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老楽記  作者: すのへ
6/8

六 座間の恋

 座間は女を尚子と呼んでいる。あ、いま書いているのはわたし、ト書きです。前節は真市に語ってもらったが、それは死者の扱いで主観的な要素が大きいからであって、客観性を事とするト書きにはちと辛い描写になるんで替わってもらった次第ですので悪しからずご了承のほどを。

 座間の恋といえば高校時代のエピソードで、作者の『すのへ』が書いた『九月の舟』という小説を読んでいただくのが手っとり早いのですが、そう、高校教師の下宿先の寺の宿坊で鉢合わせしたんですよ、座間と尚子が。その高校教師というのは九大、九州大学ですな、九大卒のぼんぼんで座間ら高校一年生とはたかだか六年ちがうだけの歳の差であって、先生と生徒という垣根は端から見るよりもかなり低く、女子生徒を巡って恋敵同士に容易になり得るものだった。

 当時は、て、もう五十年近く前だが、思春期にありがちなメランコリックな心情を持て余した座間は、恋愛相談をするつもりで真剣な心持ちで教師の下宿を訪れたのだった。すでに級友と幾度も訪れて勝手知ったる宿坊の、ぼんぼん教師の部屋へ入ると、なんと想い人の尚子が教師の肩にしなだれかかっているところだった。

「よお。来たな」

 ぼんぼんは気さくに声をかける。尚子ははっとして身を離し、窓のほうを向いてしまった。秋の訪れを告げるツクツクボウシが軽やかに鳴いている。座間は敷居に片足かけたままフリーズした。

「なんだ。座間、どうした。まあ、入れよ」

 ぼんぼん教師は取り繕うでもなく、悪びれもせず笑顔を見せる。座間はふっと意識が薄れるのを感じ、なんの挨拶もせずに足はくるりと反転して廊下に出ていた。背後でぼんぼん教師に訴える尚子の声がした。

「わ、びっくりした。あれ、座間クンでしょ。入ってくればいいのに・・」

 声はだんだん遠のいていった。座間が声から離れて行っているからだ。これがトラウマになって座間の人生に微妙な影が差すことになる。そして、最後には非業の死を遂げることになるのだが、その話はいずれまた忘れていなければするとしよう。とにかく座間はそれ以来、人が変わって人間不信に陥ってしまった。

 座間の恋の話だったが以上のようなわけで、片思いがズタズタにされてその細片が深淵に沈み、忘れがたいキズとなって残った。しかし時は過ぎ、還暦を迎えようという齢になってまでトラウマが残ったかというと、それは疑わしい。

 座間は高校を卒業して三浪ののち、この三浪というのがまた格別な思い出があって、当時の習わしとして浪人生は図書館にて受験勉強に励むべしという「しきたり」でもないが、まあ、慣例に従って市立図書館に通っていたのが、市立図書館が建て替えとなって、県立の図書館に通うことになった。顔を合わせれば休憩室に入り浸ってダベるのだが、座間はそんな真市たちを見つけると(真市も三浪の憂き目を見る)、「なにしに来てるんだ!」と一喝していったものだった。真市は従姉妹のチイちゃんが、すでに短大生になっていた彼女が来合わせていたのを見つけると、カップコーヒーを両手に持って供応し、座間の指弾の標的になるのだった。

 そんなことはともかく、座間は四国の大学に入って入信し洗礼を受け、クラッシック音楽が生活のリズムに織り込まれているほどのマニアなのである。高校のときのあだ名『四番』は座間が野球部に属していたからだが、そんなゴツい外見とは裏腹の趣味に、さらには赤尾好夫の『豆単』や『英語の総合的研究』ではなく、『若人におくることば』や『忘れられぬ名言』なんて本を押しつけるように進めてくる態度に辟易していたのは真市だけではなかったはずだ。

 おっといけねえ、また脱線しそうになっちまった。要はそのクラッシックを通じて音楽教師にしてバイオリン奏者の佳代さんだっけ、と知り合って、とんとん拍子に深く愛し合うようになり、いつだったか、大学院生になって学会の発表があるとかで真市のアパートに泊まりに来たとき、ちょうど真市はこれまた大学院の試験を受けるべく黄昏れていたが、食えないのでビジネスホテルのフロントに雇われて夜勤に出かけた後、真市収蔵のエロ本見つけて座間はセンズリこいた。

「きみのことを想像しながらヌいたよ」とか佳代さんに電話で報告したとか。センズリ対象のエロ本は気に入ったのか該当ページを破いて持っていってしまった。

 結婚式は四国と郷里で行い、簡素にして満ち足りた座間の性格にぴったり寄り添うものだった、さすが。男の子ばかり六人を授かり、地元のマスメディアにコンポストの研究だとかが取り上げられ、近畿に近い中国地方の私立大学に助教授の職を得たのち、教授になろうという時期に心筋梗塞で倒れ、居候に来ていた長男に「すまん、すまん」と言いながら息を引き取った。道半ばの死だった。男の子ばかり五人だっけ六人だっけ、残して世を去ることにどれほど無念だったか、死んだにもかかわらずこうして世にとどまっていることで知れる。

 そんな座間だが死んでもトラウマからは解脱できないようで、いや死んだからこそピュアな思いが頭を擡げてきたのかもしれない。

「尚子!」

 座間は女を見るなり、真市や田坂、浅野よりも素早く反応して立ちあがった。そのとき女は半開きになった脣に驚きと感動の色を湛えて座間を見た。居酒屋の片隅の椅子だったか西日差す喫茶店の古びたソファだったか、そのシーンはセピア色に永遠に焼き付くことになった。

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