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老楽記  作者: すのへ
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三 浅野の恋

 ここで浅野の恋物語を二十歳のころを中心に微に入り細をうがって描くつもりだったが、なんだかめんどうくさくなった。思うに悲恋こそが描くに値する対象なのに対して浅野のそれは悲劇ではない。一方的な絵に描いたような片思いだったのである。相手の安藤さんというのはサユリさんで、やっぱり絵に描いたようなマドンナで、長い髪を風に揺らせて颯爽と浅野らをひれ伏させていたのだ。いや安藤さんにはそんな気はさらさらないけれども、浅野をはじめとするサユリスト連は畏敬の念さえ抱いて安藤さんを崇拝の対象としていたのだ。中学を卒業して安藤さんは私立高校の音楽科へすすみ、浅野は地元の県立高校へ入学した。浅野はこの高校で真市や田坂、座間に出会ったのだった。

 浅野は中学まではバレーボール部で、高校入学後も当然そっちへ行くかと思ったら何を血迷ったか地学部に入った。この地学部というのは担当教諭の藤原がくせ者で時習館卒の信州大出身、ビール茶漬けをこよなく好む太鼓腹、遅刻の常習犯で、同じく遅刻魔の真市と併走して校門から駆けてくる姿が日々見られたものだった。

「おい、また脱線してるぞ。なんでそんな昔話を。ちゃんと現在の情景描写をだな」

 真市が茶々を入れてくるがわたしは無視する。どうせ真市以外はみな眠ってしまっているのだ。当の真市もこっくりこっくりし始めている。邪魔の入らないうちに間隙を埋めるべく、五十年前の話を開陳して現在のおかしな状況の謎解きの一助でも提供しようと目論むのである。

「主語がぬけてるぞ。だれが目論んでやがるんでぇ」

 無視してつづけよう。藤原先生は神童の名をほしいままにした幼時から神童ゆえにヘンな子供だった。ヘンな性分は大人になっても継承され、毎日のように遅刻したり、試験中に解答を教えて回ったりと、まあ先生としては失格である。ただ、失格は先生としてであって、ヒトとして見ればこれはきわめて興味深い存在である。多感な高校生には神格化とは正反対ではあるが、感化を受けやすい対象である。浅野たち地学部員は藤原先生の下宿に行ってはビールで酒盛りし、あ、なぜビールかというと藤原先生は大のビール好きでビール茶漬けなるものを主食にしているともっぱらの噂だった。それを証するわけでもないが、藤原先生はまだ大学を出たばかりなのにビール腹、太鼓腹なのであった。浅野もすっかりビール党になり、ずっとビールを水代わりお茶代わりに飲しはじめて、それがいまも続いているのである。

 それはともかく、浅野は酔うとマドンナ、安藤さんのことばかり口にするのだった。

「そんなに好きなら打ち明けたらどうか」

 ある日のこと、うるさそうに藤原先生はさっさと告ればと勧めた。浅野ははっとして、酔った勢いで電話をかけた。ケータイもスマホもメールもラインもない時代である。ともすれば電話さえもない家も多かった時代だ。個人相手にかけようと窓口は相手の家である。本人が出るなんてことはなく、たいていはおっ母さんだ。浅野も安藤さんの母親相手にしどろもどろになりながらも本人に辿り着き、なんとか恋心を伝えようとするのだが如何せんボキャブラリーがない。

