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老楽記  作者: すのへ
2/8

二 車中幻影

 突然の出立はこれが始めてではない。さすがに最初のころは旅行の言い出しっぺがだれであろうと、たいていは女の発案だったが、四人(五人)で協議したのだが、これがなかなか日取りが決まらない。遅延に継ぐ遅延に業を煮やした女が、いつも駅前に屯しているジジイ三人を鶴の一声でかっさらったほうが面倒がないと、温泉やら散策、花見、グルメ、果てはバードウォッチングなど、思いついたら即決行することにしていた。

「えーそんな藪から棒に言われてもなあ。こっちだって都合ってもんがあらあな」などと真市が言いそうなものだが、女のほうが一枚上手である。

「突然でゴメンね」とか言わない。手を合わせて平身低頭して「お願い、わがまま聞いて」とも言わない。

「いやネ。みんなして忘れたの。この前、決めたじゃない、日取りも行き先も」と言い張るのである。演技とはいえ断固としてそう言われてみれば、そう約束したような気もしないでもない。互いに視線を交わしながら三爺が気遣うのは、ひょっとして女が惚けているのでないか、ならば下手に異議を唱えてはまずい。惚けなら呆けに乗じてこちらもボケるしかない。方針を定めるや視線はいっせいに女のほうへ向かい、喜色満面、大きくなんども頷いて「そうだったそうだった忘れてた」と女に迎合するのだった。

 きょうもそんな女の一存で、女の引力に引きずられてほいほいと乗車券と特急券を購入したものの、在来線で吊り革につかまってペチャクチャやってたときは実感が乏しかったが、いざターミナル駅のホームで特急電車を待つ段になってジジイ三人(四人)は一気に心細くなった。財布やスマホは身につけていたが、きょうは日帰りで済みそうにないと感づいたときにはもう遅かった。行き先が温泉てことだけはとりあえずわかった。金もクレジットカードもない真市はいつものように浅野に旅費をすがった。田坂はきっちり自分の分をスマホ決済なんぞで済ましていた。座間はもちろん非存在なので切符も金も無縁だ。女はすでに予約券で改札をスーッと通り抜けていった。

「この温泉てさ、日帰りできるんだっけ」

 浅野が心配そうな顔で田坂に訊いた。

「海外でないだけマシと思おうぜ」

 田坂もまた真市と同じように事の成り行きを楽しんでいるようにみえる。恐妻家が板に付いて、もはやパーソナリティと引き剥がせないほど強固に染みついてしまっているとはいえ、ちょっとした間隙を狙って、たとえば今回のような事象に遭遇すると、待ってましたとばかり自己が浮かび上がろうとするのだ。抑圧から解放されたアイデンティティの発露である。特急車両に乗り込むや、ちょっと浮かれた気分を理性が抑えようとするのだが、そんなものは発車のベルとともに霧消してしまう。

「一杯いこうや」

 真市が金もないのに車内販売を呼び止めてビールとおつまみを注文する。無論、四人分である。ただし田坂はアルコールを受け付けない体質なのでウーロン茶を注文した。すべてまとめて支払うのは浅野だ。浅野は文句も言わず、さも当然なように財布から現金を出す。

「かんぱーい!」

 ジジババ四人組の宴会が始まる。ほぼ貸し切り状態の車内には咎める者もいないので、声高に放言し、歌まで唄う始末である。それも演歌でも口ずさむか都々逸でも唸るかすればまだ可愛げがあって情け容赦もあるものを、井上陽水や吉田拓郎、中島みゆき、ユーミンと来た日には何をか言わんやである。唄うというよりは、ガナるといったほうが正確で、耳が遠いぶん声量も手拍子も合いの手も甚だ喧しくなる。貸し切り状態とはいえ、乗客が何人かは乗り合わせており、たまりかねて車掌を呼び、乱痴気騒ぎを咎めたてた。渋い顔をした車掌が「もしもし、すいませんがほかの乗客の方のご迷惑になりますので、もうすこし声を落としていただけませんか」と丁重にお願いに来る。

「なにを!」

 残り少ねえジジババの余韻さえ奪おうってのか、捨て置けねえぜ なんと心得ると真市が凄んで見せるのはご愛嬌で、丁々発止の遣り取りを楽しもうという魂胆など車掌は知る由もない。はっとして身構えて及び腰になったところを「ちょっと!」とここでも女が止めに入る。

