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9.教会の問答とアリスの懇願

 ヘンリーにアリスを任せると言い残したジャックは、覚束ない足取りで教会を目指す。

 教会の場所は以前アリスに街を案内してもらった時に教わった。覚えている。


 村にひとつしかない教会は墓地の隣、村の外れに建っていた。

 閉ざされた重厚な扉を押し開ければ、真っ先に目についたのは純白の大理石からなる巨大な女神の彫刻であった。村の噴水と同じく微笑を口許に浮かべ、三つ叉の槍と天秤を掲げている。背景は色鮮やかなステンドグラスであり、陽光を背負っている都合、輪郭が際立って見えた。


 女神の足許には机と銀の燭台が置かれ、黒い長衣(ローブ)に身を包んだ司祭と修道女が立っていた。

 ジャックは(もう)(ろう)とする意識を何とか繋ぎ留め、司祭の前まで歩み寄る。

 司祭と修道女は何事かと(ちん)(にゅう)(しゃ)であるジャックを見詰めていた。


「稀人の方とお見受け致します。当教会に何のご用件ですかな?」


 先に口を開いたのは司祭であった。聖職者らしい穏やかな語り口であった。


「唐突な来訪、ご容赦いただきたい。この通り毒蛇に噛まれてしまってな。ここに来れば治療をしてもらえると聞いた」


 ジャックは包帯を巻いた左手を示しながら言った。


「――おや、これはこれは。さぞ苦しい思いをされたことでしょう。今治療をして差し上げましょう。しばしお待ちください。修道女、準備を」

「嫌ですわ、司祭様」


 修道女は凜然とした口舌で断った。その声は今にも卒倒してしまいそうなジャックの耳にも届いた。ジャックが目を凝らせば、赤毛の幼い修道女はジャックを睨んでいた。


「修道女。どうしたのですか?」

「だってその人、黒い髪に黒い瞳――稀人じゃないですか。この国どころかこの世界の人間じゃありません。そんな人にどうして女神様の教えである奇跡を使わないといけないのですか」


 修道女の口振りには(かん)(しゃく)(けっ)(ぺき)の色が見え隠れする。施しを受ける身になったジャックにとっても十分理解ないし納得のいく疑問であった。困った時の神頼みでは、神や神職はたまったものではないだろうとふらつく頭で考える。


 だが質問を受けた司祭は少しも揺るがない。

 穏やかな表情を浮かべながら。


「人間は神の前ではただ平等だからです。そこには稀人も、この国の人間も変わりがないからですよ」


 と(さと)しにかかる。

 続けて。


「この御仁の髪が黒いから何だと言うのですか。瞳が黒いから何だと言うのですか。私達と何も変わらない人間ではありませんか。私には、彼が蛇の毒で苦しんでいる兄弟のように思えてなりません。修道女、私の考えは間違っておりますか?」


 と問うた。


 修道女は口篭もる。理解はできたが感情が追いつかぬという顔であった。

 ジャックには修道女の葛藤が何となく分かった気がした。

 だからこそ。


「司祭殿。少々、よろしいか」


 と問い掛ける。

 じきに昏倒してしまいそうなのは確かであったが、己の生命と意地をかけて明らかにしておきたいことがあった。


「御仁。心配されずとも結構ですよ。今に修道女も納得してくれるでしょう」

「いや、そういうことではないのだ。彼女の言う通り、私は異国どころか世界を跨いでやって来た余所者だ。女神の名前は知らないし祈ったことすらない。それどころか私の運命を弄んだことに対して恨んですらいる節もある。こんな私でも本当に治してくれるのだろうか。女神の奇跡を受ける資格はあるのだろうか」


 司祭はすぐに答えなかった。

 目を閉じ、しばしの思考の後。


「貴方は思慮深い人ですね」


 と言った。純粋な青い瞳がジャックを捉える。


「貴方は私達が治します。そこには何の義務も権利もありません。ただ(ゆる)しが与えられるだけです。先刻修道女に言ったように、人は神の前に平等なのです」

「赦しを与えられる」


 ジャックには司祭の言ったことが理解できなかった。赦しを乞うた覚えはなかったし、この世界にとって異物でしかない自分が赦されて然るべき存在であるとも思えなかった。


 ――本当に赦しを得るべきは私ではなくて。


 ジャックはその場に膝を突く。蛇の毒が回り、立つことすらもできなくなった。


「御仁、大丈夫ですか。修道女、早く準備を」

「司祭殿。私なら大丈夫だ。だからもうひとつだけ教えていただきたい。人間は神の前に平等とは本当にそうなのだろうか。私には、それが嘘偽りの詭弁のように思えてならないのだ」

