2.愛車の回収と生きる覚悟
すぐにアリスはやってきた。濃紺の洋装はそのままに、皮革の軽鎧に身を包んでいた。右腰には拳銃を、左肩には肩掛けの鞄を装備していた。年季の入った格好はまさに猟師さながらである。京司郎の頭に、銃刀法違反――拳銃の場合は一年以上十年以下の懲役――の文字が過るが、鬼とやらが出る魔境に挑む以上文句は言えなかった。
「行きましょう、キヨシロウさん」
「済まないがよろしく頼む、アリスさん」
「さんはいりません。アリスです」
アリスは京司郎を先導する。寝室を出た先は薪と竈が置かれただけの狭い土間であった。
「アリスさん。ご家族はいるのか」
「昔に、父がおりました」
呼称の訂正を諦めたらしいアリスは短く答えた。昔にいたということは、今はいないということである。これも地雷であったかと覚った京司郎は、どんな人物であったのか、今は何をしているのかなどといった話題の展開を諦め、黙殺を決め込むことにした。
狭い家を出れば、少し離れた所に井戸があり、三人の婦人が文字通りの井戸端会議に勤しんでいる。だが何よりも京司郎を驚かせたのは、夫人達の毛髪が栗毛や赤毛など様々であり、目鼻立ちも整っているとまでは言わないが、凹凸のクッキリとした顔立ちだったことである。
しかしどういうわけか皆アリスのような首輪などしていない。何の言語かも分からなかった。当然、辺りに広がる街並みに見覚えはなかった。
――私は、とんでもなく遠いところに迷い込んだのではないのか。
今更になって京司郎は己が境遇に不安を抱く。今、少し先を先導してくれるアリスを見失えば、このわけも分からぬ土地で、独りで生きていかねばならぬのだと恐怖にも似た感情を抱く。額に浮き出る汗が、右足の痛みによるものか、孤独に臆したものかは自分でも分からなかった。
必死になってアリスを追いかけていれば、丸太を組み上げて作った門に辿り着いた。外敵の侵入を阻むためか、住民の流出を防ぐためか、太い閂で閉ざされている。
アリスは門に併設された詰所に行き、門衛らしき鉄兜に鎖帷子、陣羽織を着けた髭面の男に、京司郎には理解できぬ言葉で話し掛ける。数回の問答の末、門衛は閂を外し、一人で門を開けてくれた。そして笑顔を浮かべながら京司郎の肩を叩き何やら話す。男が気さくな人物であることは察し得たが、やはり何と言ったのかは京司郎には分からない。視線でアリスに救いを求めれば、間に入って男を諫めてくれる。
「キヨシロウさん。この人は、森で倒れていたあなたを私の家まで運んでくれた方なんですよ。今も、鬼には気を付けろと心配してくれています」
「そうだったのか。ならば、ありがとうと、とても感謝していると伝えてはくれないだろうか」
「はい。その通りに伝えます」
アリスが門衛に京司郎の弁を伝えると、男は照れくさそうに頬を掻いて何かを言った。そんな男を見ながら、アリスを連れてきたのは正解であったと、そして照れ隠しの動作は万国共通なのだと、どうでもいいことを京司郎は考える。
門を出て、すぐに京司郎の足は止まった。ネイロの村は木々に囲われていたが、それらを抜ければ見渡す限りの広大な平原が広がっていたからである。人馬によって踏み均されたであろう街道を辿れば、遠方には森があり、更に先には城壁に囲われた都市が微かに見える。
空を仰げば空は澄み渡り、太陽は憎らしいほどに輝いていた。
アスファルトによって舗装された道路も、ビル群もどこにもなかった。
「キヨシロウさん。どうしたんですか?」
不審そうにアリスが後ろを見る。
「いや。ここがどこなのかが気になってな。ここは何県何市なんだ」
「ここはネイロの村ですよ? なにけん、なにし、というのは分かりません」
「本当なんだな」
京司郎が尋ねれば、本当です、とアリスは肯定する。その純粋に京司郎を心配する眼差しに耐え切れず京司郎は俯いてしまう。本当は足の痛みもあり、頭を抱えて蹲りたかった。それか四肢を投げ出し、目の前の一切合切をゲラゲラと笑い飛ばしたかった。だが京司郎はその動揺をあえて呑み込む。年齢が離れているであろう娘の前で無様な真似だけは晒すまいという社会人としての矜持だけがあった。
「キヨシロウさんは、きっと稀人なんだと思います」
アリスは言った。いたわるような口調であった。
「稀人とは」
