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3.隷属の首輪

 京司郎がアリスの家の前に駐車した時には陽も随分と傾いていた。

 家は村の外れにあるらしく、余計な注目を浴びずに済んだことに京司郎は安堵する。そのアリスは車窓の風景がいたく気に入ったようで、車に初めて乗った子供のように――事実初めてなのだろうが――キョロキョロと近辺を見回している。


「アリスさん。着いたよ。降りようか」

「あ、はい。送ってくれてありがとうございます。森に行って、その日のうちに帰ってくることができるとは思いませんでした」

「いや、礼を言うのは私の方だ。おかげで愛車を見付けることができた」


 京司郎が降車すれば、アリスも(なら)って車から出る。


「アリスさん。二つほど頼みたいことがあるのだが、良いだろうか」

「さんはいりません。何でしょうか?」

「私と私の車を、しばらくの間、ここに置いてもらいたいというのが一つ目だ。二つ目は、私にこちら側の言語を教えてくれないか。対価は労働だ。できることがあるならば何でもする」

「いいですよ。私は最初からそのつもりでした」


 アリスは考える間もなく頷いた。それが京司郎には意外であった。


「聞いておいて何だが、そんな簡単に頷いていいのか。得体の知れぬ男だぞ私は」

「そんなことありませんよ。キヨシロウさんは、私の父さんと同じ稀人です。怪しい人なんかじゃありません。それに日本から来た人は皆礼儀正しいと聞いております」


 アリスの真っ直ぐな瞳に射貫かれ、京司郎は頷くことしかできなかった。


 夕陽に照らされるアリスの金髪がやけに眩しく見えた。初めてアリスを見た際に抱いた、まるで天使のようだという感想もあながち間違いではなかったのだと京司郎は密かに思う。

 気が緩んだせいか、京司郎の腹の虫が鳴った。そこで京司郎は、自身が酷く空腹であることに、もっと言えば昨日の夜から傷薬を除いて何も口にしていないことを思い出す。

 腹部を擦る京司郎を見てアリスはクスリと笑った。


「これから夕食を作りますから、お部屋で待っていてください」

「何から何まで申し訳ない」

「気にしないでください。困った時はお互い様ですから」


 そう言うなりアリスは自分の家に戻っていく。

 京司郎は、与えられるだけではよろしくないという気分に駆られ、格納した後部座席の上に積み上げられた非常食のひとつに手を伸ばす。日持ちするクッキーと箱で買った微糖の缶コーヒーである。それぞれ二人分を手に取ると、自分も家に入っていく。


 土間では、アリスが火打ち石を用いて火を(おこ)そうとしていた。

 京司郎がオイルライターで代わりに火を(とも)してやれば、アリスは驚いた顔をした。


「アリスさん。何か手伝えることはあるかい」


 三和土(たたき)の縁に腰掛けた京司郎が尋ねれば、アリスはまたも驚いたように京司郎の顔をまじまじと見遣る。その反応から、何か失言をしてしまったのかと京司郎は思うが、考えても分からなかった。馬鹿正直に、己の発言が非礼であったのかを聞こうとした際。


「さんはいりません。アリスです」


 返ってきたのはいつもの文句であった。心なしか(つっ)(けん)(どん)に聞こえた。

 それからは喋る機会を失って、京司郎は何をするでもなく、ボンヤリとアリスの後ろ姿を見守っていた。


 いつの間にか革の鎧も肩掛け鞄も脱いでいた。右腰の拳銃と首輪が異質であり、それがアリスという娘の魅力を削いでいるように思えてならなかった。服飾(ファッション)感性(センス)(とぼ)しい京司郎にもそれだけは理解できた。

 車に積んでいる仕事道具でどうにか切断してやれないかを考えるも、あまりにも分厚く頑丈な造りをしているため、到底できそうにもなかった。


 京司郎があれこれ勘案している間にも、アリスはテキパキと慣れ切った様子で調理を進めていく。洗い終えたジャガイモに似た根菜の皮を黒曜石のナイフで取り除いたかと思えば、麻縄で吊っていた干し肉のひとつを取り、一口大に刻んだ後、まとめて小鍋で(いた)めていく。そこに小麦粉とミルクを加えて、木製のヘラでグルグルと掻き混ぜる。


 なるほど、今作っているのはシチューらしき献立(メニュー)なのか。この手際の良さならば手伝うだけ邪魔になるだろうと察した京司郎は素直に引き下がり、寝室の横、椅子とテーブルが並べられた食堂らしき場所で待つことにした。


