13.奴隷に権利と自由を与えるべきか?
岩山の渓谷に狩り場を移して五日目。
ジャックは教会の門前に車を停めた。腕時計が機能していないため正確な時刻は不明であったが、朝を少し過ぎたいつもと同じ時間帯であった。
車内には既にアリスとヘンリーが乗車しており、必要な物質の搬入も済んでいる。
二人に、聖女殿を迎えに行ってくる、と言ったジャックが運転席を降り、教会までの道程を進めば、扉の前、行く手を塞ぐように主教アルデバランが立っていた。ジャックを認めた途端、微笑みを浮かべるが、その笑顔がジャックには胡散臭く思えてならなかった。
「おはようございます、稀人殿。本日も聖女様に御用ですかな」
「おはよう、主教殿。仰る通りソフィア殿を迎えに来たのだが、何かあったのか」
ジャックは目礼の後に尋ねる。昨日一昨日は、奇跡の希望者がいないのを良いことに、ジャックが来たと分かるや一目散に駆け寄って来たのだが今日はその気配がない。
「聖女様についてなのですが」
アルデバランは語り始める。
「実は昨晩から体調を崩されましてな。本日の同行はどうかご遠慮いただきたい」
「そうか。そういうことなら承知した。いや本来ならばそれが普通なのだ。聖女殿の旅を安全なものにするために私達がいるのに、当の聖女殿が喜んで出動しているのがおかしな話なのだ。しかし体調を崩したとは大丈夫なのか。旅の疲れが出てしまったのだろうか」
「そうかもしれませんな。いかに気丈に振る舞っていても、あれは成人を迎えたばかりの娘。身体があまり丈夫ではないのです」
「分かった。ソフィア殿にはお大事にと伝えていただきたい」
「ええ。稀人殿が心配していると知れば聖女様も大人しくなるでしょう。――ああ、お待ちを」
立ち去ろうとしたジャックにアルデバランが手を挙げる。
ジャックが振り向けば、アルデバランは笑みを深めた。だが眼差しばかりが真剣味を帯び、今までのはただの世間話、ここからが本題なのだろうとジャックは察する。
「時に稀人殿。聖女様に妙なことを吹き込みませんでしたか?」
「妙なこととは」
「何でも、奴隷に権利と自由を与えるべきだという、とても珍妙な論説です」
「ああ、その話なら確かにした覚えがある。しかしそんなに珍妙な話なのか」
ジャックが問い掛ければ、ええとても、とアルデバランは鷹揚に頷く。
「行き過ぎた慈悲の心によって、罪と罰の天秤が狂ってしまった――謂わば若者が陥りやすい典型例です」
「ふむ、典型例とな」
「実はよくある話なのです。みすぼらしい格好で、生きるために必死に働く奴隷を見て憐憫の情を抱くのはそう不思議なことではありません。特に若い――世の中を知らぬ者が抱くことは往々にしてあることでしょう。何せ奴隷とは首輪をつけているだけで、目もあるし口もある。手脚だってある。言葉だって話せる。教育によっては文字だって扱うことができる。私達と同じ人間なのだと――そう思うのも無理はありません。ですが悲しい哉、奴隷はその首輪をつけた時点より人間ではないのです。奴隷とは他の何者でもなく、ただ奴隷として在るのですよ。それが神代からの慣習であり、我々教会の人間はそれを規律として守らねばなりません。無論聖女様とて例外ではありません。戒律を犯せば厳しい罰が女神様により下されるでしょう。ともすると此度の体調不良も神の御業なのやもしれませんな。――稀人殿、私が貴方に仰りたいことは分かりますか?」
「ああ、分かっているとも。これ以上不要なことを言うなというのだろう。だがな、主教殿。言い訳のようになって格好がつかないのだが、私はソフィア殿に乞われて元いた世界の仕組みを、自身の好悪を添えてお伝えしただけだ。多少ばかり熱が入ってしまったことは否めないが、積極的に煽動したわけではないことは理解していただきたい」
「――ほう、好悪ですか。すると稀人殿。貴方は熱く語る程度には、この世界の在り様を」
アルデバランは口を閉ざす。
言わぬが花とでもいうかのように。
だが鈍いジャックには伝わらない。
「ああ、嫌いだね。憎んでいるといっても過言ではない」
ジャックがバッサリと切り捨てれば、アルデバランは苦笑する。
「嫌いどころか憎んでいるときましたか。理由をお尋ねしても?」