「……どうしてそう思うのですか」

「この世に奴隷というものがいるからだ」


 ジャックは答える。


「奴隷は教会に入れないと聞いた。奴隷という立場を作ったのは女神その人であるとも。碌な仕事にも就けず、物を売っても安く買い叩かれ、人間の尊厳などまるでないかのように扱われるのだ。女神というのが本当にいるのなら、赦しを与えてくれるというのなら、人間は平等だというのなら、どうして奴隷なんてものが存在するのだ。私にはどうしても分からない。司祭殿、教えてくれ。奴隷は人間ではないのか。赦されるべき存在ではないのか。どうして奴隷なんてものが存在するのだ」

「やはり貴方は思慮深い人だ。そして慈悲深くもある。それゆえに苦しんでいる」


 長い沈黙を経た後、司祭は言った。


「貴方の言う通り、確かにこの国には奴隷がおります。それも大勢の。田舎に行けば農奴として扱われ、都市部に行けば商工業の労働力として扱われ、朝から晩まで働くことを強いられます。帝都では戦うためだけの剣奴がいるとも耳にしたことがあります。最早この国は奴隷によって支えられていると言っても過言ではないでしょう。そういえば、ここネイロの村にもひとりの奴隷がおりましたね。最近やって来た稀人と暮らす――確かアリスという名前でしたか」

「アリスを知っているのか」

「ええ。大して広くもない村ですので名前だけは。ということは貴方がその稀人でしたか」

「ああ、そうだ。自己紹介が遅れて済まない。私はジャックという」

「貴方があのジャックさんとは。いやはや、噂はかねがね聞いておりますが、やはり噂というのは当てにならぬものですね。心配してはおりませんが一応伝えておきます。当施設では狼藉はお控えください」

「無論、承知している」

「そうですか。それならば良いのです」


 頷いた司祭は、奥の部屋から、おっかなびっくり様子を窺っている修道女に、何も心配はいらないから出てきなさい、と優しく告げた。奇跡の触媒となるであろう白木の簡素な短杖を持った修道女は嫌々と言わんばかりの顔で出てくる。


「さあ、ジャック殿。今、女神様の奇跡で貴方を蝕む毒を癒やして差し上げましょう。お話ならその後でもできるでしょう」

「司祭殿。気持ちは有り難いのだが、まずはこちらの質問に答えていただきたい。そうでなくては、私は神の奇跡に(すが)ることができない」

「そこまで貴方が言うのならば。ええと――そう。奴隷は人間ではないのか。赦されるべきではないのか。(ひっ)(きょう)、神の前では平等と(うた)っておきながら、どうして奴隷なんてものが存在するのかという話でよろしいですね」

「ああ、そうだ。司祭殿にとっては奇妙に聞こえるかもしれないが、奴隷というものが存在せず、禁止されている世界から来た私にとってはどうしたって受け容れ難い事実なのだ」

「なるほど。それはそれは。貴方の疑問や苦悩にも納得がいくというものです」


 司祭は目を大きく開き、二度頷いた。

 修道女に至っては()(ぜん)としている。


「実を言えば私も若き頃、貴方と同じ疑問を抱いたことがあるのです。どうして人が人を支配するような奴隷制などという(むご)い真似ができるのだと、彼ら彼女らには赦しすら与えられないのかと、女神様は一体何をしておられるのだと。神の存在さえ疑ったこともあります。ですが、当時の私は、そしてジャック殿は若過ぎたのです。その疑問を解決するには、それ相応の年月が必要になるのです」

「それ相応の年月」

「失礼。決して、嘘やごまかしではありません。貴方にとっては現在の問題であることは承知しております。年を取ると前置きが長くなっていけませんね。端的に申し上げましょう」


