7.ヘンリーの同行
冒険者ギルド中庭に設立された訓練場。
ジャックは髭面の門衛――ヘンリーと対峙していた。
己の装備は腕と脚に防具を着用して、手には木製の斧槍を握っている。
相手は鎖帷子に陣羽織、鉄兜という格好であり、木剣と木の円盾を持っている。
睨み合う二人を囲うのは朝一番の依頼を受け損ねた、謂わば暇を持て余した冒険者達であり、商人崩れのがめつい者はどちらが勝つか賭けの胴元を始め、逆さまにした帽子に銀貨や銅貨を集めて歩き回っている。
早朝の冷ややかな空気が二人の間をすり抜けた。
最初に仕掛けたのはジャックである。ヘンリーの胸元目がけて脇に挟んだ斧槍を突き出すが、あっさりと盾に弾かれる。その反動を利用して三度ジャックは舞うように斧槍を振り回すが、距離をとることで避けられる。
攻撃はヘンリーの手番に移る。ジャックが構え直すよりも早く間合いを詰め、鋭い剣撃を放つ。ジャックはその全てを柄で受けきり、短く持った斧槍でヘンリーの足許を振り払うが、跳躍したヘンリーには当たらない。ヘンリーの兜割りを、手袋を嵌めた左手で捌いたジャックは腹部に蹴りを叩き込むが、それも盾で受け止められ、反対によろめいたところを、軸足を狩られて尻餅をついてしまう。ジャックの喉に木剣が突きつけられる。
「参った。私の負けだ」
潔く負けを認めたジャックは諸手を挙げる。
盾と剣を背にしまったヘンリーが立たせてくれる。
「ヘンリー殿。私には何が足りなかった」
「あー、そうだな。全体的にお前の攻撃は大振り過ぎる。斧槍だから仕方ない側面もあるんだろうが、だからどれも簡単に盾で受け止められる。次からはもっと小さく振りを意識してみろ。ああ、だが最後の蹴りは良かったぜ。もっと威力があれば俺の方が吹き飛んでいただろうな」
腕を組みながらヘンリーは解説する。
ジャックが世界を跨いでから一ヶ月。
こうしてヘンリーとともに早朝の稽古に励むのも、その度に地面を転がるのも、賭けの対象として野次馬に囲まれるのも、試合後に助言を求めるのも日常になりつつあった。未だに、どうやって攻めればヘンリーから一本を取ることができるのかがジャックには分からない。
ジャックが樽の中に斧槍をしまえば、もう終わりにするのか、とヘンリーが尋ねる。
「今日は朝から近くの森に行く予定なのだ。そろそろアリスが迎えに来る頃だろう」
「奴隷ひとりを歩かせるなんて危機感のない奴だな」
「それはそうだが、いつも私が見張っているわけにもいくまい。気疲れしてしまうだろう。それに行くのは鍛冶屋の爺様のところだ。何も問題など起こらないだろう」
「そういうものかね」
「そういうものだな」
華奢で可憐な外見に騙されがちではあるがアリスはあれで強かな娘なのだとジャックは思う。少なくとも悪党に髪を掴まれた際、手持ちのナイフで自分の髪を切る選択をできる程度にはたくましいのだとも。
時機を見計らったかのように、人混みを掻き分けながらアリスはやって来た。右腰には回転式拳銃、肩掛けの鞄、簡素な革鎧といういつもの格好であった。違うのは洋装が怪物の血に濡れても目立たない暗紅色に変わっていることくらいであった。
「ジャックさん。お待たせしました。行きましょう」
「分かった。ではヘンリー殿、またな」
ジャックが去ろうとすれば、ちょっと待ちやがれ、とヘンリーがその肩を掴む。
「どうした」
「行くのは近くの森だと言ったな」
「ああ、そうだが」
「俺も行くからお前の車に乗せろ」
「急にどうしたんだ。門番の仕事はいいのか」
「いい。むしろ別件で森の調査をしなければならねえ」
「別件」
「まあ、それはおいおい話してやるよ。それで、どうだ。お前らの狩りにも協力するし、何より俺がいれば通行税は取られない」
「ああ、私は構わない」
視線でアリスに尋ねれば首を縦に振った。
是、ということらしい。
ヘンリーとは一度別れ、村の東門で合流することとなった。
アリス邸に戻ると、ジャックは冒険の仕度を始める。
斧槍を屋根の荷台に縛り付け、アリスの許可を得てから不要な工具箱を納戸に移し、格納していた後部座席を起こす。車はこれで四人乗りとなる。常に燃費を気にして走行していたせいか燃料はまだ一目盛りも減っていない。
助手席にアリスを乗せたジャックは東門に向かう。門の詰所には、若い衛兵と話し込んでいるヘンリーがいた。接近する車に気付けば話を打ち切って片手を挙げる。