「あの。あの。おれは、いや、ぼぼぼぼくはですね」

 端で聞いていてイラついた藤原先生は受話器をふんだくって、低い声でぼそぼそとだが一気に要点を話した。

「うちの浅野が、安藤さん、君のこと好きだってずっと言いつづけているんだ。君はどうなんだ」

『え』

「好きか、浅野が」

『え、??』とたぶん安藤さんは絶句していたにちがいない。藤原先生は受話器を持ったままぐびとビールをあおる。沈黙がずっとつづいて「ういー、ひっく」と藤原先生が発する奇声だけが部屋に響いた。この部屋というのはもちろん藤原先生の下宿である。汚い八畳間だがここに当時のミスユニバースが降臨するのはわずか一年後のことである。そんなこととはつゆ知らず、浅野ら部員はビールの缶もつまみの落花生の殻も散らかし放題だった。そのゴミはミスユニバースが片づけることになる。話を元に戻そう。沈黙と静寂が小汚い部屋を満たし、やがて藤原先生は受話器を置いて通話を打ち切った。

「ダメだな。あきらめろ浅野。飲め」

 浅野はぐいぐいとビールをあおった。冷蔵庫を占領していた缶ビールがあれよという間に費消され薄汚い畳の上に空き缶となって横たわる。そんな昔の夢でも見たのか、浅野はガバと起きあがって斜め前の席の、女の存在をたしかめ、ほっと息をはいて「安藤さん」とつぶやく。女はどういうつもりか、「彦ちゃん、安心して。わたしはここよ」と言って浅野のひざに手をのせる。浅野はあからさまにニヤけた顔をして大きくうなづき、夢の中へ帰っていった。

 その後も浅野は真市らと飲んだ後なんかに、音楽科へ進学した安藤さんの遠く離れた下宿にも電話をかけたものだった。五十年も隔たったそんな話をしてなんになるとまた茶々を入れられそうだが、浅野と女の関係は五十年前の小汚い藤原先生のアパートに深く根ざしているのだ。浅野が女を見るたびに思い出すのは藤原先生のアパートでの初アプローチである。いまも夢の中へ帰っていきながら浅野の脳裏にはくっきりと電話口の向こうで困惑した安藤さんの姿が思い浮かぶのである。実際に見てはいない想像にすぎないのにやけにリアルなのはそれだけ思いが強かった証左でもある。いまもまだそれほどの強度で浅野は女を、いや浅野にとっては『安藤さん』を見ているのだ。恐いよ、これは。

 ふつうはね、ふつうは追憶と郷愁とか時間の流れを感傷でもって糊塗して美化してそれだけ思いも希薄化するものだけれど、これがそうはなっていない。女があらわれてからというもの、思いは対象を得て強烈なままよみがえり、強度を日々新たにしている。女が身近にいるからだ。

 その辺の事情はほかの二人も同様だった。それぞれ自分勝手な妄想が増幅されつづけてそれを生身の女に投影しているのだ。本来なら分別をもって自制するところだが、ジジイにはもはや分別などというものはない。今回は電車だから人目が抑止力になるがこれがクルマとなるとそうはいかない。後部座席でいかがわしい行為に及んで女が嬌声をあげるなんてことが多々あって

「おい、いいかげんにしろ。破廉恥だぞ」

 真市がこっくりこっくりしながらも耳をそばだてていて、茶々を入れてくるがよほど眠いとみえ、手を振り上げるでもなく力なく窓枠に頬をもたせかけてムニャムニャよだれを垂らしながら抗議してくる。破廉恥けっこう、テーマは老いらくの恋、それもどろんとしたダーティな恋なのだから。

