七 真市の恋って、え、マリカってだれ?
真市が中学、高校生のころ、パレスチナのことが小学館の月刊誌に小説が載ってたけど、アラブゲリラの少女を追って渡航するキラリと光るメガネの高校教師が、アラブのチェック柄のスカーフを巻いたイラストが印象的だった。左翼がまだ変態化する遙か以前のことで、真市が現実逃避の象徴として創造したキャラがマリカだ。
ひねくれ者の真市にも思春期というものはあって、真市自身はそんな自分を持て余していたが、中学高校時代の生活の外に、たとえば英語など未知の言語での自己表現を試みるとか、見ず知らずの女のコと関係を構築することでアイデンティティを担保することができると幻想を抱いたことがあった。何の苦もなく安易にしっくり来るのは外国語よりは女子のイメージである。真市は常に安易に流れてきた。安易なイメージに飛びついて寄り添った。それがマリカである。
「なんだ、わたしって実在じゃなかったのね」
マリカのいきさつ成り立ちをよせば好いのに話して聞かせると、女はうつむいてウイスキーのグラスの縁を人差し指でなぞりながら、さもがっかりしたふうに装う。
「いや、だからさ。そうじゃなくてよ、あれだ、あれ」
「なによ」
「あれだって言ってんだろ」
「だから、なにさ。あれって」
「あれはあれさね、あれだよ。想いの深さを表す尺度って言やいいのかな」
「幻想なんでしょ、わたし」
「いや、マリカ、ちゃう!」
場所はなぜか二丁目のオカマバーのカウンターである。いましがた芸人らしき一団が、取り巻きだかボディガードだか黒服の連中を引き連れ、ふらっと入ってきて一曲歌ったかと思うとさっと出てった。
「S・Rよね、あれって。一報してくれればもっとサービスしたのに!」
ママさんの敬史郎氏は粋なたすき掛けで前屈みになって盛り付けをしながらブツブツ言っている。
「へい、お待ち」
青磁の皿に透けんばかりのきれいな白身がぐるりと円形に陣を取っている。手を付けにくいほど美麗で二丁目の場末に出てくるような代物ではない。
「おおー」
真市は感動することしきりだが女はなんのためらいもなく箸を付ける。
「おいしい! ママ、奢ったわね」
「あんたの彼氏が来るっていうからさ。仕込んどいたの」
その言葉どおり、ここは女が贔屓にしている店である。ママさんの敬史郎氏はその昔、女の家に出入りしていた酒屋の店員だった。郷里の東北を出て以来、かねて念願の店を構えたのを機に常連となったのである。女の幼時より親しくしており、まあ娘のような感覚かな。
「いいセン行ってんじゃん、彼氏。上出来よ、恵子」
『え。恵子?』
女はここでは恵子と呼ばれているらしい。幼児から見知っているならそれが本名にちがいない。しかし真市にとっては女はマリカである。真市は意識の表層で怪訝に思いはしてもそれ以上には気にしない。彼女はマリカに決まっているからだ。
「はいよ」
ママさんが煙草をひょいと差し出す。巻紙のほうを口にくわえてフィルターをこっちに向けている。口づてにどうぞということだろう。意に介さずに真市は指でつとつまんでフィルターを口に持っていく。「なによ。もう」とか言いながらママさんはライターを点ける。
「ぷは」
淡い煙を吐き出しながら真市は「あれ」と首をひねる。もうとっくの昔に禁煙していたからだ。それなのにごく自然に煙草を手に取り、いつものように煙をふかしている。夢か。昔の夢を見ているのか。しかし、二丁目のバーという拵えはともかく、目の前にいるのはマリカだ。実逃避の象徴とはいえ、もう思春期をとうに過ぎてライターといえば聞こえはいいが、しがない物書きに身をやつしインタビュー先で知り合った女にマリカを投影させている。思えばいつもマリカがいた。いまもいるではないか目の前に。電車に揺られてシートに深々と身を沈め、眠っている。真市ははっと我に返り、記憶の混濁を持て余して頭を強く振ってみる。