「ごめんなさいね。耳が遠いもんだからつい大声になってしまって」

 車掌は申し訳なさそうにペコペコと頭を下げて恐縮する。

「どうでい、一杯!」

 真市が悪乗りして缶ビールの栓を開けて差し出す。いやいや、とんでもない、と手を振りながら車掌は去った。

「け。張り合いのねえ野郎だぜ」

 真市はうそぶきながらビールをぐびとあおる。女は首を振りながらも面白そうに斜め向かいの真市を見る。その視線を田坂が追っている。しらふなので冷静を保ってはいるが、内心は穏やかではない。それも理の当然、この女は真市にとってはマリカでも田坂にとっては祐子なのだ。思い焦がれて身を滅ぼしかけた当の相手なのである。思い起こせば数十年の星霜を経てなお滾る血潮ならぬ、リピドーの残滓に責め苛まれて思わず歯ぎしりする。

「ぐぬぬぬぬぬぬぬぬぬ!」

 真市は知らぬふりで女の視線を楽しんでいる。浅野がなんとなく居心地悪く感じたのか、つと立ち上がる。

「ちょっと。おトイレ~」

「おう」と席をよけた真市はそのまま奥の窓際の席へ移って女の対面にすわる。田坂がもはや憤怒の目で睨むが、真市は知らぬ顔である。ここでちょっと断って詳説しておかなければならないが、『知らぬ顔』というのは半兵衛のように何も知らない振りを装っているのではない。ほんとに関知していないのである。歳をとれば視野が狭くなるのは周知の事実だが、物理的な視野だけでなく、さらに狭量になるのは心である。

 年寄りは大らかというのはまちがいで、大らかはボケの兆しにすぎない。頭が鮮明なら自分中心に物事を判断するのは理の当然で、世間体とか見てくれを考慮しなくても良い空間ならなおさらである。旅行中の車中はまさにそれだ。どこでもない空間に切り離され拘束された時間の流れ、漂うだけの本来の姿だけが車中に残っている。つまり自己中の権化である。

「マリカ、いいかげんオレと所帯を持とうぜ」

 なれなれしく口説いて前のめりに乗り出し、バランスを崩したフリをして両手をすっと女の膝小僧に伸ばす。

「きゃ」

 女もいいかげん歳なのに、そこはそれ、やはり老年の自己中に変わりない。性差をことさらに称揚すべく頓狂な声をだす。無論、田坂の嫉妬の視線を承知してのことである。手玉に取ろうというわけでもないが、そのような不埒な意図がないともいえない。いくら歳を重ねようと摩訶不思議なのは女というものの性である。書いてるおれにもこの女の性は皆目見当がつかん。

 浅野がもどってきて席にすわるなり、ヤベぇや、まいったななどとつぶやきながら、スマホをにらみつけている。家族からすぐ帰ってこいとしつこくラインがあるらしい。

「なにか予定でも」

「いや、なあに。たいした用でもないんだが。ヨメんとこの三回忌、おっ母さんの」

「忘れてたのか」

「いや承知してたさ。けど、成り行きでよ。こんなことになっちゃった。ははは」

「法事をすっぽかすのはよくないんじゃねえか」

「そんなこと言ったってよぉ。これ、いまさら引き返すわけにゃいかねえんだろ」

「特急だからな。ええと、次に停まるのは」

「いいよ。どうせ今からじゃ間に合やしねえさね」

 浅野はぐいとビールをあおる。浅野にとってはビールは水のようなものである。日本酒には弱くってすぐ吐くのだがビールは何杯でもいける。世間にはこれとは真逆の人がいて、日本酒はウワバミのごとく暴飲してもけろっとしているが、ビールを口にするや三口で吐く御仁もある。絵本を語らせては斯界に及ぶ者のないマエノ氏がそうである。目白の田淵邸の下方、明治通りに面した崖にへばりつくように建てられたコンクリアパートの一階に居を構えた架空社の創立者である。いまは練馬を拠点に全国を睥睨する重鎮だが、ビールには弱い。

「おい、なに脱線してんだ。てめえの昔話なんぞ誰も興味ねえんだ。忠実に描写しろや」

 真市が言う。

「真市くん、だれに言ってんの」

 女が首を傾げて真市を見上げる。真市は立ちあがって書き手であるわたしに抗議している。わたしは、うるせぇー、描写はおれの恣意にかかってるんだ、どうなろうとおれの勝手だ、おめえらはおとなしくおれの言葉にひれ伏せや! おれが書くのをやめればおまえらどうなるか、よく考えろ! と暴言で報いてやった。ざまみろ。

「ふん。ト書きの分際で、忌々しい野郎だ」

 真市は虚空を睨んで吐き捨てる。

「真市、座れよ。なに興奮してるんだ」

 浅野がビールをぐびとあおりながら手でうながすが、目は女を見ていた。浅野にとってはこの女は安藤さんなのだ。小学校、中学校の頃からのマドンナである。高校は私立の音楽科へすすみ、遠く離れた音大へ行ってしまって、浅野は酔うたびに当時の電話ボックスへ入り込み、安藤さんに電話したものだった。真市も田坂もそんな光景をよく目にしていた。

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