「おう、済まないな。それで、これはどうやって乗ればいいんだ?」
窓から顔を出したジャックにヘンリーが聞く。
「そこの黒い把手を手前に引けばドアが開く。入ったら閉めればいい」
ジャックが言えば、盾と剣を背負ったヘンリーは慎重に乗り込む。
門の開閉は若い衛兵がしてくれた。
「なるほど、こりゃ実に便利な乗り物だな。馬車よりも速いし、何より尻が痛くならないのがいい。稀人の世界にはこんなものがあるのか」
ジャックが車を発進させれば、身を乗り出したヘンリーが興奮したように言った。
「だが問題がある。車を動かす燃料を補充する当てがないのだ。燃料がなくなれば、動かない鉄屑にしかならない。良くて鉄とガラスでできた幕舎だよ」
「燃料?」
「燃えやすい油のことだ。原油を蒸留、精製して作られるんだが聞いたことはないか」
「原油というと、地中から噴き出す油のことか?」
「そう、それだ」
「それなら帝都に行けば手に入るってこの間村に来た行商人が言っていたな。流石に蒸留しているかどうかまでは分からんが」
「それは良いことを聞いた。原油があるならばきっとあるだろう。いつか帝都に行ってみたいものだな」
帝都と聞いて、ビクリとアリスが肩を震わせたのが視界の隅に映った。帝都に行くと言ったきり戻らない育ての父親を心配してのことかもしれない。迂闊な発言だったかと内心反省するジャックであったが、反応したのは意外にもヘンリーであった。
「帝都だが、今は近付かない方が身のためだぜ」
「どうしてだ」
「その行商人曰く、近頃治安がどうにも悪いみたいでな。王位継承権の争いでお偉方は忙しいし、貴族の不審死が相次いだり、聖女の代替わりで宗教改革みたいな話も持ち上がったり、不景気で食うに困っての犯罪が後を絶たなかったり――王族、貴族、宗教、民衆のどれもが荒れているんだ。何の後ろ盾もないお前のような稀人が考えなしに行ったところで、冤罪を吹っ掛けられないとも限らねえ。というか今日俺が森の調査に来たのだって、もとはといえばその聖女様のせいなんだぜ」
顔を伏せていたアリスが後ろを向いて。
「聖女様のせいとはどういう意味ですか?」
と聞いた。
その身分ゆえ聞き役に徹することの多いアリスが口を挟むなど希有なことであった。
同じ感想を抱いたのか、一拍子遅れてからヘンリーが説明する。
「何でも、聖女様の御一行がこの森にある街道を使ってネイロ村までやって来るから、森に危険な怪物が出ないか、もしいるならば狩り尽くせと領主サマから直々に命令されたんだよ」
「ヘンリー殿。話の腰を折って済まないが、聖女とは一体何者なんだ」
ジャックが尋ねれば、話に腰なんてあるわけねえだろ面白い奴だな、とヘンリーは笑った。
聖女という言葉ないし概念は日本にも存在する。
神聖な事績を成し遂げた敬虔な信徒であったり、社会に対して多大な貢献を為したりするような人物を示す単語ないし形容詞である。またキリスト教においては女性の聖人を示し、有名どころを挙げれば聖アグネスや聖フィディス、ジャンヌダルクなどが該当するだろう。
「聖女ってのは帝都の大教会にいて、回復の奇跡なら何でもできる特別な人間なんだ。病気だろうが怪我だろうが何でも治せるらしいぜ。噂じゃ死人さえ蘇らせることができるとか」
「死人さえ蘇らせることができる――」
ジャックの脳裏に、かつて愛した女の死に顔が過る。
一瞬呆けたジャックであったが。
「所詮、噂ですよ。真実ではありません」
というアリスの呟きで我に返る。
アクセルを踏み、エンスト寸前の状態を回避する。
「しかしだ、ヘンリー殿。そのような素晴らしい女性がどうしてネイロの村に」
「何でも本物の聖女になるためには帝国領の全てを巡って、多くの民草を救わねばならないらしいぜ。ああ、ちょうど良かったじゃねえか」
「何がだ」
「鬼にやられたお前の右足、まだ治ってねえだろ。盾で受けた時に分かったぜ。聖女サマが来たら治してもらうんだな」
「……治療にいくらかかるかにもよるな」
「まあそういう考えになるわな。救いだ何だっていっても結局金がなきゃ話にならねえ。だがつまらないことをケチって死んじゃ何の意味もねえことは忘れんなよ」
「ああ、分かっているとも。私はこの世界で生きると決めたからな」
