19.城塞都市
シリウスとの決闘から一夜経った翌日未明。
ジャックはアリス邸の前に停めた車の中でいつも通り眠りを貪っていた。
僅かに開けた運転席の窓から誰かの跫音が真っ直ぐ近付いてくるのを聞き取りジャックは目を覚ます。日頃聞き慣れたアリスのものではない。軽く小さい身体の持ち主であった。反射的にジャックの左手は助手席に置かれた直剣に伸びる。
誰かが車に近寄ること自体はよくあることであった。好奇心旺盛な少年少女であったり、物取りに来たコソ泥であったり、不審者を警戒した衛兵であったり。餌を期待した野良猫がボンネットに乗ることすらもあった。
「おっと。怪しい者じゃないから物騒なものはしまってくれ。僕だよ。ソフィアだよ」
忍び寄る影――ソフィアは窓越しに言った。ジャックが目を凝らせば、暁の薄明かりを背に、いつもの白装束を着込んだソフィアが立っていた。ジャックは直剣を手放し、座席の角度を元に戻してから車外に出る。
「ソフィア殿。どうしてこんなところに。教会で療養されていたのではありませんか」
「その療養にも飽いてしまってね。そんなことよりも今日は、今日こそは岩山の渓谷に行く最後の日だろう。僕も連れて行ってくれ」
「確かに今日は最終日ですが病み上がりのソフィア殿をお連れするわけには参りませんよ。教会の方々は何も言わなかったのですか。というより、よくここが分かりましたね」
「アリス君から、君達が村の外れに住んでいることだけは聞いていたからね。あとはこの車を目印に探して歩いていれば、殊の外あっさり見付けることができたというわけだ」
ソフィアは悪びれもせず堂々と答える。
「きっとこれも女神様の思し召しというやつなのかもしれないな」
「主教殿や司祭殿は何と仰っていたのですか」
「彼らには何も告げていないよ。正直に述べたところで止められるだけだからね」
「どういうことですか」
「嫌だな。そんなに怖い顔をしないでおくれ。寝室に書き置きを残してきたから大丈夫だよ」
「書き置き」
「そう、書き置きだ。君達の旅に同行することと、君達には何の非もなく、僕の我儘であることは述べておいた。まあ君達が何か責任を問われることはないだろうから安心してくれ」
「そこまで気を回すことがきるなら、最初から部屋で大人しくしている選択肢だってあったのではありませんか」
「言っただろう。寝台に縛られるのも飽いてしまったんだよ。それに今日という日を逃してしまえば、もう二度と君達に会うことはできなくなるだろう。何せ聖女というものはそれなりに忙しいものだからね。その前に、君達には直接感謝を伝えたかったんだ」
「二度と会えないというのは言い過ぎでは。私達はこの村より他に行き場のない田舎者です。ソフィア殿にお越しいただけるならいつだって歓迎いたします。何でしたら帝都に私達が赴きましょう。流石に今は時期が悪いのでしょうが」
「僕の聖女としての予感が言っている。君達とは今日で最後だ」
有無を言わさぬ態度であった。ある種の覚悟すら汲み取れる言い振りであった。その視線は、もう少しで太陽が覗く朝焼けを睨んでいた。
「僕の予感は必ず当たることで修道院では有名なんだぜ。もっとも、分かるのは他人のことばかりで自分のことはサッパリなのだが――どれ、疑り深い君にひとつ予言をくれてやろうじゃないか。今日は夕暮れから激しい雨になる。その時分に渓谷を走るのは危ういから早めに切り上げて村に帰ることをお勧めするよ」
「天気予報とは有り難いですね。気に留めておきましょう」
「それはそうと姉さんは――アリス君はどこにいるんだい?」
キョロキョロと周りを眺めながらソフィアは言った。
「家の中におりますよ。今はまだ眠っているでしょうが、日の出とともに起きてくるでしょう。アリスに何か用事でも」
「ああ、いや。用事というほどのものでもないのだ。ただ、今日の冒険が終わる前に二人で話す時間をもらいたくてね。いいだろうか」
「分かりました。今日は狩る範囲も狭いはずですので、その時間くらいは作れるでしょう」
「頼むよ。しかし、どうして君とアリス君は別々に寝ているんだい?」
「どうしてと仰いますと」
「だって夫婦は寝床をともにして子孫繁栄に励むものと聞いているぜ。喧嘩でもしたのかい。内容によっては僕が取りなしてやってもいいぜ」
「……随分愉快な勘違いをされているようですが私とアリスは夫婦でもなんでもありません。しいて言うなら人生という旅の仲間です。というか聖女たる者が子孫繁栄などと俗っぽいことは言わないでください」