「違う世界からやって来た人のことです。めったにおりません。私の父さんがそう言っておりました。父さんも稀人でした」
「何だって」
「キヨシロウさんと同じ黒い髪に黒い瞳をしておりました。日本という国からやって来たんだそうです。私に日本語を教えてくれたのも父さんでした。キヨシロウさんも日本からやって来たんですよね」
「確かに私は、君の言う通り日本からやって来た。ひとつ聞かせてくれ」
「はい、何でしょうか?」
歩く機会を逸した京司郎の脇を、荷馬車がガタゴトと音を鳴らしながら流れ去って行く。
「稀人は、どうすれば元の世界に戻れるのだろうか」
「私の父さんもそれを調べておりましたが――すみません。私にはどうしたら良いのかが分かりません。キヨシロウさんは元の世界に帰りたいですか?」
「当然だ。私には家族や恋人というものはいなくなってしまったが、それでも仕事だってあるんだ。仕事に対する不満、国家に対する失望もないわけではないが、それでも故郷を嫌いな人間は少ないと思うぜ」
熱弁しながらも、京司郎はそんな自身を意外に感じていた。
仕事への不満や将来への不安を抱きながらも、そのような日常を愛していたのだと。社会秩序を構成する歯車のひとつとして在ることに少なからず誇りを抱いていたのだと今更ながらに理解した。しかしながら駄々を捏ねたところでどうにもならぬことも――この小さな水先案内人を困らせるだけだということも――同程度には理解していた。だからこそ京司郎は気を取り直して、半ば折れかけた心を、理性をもって繋ぎ留める。最早意地ですらあった。
「ここで文句を垂れても仕方ない。改めて道案内を頼みたい」
「はい。私にお任せください」
それからは早かった。アリスに従うまま街道を進み、森に着いた。そこから横の獣道に逸れたところでアリスは足を止め、前方を指差した。そこ一帯は何かが転がったように草木が薙ぎ倒されている。
「ここです。ここでキヨシロウさんは倒れて、鬼がいました」
「ここか。ありがとう。だとすれば車はあっちだろうか」
京司郎は迷いのない足取りで道とも呼べぬ道を進む。耳を澄ませば聞き慣れたエンジンの駆動音がするため迷うことはなかった。
無事、京司郎は自動車を発見する。ライトは点けたままであり施錠すらしていなかったが、外観内観ともに異常は見受けられない。破壊されてもいなければ荒らされてもいなかった。
運転席に乗り込みライトを消す。有り難いことにバッテリーの警告灯は点灯していなかった。ガソリンは先日入れたばかりであり満タンに近い。助手席に置いた財布と携帯を回収する。
「ありがとう、アリスさん。おかげで車を見付けることができた」
パワーウィンドウを開けた京司郎が言えば、アリスは不思議そうに車を眺めていた。
「アリスです。キヨシロウさん、これはどうやって動くんですか?」
「私が運転するんだよ。この世界には車がないのか」
「はい。馬車か牛車、手押し車ぐらいです。父さんも教えてはくれませんでした」
「まあ、細かいことは後にしよう。ここも安全ではないのだろう。君も乗ってくれ」
「乗る? どうやって、ですか」
後込みしたようにアリスは言った。
京司郎は一度運転席から降りると、助手席のドアを開けてアリスを乗せる。驚かせぬようにドアを静かに閉めた。アリスは身を竦ませている。
運転席に戻った京司郎はアリスにシートベルトを着用させるか迷ったが、結局そのまま出発することにした。ここにはネズミ捕りの白バイもいなければ、いざという時に降りるのが遅れるのを厭うたからでもある。許より、これより走るのは未舗装の路面である。ベルトが必要になるほど飛ばすつもりもなかった。
ダッシュボードに置いた革手袋を嵌めて、ギヤを一速に入れてから、クラッチを繋いでアクセルを踏めば自動車は静かに進み出す。そのまま二速、三速とギヤを上げていく。道中、木の根を踏んだ弾みで頭を天井にぶつけそうになったが、それ以外は何の問題もなく街道に出ることができた。そのままネイロの村へとハンドルを切る。
「アリスさん。このまま村まで引き返すつもりだが君の家の前に車を停めてもいいだろうか」
「ええ、構いません。あとアリスです」
「君も存外、執拗だな。どうして恩人を呼び捨てにしなければならないのだ」
「だって私は――」
