われた女性の亡骸に手を向けた。
「「デリート」」
電子音が混じったようなその声と共に、女性の亡骸が先ほどの獣と同じように砂煙のように消えていった。
「あれは"大神"。満月の日に現れる亜獣。私はあの大神を滅ぼすため世界を旅してる」
女の子は先ほどのスオルの問いに答えると、まだ地面に座り込んでいるスオルの手を握って起き上がらせた。
「……オオ……カミ?」
「奴らは決まって満月の日に現れては人々を喰らう。その生息場所も出自もわかっていない。死ぬと今みたいに消えてなくなっちゃうから生態も全くわからない」
「人を喰らう正体不明の化け物ってことですか?」
「ええ。そうよ」
白いフードの女の子は小さく頷くと、スオルの肩に手を置いた。
「早く屋内に逃げ込みなさい。奴らは酷く臆病で屋内にいる人間を襲ったりしない。ただし、窓や扉を開けていてはダメ。絶対に密室にしなさい」
「オオォーーーン」
スオルへの説明が終わるのとほぼ同時、遠吠えが聞こえて女の子はその声の方へと顔を向けた。
「……あっちね。とにかく早く逃げなさい」
そう言うとあっという間に姿を消した。
一人残されたスオルはグッと拳を握る。あの家には戻りたくないが、スオルの戻る場所はあそこしかない。
そこでスオルはポケットにしまってあった白金貨のことを思い出す。さっきのイガルドは女性に振られた憤りから、話を一切聞こうとしなかったが、これを差し出せば機嫌を戻してくれるかもしれない。金に目がない奴のことだ。きっと数日は機嫌が良いだろう。
そしたら、今度こそ逃げれば良い。とりあえず今晩を越せる場所があればいいだけなのだ。
スオルはイガルドに頼らないといけない自分に悔しさを覚えるが、そうして自分に言い訳をして納得させると、来た道を勢いよく戻った。
道中では大神に出くわすことなく、家に戻ってくることができた。おそらくあの女の子が奴らを葬ってくれているおかげだろう。
スオルは玄関の前に立ち、ドアノブに手を触れた。
「――――」
ドアノブに手をかけた瞬間、背筋に寒気を覚え、スオルはゆっくりとドアを開いた。
……グチャ
「――っ!」
真っ暗な部屋の中。そこには力無く倒れたイガルドと、それをゆっくりと味わっている大神がいた。
見れば、窓が開いていて、イガルドの手元には火が消えたタバコが転がっていた。おそらく煙を外に出すため窓を開けていたのだろう。
……ベチャ
玄関で立ち止まっていたスオルの下にイガルドの頭が転がり、見開かれたままのイガルドの目と目が合うと、思わずスオルは悲鳴をあげてしまう。
「あ……」
スオルに気づいた大神は先ほどの大神と同じように首をゆっくりと回し、顔をこちらへと向けた。だが、その顔は先ほどの大神とは違っており、女性のものだった。
「嫌……」
スオルは首を横に振る。
「来ないで……」
大神はケケケと小さく喉を鳴らして大きく口を開いたかと思えば、あっという間にスオルの目の前にその口が近づく。
人間の顔であるのは間違いないが、開かれた口は鋭い歯が喉の奥までずっと続いており、一度噛まれただけでぐちゃぐちゃに潰されてしまうだろう。
迫り来る大神にスオルは諦めたようにだらんと全身を脱力させた。
「……ごめんなさい。お父さん、お母さん」
二人の帰りを迎えられない自分の情けなさに涙を流し、両親に謝る。そして死を受け入れて手を広げたとき、ふと、スオルの脳裏に言葉がよぎった。
『あれは"大神"。満月の日に現れる亜獣。私はあの大神を滅ぼすため世界を旅してる』
ローブの女の子は確かにそう言った。そうだ。三年前のあの日も同じ満月の日だった。
原因不明の両親の失踪――それがこの化け物のせいならば全て合点がいく。
諦めていたはずのスオルの瞳に一筋の火が灯った。
「……お前らのせいか」
スオルは怒りを露わにする。長身の男に両親を蔑まれたときよりも、イガルドに父を馬鹿にされ、自身を傷つけられた時よりもずっと憎い感情がスオルの心を包み込んだ。
「全部、殺してやる」
