4.煙草と武器屋
京司郎を覚醒させたのは朝の穏やかな陽の光であった。寝過ごしたかと反射的に腕時計を見るも、短針は十一時、長針は三十分を示すだけで何の役にも立たなかった。そも、この世界の一日が二十四時間周期であるとも限らないのだと思い、時刻の確認は諦めた。
電動シェーバーで髭を剃り、ウェットティッシュで顔を拭う。車を降りて背筋を伸ばせば、全身からバキボキと音が鳴った。鬼に殴打された箇所が熱く疼くが、それでも身体を動かす分には問題なさそうであった。
京司郎が後部ドアを開けて、今日の仕事は何だろうか、何を携帯すべきかと、工具箱と安全帯つきの腰袋を検めていれば、アリス邸の扉が開いた。出てきたのは当然アリスである。
「おはよう、アリス」
京司郎が声を掛ければ、キヨシロウさんおはようございます、とアリスも応じる。やはりアリスにとって京司郎の名前は発音しにくいらしく、京司郎は自身の名前を恨めしく思う。
元より、京司郎にとっては何の思い入れもない名前である。名付けてくれた両親は他界しており、懇意にしていた女も死んでしまった。異世界に来てまで自分の名前に固執する理由は見付からなかった。いっそのこと改名でもしてしまおうかと思った時である。
「キヨシロウさん。これは何ですか?」
アリスがやって来て車内を覗き込む。
「工具だよ。私が仕事で使っていたものだ。もしかしたら君の仕事の役に立つかもしれない」
「私、奴隷です。仕事なんてありません」
「ああ、済まない。そういう話だったな。ところで今日は何をするんだ」
「まずは鍛冶屋に行って、私が使う銃弾と、京司郎さんが使う武器を購入しようと思います。それから、森に行って薪拾いと狩りをしたいです」
「私の武器?」
「はい。剣で槍でも、何でもいいです。それがあれば鬼にも勝てるでしょう」
「それは嬉しいが私は一文無しだぞ。大丈夫なのか」
「昨日いただいたお菓子が美味しかったからそのお礼です。それに京司郎さんは奴隷じゃないからきっと適正な価格で買えるはずです」
そう言ってアリスは苦笑いを浮かべた。今までの苦労が垣間見える表情であった。
「それよりも朝ご飯にしましょう。入ってください」
「ああ、分かった」
京司郎は車のドアを閉め、念のため施錠をしてからアリスの家に入る。昨日と同じ献立であった。昨日京司郎が残したクッキーとコーヒーは分け合って食べた。日本の食事に慣れ切った京司郎にとっては粗食でしかなかったが、それでも誰かと向き合って食べる食事は美味かった。久しく覚えのない感動であった。
食後、一休憩を挟んだ後、アリスと京司郎は連れ立ってネイロの村を歩く。
鮮やかな瓦を葺いた木と石膏で作られた家屋も、隙間なく敷き詰められた石畳も、噴水の中央に佇む白磁の女神像も、京司郎にとっては異国情緒溢れる光景であった。
ガタゴトと音を立てながら進む箱形の乗合馬車には、労働者風の格好をした男達が乗せられている。詰まらなさそうな顔でパンを囓っている者もいれば、酒瓶片手に隣同士肩を組んで、陽気に歌を歌っている者までいる。少し離れた井戸の周りでは、やはり御婦人方が集い、野菜洗いや洗濯のついでにすっかり話し込んでいる。
京司郎はもっと村内を観察しながら歩きたかったが、先導するアリスの歩調が早いため仕方なしに続く。最早、早歩きといってもいい速度であったが、すぐその理由を察する。
すれ違う者達、皆一様にアリスを見て笑うのだ。慈しみの笑顔ではない。嗤笑や嘲笑といった相手を見下す振る舞いであった。酷い者になれば指を差して笑い、アリスの足許に銅貨数枚を投げて何かを言い放つ。流石にこれは看過できぬと。言葉は通じずとも文句の一つでも言ってやらねば気が収まらぬと京司郎が足を止めれば、振り返ったアリスは京司郎の手を握り締めてグングンと進んでいく。
一瞬だけ見えたその横顔は、怒りでも悔しさでもなく、全てを諦めた悲しげな笑みであり、京司郎は自身の不甲斐なさを、アリスに対して何一つとして為し得ることのできぬ己の非力を痛感した。
目的の鍛冶屋は女神像の広場を一本裏に逸れたところにあった。扉の上部には、剣と盾が交差する掛毛氈が飾られている。
「良いですか、キヨシロウさん」
振り向いたアリスが言う。握られた手はいつの間にか離れていた。
「私は奴隷なんです。人間ではありません。犬や猫と同じようなものだと思ってください。だから何があっても怒るのは駄目ですよ」
「しかしいくら何でも礼節というものがあるだろう。この世界に人権というものはないのか」
「人権? 何ですか、それは」
アリスは真面目な顔で問うた。京司郎は答えようとして――止めた。何を言ったところで、この世界の人間はおろか、アリスにすら届かぬだろうことを覚ったからである。
無論、答えようはいくらでもあった。平易な言い方を選べば、人間の生存に欠くことのできない権利と自由であり、数々の資本主義革命を経て確立されたものである。歴史を辿れば、一六八九年には英国革命で権利章典が、一七七六年には米国革命で独立宣言が、一七八九年には仏国革命で人権宣言が採択された。成文化されたものは英国のマグナ・カルタまで遡る。