 料理はすぐに来た。木の皿に盛り付けられたシチューに黒いパンがついている。


「キヨシロウさん。それは何ですか?」


 アリスは京司郎が先んじて置いた缶コーヒーとクッキーに首を傾げる。


「貰ってばかりでは悪いと思って菓子を持ってきたんだ。食後のデザートにでもいいだろう」

「お菓子。それって甘い物ですか?」

「ああ、きっと甘いだろうよ」


 京司郎が頷けば、アリスは目を輝かせて皿と食器を配膳する。そして京司郎の対面に座った後、小さな両手を胸の前で組んで、目を(つむ)り暗唱する。耳を澄ませても何を言っているのかは相変わらず分からなかったが、食の恵みに感謝する真摯な(ことば)であることだけは分かった。


 ゆえに京司郎は余計な言葉を挟まず、アリスの祈りが終わるのを待っていた。

 部屋に差し込む斜陽の加減で、その姿は一枚の絵画のようにも思えたが。


 ――やはり首輪が無粋だな。


 太陽光をギラリと反射する鉄の塊が玉に瑕であった。どうしてそんな不格好なもの着用しているのかと京司郎は疑問に思うが、それを問うて良いのかが分からない。朝目覚めた時に聞けば嫌な顔をされたのだから、ここは知らぬ存ぜぬを貫くべきなのだろうが。それが大人の対応というものなのだろうが。好き好んで首輪など誰がつけるのかという話でもあるのだが。


 果たして、そのように距離を保ってばかりで良いのかと思ったのも確かであった。

 京司郎が無自覚のうちに、アリスという娘が持ち得る瞬間的な美しさに惹かれていたのは紛れもない事実であった。


 その時アリスが目を開けた。アリスの無垢な視線と京司郎の不躾な視線が交差する。自身が見詰められていたことに気付いたアリスは困ったように微笑した。


「お待たせしてすみません。どうぞ」

「いただきます」


 京司郎は手を合わせて声に出す。食事を作ってくれたアリスに対しても、食材となってくれた肉や野菜に対しても感謝の念を抱く。こんな真剣に祈ったのはいつぶりだろうかと思う。

 それからは木製の食器を取り、久々の手料理を味わって食べた。いつもスーパーの惣菜や弁当、即席麺で済ませてしまう京司郎にとって、誰かが作った手料理であるだけでも価値のあるもののように思えた。加えて昨晩からまともな食事をしていなかったこともあり、何の変哲もない――むしろ塩味も香辛料も不足して、素材の味ばかりの素人料理でしかないのに――ただの煮込み料理が特別美味に感じられた。


「アリスさん。本当に美味しいよ。こんなに美味しい料理を食べたのは久しぶりだ。作ってくれて本当にありがとう」


 京司郎が礼を述べれば、スープに黒パンを浸していたアリスは嬉しそうに目を細める。

 その笑顔のまま。


「キヨシロウさん。私のことはアリスと呼んでください。呼び捨てで構いません」


 と言った。

 これまでにも何度か交わした遣り取りであった。

 だからこそ京司郎の答えは変わらない。


「前々から言っているが、命の恩人を呼び捨てなんかにできない。それとも、そうしなければならぬ事情でもあるのかい」

「私は、奴隷なんです」


 アリスはそう言いながら、自身を貶める首輪を指先で撫でた。

 だが、こちら側の文化も風習も知らぬ京司郎には、その言葉がどれだけ重要な意味を持つのかが分からない。察し得たのは、アリスが勇気を振り絞って告白したのだろうということくらいであった。


「アリスさん。済まないが私には奴隷というものがよく分からない。どういうものなんだ」


 ゆえに聞けば。


「日本には奴隷がいないのですか?」


 と聞き返される。


「ああ。日本もとい私のいた世界では奴隷はいないし禁止だってされている」


 一九四八年、国際連合で採択された世界人権宣言において、奴隷制もまたその売買も禁止されている。しかしながら奴隷と聞いて連想されるのは、かの有名なアリストテレスが奴隷を『生命ある道具』として肯定していたことや、古代ギリシャや古代ローマでは奴隷の交易が活発であったという事実である。


「日本は良い国なのですね」


 アリスは呟くように言った。続けて。


「この国には奴隷がたくさんいます。皆、首輪をつけられます。日々暴力を振るわれ、生きるのも大変です。だから私は帝都の奴隷市場から逃げ出そうとしましたが、失敗して、首輪、取れなくされてしまいました。そんな時、私を買ってくれたのが父さんだったんです」