スオルの決意が炎へと変化し、口を開いた大神の前に壁を作り上げて防いだ。
「ぁあたあ!?」
言語になっていない言葉を発して、後退った大神の顔面に、次には炎の槍が貫いた。
「ぅひぁひあああ゙あ゙あ゙」
聞いたこともない断末魔をあげた大神をスオルは冷ややかな瞳で見つめ、そして、願うように言葉を口にする。
「ちゃんと苦しんでから……逝って」
スオルが手のひらをゆっくり上げると、地面から炎の棘が現れて、大神を串刺しにしていく。
「ぇひあああ゙……」
そうして、貫かれた傷と共に徐々に炎に焼かれ、最後まで奇妙な悲鳴をあげたまま、大神は消えていった。
「――――」
――何も無くなったそこをスオルはただ呆然と見つめ、小さく息を吐いた。
そして、自身の足元にあったイガルドの頭を持ちあげ、ぐちゃぐちゃになった体の近くに置いて手を合わせた。
大嫌いだった。
こうなった今も大嫌いで、大神に襲われてせいせいしたという気持ちが大きい。だが、それでも三年間生きてこれたのはきっとイガルドのおかげなのだ。
いや、おかげというと感謝の気持ちがこもってしまう気がするからこれはただの情けだ。
最後の最後に自身の優しさが出てしまっただけなのだ。それはきっと父がイガルドにしたことと同じで、親子の性ということだろう。
「……さよなら」
スオルはイガルドの亡骸に炎を放つと、立ち上がって外に出る。炎はイガルドだけでなく、手元にあったタバコを燃やし、カーペットに引火し、家全体を燃やし始めた。
その赤く燃えていく家を背に向けたままスオルが歩いていると、ローブの女の子が腕を組んで壁に体を預けた状態でスオルを待っていた。
その白かったはずのローブは赤く染まっていて、大神が消えたとしてもその返り血は消えないことを物語っていた。
「どこに行くの?」
「……わかりません」
「そしたら、私と一緒に来なさい」
女の子の提案にスオルは小さく頷いて同意を示すと、女の子は近づいてきて手を差し出した。
「私はクレア・ウルフペロー。貴方は?」
「スオル・フレイデルセンです」
「そう、スオル。歓迎するわ」
「――――」
握手を交わした後、スオルは被っていた赤い頭巾がなんだか煩わしく感じて、頭からそれを脱いだ。
この赤い頭巾はイガルドが世間体を気にしてスオルの顔を隠すために与えたものである。最初で最後のイガルドからのプレゼントとも言えなくないが、その目的を考えるとプレゼントと表現するのはきっと違うだろう。
赤い頭巾には一部汚れた箇所があり、それが大神が食い荒らして飛び散ったイガルドの血であることに気づくと、スオルは何も言わずに炎を発して頭巾を跡形も無く消し炭にする。
その過程を見届けてから、クレアは腕を大きく広げて言った。
「"赤ずきん"にようこそ」
▶︎▷▶︎
むかしむかし、あるところに"赤ずきん"と呼ばれる少女たちがいました。
「地点C殲滅完了――別部隊を援護します」
彼女たちは赤ずきんと呼ばれていますが、赤い頭巾を被っているわけではなく、白いローブに身を包んでいました。
「――逃げ遅れた少女を発見。救助に向かいます」
決まって満月の日に現れる"赤ずきん"ですが、彼女たちがどこに住んでいるのか、なぜ満月の日に現れるのかは誰も知りませんでした――
「……嫌だ! こないで!」
倒れた少女が大神に向かって必死にあたりのものを投げつけて抵抗する。
だが、大神は一切怯むことなく、ただ嘲笑うように少女を眺めてはキュルキュルと喉を鳴らした。
「いやぁぁぁぁあ!!」
少女の悲鳴と共に大神が少女を喰らおうと大きな口を開けた瞬間――炎が大神を包み込み、あっという間に砂煙へと変えた。
「大丈夫?」
突然現れたローブの女の子。その姿を見て、青いドレスに身を包んだ少女は、頭に巻いたウサ耳のリボンを傾けて、降りてきた少女に問う。
「……貴方は?」
「私はスオル・フレイデルセン――」
「――――」
――真っ白なはずのローブが赤い血でベッタリと染まり、フードを深く被った彼女たちをそう表現するしかなかったのです。
「赤ずきんよ」




