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6.ジャックの乱闘

 翌朝。

 仕留めた狼と大蛇を麻袋に詰め込んだアリスと京司郎は朝一番に冒険者ギルドに向かった。(れん)()造りの館は大きく、女神像の広場正面に位置しているため馬車に乗る必要はなかった。


 アリスに続いて木製の扉を押し開け入館すれば、その混雑ぶりに京司郎は圧倒されてしまう。

 多くの者が掲示された羊皮紙を眺めていたかと思えば、その中の一人がひったくるように紙を剥ぎ取り、我先にと受付と思わしき窓口へ列を作る。

 窓口にいるのは職員らしき制服に身を包んだ女性であり、次々に押し寄せるならず者達を、笑顔を崩さずに、丁寧な所作でひとりひとり(さば)いていく。

 点在する円卓には、仲間らしき者達が座り熱心な打ち合わせをしていた。面子(メンバー)が武装していることから察するに旅の前の作戦会議なのかもしれない。

 しかしどれだけ大勢がいても、アリスのような首輪をつけている者はひとりとしていない。


 京司郎が立ち止まったことに気付いたアリスは、京司郎の手を引き、唯一空いている窓口へと向かった。応対するのはアリスと同年代の娘であり、緊張した面持ちで京司郎に何かを告げるが、京司郎には言葉の意味が分からない。代わりにアリスが答えれば、娘は察したように頷き、アリスの前に一枚の紙を差し出した。登録するにあたっての記入用紙であるらしい。


「アリス。ちょっと待ってくれ」


 京司郎は()ペンを握ったアリスに待ったをかける。


「どうかしましたか?」

「そこに私の名前を書くのだろう。だが、京司郎という名前はなしにしてもらいたいのだ」

「え? なぜですか」

「だって呼びにくいだろう。それに、もう京司郎という名前に未練などないからな」


 両親は他界し、婚約者とも死別して、親友と呼べる者もいない。ましてこの世界で生きていくと決めた京司郎にとって、己の名前に執着する理由は何ひとつとしてなくなってしまった。


「未練、ですか」

「新しい名前にしたいということだよ。次に名乗る名前は、君が発音できる名前がいいな」


 アリスが受付に尋ねれば、すぐに答えが返ってくる。


「構わないそうですが一度決めた名前は変更できません。あの、本当にいいんですか?」

「別にいいよ。それで名前は――そうだな。ジャックでどうだろうか」

「ジャック、ですか」

「ああ良いね。発音できるようだな。それにしよう。私は今日からジャックだ」


 困惑するアリスを余所に、京司郎もといジャックは頷く。日本人としての己が死んだと覚った時から、名乗るのならばこうしようと考えていた。

 特筆すべき理由などない。しいて言うなれば、どこにでもいるような名前が、少しばかり上背が高いだけの平凡な自分には似合っていると思った程度である。いざ名乗ってみると妙にしっくりきて、それでいて新鮮な気分になるのだから不思議なものだとジャックは思う。


 記入を終えたアリスが用紙を受付嬢に渡せば、受付嬢は背後にある高い本棚の間をすり抜けるようにして、奥にある工房へ用紙を運ぶ。そしてアリスに銅製の識別札を手渡す。


「ジャックさん。これは仮の識別札です。本当の識別札は完成まで時間が掛かるそうですから、その間に素材を売りに行きましょう」


 アリスは狼一頭を詰め込んだ麻袋を担ぎ直し、隣のカウンターに向かっていく。ジャックも受付嬢に一礼した後それに続く。


 隣の買い取り窓口らしき場所には愛想の悪い男が座っていた。アリスを見るなり追い払う仕草をするが、めげずにアリスがジャックを指差して抗議すれば、男はバツの悪そうな顔をする。

 男の接客に不快を覚えたジャックは、認識票を示した後、狼二頭を無理矢理押し込んだ麻袋をカウンターに叩きつける。その拍子に、袋の入口から頭を両断された狼が飛び出し、驚いた男は悲鳴を上げる。


 アリスが再度交渉すれば、狼三頭、大蛇二頭、薬草一束は手押し車に乗せられて隣接する別の部署へ運ばれていった。カウンターの上には、銀貨の山と銅貨五枚が乗せられていた。銀貨は枚数にして三十枚程度。銅貨はきっと薬草採取の分であろう。

 この世界の物価を知らぬ以上言い切ることはできないが、アリスの弾丸代が銀貨三枚、己の武器購入費が銀貨二枚と煙草一箱であることを思えば、決して悪くない金額であろうとジャックは考える。アリスも納得したらしく、頷いてからいつもの鞄に銀貨と銅貨をしまい込む。