 と言った。

 背筋をピンと伸ばしながらスープをすくう姿は、高い教養を備えた令嬢のように見えた。

 今まで話題に出てきた父親とは、血の繋がった家族ではなく、恩義で結ばれた関係なのだという理解は遅れてやってきた。


「父さんは私を帝都からここネイロ村まで連れて来てくれました。この村では奴隷に多する差別も暴力も少ないからです。でも、やっぱり完全にないわけではありませんから苦労はしますけど、帝都にいた頃よりはずっと良いです。何より、父さんは戦うことのできない私に拳銃という武器を私にくれました」

「拳銃。ということは、君の御尊父――父さんは警察官だったのかい」

「ええ、そうです。青色の制服に帽子をつけてました」

「なるほど。しかし弾丸の補充はどうしているんだい」


 どこかで聞き(かじ)った知識ではあるが、回転式拳銃の装弾数は五発だったはずである。


「鍛冶屋のお爺さんが作ってくれるんです。それでも安くはありませんから大変な買い物なんですが、そんなことはいいんです」


 アリスは話題の軌道修正を図る。


「私は奴隷です。そして奴隷とは人間なんかじゃありません。ですから、さんはいりません。さんは相手を尊敬する時に使うと習いました。ですからアリスで結構です」

「奴隷だって立派な人間だろう――というのは野暮だな。分かった。君がそこまで言うならアリスと呼び捨てにさせてもらうよ。けれど、私が君に感謝していることだけは本当だ。そこだけは疑わないでほしい」


 京司郎はとりあえず折れることにした。そうしなければ話が進まないと思ったこともあるが、アリスの意思を軽んじるのも、奴隷だからと相手を見下していることと同義であると覚ったからである。


「それよりも聞かせてほしい。君の父さんは、どこで何をしているんだ」


 今なら聞き出せると思い京司郎は尋ねる。


「調べることがあるからといって、帝都に行っております」

「調べること」


 京司郎が更に聞けば。


「稀人が元の世界に帰る方法と、私の首輪を解除する方法の二つです」


 とアリスは答える。

 続けて。


「もう父さんが出発して三年が経ちました。最初こそ手紙が送られてきましたが、最近は何もないんです。何かあったのかとても心配です。もしかしたら元の世界に帰ってしまったのかもしれません」


 愚痴をこぼすようにアリスは言った。


「帝都に探しには行けないのかい」

「私にはこれがありますから」


 アリスは自身の首輪を指差した。


「帝都には、主人のいない奴隷一人では入れないんです。入ろうとしたら衛兵に捕まって市場に売られると聞いたことがあります。それに帝都は好きじゃありません。だから探しには行けません。この家で父さんが帰ってくるのを待っています」

「そうか。軽率な発言、済まなかった」


 慰めの言葉を持ち合わせぬ京司郎は謝罪する。

 木皿に盛り付けられたスープを掻き込むようにして平らげる。


「ご馳走様。こんなに美味しい食事は久方振りだったよ。ありがとう」

「いえ、それなら良かったです」


 アリスは立ち上がると、棚に置いてあった灯具(ランタン)の灯芯に火を灯し、テーブルの真ん中に置いた。油と煤の臭いが立ちこめる。今さらながら京司郎は空が暗くなっていることに気付く。


 京司郎はアリスがスープを完食しているのを確認してから、缶コーヒーと非常食のクッキーに手を伸ばす。手本を見せるように、アリスの前でクッキーの紙箱と包装を開ければ、アリスもそれに倣って、小さな手でクッキーを開封する。京司郎が先に口にすれば、アリスも恐る恐る口に運ぶ。


「すごい。すごいです。美味しいです」


 ()(しゃく)して(えん)()した後アリスは言った。京司郎にとってはありふれたチョコレート味の携帯食でしかなかったが、アリスにとっては違ったらしい。この世界ないしこの村では、甘味は貴重なのだろうと知った気になった京司郎は、缶コーヒーの飲み口を開けてアリスに差し出す。