「人生という旅の仲間とは中々詩的な表現をするじゃないか。しかし子供扱いは止してくれ。それに俗っぽくもないだろう。僕だって人間がどうやって殖えることくらい知っているのだ。女神様だって人間に対して産めや殖やせと言っている」
「……ソフィア殿は幾つになるのですか」
「今年で十六になった。もう立派な大人だよ。子供だって産める」
「私から見たらまだまだ子供ですよ。さあ、季節は夏でも朝晩は冷え込みます。狭いですが車の中でゆっくり寛いでください。私はその間に身支度を調えましょう」
ジャックはひとまずソフィアを車に入れ、自分は井戸に行き盥に水を汲む。その水で顔を洗い剃刀で髭を剃っていれば、ソフィアが物珍しそうにジャックを眺める。
「どうしたんですか。そんなに野郎の髭剃りが気になるのですか」
「稀人というのは皆君みたいに几帳面なのかなと思ってね。こっちの男は基本的に髭を伸ばすのが普通なんだ。僕にはそれがどうしても受け容れられなくてね。苦手なんだよ。髭面の男性も、伸びきったその髭も」
今の話はヘンリー殿には聞かせられませんな、とジャックが言えば、そうだな一応黙っていてもらえると助かるよ、とソフィアも同調する。
「昔会った稀人も君のように髭を剃っていたな」
不意にソフィアは言った。
ジャックの剃刀を動かす手が止まる。
「昔とは。いつ、どこでですか」
「どうしたんだよ急に。二三年前、修道院に来た男性だよ。彼とはわけあって少しばかり話すようになってね。年齢はおそらく君よりも少し上だろう。それが一体どうしたというんだ」
「確たる証拠がないので何とも申し上げられませんが、その男性がアリスの探し人である可能性が高いのです。その男性は今も帝都に」
「いや、そこまでは分からない。すべきことがあると言っていたから、もしかしたら帝都を去ってしまったのかもしれない。ただでさえここ近年の帝都は乱れているからな」
「すべきことがある――」
「流石にその内容までは聞いていないぜ。というより聞いても教えてはくれなかった」
「その男の格好はどうでしたか」
「格好?」
「紺色の制服に、徽章のついた制帽を着けてはいませんでしたか」
「ああ、そうだ。確かに君の言う通りの格好をしていたな」
間違いないアリスの父親だとジャックは思う。同時に、その足取りが掴めない以上、アリスに話しても糠喜びさせるだけだとも。
ジャックが髭を剃り、全身の清拭を終えればアリスが家の中から出てくる。後部座席に座るソフィアを見て驚くが、ソフィアが教会を抜け出して来たことを釈明すれば、渋い表情をしていたアリスも一応の納得をみせる。
その頃には太陽も東の空から顔を出し、近傍の家々も活気づく。
「アリス。乗ってくれ。このままヘンリー殿を迎えに行こう」
「……はい。でも、本当に大丈夫なのでしょうか?」
「ソフィア殿のことか。ソフィア殿が決めたなら、私がとやかく言えることはないな。私はもう諦めたよ。――アリス?」
「いえ、詳しくは分からないのですが、何だかとても嫌な予感がするのです。このまま行って大丈夫なのですか?」
アリスは言った。その顔からは血色が失せていた。
「嫌な予感。具体的には」
「聖女様を連れて行くことで、私達に良くないことが起きてしまう気がするのです」
アリスは断言する。
普段一歩退くことの多いアリスにしては珍しい口調であった。
「しかしそうは言ってもだ。ソフィア殿は私達に危害が及ばぬように書き置きを残してくれたし、何よりソフィア殿から君に伝えたいことがあるそうだ。同行は確定事項だと思ってくれ」
「……はい。分かりました」
頷いたアリスはソフィアの隣、後部座席に乗った。それを見てジャックも運転席に戻る。
燃料は半分を切っていた。そろそろ、行商人に頼むなりギルドに依頼を出すなり、本格的に燃料を確保する術を見付けようと思った時。
「聖女様。私に仰りたいこととは何でしょうか?」
とアリスが聞いた。
行儀が悪いと知りながらもジャックは聞き耳を立てる。
だがソフィアは答えなかった。
「別に喫緊の内容ではないんだ。今日の狩りが終わった時か休憩時間にでも話すよ。そういうわけだからジャック君、予定の管理は君に一任するよ」
「承知しました。ヘンリー殿にも共有しておきましょう」
ジャックの運転する車はすぐに東門の詰所に到着した。進路を切り返してから警笛を二度鳴らせば、中から剣と盾を背負ったヘンリーが緩慢な足取りで出てくる。歴戦の兵とはいえども朝の睡魔は強敵であるらしい。空いている助手席に乗り込んだヘンリーは後ろを見てソフィアがいることに意外そうな顔をするが、ソフィアが経緯を話せばすぐに納得する。むしろ一行が四人に増えたことで己の負担が減ることを喜んでいる節さえあった。