 それからは受付の隣にある食堂に行き、少し遅めの朝食を摂ることになった。

 窓口と同じように食堂も人でごった返して、カウンター席もテーブル席も満席に近い状態であった。それでも空いている席を見付けたジャックは、アリスとともに着席する。


「キヨシロウさん――間違えました。ジャックさん。何にしますか?」


 上機嫌なアリスは献立表を片手に問い掛ける。


「私にはそれが読めないからな。君と同じもので良いよ」

「分かりました。『野菜と鶏肉のソテー』にしますね。ジャックさん、店員を呼んでくれませんか。私だと手を挙げても無視されてしまいます」

「ああ、分かった」


 ジャックが手を挙げれば、酔っ払いの相手をしていた女給(ウェイトレス)はこれ幸いとばかりにジャックの許へとやって来る。酔いどれ達はジャックに向けて罵声とも悪態ともつかぬ言葉を浴びせるがジャックは気付かない。ジャックの意識は女給の容姿にあった。栗毛色をした頭部からは(さじ)のような耳が飛び出し、両頬には白く細長い髭が伸びている。何より瞳孔が縦に細く、虹彩は()(がね)(いろ)をしていた。猫と人間を足して二で割ったような女が給仕をしていたのだ。


「ジャックさん? どうしたんですか」


 注文を終えたアリスが尋ねる。女給の背中には揺れ動く縞模様の尻尾まで生えていた。


「いや、ああいった人種を見るのは初めてでな。つい驚いてしまっただけだよ」

「あれは獣人ですね。日本にはいないのですか?」

「いないよ。いたら大変なことになる」


 人と獣が交配してああなったのか、はたまたネコ科の動物が進化した結果、獣人という種族になったのかは定かではないが、ジャックにはあの獣人の女給がひどく怖ろしく思えた。冒涜的でさえあると思えた。そう思う自己を発見して、己はまだこの世界に馴染んでいないのだと自覚する。偏見はよくないことであるということも。


 ジャックが自分を戒めていれば、料理はすぐにやって来た。

 平皿には炒められた色とりどりの野菜が盛り付けられ、固そうなパンと色の薄いスープがついている。木のカップには葡萄酒(ワイン)らしき赤紫の液体が注がれている。そこでジャックは、産業革命時代の労働者が、生水の危険性ゆえに麦酒(ビール)や紅茶で喉を潤していたことを思い出す。


 ジャックが手を合わせれば、アリスも食前の祈りを捧げる。祈り終わるのを待つ間に、ジャックは葡萄酒を少量口に含む。度数にして一〇パーセントにも満たない。渋味は少なく、酸味もない軽快な風味(ボディ)であった。酒にも食にも頓着のないジャックには、微かな甘さが葡萄本来によるものなのか、鉛など人体に有毒なもの由来であるかまでは分からなかった。


 アリスの祈りが終わればジャックは食事を開始する。二叉に分かれたフォークのような食器は日頃箸を使っていたジャックの手に馴染まなかったが、それでもどうにかして食い進める。

 食用油が絡んだソテーも、塩味が効いたスープも、小麦の味がするパンも、今のジャックには特別なもののように感じられた。


 対面のアリスを見れば、いつもと同じように姿勢良く食べている。

 首に巻かれた無骨な首輪さえなければ、誰もアリスを奴隷だと思わないだろう。その容姿も相まって、教育の行き届いた良家の姫君にすら見える。


 ――いや、事実そうなのかもしれない。


 ジャックは、アリスが奴隷商人に捕まり競売(オークション)にかけられたことを――その際、アリスが父と呼んで慕う者に助けられたことを――聞いたが、それ以前、つまるところ奴隷になる前はどこでどんなふうに暮らしていたのかは聞いたことがなかった。


 己はアリスによって救われただけの居候であり、それを聞くほどの関係でもなかったし、何より現在を生きることを意識するあまり聞こうとすら思わなかった。


 ――現在なら聞けるだろうか。


 アリスより一足先に完食したジャックは、葡萄酒をチビチビと傾けながら考える。

 有害物質が含まれているかどうかについては、一杯程度なら大丈夫だろうと問題を先送りすることにした。酒が好きでも嫌いでもないジャックは、この程度で酔いはしない。


「ジャックさん。今日は――いいえ、今日もありがとうございます」


 どう口を利いたものかジャックが頭を悩ませていれば、アリスが言った。


「何の話だい」

「今日一緒に来てくれて、ですよ。昨日、鬼を討伐したこともそうです。ジャックさんがいなければ、いつものように安く買われていました。あんなに高くなるなんて本当に嬉しいです」