「それは何ですか?」

「コーヒーだよ。砂糖が入っている甘い飲み物だ。クッキーだけだと喉に詰まるだろう」

「ありがとうございます。コーヒーを飲むのは初めてです」


 アリスは両手で缶を包むように掴むと、最初はゆっくりと傾ける。口に含んだ瞬間、アリスの大きな瞳が更に大きく見開かれる。


「とても甘い飲み物なんですね。私、これ好きです」

「そうかい。それは良かった。そのまま聞いてほしいんだが、君に頼みがある」

「はい、何ですか?」

「明日から私に言語を教えてくれないか。あとは君の仕事を手伝わせてほしい」

「言葉については分かりました。一緒に勉強、頑張りましょう。でも、仕事については――」


 アリスは思案顔になる。


「何か不都合でもあったかい。言っておくがこの件については奴隷が云々というのはなしだぜ。働かざる者食うべからず、だ」

「何ですか、それは」

「ことわざだよ。日本では、労働をしないと食事をしてはいけないことになっている」


 京司郎はあえて畳みかけるように言う。


「そもそも君は何の仕事をしているんだい」

「ええと。私は奴隷ですから仕事がありません」

「仕事がない。しかし奴隷は労働をするためにいるんだろう」

「はい。農業をするためだったり、商人の手伝いであったり、戦闘をするためだけの奴隷もいれば、身体を売る者もいます。でも私の意思だけでは仕事を選べません。所有者の許可があって初めて奴隷は仕事をできるんです。ですから私は冒険者の真似事をして稼いでおります」

「冒険者。冒険者というのは一体」

「冒険者というのは、村の外に出て、怪物を狩って素材を持ち帰ったり、貴重な植物や鉱物を採取して売ったりするようなことをします。あとは誰も近付かない遺跡に入って危険がないかを調査するようなこともあるようです。私は主に、村の外にある森に出掛けて、怪物退治や薬草摘みをしております」

「なるほど。猟師や探検家のような仕事なんだな」

「仕事とは少し違います。誰もやりたがらないようなことをしているだけです。それに素材や薬草を売ろうとしても、私が奴隷だから安く買われてしまいます」

「色々と苦労しているんだな。是非とも私に手伝わせてくれ。役に立つように頑張るよ」

「でも、足の怪我は大丈夫ですか?」

「歩く分には問題ないよ。君が飲ませてくれた薬のお蔭だろうな。とにかくそういうわけだから、明日からはよろしく頼むよ」


 このコーヒーとクッキーは君にあげよう、と言って京司郎は立ち上がる。


「どちらへ行くんですか?」

「今日はもう疲れてしまったからな。私は車の中で寝泊まりさせてもらうよ。明日、仕事の時間になったら起こしてくれ。お休み、良い夢を」


 京司郎はアリスの家を出て、家の前に停めた車に乗り込む。座席を倒し、荷物棚から丸めた毛布を引っ張り出して身体にかければ、それだけで就寝準備は整ってしまう。窓を五センチ程度開けて換気するのも忘れない。


 暑くもなければ寒くもない夜であった。


 目を瞑り、京司郎は物思いに(ふけ)る。思い返せば昨晩から色々とあり過ぎた。

 職場の駐車場にいたと思ったら森の中にいて、牛頭馬頭にも似た化物に襲われた。死んだと思ったら朝になって寝台の上にいた。介抱してくれた娘に森まで案内してもらって、帰りには門衛とともに煙草を吹かした。娘の家では夕食を馳走になり、自分が稀人であることと娘が奴隷であることを聞いた。娘の仕事を手伝うことを申し出て、今に至るというわけである。


 そこまで考えれば、京司郎は自分が思うほど日本に帰りたいと思っていないことを自覚する。四半世紀を生きて様々な積み重ねがある日本と、言語はおろか常識すらも知らぬこの世界では比べるべくもないのだが、それでも京司郎はこの世界で生きていくと決めた自己を認識する。日本への帰還を諦めたわけではなかったが、然程気にはならなかった。己がこれほどに腹を括ることのできる性分だったのかと(かえり)みて。


 最初に思い浮かんだのは娘の――アリスの顔であった。


 自身を冒涜する隷属の証をつけられながらも、それでも微塵も損なわない――むしろ瑕があるからこそ()えて見える――アリスの美貌と献身的態度に惹かれたのだ。何より、年端もいかぬ少女が己が生涯に向き合っているのだ。それなのにいい年齢をした自分が現実逃避をしていることはできなかった。アリスの恩義に報いたいとも思った。


 そこまで考えれば、京司郎の目は冴えてしまった。


 (たかぶ)る精神を(なだ)めようと京司郎は懐から煙草を取り出して(おもむろ)に喫い始める。甘い煙を吐き出せば、次第に(まぶた)が重くなっていくのを感じた。

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