「これはソフィア殿にもお伝えしたことなのだが、私のいた世界では奴隷というものが禁止されていてな。それも五十年以上も前にだ。前時代の悪習にしか思えない。ゆえにどうしても、首輪のあるなしで他者の権利と自由を剥奪して、ひとつの財産と見なすことにどうしても抵抗があるのだ。生命に対する侮辱であるとすら思う」
「生命に対する侮辱ですか。稀人殿。相手が奴隷でも、ですか」
「否、奴隷だからこそだ。弱き者にこそ救済はもたらされるべきだと私は考える」
ジャックが持論をぶつけても、アルデバランは少しも揺るがなかった。それどころか、何と強情で傲慢なことか、と目を瞑り呟いた。
「まさか貴方のいた世界とこの世界で、そこまで常識に差があるとは思いもしませんでした。奴隷制を悪習と言い放つのはこの世界で貴方くらいでしょう。ですがね、稀人殿」
閉じた目を開いたアルデバランは、ジャックの目を見て言った。
「ここは貴方のいた世界ではありません。女神様が統べる私達の世界なのです。郷に入りては郷に従えという言葉が示す通り、世界が異なれば当然常識だって異なるのです。ここでは、奴隷というものはごく普通なものなのですよ」
「ああ、理解しているとも。誤解してほしくはないのだが、私は奴隷を当然とするこの世界の在り様に対して確かに思うところはある。だが所詮はこの世界に馴染めずにいるたったひとりの稀人の発言なのだ。どこまでいっても私個人の好悪の範疇でしかない。私が特別、奴隷のために何らかの活動をすることはできないし、私の目的のためにソフィア殿を利用することなどもっての外だ。反乱分子でも何でもない。そこだけは忘れないでほしい」
「――ふむ。それでは、貴方はただ聖女様に乞われたから御自身の意見を述べた。それが偶然奴隷制に反する内容であった。そこには何の意図もない事実と感想を述べただけ。聖女様はその慈悲の念により感化されてしまった。そのような解釈でよろしいですかな」
「ああ、間違っていない」
「それならば良いのです。いやはや、正直に答えてくれて助かりました。それならば私が手を下す必要はないでしょう」
「手を下すとは」
不穏な予感を覚えたジャックは尋ねるが、アルデバランはすぐには答えなかった。
しばらくの間黙った後。
「思いの外多いのですよ」
と言った。
「多い。何がだ」
ジャックが尋ねれば。
「純粋無垢な聖女様に取り入ろうとする不届き者が」
とアルデバランが答える。
「やれ税が重いから領主に訴えてくれだの、やれ村が怪物に襲われるから助けてくれだの、やれ金銭を恵んでくれだの――確かに我々は民草の救済を旅の目的に掲げてはおりますが、できることには限りがあります。それどころか身代金目的で聖女様を攫おうとする賊だって珍しくはないのです。貴方が思う以上に我々の敵は多いのですよ。そういった危機から聖女様をお守りするために私や騎士達がいるのです」
「しかし、それなら尚のことよくソフィア殿を冒険に出したな。預ける相手はどこの馬の骨とも知れぬ稀人だろうに」
「馬の骨ですか?」
「ああ失敬。私の産まれたところでは素性の知れぬ者に対してそういう言い回しをするのだ。とにかく、そちらの立場を考えればソフィア殿は外に出したくはないのではないかね」
「それはそうなのですが、女神様の前で宣誓された以上、私達にはもう止めようがないのです。こう言っては聖女様に悪いのですが、今日の出立はできませんので、私も落ち着いて教会で過ごすことができます」
アルデバランが言い切らぬうちに、背後にある扉がガチャリと音を立てて開かれた。
寸胴な体格をしているアルデバランの脇をすり抜けるように出てきたのは、やはりとでもいうべきか聖女ソフィアであった。ジャックを見るなり自由奔放な笑みを浮かべるが、その頬は平生と比較して赤い。一目で発熱の症状があると分かる様相であった。
「ジャック君。待たせたね。さあ、今日も行こうじゃないか」
「ソフィア殿。体調を崩されていたのではありませんか」
「うん。隠していても仕方ないから白状するが、本調子ではないのは事実だ。だがそれが何の問題がある。君達に迷惑を掛けないと約束するし、何よりも女神様の前で誓ったことを破るわけにはいかない」
「問題しかありません。症状は熱があるだけですか」
「医者のようなことを聞くね君は。少しの熱と悪寒、咳が出るな。ただの風邪だよ」
「いけませんよ。風邪は万病の元と申します。今日は休息に充てた方がよろしいでしょう。そも、これは純粋な疑問なのですが、女神の前で誓ったことは体調不良をおしてでも守らねばならぬものなのですか」