「ソフィア殿。お忘れかも知れませんが貴女は熱病から回復したばかり。体調に異変を感じた際はすぐに仰ってください。その場合は引き返し、教会に身柄を預かってもらいます」
「参ったな。そう言われたら隠したくなるじゃないか」
「ソフィア殿」
咎めるようにジャックが呼べば、嫌だな分かっているよ、とソフィアは言った。いつもの他人を揶揄する笑みであった。
「アルデバランのような小言は止しておくれよ。体調は万全なんだ。第一そうでなかったらここには来ていないさ」
「そのお言葉、信じますよ」
「ああ存分に信じてくれ給え」
ジャックは室内鏡から目を離して運転に集中する。
西門の詰所もいつも通りに通過する。
東門へ続く一本の迂回路を無視して、真っ直ぐ岩山の渓谷に向かう。
空には分厚い積乱雲が浮いてはいたが今すぐ降り出す気配はなかった。ソフィアの予言を信じるならば雨は夕方かとジャックは思う。それまでに任務を済ませなくてはとも。
狩りそのものは滞りなく進んだ。
河原に鎮座するゲルをアリスが撃ち抜いて、鳥女の残党もヘンリーが干し肉で誘引して、ジャックがそのまま車で轢き潰す。乗り上げた胴体や頭部が熟れた果実のようにグシャリと潰れる音がジャックの怖気を駆り立てるが、すぐに慣れてしまった。
一昨日騎兵に襲われた河原近辺に車を停めて、ジャックは休憩を申し出る。
その頃には昼前となっており、獲物を収める麻袋も、アリスとヘンリーが毟り取った羽毛と討伐証明の右足でパンパンに膨れ上がっていた。ジャックは騎士の屍体を棄てた場所を確認するが、河に流されたのかゲルに溶かされたのか、痕跡はひとつも残っていなかった。
小休止を挟んでからも、すべきことも変わらない。鳥女はヘンリーの餌でおびき寄せて轢くだけであり、ゲルの間引きはアリスの独壇場であった。
無事、昼を回る前に、岩山の渓谷を制覇して城塞都市に到着することができた。
「折角ここまで来たんだ。都市に立ち寄ってメシにでもしないか?」
広大な城門の前に並ぶ行列が少ないことを確認してからヘンリーは提案する。それに同調したのはソフィアだった。
「良いね、そうしよう。教会の質素な食事はもう飽きた。ジャック君、ほら進めてくれ」
「よろしいのですか。私は戒律には詳しいわけではありませんが、してはいけない食事や断食などといった文化があるのではありませんか」
ジャックがアリスを見れば、アリスは小さく頷いた。
「頭が固いなあ、ジャック君。確かに聖女たるこの身、戒律は確かに存在するとも。いたずらに生命を奪ってはならぬということで肉は食べちゃ駄目だし、品行方正あれかしということで飲酒なんかは厳禁さ。でも、ね。知っていたかい。戒律は破るためにあるんだぜ。それに人間、豆だけのスープだけじゃ生きていけないんだよ。さあ、行こうじゃないか」
「気は進みませんね。本当にいいのですか」
「君もしつこい男だね。修道院にいた頃だって、表向きは清楚や禁欲を謳っておきながらも、僕らは仲間がこっそり入手した娯楽小説や官能小説を回し読みしていたんだ。厨房に忍び込んで肉を摘まみ食いすることだって一度や二度じゃない。皆が思うほど修道女という人間はきちんとしていないんだぜ」
「そういうものなのか」
「そういうものだよ。なんだよ、まさか君も修道女に幻想を抱いていたクチかい? 残念ながら教会にいるあの修道女は司祭に惚れているぜ」
「いや、子供には興味はないから別にいいが、その、なんだ。ほどほどにな」
ジャックがアリスを再び見れば、アリスは赤い顔でブンブンと首を横に振っている。ヘンリーに至っては腹を抱えて笑っている。
「いいねえ聖女サマ。気に入ったぜ。それじゃあ昼は豪勢な食事を出す店に行くとしようか」
「ヘンリー殿。城塞都市は初めてじゃないのか」
「ああ、冒険者時代に連れと一緒にな。場所は覚えているから道案内は任せな」
「分かった。それならばまずは検問を越えなければな」
ジャックは門に並ぶ列の最後尾に車を着ける。すぐに順番が来た。頑強そうな鎧に身を包んだ門衛達は馬のない車に驚いていたが、ジャックが燃料を糧に進む機巧であることを、そして観光ないし食事目的に訪ったことを述べれば何事もなく通行を許される。
ヘンリー主導の元、ジャックは通りを徐行させながら街を観察する。
