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老楽記  作者: すのへ
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四 田坂の恋

 田坂は元警察官である。不本意な大学に通いながら本命の大学を目差したがけっきょくダメで、卒業後、親族の勧めで警察官になった。警察学校に研修に来たときには真市の下宿に遊びに来たりしていたが、高校のときのカノジョが跡見に進学していたのでそれまでもちょくちょく会いに来ていたが、どうして別れることになったのか、いまもってよくわかならい。田坂にもよくわかっていない。

「ごめんなさい。ごめんなさい」と泣きじゃくるばかりで要領を得ない事態に、田坂も困惑しきりだったが、別れを容認せざるを得ない窮地に追い込まれたのだった。泣く泣くというより肩すかしで一本取られた気分だった。想像の域を出ないがカノジョが大人になったということかもしれない。

「おいおい、ちがうぞ。それ小山内さんだろ。高校の剣道部の。跡見のほうのカノジョは大学に入ってからで、不本意大学の学園祭で知り合ったんだ。名前はえ~と。うん? えーと、なんだっけ」

 また真市が茶々を入れてくる。しかし言われてみればなるほど事情は真市の言うとおりだった。高校の時のカノジョと不本意大学時のカノジョは別人だ。思い出した。真市がテレビをもらい受けようと、そのカノジョの下宿へ行ったことがある。まだブラウン管のテレビで、西荻に近い立野町てとこだった。バス停があって地名は覚えているが、そのカノジョの顔も名前も思い出せない。たしかに会ったことはおろか酒席も共にしたはずなのに遙か忘却の彼方へ行方をくらましている。こういう場合、当人がいるのだから本人に聞くのが手っとり早い。おい、田坂。呼びかけたが田坂はぐーすか眠っている。ト書きの二次元には無反応である。

 田坂は下戸である。吞めない。アルコールのパッチテストで気を失ったほどである。福岡生まれで亭主関白という言葉がいまでも幅を効かす土地の産だけあって女子の前では威張る。ただ、女子のほうではそんな薄っぺらな慣習などお見通しで、ひたすらハイハイとひれ伏すフリをして田坂を操っているのである。壁ドンもその一つで、きゃ、とか言いながら楽しんでいるのだ。田坂のほうは真剣だから、本気で捻挫なんか負う羽目になる。立野町のカノジョ、… 加代ちゃんだ! いま閃いたぞ! 思い出した! 加代ちゃんね、加代ちゃん、そうだ。野方の真市のアパートへ二人して向かっている途中で、加代ちゃんのなにが気に入らなかったのか壁ドンして、田坂は右手をホントに捻挫したんだ、バカだねェ。

 吞めないけど雰囲気に酔う。だから飲み会には参加する。飲み会に参加する免許持ちの下戸は重宝である。お開きになると皆を順繰りに送ってくれるのだ。田坂がまさにそれで、こうして歳を取っても変わらず、愛車のアルファロメオ、手入れが極めて煩雑で修理部品の入手もままならない中古のイタ車なのだが、そのロメオを駆って飲み会の参加者を送ってくれるのである。気取り屋だが根は善人で正義感が九州人らしく強い。警察官にはもってこい、ドンピシャの人柄である。でも結婚運はなかなか巡ってはこなかった。小山内さんとか加代ちゃんとはうまくいっていたのに、けっきょくは別れてお見合いすること三十数回に及び、同衾する仲にも発展しながら破局を繰り返し、やっとこさ同郷の女性と結ばれたのだがこれが! ああ、言うてはいかんのじゃ、そっとしといてやれと書き手の良心がズキズキと痛むのだが言ってしまえば、火の国の女子で田坂は尻に敷かれることになったのである。それも尋常ならざる強度で、とはいってもまあ、よくある女子のヒステリー傾向であって、これを鎮めるにはひたすら忍従するしかない。田坂は耐えたひたすらに。

 そんな果てにふと中学時代のマドンナを思い出した。同窓会のスナックの酔席で「二十年経ってわたし独りだったらもらってくれる?」と上目遣いに言われてその気になったのがずっと脳裏に焼きついていたのだ。女ってのは残酷だよ、こんな台詞をさらっと吐く。口先だけなんだから本気に受け取っちゃいけないんだけどこれが真に受けちゃうんだよな男は。

 さて、田坂と女との出会いはどうだったか。さきにも云ったようにジジイ三人がそれぞれ女との出会いの場面を頭の中でこねくりまわしてかってに変形させている。窯変といえば聞こえはいいが、要は捏造である。心地よい映像だけを抽出し、場面もすっかり変えてしまう。田坂の場合は女との出会いは駅前のベンチである。

 うららかな春の日にいつものように駅前のベンチで時をやり過ごしていたときに不意に陽炎のように現れた女は田坂の目にはまさにマドンナの『祐子さま』だった。同窓会のスナックの場面も面前に反芻された。もう虜の身である。田坂は立ち上がって女に呼びかけた。

「祐子!」

 女は怪訝な視線を向けたが足を止め、田坂とベンチのジジイたちを見た。そしてだれを見とめたのか、パッと顔を輝かせた。

(「座間クン」)

 そう言ったように感じたのは地の文、語りであるわたしだけだったろう。真市や浅野はというといち早くベンチを蹴るように立って女のそばに駆け寄っていた。

「マリカ!」

「安藤さん!」

 真市も浅野もそれぞれ自分の妄想のなかから思い人を連れ出して来て、眼前の女に投射するのだった。ひとり座間だけはいつものようにニコニコと笑っているだけだった。それでも女に引かれたのか、つと立ち上がって淡い存在ながら喉をふるわせて呼びかけた。

「尚子」

 座間と尚子との関係については、忘れなければ後で触れることにして、ここでは座間の声は空気を震わせただろうか。真市も浅野も田坂も女にしか注意を払っていない。しかし当の女は座間の呼びかけにはっとして視線を向けたのである。しかしそれは一瞬のことだった。田坂が感極まって女をハグし、女の視線は遮られた。真市も浅野も負けてはいない。どっと女のほうへ文字通り身を預けた。三人に囲まれた女は身動きを封じられて困惑しながらなおも目で座間を追っていた。女のほうでも座間に引かれるなにかがあったにちがいない。いや待てよ。座間はそもそも幻覚の

 田坂の話はここいらで端折って座間のことを話そうか。なあに特急列車の向かう先はまだまだ遠いのだ。

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