「そういうわけではないのだが――」
ソフィアが言いかけた時、またしても教会の扉が開かれる。騎士シリウスであった。ソフィアを見るなり目を怒らせて食ってかかる。
「聖女様、探しましたよ。寝台を抜け出して何をしているのですか」
「何って、見ての通りジャック君に連れて行ってもらうように頼んでいるところだよ。シリウス、僕を心配してくれているのは分かるがお呼びじゃないんだ。下がれ」
シリウスを見ようともせず辟易としたようにソフィアは命じた。一方命じられたシリウスは助けを求めるようにアルデバランを見遣る。
「もし、聖女様」
「アルデバラン、君だって同じだ。邪魔をせずにそこで見ていてくれ。――ああ、それと」
ソフィアは一度だけアルデバランに振り返る。
「君やシリウスが僕のためにあれこれと手を尽くしてくれているのは承知しているし、感謝だってしている。だが、僕には僕の考えがあって、この時代の奴隷制に疑問を抱き、稀人であるジャック君と議論を重ねたのだ。影響を受けたのは事実だが、ただそれだけの話だ。ジャック君およびその仲間達に危害を加えることは断じて許さない。分かったか」
「――はい、仰せのままに」
アルデバランは蛇に睨まれた蛙のように身を縮こまらせながら頷いた。だがその眼に一瞬敵意が宿ったことにジャックは気付く。このままでは無事に済まないだろうという予感じみた危惧を抱く。だからというわけではないのだが。
「ソフィア殿。その言い方ではあんまりにもあんまりではありませんか」
それとなく、ジャックはアルデバランとシリウスの救援に回る。
「なんだいジャック君。まさか君まで彼らの仲間かね」
「いいえ。私はしがない稀人です。孤独に生きて孤独に死んでいく類型の人間です。私に仲間などひとりもおりません」
「そういう謙遜はいらないよ。仲間でないならなんだい。言っておくが体調なら十分過ぎるくらい休息を取ったから心配は無用だ。足手まといにはならないつもりだ」
「どうしてでしょうか」
腹芸の苦手なジャックは単刀直入に切り込む。
「うん? どうしてというと」
「どうして、そう無理をなさってまで私達に同行しようとするのですか」
「そういう聞き方をされるとはね。僕がいては邪魔かい?」
「まさか。ソフィア殿の奇跡によって怪我は治せますし、怪物だって楽に倒せます。邪魔に思ったことなど一度たりともありません。ソフィア殿の献身あってこその一行と言えるでしょう。ですが本来、私達の目的はソフィア殿一行の安全確保なのです。そこにソフィア殿が張り切るのは筋が通らないでしょう。主教殿や騎士殿の心配もお察しください」
「ジャック君。君の言うことはもっともだが、僕がいることで君達の負担が減るならそれで良いじゃないか」
「それで良いと頷けないから今こうして確認しているのです。昨日申し上げたとは思いますが今日は渓谷攻略の最終日です。城塞都市側へ奥深く進むため、これまで通りの日帰りとはなりません。途中で一泊する予定です。念のため車に薬は積んではおりますが、旅の最中に体調が悪化するかもしれないことを私は憂慮しているのです」
「うん? 車に薬を積んでいるだって」
ソフィアは顔を上げてジャックの仏頂面を仰ぎ見る。顔全体が熱を帯びたように赤く、発熱の兆候はあれども、そこに衰弱の色は見受けられない。元気は元気なのだろう。
ジャックは己の失言を覚りながらも、嘘は吐けないため頷く。
「……ええ。熱にも咳にも鼻炎にも効く総合風邪薬があります」
「そうかいそうかい。前々から思っていたが君の車には何でも積んでいるんだな。済まないが今日はその薬を頼らせてもらうことにしよう。車はいつもの場所だな」
「ソフィア殿。服用した後は安静にしていないと――」
ジャックが言い終わるよりも早くソフィアは門外へ駆けていった。残されたジャック達は黙り込む他なかったが、それでもどうにかシリウスが口を開く。
「おい、貴様――」
「どうした騎士殿」
「どうしたじゃない。何を突っ立っている。速く聖女様を連れ戻せ!」
「折角人が救援してやったというのに理不尽を言わないでくれ。ソフィア殿は行く気満々だ。連れ戻したいなら騎士殿、あんたが行くべきだ。私はどちらでも構わない」