会話が途切れたと同時に森の入口に到着した。アリスばかりが俯いているが、何も言うことはなかった。ジャックは一度車を停める。
「ヘンリー殿。私達はいつもここいらで狩りをしているんだ。今日もこの辺りで良いか」
「いや、もう少し奥まで進んでくれ。具体的には道が二つに分かれているところまでだ。そこが森の中心だからな」
「承知した」
ジャックは車を再発進させる。少し走らせれば、ヘンリーの言う通り看板の立てられた三叉路に行き着く。通行の妨げにならぬように茂みの中に駐車する。
「アリス。あの看板には何て書かれてあるんだ」
エンジンを切り、車を降りたジャックは拳銃に一発一発弾込めをしているアリスに尋ねる。
「行き先が書かれています。右が帝都行きの道で、左が奴隷都市への道です」
「この森は一本道ではなかったんだな。しかし奴隷都市というのは」
「それは――」
アリスは少し考える素振りを見せた後。
「奴隷の立場を放棄して、労働と引き換えに、その街で暮らすことのできる区域です」
と端的に述べる。
「なるほど。奴隷のためにある都市なんだな」
「でも良い噂は聞きません。奴隷を飼い殺しにしたり、一度入ったら二度と外に出ることができなかったり、労働制度そのものが厳しかったり、危ない薬の実験に使われたり――噂ですから定かではありませんが、できるならあまり近付きたくはありません」
「確かにな。そんな窮屈な思いをするくらいならネイロの村で暮らしていた方がずっと良い」
ジャックが同意すれば、遅れながらヘンリーが降車する。降り方が分からなかったらしい。背負った剣と盾を右手と左手にそれぞれ持てば準備は完了する。
ジャックも屋根に縛り付けた斧槍を下ろし、左腰に直剣を下げた安全帯を装着する。腰袋の中には消毒液や包帯、その他雑多な道具を収めている。
「ネイロ村は良いところです。ジャックさんとこうして冒険している時間が私は好きです」
「それは光栄だな。だが今日は初めて来る森の中心だ。三人になって戦力は増えたとはいえども一層注意して探索しよう」
先頭は森を知るヘンリーに任せて、ジャックはアリスに続く形で行軍を始める。アリスの前に立たぬのは、いざという時にアリスを護れる距離であり、また自分が射線上にいてはアリスが発砲できぬと慮ったからでもある。
ヘンリーは街道沿いの道なき道を着実な足取りで進んでいく。合間合間に振り返り、後続がいるかの確認も怠らない。やはり先導役兼指揮官はヘンリーが適任であったとジャックが思った時である。
ヘンリーが前を向いたまま、背後に盾を向けた。取り決めこそしていないが『待て』の合図である。ジャックとアリスは同時に大木の影に身を潜める。
「アリス嬢、ジャック。見ろよ、鬼が三体だ。準備は良いか?」
ジャックが顔を覗かせれば空けた空間に鬼が三体いた。一体は腕を枕にして鼾をかいており、残った二体は、肉塊に向かって狂ったように何度も棍棒を叩きつけていた。ジャックが目を凝らせば、その肉塊には腕があり脚があり、首許には識別札があった。顔だったものの名残もあった。かつて人間だったものの成れの果てであった。ジャックは謂われなき悔しさと、口の中に酸っぱいものが広がるのを感じて目を背ける。
「アリス嬢は寝ている奴を頼む。ジャック、俺達はあの二体をやるぞ。いいな?」
「分かりました」
「ジャック。飛び出す時機はアリス嬢が仕留めたと判断してからだ。早まるなよ。ジャック、どうした?」
「……いや、何でもない。作戦了解した」
返事をしながら、ジャックはおかしいのは己の方であると自覚する。
この世界において死は日常茶飯事であり、平然としていなければ冒険者など務まらない。
ジャックが決意した時にはアリスは発砲していた。一発目が顎に命中して、続く二発目三発目が頭部を貫き、鬼は起き上がることなく死んでいった。
「命中確認。次弾装填します」
アリスは報告し、冷静に拳銃に弾を込める。その姿にジャックは頼もしさすら感じた。
「行くぞ、ジャック!」
「ああ、任せろ」
木影から飛び出したジャックは雄叫びとともに跳躍し、全身全霊を込めて鬼に斧槍を振り下ろす。刃は命中し、頭蓋骨を確かに割った感触がしたが――それだけであった。鬼は倒れなかった。最後の力を振り絞り、棍棒を薙ごうとするが。
――遅い。