 司祭は一拍置いてから、白手袋を嵌めた手の人差し指を示す。


「ひとつ。奴隷は人間ではないのか。――答えは(イエス)です。私達は、隷属の首輪を着用している者は人間とは見なしません。もっと正確に言うなれば不完全な人間です」

「不完全な人間。たかが首輪のあるなしで人間かそうでないかが決まってしまうのか」

「いけませんよ、ジャック殿。稀人である貴方にとっては『たかが』かもしれませんが、この世界で暮らす私達にとっては『されど』なのですよ。世界が異なれば常識だって異なるということを貴方は学習するべきです」


 司祭は二本目の指――中指を立てた。


「ふたつ。奴隷は赦されるべきではないのか。――答えは(ノー)です。とはいえども、これは何をもって赦されたと見なすのかという線引きがとても難しい問題なのですが。とにかく、否とされる根拠はその不完全性がゆえにです。不完全な人間ないし人間性であるからこそ、神だって救いもしなければ赦すこともできません。その程度には、女神様というものは厳格なのです。いいえ、厳格でなければなりません。ここまではよろしいですか」

「ああ、続けてくれ」


 ジャックが乞えば、司祭は三本目の指――薬指を上げる。


「みっつ。どうして奴隷なんてものが存在するのか。これについては二つの側面から語ることにしましょう。まずは女神様が奴隷ないし奴隷制を作ったという話です。罪と罰、そして運命を司る我らが神は奴隷という不完全な人間に対して赦しを与えませんでした。人間であるという完全性を捨てたことを怒り、その怒りがゆえに、ただ奴隷であるという立場と()(えき)を与えました。続いて理由の話です。奴隷の不完全性は再三述べた通りなのですが、事実として不完全でも労働という役目を与えられて生きているのです。たとえそこに尊厳がなくとも、元々が奴隷ですからそんなものはいりません」

「奴隷に尊厳はいらない」

「よろしいですか。最初に人間であることを捨ててしまった出来損ないが奴隷なのです。そんな者達には救われる資格もなければ、赦される資格だってありません。せいぜい、その不完全な身体と精神で死ぬまで働き続ければいいでしょう。ゆえに、彼ら彼女らには神など不要という話になるのです。(つたな)い説教になってしまいましたが、お分かりいただけましたか」

「なるほど。よく分かったよ。解説してくれたこと、感謝する」


 ジャックが礼を述べれば、司祭は温和な笑みを浮かべる。


「それでは、遅くなりましたが解毒の奇跡を」

「いや、それには及ばない」


 司祭の発言を遮ったジャックは力を込めて立ち上がる。頭痛は酷く、眩暈で視界も揺れ動く。傷口に至っては千切れるように痛んだが、それでも腹痛と嘔吐感は消えていた。峠は越えたようである。


「どうされたのです」

「いや、なに。やはり私には、女神の奇跡を受ける資格はないようだ」

「そうですか。貴方がそう決めたのなら私達も無理にとは言いません。ですが蛇の毒は猛毒であると聞いたことがあります。若々しい意志を貫くのもまたひとつの美徳ではありますが、手が腐り落ちそうになったら遠慮なくお越しください。そうなっても誰も貴方を責めますまい」

「お気遣い、痛み入る」


 ジャックは作業服のポケットに手を突っ込むと、財布を出して机の上に銀貨三枚を置いた。


「治療費――じゃないな。講習料としてどうか受け取ってほしい」

「そういうことでしたら有り難く頂戴致しましょう。修道女、金庫に運んでください」


 返事をした修道女は奥の部屋まで銀貨を運んでいった。教会を去ろうとしたジャックは一度だけ女神像へ振り返る。微笑みを張り付けた罪と罰、そして運命を司る女神は何も言わずにジャックだけを見下ろしていた。


 教会を出たジャックは、胸元から残り少なくなった煙草を取り出し、銜えて着火する。

 日頃、アリスの前で喫うことを控えていたせいか久々の喫煙であった。甘いバニラの芳香と重たい有害物質が、蛇の猛毒によってふらつく頭と、胸に渦巻く苛立ちを抑えてくれた。


 教会では司祭がいる手前抑えてはいたが、やはり女神など信用できぬとジャックは思う。

 特別、司祭の言うこと穴だらけの詭弁だったわけではない。むしろ理路整然としており、ジャックの抱く葛藤すらも見透かしており、何一つとして反論できなかった。それがこちらの常識なのだと納得する外なかった。その事実が更にジャックを苛立たせる。