 アリスは肩に掛けた鞄を二三度叩いた。誇らしそうな笑顔であった。


「そうだな。私も役に立てたのなら嬉しいよ。貯まった金は何に使うつもりだい」

「そうですね。新しいお洋服も欲しいですし、傷薬も買わなければなりません。食料も買いたいです。でも一番はお家の修理ですね」

「家の修理」

「そうです。雨漏りがするんです。竈だってひび割れています。隙間風で夜は寒いんです」

「それくらいなら私が見るよ。状態によっては車に乗せた道具で直せるかもしれない」

「本当ですか? ジャックさんの車には何でも入っているんですね」


 感心したようにアリスは言った。


「ジャックさんは何か欲しいものはありますか?」

「私までいいのかい」

「当然ですよ。鬼をやっつけた分も、狼や蛇の分も、公平に分けましょう」

「そうだな。それならば」


 私も服が欲しいな狼の血で汚れてしまったからな、と言おうとした時。


 ジャックはテーブルに近付く男達に気付く。

 人数は三人。全員が()()た笑みを浮かべている。揉め事の予感がした。

 案の定、ひとりがジャックの目の前に銅貨数枚を叩きつけるようにして置くと、アリスを指差して何事かを喚く。()(れつ)が怪しいこと、赤ら顔であることから明らかに酩酊している。


「ジャックさん。この人達は、その銅貨で私を使いたいそうです」


 怯えたようにアリスは言った。その顔は可哀想になるくらい青褪めて、先刻の笑顔は消え失せていた。それがジャックには許せなかった。酷い侮辱を受けていると感じた。


「使うとは」


 ジャックは反射的に聞き返す。

 無論、身体を売る女がいれば、それを買う男がいるという事実が分からぬほどジャックは子供ではなかった。だが実際に目の前で人身売買が行われることに――たったの銅貨四五枚と、アリスの価値があまりにもかけ離れて見えて――理解が追いつかなかった。


 ――馬鹿か。イスカリオテのユダだって銀貨三〇枚でキリストを売ったんだぞ。


 これが奴隷の価値なのか。

 これが奴隷の扱いなのか。

 たったの銅貨数枚だ。


 気が付けばジャックは立ち上がっていた。

 勢いよく立ったがゆえ、椅子が倒れるガタンという音がやけに響いて聞こえた。すわ何事かと周囲が騒ぎ立てるが、ジャックにはどうでも良かった。


(きたな)い手でアリスに触れるなッ!」


 男の一人がアリスに伸ばした手が止まった。言語が通じずとも拒絶の意図は伝わったらしい。

 手を引っ込めた男は追加の銀貨一枚を投げるようにして置くが、それがかえってジャックの怒りを助長させる。


「金額の多寡じゃない。引き取ってくれ」


 強烈な怒りを覚えながらも、ジャックは男に銅貨と銀貨を突き返して首を横に振る。だが男は退かなかった。酒臭い息を吐きながら喚き立てると、財布の中身をテーブルにブチ撒ける。

 銅貨の一枚が跳ねて葡萄酒の中にポチャリと落ちた。

 男は、身を竦ませていたアリスの髪を掴んで無理矢理立たせようとする。

 あまりの狼藉振りだが、それを制止しようとする者はいなかった。むしろ酒の(さかな)と言わんばかりに囃し立てる者が半数、面倒事に巻き込まれたくないとばかりに無視を決め込む者がもう半数であった。


「アリス!」


 ジャックはすぐさま乱暴を止めようとするが、背後から男の仲間に羽交い締めにされて一瞬身動きが取れなくなる。そうしている間にもアリスは連れて行かれてしまう。


 ――仕方ない。問題は起こしたくなかったが、アリスの方が大切だ。


 ジャックは後頭部で真後ろに立つ男の鼻頭を叩くと、鳩尾(みぞおち)に肘鉄砲を放つ。容赦のない全力の一撃である。男が身体を『く』の字に曲げて悶絶しているところへ思いきり顎を蹴り上げれば、相手は吹き飛んで動かなくなる。脳震盪を起こしたらしい。


 視界の隅に、獣人の女給がどこかへ走り去るのが映った。


 ――まずはひとり。アリスはどこだ。


 食堂を見回した瞬間、側頭部に衝撃が走りジャックは片膝をついてしまう。先刻自分が倒した椅子で殴られたのだと分かった時には、もう一人が椅子を振り被っていた。今度は後頭部を殴られるが、それでもジャックは倒れない。倒れてはならない。気合いを込めて立ち上がると、男の襟首を掴み、()(りょう)に向けて頭突きを叩き込む。当然一回では止めてやらない。二回三回四回五回と、相手の戦意が喪失するまで続ける。都合八回目で男は崩れ落ちた。

