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老楽記  作者: すのへ
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1 駅前ロータリー

 平成が幕を閉じ令和も五本の指から解き放たれ、遙かな昭和に生を受けて幾星霜、容姿にくっきりと年輪が刻み込まれて見るからに爺の四人組、いや正確には三人なのだが、真市次郎、田坂光一、浅野彦太、それに既に死んでいるのに居ることにされている座間清志は、駅前ロータリーのベンチに腰をおろし、行き交う人々を眺めながら雑談に耽っていた。人工池のほとりの芽吹いた柳はさわやかな風に枝をゆらし、陽の光を爺たちの上にまだらに落としている。

「極楽の気候だ。こんな日にこそあの世へ行こうじゃねえか」

 真市が言うと、ほかの皆はうんうんと頷きはするものの、死ぬ気どころか話自体が耳に入っていない。耳なんかよりも往来を歩く若い女に目を注ぐのに忙しいのだ。季節外れの寒さがつづいていたのが嘘のように、うららかを通り越して汗ばむような太陽の光が街路を満たしていた。いきおい着るものが薄手になり、女性のまぶしい肌の白さに爺どもは見惚れて、田坂などは腰を浮かして追いすがりそうになる有り様だった。

「うほっほ、極楽極楽」

「光ちゃん! よせ。また通報されるぞ」

 いちおう止めはするものの、真市も浅野も田坂といっしょに腰を浮かし女性のほうへ身を乗り出す。心地よい風が通り過ぎようとする女の化粧の香りやフェロモンの匂いを爺どもの鼻先に運ぶ。

「おうおうおうおおおおおおお」

 老いたりと云えども多少のリピドーはある。それは本能の残滓として影をとどめているのだが、同じように理性もまた体面を保つていどには澱のごとく体に染みついている。しかし、理性が働いてリピドーを制御できるのは三人がそれぞれ単独でいる場合である。三人が雁首そろえて寄り集まっている今回のようなケースでは、自制の理性よりも気ままな放埒を好むのだ。すなわち、三人寄れば文殊の知恵ならず、三人のリピドーが相乗効果で何倍にも増幅され、理性に頬かむりして、肉欲の衝動を解き放つのである。理性をかなぐり捨てて我を忘れ、肉欲のままに振る舞うのであった。

「きゃあああああ」

 ロータリーに響き渡る甲高い叫び声に交番の警官が飛んでくる。遠目に女性が三人の男に襲われそうになっているのがわかった。

「コラああああ! やめなさい!」

 怒声を張り上げて二人の警察官が駆けつける。田坂の手がすでに女の肩にかかって、女はバランスを崩したがそこはそれ、若さというものの自然な力で平衡を瞬時に回復して駅の階段へ駆けていった。いっぽう田坂の手は一旦は女の肩に受け止められたものの、柔らかい肉体の感触は瞬時に逃れていき、支えをうしなった手は、そのまま地面に落ちていった。

「わああ! ぎゃふん」

「光ちゃん! おれたちも逝くぞ」

 たおれた田坂めがけて真市がまっさきにダイブした。田坂は「ぐふ」と息を吐くとぐったりと地面に伏した。さらに浅野も足を止めることなく慣性力にしたがって駆けていたが、ダイブはせずに二人を踏んづけて止まり、しかし警官の手前もあってわざとひっくり返って寝そべった。

「うーん」

「痛てててて!」

「あんたたち。悪戯が過ぎますよ。ほら、立ってください」

 警官にうながされて真市が体を起こし、アスファルトの地面にどっかとあぐらをかいて座った。両拳を膝に当てて斜に構えて警官を睨めあげるや大声で怒鳴りつけた。

「ぶっ殺されるぞ! 年寄りナメるんじゃねえ。下っ端官吏のくせに!」

 真市は若いころの左翼臭が抜けなくて、警察官の制服を見ただけで血がたぎるのである。本人も自制できない感情のうねりが権力の木っ端役人にぶつけられる。警官のほうも相手が年寄りとはいえ、感情むき出しの暴言に思わずカッとなる。

「なにを! この!」

 若いほうの警官のこの反応こそ真市の望みどおりだった。待ってましたと真市は立ち上がって警官に大股で歩み寄り、罵声を浴びせるのだった。

「年寄りにどうしようってんだ。ええ! おい! 逮捕するか。かまわねえぜ。やってもらおうじゃねえか。こちとら天涯孤独で身寄りはねえんだ。さ、遠慮はいらねえ。捕まえろよ、ほら」

 まあまあと年配の警官が割って入る。うるせえ、すっこんでろ、などとなおも真市は警官にせまる。そんな、剣呑な空気の埒外から声がした。明るい朗らかな女の声である。その声を聞いて真市は足を止め、ふにゃりと背を丸めた。

「真市くん、なにしてるの。またおまわりさんにケンカ売って。ダメよ」

 真市は声のほうをふりむくと顔面にひきつった笑みをうかべ、手を若い警官の肩に置いた。

「ちげえよ、マリカ。いつもごくろうさんって、こうやって労ってるんじゃねえか。な」

 もう一方の手で警官の頭をポンとたたく。警官も年寄り相手にマジ怒になったのを恐縮慚愧したのか、いやあ、はははなどと調子を合わせてくれた。

「祐ちゃん」

「安藤さん」

 各々そう呼びかけながら田坂と浅野が女に駆け寄った。女はにこにこ笑いながら「あら、だめじゃない、みんな。真市くんを止めなきゃ。またおまわりさんに連れてかれちゃうわよ、この前みたいに」

 そのとき、つまり『この前』のとき、所轄の警察署へ真市を請け出しに来てくれたのは身内ではなくこの女だ。身内はいないと真市は嘘をついてマリカに連絡を取ったのだった。

「おまわりさん、ごめんね。おジイさんだからゆるしてあげて。ね」

 女は真市たちとは同年配である。だから女もバアさんだ。しかし、婆さんとはいえ、薄化粧をほどこした頬にはたるみもなく、うなじにかかる後れ毛はそこはかとなく色香がオーラを成し、髪や手からかな、えもいわれぬ香りを漂わせている。さすがかつてのマドンナである。吉永小百合とまではいかないがナチュラルでここまで魅せる女はなかなかいない。と見えるのはジジイどもの心眼で、白昼の光は容赦なく、ジジイども以外の眼には、たとえば若い警官の目にどう映ったか知るすべはない。

「さあ、行きましょ」

 と女は警官たちが引きあげた後、大きなトートバッグをよいしょと肩にかけなおす。ジジイ三人は一瞬、「え」と顔を見合わせるが、ひとり真市だけはパッと顔を輝かせ、我が意を得たりと喜色満面になって小躍りする。

「さすがマリカだぜ。よくわかってるじゃねえか。よし、逝こう。みんなで往こう」

「はいはい。征きましょう。もっと楽しむのよ」

 真市と女は肩を並べて駅舎のほうへ歩きだした。寸刻の間があって田坂と浅野は訳が分からなかったが、取り残されてなるものかあわてて二人のあとを追う。四人が階段の手前あたりで合流し、ふと見あげると、五人めの座間が、その幻影が八つの眼にははっきりと階段の上に見えた。座間は四人を見おろし、早く来いとでもいうように顎をしゃくって改札がある方向へ消えた。初夏のよく晴れた空があわただしく階段を上る彼らを見送っていた。

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