 ――しかしそうなってくると分からないことがある。


 アリスに対するヘンリーの態度である。この世界の一般通念のように、奴隷は人間にあらずと見下すこともなければ、下心があってアリスに接しているようにも見えなかった。

 ジャックがこの世界に流れ着いて一月しか経っていないが、それでも極めて珍しい人物であることが分かる。

 ヘンリーに会って直接その真意を問い(ただ)そうとしたジャックは、煙草を銜えながらネイロ村の東門、詰所まで足を運ぶ。その頃には毒にも慣れ、左手の噛み傷が疼くだけになっていた。


 詰所にヘンリーはいた。覗き窓の見える位置に立ち、半ば退屈そうに剣の握りを確かめている。ジャックが声を掛ける前にヘンリーは振り向いた。ジャックの包帯が巻かれたままの左手を見て眉を(ひそ)める。


「どうしたんだよ。教会に行ってきたんじゃなかったのか?」

「ああ。行くには行ってきたとも。だが奇跡の治療は断った」

「断っただあ? どうしてそんな馬鹿なことを」

「奴隷制を是とする女神の信仰が気に食わなかったからだ」


 ジャックが率直に答えれば、ヘンリーはこれ見よがしに、額に手を当てた。


「そういえばそうだった。お前はそういう奴だったな。忘れていたぜ」

「私のことなんて今はいいんだ。それよりもヘンリー殿のことだ」

「あん? 俺がどうしたよ」

「ヘンリー殿は奴隷に対して――もっと言えばアリスに対して――何の偏見も抱いていないように見える。それはなぜだ」


 ジャックが教会で司祭から聞いたことを掻い摘まんで話せば、ヘンリーは無精髭の生えた顎を指先でなぞる。


「あー、まあ確かに俺は、アリス嬢に対する差別意識はこれといってねえな。だが勘違いするなよ。それはアリス嬢が特別だからだ。他の奴隷はちゃんと奴隷らしく扱うぜ。サボっている農奴がいれば休まずに働けといって尻を蹴り飛ばすし、店の小間遣いが奴隷なら、代金をちょろまかしていないか何度も確かめる。やっぱり奴隷ってのは、犯罪者とまでは言わねえが、なるべくしてそうなった連中がほとんどだからな。油断していると足許をすくわれるんだよ」

「特別というのはどういう意味だ」

「頼まれたんだよ、アリス嬢の親父さんから」

「頼まれた」

「奴隷としてではなくひとりの人間として扱ってくれってな。何か困ったことがあれば力になってくれとも頼まれた。まあ普通ならそんな願いなんざお断りなんだが、俺も親父さんには世話にもなったし、あまりにも真剣に頼み込むものだから、根負けして俺も頷いちまったというわけだ。何でも聞くところ、アリス嬢は帝都の、それも良いところの御嬢様だったようだが、何がどうなってか悪い人攫いに捕まって奴隷にされちまったらしいぜ。その親父さんも近頃音沙汰がねえし、まったく世知辛い世の中だぜ」


 そこまで言うと、ヘンリーは剣を鞘に収め、身体をグイと伸ばした。


「今の話、アリス嬢には伝えるなよ」

「別に良いのではないか」

「阿呆。正直に話せば、俺が頼まれたからそうしているだけの薄情者になっちまうだろうが。それに奴隷だろうが何だろうが過去を詮索されて気分の良い奴なんかいないだろう。親父さんが消息を絶った今なら尚更のことじゃねえか」


 ヘンリーは遣る瀬ないとばかりに大きく息を吐いた。


「分かった。この話はここだけとしておこう。しかしアリスの父親は心配だな」

「本当だぜ。アリス嬢の首輪を外すための方法を探すとか言って帝都に行くとは聞いていたが、一体どこで何をしているのやら。おっと。前にも言ったかとは思うがお前まで帝都に探しに行くのはナシだからな。今帝都は揉めに揉めているんだ。お前みたいなただの冒険者が行ったところで現状を打破できるとは思えねえ。それに――」

「それに、何だ」

「今お前に何かあったら、またアリス嬢は塞ぎ込んでしまうだろうよ」

「また、とは」


 ジャックは長くなった煙草の灰を落とし、甘い煙を吸い込んでから吐き出す。


「お前が来てからアリス嬢は目に見えて元気になったんだぜ。それまでは何をするにも死にかけの野良犬みてえなツラをしていたんだ。親父さんもどこに行ったかてんで分からねえし、きっと絶望していたんだろうな。今のお前のような顔だぜ」