 額から流れる血が目に入った見にくい視界でアリスを探せば食堂の出入り口にいた。

 男はアリスの髪を掴んだまま立ち尽くしていた。

 たかが奴隷の貸与で仲間二人が手酷くやられるとは思わなかったのかもしれない。一方アリスは、黒曜石のナイフで自分の髪を切り、拘束から逃れようとしている。


 ――たかが奴隷だと。奴隷は人間だ。人間の尊厳を、命を何だと思ってやがる。


 自分の想像で余計に(いきどお)ったジャックは、足許に転がる椅子を拾い上げると両手で振り被る。

 幸いなことに、男とは一直線の空間があった。

 ジャックが何をするのか覚った観衆達は頭を抱えて蹲る。


 ――神よ、女神よ。本当にいるのならば、この椅子外させてくれるなよ。


「アリス、動くな!」


 短く叫んだジャックは、全身のバネを使って椅子を放り投げる。放物線を描いた椅子は吸い込まれるように男の顔面に的中し、男はたったの一撃で昏倒してしまった。だがジャックの怒りは収まらない。

 男へ向かってスタスタと歩き、その胸倉を掴むと何度も殴りつける。拳が鼻の軟骨を潰す感触がした。反対に手の甲が前歯に当たり、鋭い痛みが走った。


 ――これくらいにしてやるか。良い見せしめになってくれたことだろう。


 最後にもう一発だけ小突いたら終わりにしようとジャックが拳を振り上げた時、その腕を誰かに掴まれた。見れば、息を切らした女給と顔馴染みの門衛が立っていた。

 門衛はジャックを見下ろして何事かを言った。意味は理解できなかったが、(かん)()の言葉であることを察し得たジャックは男を放して立ち上がる。辛うじて意識のあった男は門衛に向かって訴えかけるがジャックにとってはどうでもいいことであった。


「アリス。助けるのが遅くなって悪かった。大丈夫か」

「大丈夫です。でも」

「でも、どうした」

「やり過ぎですよ。私は奴隷です。奴隷のためにここまでする人なんていませんよ」

「いるじゃないか、ここに」

「そういう意味ではありません。たかが私のために怪我なんてしないでください」

「……君までそういうことを言うんだな」

「え?」

「いや、何でもない」


 誰が何と言おうとも、奴隷は尊厳ある人間なのだと喉まで出掛かった反論を呑み込む。

 ここでアリスを説き伏せたところで現状が変わることなどなく、また何の慰めにもならぬと分かっていたからである。


 門衛が倒れた二人の男に近付いて、ガラス瓶に入った透明な液体を飲ませる。たちまち男達の傷は癒え、ガバリと勢いよく起き上がる。大方あれが傷薬であり、気付け薬にもなるのだろうとジャックは現実逃避じみたことを考える。


「アリス。やはり私のしたことは問題になるのだろうか」

「どうでしょうか。でも、そうならないようにあの人が取りなしてくれています」

「そうか。それならば(わい)()が必要だな。君はそのうちに食事の支払いを頼む」

「賄賂?」


 首を傾げるアリスを無視して、煙草を銜えたジャックは門衛と二人の男に近寄る。男達に一本ずつ、門衛には箱ごと差し出し、順番にライターで火を点けてやる。最初は訝しがっていた男達も甘い煙の芳香に気を良くしたのか美味そうに喫う。まだ半分以上残っていた箱を渡された門衛に至ってはあくどい笑みすら浮かべていた。

 そこに支払いを済ませたアリスがやって来て、身振り手振りを使って門衛に話し掛ける。

 事の経緯を申し述べているのだろうとジャックは分かった気になる。




 結局、アリスとジャックが解放されたのは昼前になってからであった。

 アリス(いわ)く、奴隷の貸与を断ったにも関わらず連れて行こうとした男が悪いということで、正義はジャックにあったが、相手が気絶するまで打ちのめしたのは明らかに過剰(オーバー)だということで、男達もジャックも店側に迷惑料として銀貨五枚を支払うことで決着に相成った。

 完成した認識票を首から下げながら、牢屋にブチ込まれないだけましだとジャックは思うことにする。ところが、ジャックに事情を伝えるアリスは終始俯いたままであった。

 一体どうしたのだ、とジャックが聞けば、すみませんでした、とアリスは謝罪をする。


「どうして君が謝るんだ。君は何も悪いことをしていない」

「だって、ジャックさんを怪我させてしまったからです。私なんていなければ良かったです」

「そんな悲しいことを言わないでくれ。私の怪我なんていいんだよ。元より身体は丈夫な方だ。何より話し合いで解決できた問題を殴り合いの喧嘩にまでしてしまった私の責任だよ」