 話を浅野に戻そう。浅野はきわめて精錬潔癖、裏表の無い性格である。もちろんこれは男女の仲に限っての話だ。テーマが老いらくとはいえ『恋』なのだから当然である。まあ本業の材木商としても裏表のない性格が顔を出すのか商いには失敗している。二代目で野心がないのだからまあ仕方がない。建て売りとくらべて注文住宅は値が張るから営業が物を言うのだが、舌先三寸不爛の舌というわけにはいかない。口下手ではないのだがベタなのである、物言いが。飾り気がなくて正直、ストレートでシャイだから女は当惑するかハマる。じっさい、見合いとはいえ良縁を得て、ほぼ毎夜のようにモーテルで婚前交渉を繰り返したのち、ド派手な披露宴を催してハワイだっけロスだっけ新婚旅行に出かけ、土産にマカダミアチョコを真市はもらった覚えがある。弾丸型のキーホルダーも探せば出てくるはずだ。しかし営業向きではない真っ正直で、時代も注文住宅から割安な建売住宅に切り替わりつつあるころだった。年を追うごとに注文は減り、あげく、あろうことか自分の家を建て直すことにして新築請負を計上した。浅野はその後、一男二女を授かったが家業の衰退著しく、深夜の倉庫番バイトに出たりして収入を確保していたが、のちに市会議員に立候補する話が持ち上がるに及んで、嫁さんが議員の嫁などまっぴらと実家へ帰ってしまった。長男は自宅敷地住居に住み、娘二人は嫁が引き取っていった。しかし市会議員の話は立ち消えになり、日のあるうちから行きつけの飲み屋で時をうっちゃる毎日になった。

 そんなある日のこと、浅野はカウンターの隅の定席からのれんをかきあげて入ってきた女を認めたのだが、ほろ酔いの浅野の目にはあの安藤沙織が映っていたのだった。もちろん女は安藤沙織ではない。女はただの女だった。女は奥の座席に上がった。連れはないようだった。浅野はつと立ちあがって女の座席に上がり込んだ。女は一瞬、なにこのヒトと非難の視線を向けたが浅野を見てパッと顔を輝かせた。

「浅野くん?」

 この反応に浅野はいっきに舞い上がった。

「安藤さん!」

 女は怪訝な顔をしたがすぐに破顔一笑、うれしそうになつかしそうに思い出を探っているふうだった。小首を傾げたりもしていたが、なにやら合点が行ったのか、それとも記憶に折り合いを付けたのか、うんうんと頷いて浅野を親しげに見つめるのだった。そこで乾杯したのを機に、浅野と女はただならぬ関係におちいったのだった。

「おい。でたらめもいいかげんにしろよ。女ってのはマリカのことだろうが。沙織ちゃうぞ」

 また真市がムニャムニャ夢の中から茶々を入れる。いや、マリカでもないのだが、たしかにそのとおりで女はマリカではないにせよ安藤沙織ではない。ではなぜ浅野は女を安藤沙織だと思ったのか。外見が似ているのでもない。雰囲気もちがえば風情も異なる。声は似ても似つかない。このとき浅野の直観としてはたらいたのは目や耳ではなく、鼻である。浅野は女に安藤沙織を嗅ぎ分けたのである。それは女の髪の香りや匂い、体臭といった女に直接起因するものではなく、浅野の記憶の奥深く眠っていた嗅覚が、その女に安藤沙織を認めたのだ。

 女を見た途端に呼び覚まされた安藤沙織に直結する香り、匂いである。かつて電話していた時、公衆電話の近くの庭先から香った芙蓉の記憶が、女の出現で浮上してきて意識化されたにちがいない。じっさい、女を前にすると浅野の鼻は芙蓉の香りに満たされるのだ。

 女のほうはどうかというと、『安藤さん』と呼ばれて「?」となったが浅野を見知っていたので、あえて否定せずに調子を合わせてしまった。それに、その『安藤さん』というのも記憶を探るうち見当が付いた。同級生なのだ。中学か高校か、はたまた小学校か幼稚園、保育園かはしらないがとにかく同じクラス、教室に居たことがあったのである。同じ空間、同じ時間を共有した仲間意識が『安藤さん』と呼ばれることを許容したのだ。いまもそうである。

 ちなみに女との出会いは三人とも異なる どれがほんとうか全部うそかは確かめようがない

 では田坂の場合はどうか。                                「うーん。おい。おいったら、おい! ええかげんにせえ。でっちあげはゆるさへんでぇ」

 真市が、えせ関西弁になって抗議してくる。そろそろ剣呑なのでひと先ず退散する。

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