「ヘンリー殿。今の私はそんなに顔色が悪いのか。猛毒にはもう慣れたつもりなのだが」

「この野郎。意地を張るのも結構だが限度というもんがあるだろうが。何が蛇に噛まれて教会に行ったが、女神の信仰が気に食わねえだ。もっと自分を大事にしなきゃそのうち死んじまうぜ。あまりアリス嬢に心配掛けるんじゃねえぞ」

「分かった。分かったとも。以後気を付けるよ」


 ジャックが降参とばかりに頷けば、本当に分かっているのかよ、とヘンリーは念を押す。


「ヘンリー殿もしつこいな。ひとつしかない生命だ。大事にするとも」

「そうかい。なら良いんだ。それで、アリス嬢とはどうだ。上手くやってるか?」


 唇の端に下世話な笑みを浮かべながらヘンリーは問うた。


「まあ、それなりには。信頼関係を築くことはできているはずだ」

「あのよ。俺が聞きたいのはそういうことじゃねえんだわ。第一、信用し合っているのは見りゃ分かる。男がこういう聞き方をする時は、大抵が夜の営みの話だぜ」

「夜の営みだと」


 ジャックは二の句が継げなくなる。

 だが相手の素振りに驚いたのはヘンリーも同様だった。


「何だよ。鷲が(いしゆみ)で射貫かれたような顔をして。それとも何かい。稀人の間じゃこんな話はしないのかよ」


 鷲が弩で射貫かれる――こちら側の慣用句であるらしい。


「いや、するにはするが」


 戸惑いながらもジャックは答える。


「状況を整理させてくれ、ヘンリー殿。夜の営みというのは、まさか私とアリスのことを言っているのか」

「だからそう言っているじゃねえか。それとも何かい。まだ手を出していないのかよ」

「当然だろうが」

「へ? 同じ家で暮らしているのにか」

「……極めて重要な勘違いををしているようだが、私とアリスはそういう関係ではないし、そういう目で相手を見ることは絶対にない。寝床は分けているし、そもそも私は居候だ。相手にすらさせてもらえないだろう。何よりアリスはまだ子供だぞ」


 ジャックは力説する。ジャックの中において、自分を救ってくれたアリスという存在はある種の神域であり、通俗的世俗的には見られたくなかった。そのようなジャックの姿勢に、ヘンリーは呆れるでも感心するでもなく、異邦人を見るような目で見詰めていた。


「子供っていったって、アリス嬢はとっくに成人済みだぜ」

「……この世界の成人は何歳なんだ」

「十六だ。『そっち』では違うのかよ」

「ああ違う。十八歳――いや、私にとっては二十歳だよ。それ未満はまだまだ子供だ」


 ジャックが説明すれば、ヘンリーは肩を落として項垂れる。文化の差異に衝撃を受けたのかもしれない。その姿勢のまま視線を上げて。


「ああ、噂をすればアリス嬢じゃねえか」


 と言った。

 ジャックが振り返れば、アリスがやって来たところであった。長い金髪が半ば濡れていることから察するに、水で身体を清めた後なのかもしれない。暮れ始めた橙の斜陽をその身に浴びながら通りを(かっ)()する姿は女神よりも女神然として、ジャックにはアリスが眩しく見えた。


「ヘンリー殿。素材の買い取りには同行してくれたんだろうな」

「ああ。大蛇二匹も狼も、相場より高く売れたぜ」

「それは良かった。改めて今日は助けられたな。狩りの仕方もそうだが、何より毒蛇に噛まれた後の対処は勉強になった」

「そりゃお互い様だ。俺だって森の調査に巻き込んじまって悪かった。けど初日から随分捗(はかど)ったぜ。どうだい。お前さえ良ければ明日からも組まねえか?」

「是非、といいたいところだがな」

「どうした? 蛇の毒が残ってきついのか」

「いや違う。アリスに確認しなければならん」

「それならもう(げん)()は取っている。曰く、ジャックさんが良いならそれでいい――だそうだ。愛されてるねえ」


 ヘンリーが()()するように笑うが、ジャックは気にならなかった。


「当然だとも。彼女は私にとって救いの女神だからな」

「からかい甲斐のない奴だな」

「何とでも言うがいい。とにかくそれならば、改めてよろしく頼む」


 ジャックは右手の煙草を揉み消し、携帯灰皿に入れてからヘンリーと握手を交わす。


「ジャックさん」


 男二人が握手するのを邪魔してはいけないと思ったのか、アリスは小声でジャックを呼んだ。

 その頬が(あけ)(いろ)に染まっているのは、夕陽のせいか、女神云(うん)々(ぬん)の発言が聞こえたからなのかはジャックには分からない。ただ、即興の一行が翌日以降も継続することを察したらしく、静かに微笑んでみせた。