 そう言いながらも、ジャックはまた同じ場面に出くわしたら(ちゅう)(ちょ)なく暴力に頼るだろうと考える。穏便に(さか)しく立ち回る日本人らしさは、この世界の流儀には馴染まないだろうと(はだ)で感じ取ったからである。事実あの場では悠長になどしていられなかった。だからあれで良いのだとジャックはひとり納得する。


「アリス。私は決めたよ」


 噴水の中央に佇む女神像を見詰めながらジャックは言う。

 女神は左手に三つ叉の槍を、右手には天秤を掲げている。

 ギリシャ神話に出てくる女神テミス、あるいはローマ神話に出てくる女神ユースティティアに似ているなとジャックは思う。たとえ世界を(また)いだところで同じ人間、宗教的発想は似通うものなのだろうかとも。


 噴水の周りには子供達が駆け回っている。

 日傘を差しながら少し離れたところで見守っているのが母親なのだろう。


「決めた? 何をですか」

「私は、君のような奴隷がもっと暮らしやすい世界を目指そうと思う。あまりにも漠然とした願いだが、そして何から始めたら良いのか分からないが、それでも今の世が間違っているのは、日本から来た私には余計に分かる。あの女神に誓っても良い。私を救ってくれた君に――」


 尽くそうじゃないか――とは続かなかった。アリスはジャックの手を両手で握り、ブンブンと(かぶり)を振る。その様子に鬼気迫るものを感じ、どうした、とジャックが尋ねれば。


「駄目です。女神様の前で誓ってはいけません」


 とアリスは必死で訴える。


「どうしてなんだ」

「言ったことは本当に叶えなくてはならないからです。そもそも、奴隷という身分を作ったのは女神様なんです。奴隷に神様なんて必要ありません。知っていましたか。奴隷は教会に入ることすら許されません。神にだって救えない者もいるのです」


 アリスは言うが、ジャックにはその発言が正しく汲み取れなかった。

 奴隷という被差別民という存在が『要る』――社会構造的に必要とされるのか――それとも単純に『居る』――存在するだけなのか――判別がつかなかった。


 いずれにせよ、若者らしいジャックの正義感は女神を敵だと見なした。ジャックが射殺さんばかりに女神像を睨み付けるも、女神は古式(アルカイック・微笑スマイル)を崩さない。


「奴隷に神などいらないというが、それならどうして君は食事の前に祈ったりするんだ」

「それは――習慣です。仕方がないじゃないですか」

「習慣。君は祈ることが普通のところにいたのかい」


 質問してから、ジャックは己の発言が不用意であったと覚る。

 アリスを見れば、黙り込んで視線を逸らしてしまっている。握られた手に力が篭もる。


「悪かった。君の過去を詮索――暴きたいわけじゃないんだ。奴隷にだって何だって、信仰も宗教も自由であるべきだと言いたかったんだ」


 不快な思いをさせて済まなかった、とジャックが詫びれば、別に気にしていませんからいいですよ、と言ってアリスはジャックの手を放す。

 その横顔のあまりの寂しさに、今度はジャックがアリスの手を握る。特別何かを意識したわけではない。気が付けば手が勝手に動いていた。驚いたのはアリスの方だった。


「ジャックさん? どうしたんですか」

「女神の前だ。もう何も言いはしないが、私が君に感謝していることだけは事実だ。それだけは忘れないでくれ」


 ジャックはありのままの思いを述べる。当然、そこに色艶めいた感情は存在しない。純粋かつ純朴な誠意ある謝意であった。


「――はい。ありがとうございます。ジャックさんは優しいですね」

「私は優しくも何ともないよ。これが普通だよ」

「普通――」


 アリスは何か言いたげな顔をする。その言いたいことが分かったからこそ、ジャックはアリスの手を放し、さあ行こうか、とアリスの歩行を促す。

 服屋に行くというアリスを追いながら、ジャックは一度だけ噴水の女神像を返り見る。

 女神は相変わらず口許に笑みを張り付けていたが、光の加減か立ち位置のせいか、寒心を抱かせるように見えてならなかった。


 ――女神よ、覚えておくがいい。私をこの世界に招いたことを後悔させてやる。


 ジャックは(どう)(もう)な笑みを一瞬だけ浮かべると、ふらつく足取りでアリスを再び追う。

 鬼に潰された右足は未だ完治していない。

 椅子で殴打された後頭部に手を遣れば、掌に血が(にじ)んで、(こぶ)になっていた。

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