ジャックが門前に停めた車を見れば、ソフィアは後部ドアを開いて荷物入れを物色している。目的の薬が見付からないらしく、アリスとヘンリーまで探索に参加する。手付きから察するにアリスは菓子を、ヘンリーは煙草を欲しているようであった。
「私は下がれと言われたのだ。その命令を無視することはできない」
「そうか。先に述べた通り、今回の行軍は一泊二日の予定だ。無論、こちらもソフィア殿の体調には気を配っておくが万一のこともある。医者を呼ぶ用意はしておくことだ。そもそもの話、奇跡とやらで病の類を治すことはできないのか」
「奇跡は自分にはかけることができない。貴様そんなことも知らずに同行していたのか?」
「生憎こちらは常識もない稀人だからな。しかしそれならば主教殿や司祭殿が奇跡を行使すればいいのではないか」
「聖職者は、他の聖職者に奇跡をかけてはならぬという厳しい戒律がある。あくまで奇跡というものは困窮した民草のためにあるというのが教会の立場であり解答なのだ」
「困窮した民草」
果たして本当に困窮している者が治療費として金貨一枚など支払えるものだろうかとジャックは疑問に思うが、あえて何も語らぬことにした。今ここで抗議しても仕方のないことであり、また旅にはそれ相応の費用がかかるものだと知っているからである。
「それでは騎士殿、主教殿。私はこれで失礼させてもらう」
「――待て」
立ち去りかけたジャックをシリウスが止める。
「稀人風情にこんなことを頼むのは不本意だが聖女様を頼む。聖女様の御身に何かあれば私は貴様を赦さない。覚えておけ」
「そこまで言うなら引き留めれば良いではないか。まあいい。分かったよ」
ジャックが承諾すれば、今度はアルデバランが声を掛ける。
「稀人殿。ひとつお願いがございます」
「次は主教殿か。こちらにも都合というものがある。あまり悠長にしていられる猶予はないぞ」
ジャックが目を凝らせば、アリスは菓子を、ヘンリーは煙草を、それぞれの懐に収めるのが見えた。
「では用件だけを。聖女様を誑かすのは止していただきたい」
「誑かすとはまた人聞きの悪いことを――とは言えないな。奴隷云々の件か」
「察しが良くて助かります。あれはまだ成人したてで、物事というものを、社会というものをよく知らないのです。良く言えば純粋、悪しきように言えば無知なのです。そこに、貴方のような奴隷制度に異を唱える者がいれば間違いなく感化されてしまうでしょう」
一度言葉を切ったアルデバランは、ですから稀人殿、と念を押す。
「あの幼き者と議論をするのは金輪際止していただきたい。あれ以上思想が歪んでしまっては今後の教育に影響するでしょう。できるなら貴方の口から、奴隷とはただ奴隷であるのだと。奴隷制度を肯定していただきたいと思うのですがいかがでしょうか」
「私に嘘を吐けというのか」
「嘘が皆悪だとは言いません。他人を救う嘘だってあるのですよ」
「済まないが主教殿。私は嘘が苦手な性分でな。黙ることはできても、心にもないことは言えない。その願いを叶えてやることはできない」
「その身に危機が迫っても、ですか?」
吐き棄てるかのように主教は言った。婉曲な脅し文句であり、大方それが本性なのだろうとジャックは思う。意外でも何でもなかった。
「主教殿。貴殿は先刻、ソフィア殿から私達に手を出すなと言われたはずだ。その言いつけを破るつもりか。そも、私は自身の好悪を述べただけだ。邪魔者扱いするほどのものかね」
「事情が変わったのですよ。それに主教ともなれば手脚のように扱える人員にもあてがあります。正体を隠したまま貴方を暗殺することくらいわけありません」
「なるほど。それがあんたのやり方か。薄汚いというべきか頭が固いというべきか。いずれにせよ形容し難い嫌悪を覚えるな」
「全ては聖女様のためです」
アルデバランは言い張るがジャックはそれ以上取り合うことはしなかった。踵を返し、車へと戻っていく。ジャックは自身がこれほどまでに強気な人間であったのかと内心不思議がる。主教が本当に刺客を放ったら脅威であると思った。その時は本当に死ぬかもしれないとも。
だがそれ以上に、あの無垢な娘に嘘を吐くことは憚られた。大人としての矜持が反発した。今まで培ってきた価値観と正義感が、アリスを取り巻く環境を肯定してたまるものかと気焔を吐いた。己が身を思えば、一度は森で鬼に叩き殺されかけた稀人である。積極的に死ぬつもりこそなかったが、いつ死のうと構わないという覚悟があった。