石造りの家屋が建ち並び、道行く人間も、民間人五割、衛兵五割といった割合で、流石は城塞都市という趣であった。
料理店らしき店の前に車を駐車する。
入口の横には木彫りの献立表が値段とともに刻まれ、満足そうな顔をした男達が店から出てくる。店内の喧騒が外にまで漏れ聞こえる。
「ヘンリー殿。ここでいいのか」
「おうよ。大衆食堂だ。何にするか迷ったら日替わり定食がオススメだぜ」
「分かった。私はそうしよう。アリスとソフィア殿は」
ジャックが振り向けば、二人はデザートを何にするかでやいのやいの好き勝手に騒いでいる。
ここだけを切り取って見るならば仲睦まじい姉妹以外の何者でもないのだが、やはり首輪が無粋な光を発していた。
ヘンリーを先頭に入口側のテーブル席に座れば、ここでも獣人の女給が注文を取りに来る。
ジャックとヘンリーが定食を、アリスとソフィアがパンケーキを注文する。
席料なのか飲料水の代わりなのか、女給は葡萄酒が入ったカップをそれぞれに置いていく。
早速ジャックが口にすれば、軽い口当たりの酒であった。わざとらしい甘さすら感じた。飲んでから自分が運転手であったことを思い出すが、この程度で酔いはしないし、切符を切る警察官もいないのだと開き直ることにした。
料理は待つこともなく揃って運ばれる。
定食はパンとスープ、肉と野菜のソテーであり、アリス達の頼んだパンケーキは生地に生クリームと刻んだ果実、蜂蜜がかけられたものであった。
アリスとソフィアは両手を合わせて食前の祈りを捧げる。
「ジャック君、ヘンリー君。姉さんも。僕をこんな良いところに連れてくれてありがとう」
祈りを終えたソフィアが言った。手にしたナイフとフォークでケーキを切り分けていく。
「姉さんとは私のことですか? 私は姉さんではありませんよ」
複雑な表情で、窘めるようにアリスは言った。
「そのことなんだけれどね、姉さん。稀人の言葉を話せるのは僕も同じなんだ」
「――え?」
「ジャック君には今朝に話したけれど、修道院時代に稀人が僕の先生としてやって来てね。とても流暢とは言えないけれど、少しくらいなら分かるんだよ、稀人の言葉が。そして姉さんがジャック君と話していた時、実は僕も起きていてね。だから姉さん。同じ修道院にいたんだから僕も貴女を姉さんと呼ぶ資格はあるはずだよ。たとえ、その首輪があったとしても、僕が姉さんに抱く敬意は変わらないよ」
そこまで言い切ったソフィアは、一口大に切り取ったケーキを口に運ぶ。対するアリスは、ただただソフィアを凝視していた。
「アリス。ソフィア殿の師となった稀人なんだが、君の御尊父である可能性が高いんだ」
「え? 父さんが」
「足取りは杳として掴めないままだがな。今も帝都にいるのかすらも分からない。だが、この世界にいるはずなんだ。探す価値はあるはずだ」
ジャックの告げた真実に、アリスは反応を示さなかった。食器すら置いて、俯くように天冠の苺を見詰めていた。
「なんだ。そういうことなら君達二人――いや、ヘンリー君も合わせて三人、僕達の旅に同行したらどうだい。雑務をこなす騎士ふたりを喪って、どこかで人員の補充をしなければと考えていたんだ。君達であれば腕も立つし、何よりも信用できる。どうだろうか?」
「あー、聖女サマ。お声掛けは嬉しいのですが、俺は辞退させていただきますわ」
最初に反対したのはヘンリーであった。
「ふむ。理由を聞いてもいいかな?」
「ジャックや嬢ちゃんなら兎も角、俺まで入るとなればあのシリウスとかいう騎士が黙っていないでしょう。何せ聖女サマが寝込んでいる間に決闘をしたくらいですから。そんな奴との旅なんて命が幾らあっても足りませんわ。それに現在の仕事だって気に入っているんだ。せめて領主サマの許可がいるんですわ」
「そうか。ヘンリー君の旅慣れた知識があればと思ったのだが、そういうことなら仕方ない。無理強いはしないよ。ジャック君や姉さんはどうだい?」
「私はどちらでも構わないが」
ジャックは俯いたままのアリスを見遣る。
顔を上げたアリスはゆっくりと首を横に振った。
「私は行きません。私はネイロの村で父さんを待つと決めております。だから村を出るわけにはいきません」
「アリスがそう言うなら私もそうしよう。ソフィア殿。誘っていただいたことは嬉しいが、私達には私達の生活がある。それに奴隷と稀人を連れるなど悪い意味で目立ってしまうだろう。冒険のお供をすることはできないよ」
ジャックが断れば、残念だが諦めることにしよう、と本当に残念そうにソフィアは言った。