斧槍を手放したジャックは左腰の直剣を引き抜くと、懐に潜り込んで、心臓があると思しき部位を一突きした。鬼は嘶くこともできずに、苦悶を浮かべながらバタリと崩れ落ちた。
ヘンリーを見れば、まだ戦闘は継続していた。鬼が振るう棍棒の一撃一撃を全て盾でいなし、隙だらけになった部位を浅く切りつける。その繰り返しであった。怒った鬼が掴みかかろうとすれば、その拳すらも盾で叩き潰す。遊んですらいるようであった。事実余裕なのだろう。
ジャックを見て戦闘が終わったことを確認すれば、身を深く屈めて、胆力だけで鬼の胴体を深々と切ってみせる。倒れた鬼の首を貫くトドメも忘れない。
こうして場には鬼三体と冒険者ひとりの骸が残される。
ジャックは原形を留めぬ屍に近付くと、手を合わせてから冒険者の識別札を取り外す。
アリスとヘンリーが討伐証明の部位や素材を剥ぎ取っている間に、ジャックは斧槍をシャベル代わりに用いて穴を掘り、その中に遺体を収めて土を被せる。再度手を合わせ、長い瞬きと大差ない黙祷を捧げる。墓標となるものは何もない。墓と呼ぶのも烏滸がましい土の塊である。
ジャックがこの世界に馴染んでも、京司郎という名を捨てても、決して止められぬ女神への反抗であった。それが分かっているからこそ、アリスは何も言いはしなかった。
「ジャックさん。これ、ジャックさんの分です」
ジャックの仕事が終わったのを見計らってから、アリスはジャックに剥ぎ取った右耳と鬣を差し出す。だがジャックは受け取らない。冒険者の報酬は公平に分配するという不文律があるのは最近知ったことだが、己は所詮居候しかも言語研修中の身の上であり、何より売りに出す時は同行するため、あえて今分配する必要性を見出せなかったこともある。
「ありがとう。でも、君が持っていてくれ」
「……分かりました」
ジャックに退く気がないことを察したアリスは、鞄に素材をしまう。
「それにしても随分丁寧に弔うんだな。それが『そっち』の作法なのか」
ジャックが作った墓未満の土手を見て、感心したようにヘンリーは言った。
「ああ。本当ならばもっと手厚く葬ってやりたいが仕方ない。疫病が広がるのも防げるはずだ。彼か彼女かは分からないが鬼にやられたんだろうか」
「おそらくはそうだろうな。俺が相手をした鬼は手負いだったからな。きっとそいつが頑張ってつけた傷だろうよ。しかし運のないことに相手をした鬼がはぐれじゃなくて群れだったんだろう。これだから単独の冒険者なんてするものじゃねえ。人間、折角言葉が使えるんだ。集団行動が一番だぜ」
そう言いながら懐から煙草を取り出したヘンリーは、銜えたその先端に魔術『発火』で火を点ける。かつてジャックが渡したものではない。こちら側の銘柄であり、何の香料も加えられていない煙草本来の匂いがした。ここで休憩なのだと察したジャックは、辺りを警戒しながらも手頃な岩場に座り込む。アリスもジャックに背を預けるように腰を下ろす。
「普通の冒険者なら何人で行動するんだ」
気になったジャックは聞いてみることにした。
「それは一行の役割によるところが大きいな。まあどんなに多くても四五人だろうよ」
「役割というと」
「俺達の場合で考えてみると、前衛は俺、中衛はお前、後衛はアリス嬢と均衡が取れている。ここに追加を考えるなら前衛に戦士を増やして俺とお前の負担を減らすか、後衛に斥候か魔法使いでも参加させるのも良いだろうよ。だがそんな必要はねえな」
断言したヘンリーに、なぜだ、とジャックが聞けば。
「過剰戦力だからだよ。こんな狭い森なんて蛇か狼、鬼しか出ない。今の戦いで分かっただろ。俺達だけで十分やっていけるんだ。それなのに四人五人でゾロゾロと歩けば、今度は獲物の方が俺達の気配を察して逃げ出しちまう」
とヘンリーは煙を吐き出しながら答えた。
「そもそも、私達と組んでくれる冒険者なんていませんよ。ヘンリーさんのいる今日は例外中の例外です」
どこか投げ遣りにアリスは言った。その諦念混じりの声で、ジャックは自分がただの稀人でしかないことを、頼りにしているアリスに至っては奴隷であることを思い出す。己とアリスは、この広い世界で二人ぼっちなのかと妙な寂しさを覚えた。その寂しさを紛らわせるためにジャックも煙草を銜えるが、すぐ後ろにいるアリスが嫌煙家であることを思い出し、結局火を点けることができなかった。