アリスは口を噤み、自身の首輪にそっと触れた。何かを訴えかけるように京司郎を見るが、他人の機微に疎い京司郎には――許よりこの世界の常識すら知らぬこともあり――アリスの言わんとしていることが分からない。ゆえに京司郎は。
「それはそうと、だ」
と話題の転換を図る。
「車に乗れば許の世界に戻ることができるだろうと思っていたが、そんなに都合良く行かなかったな。私はこの世界で生きていく他ないのだろうか」
京司郎は溜息を吐いた。この世界で生きていくと一言で言っても、並大抵のことではない。
言語も分からず、身体だって思うように動かせない。不幸中の幸いは、日本語を話せるアリスと知り合えたこと、風雨を凌げる車を取り戻したこと、その車輌には仕事道具やアウトドア用品を積んでいたことだろうが、それでも今後の苦労が帳消しになるわけではない。
京司郎が二度目の溜息を吐けば。
「大丈夫ですよ。私とキヨシロウさんなら大丈夫です」
とアリスは言った。
たどたどしくも温かい励ましの言葉であった。それを聞いて京司郎は自身の心が軽くなるのを感じた。そんな己を単純な男だと思うと同時に疑問も抱く。
「アリスさん。どうして君は、私のためにそこまでしてくれるんだ」
ゆえに尋ねた。仮に立場が逆であれば、自分は彼女を怪物から救い出し、怪我の手当てをして、貴重な薬を使い、おそらくはひとつしかない寝床を明け渡し、つきっきりで看病などできるだろうかと京司郎は自省する。更に言えば、翌日に森まで付き合い、私と貴女ならこの先やっていける――となどと言えるだろうか。
――無理だな。そんなこと言えるわけがない。
いかにアリスが美しく、また下心や功名心を加味したとしても、己はそこまで献身的にはなれやしない。励ましたところで口先だけの薄っぺらい文句にしかならぬであろう。
京司郎にはアリスの態度が不思議でならなかった。だが当のアリスは真剣に問う京司郎の心情など素知らぬ顔で。
「父さんが教えてくれたんです」
と答えた。
「教えてくれたって、何を」
京司郎は聞き返す。街道の先にネイロ村の門が見えたため、アクセルを緩めて徐行する。
「ええと。情けは人のためならずということわざです。他人には優しくしなさいっていう意味で合っていますよね」
「ああ。その優しさが巡り巡って自分に返ってくるという意味でもあるな」
「ことわざ、難しいです」
「知っているだけでも。そうやって実践しているだけでも凄いことだと私は思うよ」
京司郎が褒めれば、アリスは、はにかむような素振りをみせる。
その父親は今どこで何をしているのか京司郎は聞きたかった。稀人の先達として会いもしたかった。だが黙ることにした。アリスは、昔はいたという言い方をしたのだ。ならばどのような聞き方をしたところで不快にさせるだけだと予想がついたためである。
門前に車を停めて京司郎とアリスが車を降りれば、先刻と同じ門衛が詰所の窓から顔を覗かせる。その顔は驚きに満ち満ちていた。やはり自動車は奇異に映るらしい。
「アリスさん。彼に門を開けてもらうようにお願いをしてくれないか」
「アリスです。分かりました。キヨシロウさんは待っていてください」
頷いたアリスは覗き窓に近付いて開門を依頼する。京司郎はその遣り取りに聞き耳を立てるも、やはり何と言っているのか分からない。
――何をするにしても、まずは言葉を覚えなければ始まらないか。
無意識のうちに懐に手が伸び、煙草を銜えていた。そのままオイルライターで着火して煙を吐き出せば、バニラの甘い芳香に包まれる。喫いながら、もうこの煙草は入手できないから一本一本が貴重になるな、いや車にカートン単位で在庫があったな――などとつまらぬ考えを巡らせていれば、妙に笑顔の門衛がやって来る。門は既に開かれていた。なぜかアリスは頬に手を当て、呆れたように二人を眺めている。
――ああ、成る程。言語を介さずともコミュニケーションはとれるのか。
門衛の男が差し出した掌に煙草の一本を置き、銜えるように合図すると、京司郎はまたライターで火を点けてやる。門衛は最初の一口をそれはもう美味そうに喫った。
門衛はまたも京司郎に手を差し伸べる。握手である。この世界にも握手という概念が存在するのだなと考えながら、京司郎は握手に応じる。門衛の掌はゴツゴツと分厚く固い皮に覆われていた。煙が齎す快楽か、人肌に触れた安堵ゆえか、京司郎は今まで抱えていた不安や疑念が氷解していくのを感じた。この世界で生きていこうと思った。