だがここは地球ではない。基本的人権の尊重という概念があるかも分からぬ――否、奴隷制があるのだから存在しない――世界である。
京司郎は黙って武器屋に入ることにした。
最初に感じたのは鉄と油の臭いであった。店内を見渡せば、直剣や大剣を始め、槍や斧槍、斧や棍棒、弓や弩などが犇めきあうように陳列されている。
アリスは、退屈そうに煙管を銜えていた、いかにも店主らしき風貌の翁に話し掛ける。
肩に掛けた鞄から銀貨三枚を取り出してカウンターに乗せれば、受け取った店主は握り拳大の革袋を代わりに乗せる。ドシリとした音がしたことから察するに、革袋には弾丸がギッシリ詰まっているようであった。
革袋を鞄に収めたアリスは、今度は京司郎を指差して交渉を始める。
店主は面倒臭そうに立ち上がると、京司郎に歩み寄り、足の爪先から頭の天辺までを眺めて何かを言った。言葉が分からぬ京司郎がアリスに救いを求めれば。
「キヨシロウさん。今まで、武器を握ったことはありますか?」
とアリスが通訳してくれる。
学生時代に剣道および居合道をしていた京司郎は、果たしてそれを勘定に入れても良いものかと答えるのを躊躇っていれば、焦れた店主が京司郎の手を取ってまじまじと見遣る。肉体労働者の掌を見て納得したように頷いた。そして鼻先を動かしながらまた何かを言った。
「キヨシロウさん。上等な煙草を持っていますよね。甘い匂いで分かるようです。店主さんが一本欲しいそうです」
「ああ、それくらいなら構わない」
京司郎が胸ポケットに収めた箱から一本を渡せば、店主は掻っ攫うようにして受け取り、早速銜える。煙草の先端に人差し指を近付けて――指先が発火した。煙草に火が灯る。
オイルライターを近付けようとした京司郎は、人体が発火するというあまりの現象に言葉を喪ってしまう。だが、店主は無論、通訳のアリスにも驚いた素振りがないため、その驚愕を呑み込まざるを得なかった。
店主は美味そうに煙を吐き出すと、ニカリと憎たらしい笑みを浮かべた後、斧槍の一本を選別して京司郎に手渡した。受け取ればズシリとした重量が伝わってくる。赤く塗られた柄は木製、先端は鉄製の、何の飾り気もない無骨な得物であった。
店主は戸惑う京司郎を余所に、また何かを言った。
「煙草が美味しかったから割引してくれるそうです」
「そうなのか。それは有り難い。それならば」
京司郎はポケットから煙草の箱を取り出す。中には五本程度しか残っていない。その箱を店主に握らせれば、店主は一瞬呆れた顔を見せた後、豪快に笑って京司郎の背中をバンバンと叩く。その顔のまま、店の奥まで下がると、鞘に収められた直剣を持ってきて差し出した。物々交換の結果らしい。
武器屋を出た京司郎とアリスは互いの顔を見遣る。
「凄いですキヨシロウさん。銀貨二枚で斧槍も直剣も買えるなんて」
とても助かりました、と興奮したようにアリスは言った。
「それは良かった。しかし私には使いこなせるかが不安だよ。とても重いし、それなりの技量と筋力が必要になるだろう。当面は剣に頼りたいところだな」
刃と刺突部に布が巻かれた斧槍を握り直す。今の京司郎では満足に振れそうになかった。
「そうですか。一対一でも一対多でもできる万能な武器だと思うのですが」
「それはそうとしてだ。もしかしてこの世界では、煙草は貴重品なのかい」
「はい。重い税がかけられておりますから平民では質の悪いものしか喫うことができません。香りのついた煙草なんて貴族くらいしか喫わないと思います。知らなかったんですか?」
「ああ、初耳だよ」
京司郎が頷けば、アリスは何とも言えぬ顔をする。
京司郎は、もしもこの世界の煙草が国の専売であるならば、それ以外を持ち込んだ己に密造あるいは密輸の疑いが掛けられるのではないかと危惧する。だとすれば店主に箱ごと渡したのは早まったのかもしれないとも思うが、自身は異界からの来訪者であり、異界から持ち込んだことは事実である。また過ぎたことを考えても仕方ないと開き直ることにした。
「アリス。もう一件良いだろうか」
「はい。何ですか?」
「店主殿が煙草の火を点けるのに使ったあれは一体何なんだ」
「あれは魔法ですよ」
「魔法」
京司郎は驚きはしたが、よく考えれば鬼が出てくるような世界である。今更であった。
「この世界には便利なものがあるのだな。私にも使えないだろうか」
「それは難しいと思います。稀人は魔力を持ちません。私の父さんも使うことができませんでした」
「それならば君はどうなんだ」
「私も同じです。この首輪は魔力を封じる効果があるんです。これさえなければ、火を熾すことはもちろん、癒やしの奇跡でキヨシロウさんの足を治してあげられるのですが」
アリスは口惜しそうに述べた。過去に囚われた暗い眼差しが印象的であり、アリスには似合わないな――と京司郎は思った。