 アリスと二人で門の詰所を去る途中、アリスはジャックの左手に巻かれたままの包帯に気付いた。酷かった頭痛も治まり、残る症状は患部の腫れ程度であった。

 ジャックが教会で見聞きしたことを――それをどうしても許容できなかったことを――ありのままに伝えればアリスは分かりやすく眉を寄せる。


「ジャックさんは無理をし過ぎです。どうして奴隷なんかをそこまで気にするのですか?」

「私を助けてくれた君が奴隷であるからだ」


 ジャックは即答する。嘘偽ざる本心であった。


「私は、この国の制度が間違っていると思うのだ。司祭殿は確かに言った。奴隷は人間ではないのだと。赦されるべきではないのだと。奴隷が存在する理由まで()いてくれた。悔しいことに私は何の反論もできなかった。できなかったが、それでも私は奴隷というものを肯定する気にはなれないんだ。無論それは、私が異邦の人間であるからそう思うだけなのかもしれない。事実、たかが首輪と言ったら、されど首輪なのだと司祭殿は言った。だが私は、私には、どうしたって受け容れることはできない。綺麗事と言われようと、青臭いと言われようと、人間の生命は皆平等に尊重されるべきものであると思うし、どんな思想や宗教でも認められるべきだし、生きているだけで素晴らしいものなんだ。生きてさえいれば――」


 唐突にジャックは頭を抱える。

 脳裏に死別した婚約者の(かお)が過る――いつものフラッシュバックであった。そこでジャックは、己が奴隷制の反対に固執する一因が、生命を冒涜しているからであることに思い至る。己が未だ死んだ人間に囚われているということも。


 ジャックの変調に戸惑ったのはアリスであった。苦悶するジャックの背を擦りながら辺りを見回すも、遠巻きに眺めるか笑う者はいても、奴隷と稀人に手を差し伸べる者はいない。


「ジャックさん。しっかりしてください。私の声が分かりますか?」

「……ああ、済まない。嫌なことを思い出しただけだから気にしないでくれ」


 息も絶え絶えにジャックが応答すれば、嫌なこととは何ですか、とアリスが尋ねる。その時には、ジャックは妄想を振り払いどうにか自立していた。


 言うべきか否か迷ったが、結局言うことにした。


「昔、死に別れた女がいたんだ。そいつのことをずっと忘れられずにいる。ただそれだけの情けない話だよ。忘れてくれて構わない」


 ジャックは笑い飛ばそうとするも、乾いた声しか出てこなかった。

 ジャックの予想とは裏腹に、アリスは怒りも笑いもしなかった。大きな瞳を目一杯に開き、嬰児(みどりご)のような顔つきでジャックを見詰めていた。


「ジャックさんは結婚されていたのですか?」


 アリスは問うた。その声は震えていた。


「いや、ただの婚約者さ。なんてことはない病気で、あっさりと逝ってしまった」

「婚約者――」


 アリスは噛み締めるかのように言った。

 身長差で、ジャックにはアリスが今どんな顔をしているのかが分からない。

 そこからは互いに終始無言であった。


 家に着いた時、アリスは徐に振り返った。意を決したように口を開いて。


「ジャックさん。私、今年で二十歳(はたち)になりました。もう子供ではありません」


 と言った。

 否、乞うた。


 黄昏時の斜陽を一身に受けるアリスの顔は輪郭がぼやけて見えて、ジャックには目の前に立つ女が誰であるのか本気で分からなくなった。


 だがその錯覚も一瞬のことであった。

 死去した女の虚像は掻き消え、アリスの実像が戻ってくる。


 少し遅れてから、彼女は私とヘンリーの話を聞いていたのだな――とジャックは思った。

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