12.救済の志
「ヘンリー殿。ここいらで良いか」
街道の端に車を停めたジャックが聞けば、ああ大丈夫だ、という返答がくる。ジャックが車から降りて屋根から斧槍を外しているうちに各々が戦闘の仕度を調える。
「ジャック君。少し良いかい?」
ジャックが直剣を佩いた安全帯を着けている時、ソフィアが尋ねる。
「時間が空いたらで構わない。先程の話をもっと詳しく聞かせてくれないかい」
「先程の話というと」
「人権についてだよ」
「それは構いませんが退屈ではありませんか。それにこの世界の住人にとってはまさに異教徒の妄言もいいところでしょう。無理に汲み取る意見でもないでしょう」
「僕にとってはとても新鮮なことのように感じたんだ。いいだろう?」
「分かりました。ソフィア殿さえ良ければ語りましょう。しかし優先すべきは道中の安全です。話に気を取られて怪我をしたら笑うに笑えません」
聖女殿に何かあったら私があの騎士に責められます、とジャックが言えば、シリウスには僕から言い聞かせておくから心配はいらないよ、とソフィアは返す。
それからは川沿いに行進する。車内での打ち合わせ通り、先頭がヘンリー、中間がジャック、後方につくのがソフィアとアリスであった。
「いたぞ、あいつがゲルだ」
ヘンリーが足を止める。剣で示した先を見れば、掌大の大きさをした薄緑色をしたスライム状の物体が、丸い岩の上でフヨフヨと動いている。
「なるほど。あれを仕留めれば良いんだな」
「待て、ジャック。不注意に近付くな。あれは見張りだ」
斧槍を構えて前進するジャックをヘンリーが盾で制する。
その瞬間、膨張と収縮を繰り返したゲルが、ジャックの顔面めがけて体液を吐き出した。
咄嗟に斧槍の先端、平面部で受ければ、着弾した部分がジュッと音を立てた。金属が溶解する時に特有の焦げ臭さが鼻を突いた。
「おい、ヘンリー殿。これでは近付けないぞ。それに見張りとは何だ。日光を浴びて光合成をしているならまだ分かるが、仲間でもいるのか。そもそもあれに高度な受容体である眼球などないだろう」
「お前は何わけの分からねえことをゴチャゴチャと言ってやがる。とにかくあれは見張りなんだ。それ以上刺激したら全方位からゲルが押し寄せて来て、あっという間に白骨死体のできあがりだぞ」
「単細胞生物のくせに社会性を持つとは恐れ入った。それで、どうすればいい」
「まあ見てろ。こうすんだよ」
ヘンリーは右手の剣を鞘に収め、足許に転がる平べったい石を拾い上げると、思い切りゲルへと投擲する。一直線に飛んだ石はゲルに命中、見事核を傷付ける事に成功する。
ゲルはドロリと溶解して、何もなかったように消えてしまった。すると、どこからともなく一匹が現れて同じ岩の上に乗った。
「見張り役が交代したわけか。しかしヘンリー殿。ゲルの討伐証明は一体何になるのだ」
「核だよ。とはいっても相場は銅貨五枚と安いからあえて持ち帰る必要もないと思うぜ」
「銅貨五枚。薬草摘みと同じか。荷物の圧迫にもなるし無視でいいか」
ジャックが確認すれば、アリスは少し迷った後に頷いた。
それからは湧いては潰しての繰り返しであった。最初、拳銃や奇跡を行使しようとしていたアリスやソフィアも、石を投げるのが手っ取り早いと分かるや、何度も拾っては投げるを繰り返す。十匹目を潰せば、見張り役はついに出なくなった。
「この群れは十匹か。まあそんなもんだな。よし、行くとするか」
ヘンリーの号令で行進が再開される。はぐれのゲルを三匹狩ったところで、またもヘンリーが足を止めて左手の盾を後方に示す。『待て』の合図である。ソフィアが遅れて立ち止まる。
「ヘンリー君、一体どうしたんだ」
「聖女サマ、どうかご注意を。ここからが鳥女の縄張りです」
答えたヘンリーは剣で上空を指し示す。ジャックが見上げれば、遙か上方の低木に、巨大な鳥が留まっているのが見えた。否、あれは鳥ではなかった。上半身が人間、下半身が鳥という有翼の怪物であった。
ヘンリーが道具箱から干し肉を取り出し、前方にバラ撒けば、鳥女は僅かな躊躇をみせた後、バサバサと羽搏きながら地面に下り立ち、一心不乱に汚れた肉を、地を舐めるが如し貪り食う。するとどこから匂いを嗅ぎつけたのか、空から次々と下りて来て、終いには十頭以上が肉の奪い合いに参戦、脚の鉤爪を使った殺し合いにまで発展する。
「頃合いだ。聖女サマ、一発かましてはくれませんか?」
「分かった。任せてくれ」
了承したソフィアは、目を瞑り祈った。その直後、何本もの光の柱が顕現して鳥女を貫いた。翼に、胴体に、頭に、脚に風穴を開けられ、約半数もの鳥女が息絶える。討ち漏らした残党が異常事態を察知して頭を上げるが、その時にはアリスが発砲していた。残ったのは二頭ばかり。翼を広げて逃げようとするが。
「行くぞ、ジャック!」
そこにジャックとヘンリーが切り込む。
ジャックが鳥女の首を、ヘンリーが心臓を穿ち、鳥女の群れは全滅した。一帯には穴だらけの死骸と血溜まりが広がるだけとなる。
「流石に四人ともなれば戦闘も楽でいいな」
鳥女の脚を削ぎ落としながらヘンリーは言った。右脚が討伐証明であるらしい。
「アリス嬢。これから羽根を毟り取る。麻袋は持ってきているか?」
「いいえ。荷物になるので車の中です」
「それなら持ってきてくれ。小さいのと大きいのがあればいい」
分かりました、と言って道を引き返そうとしたアリスを、ソフィアが止める。
「待ち給えアリス君。それなら僕が行こう。麻袋を大小ひとつずつだね」
その発言を看過できなかったのはアリスもヘンリーも同じであった。
「あー、聖女サマ。お気持ちは嬉しいのですが、俺達の立場を考えてもらえると助かります」
「うん? どういう意味だい」
「奴隷に任せた仕事を聖女サマが率先してやるのは外聞が悪いんですわ。お察しください」
「しかしだ、ヘンリー君。少しでも役に立つことをしたいと思うのが人情というものではないのかな。第一奴隷だと言うが君達はアリス君のことを奴隷として扱っていないじゃないか。それに僕は血や屍を見るのが苦手なんだ。狩りだってしたことがないから何の役にも立たない。この場を去る理由が欲しいのも事実なんだよ」
「そこまで仰るのならば」
渋面を浮かべたヘンリーが頷いたのを見て、ソフィアは笑った。
「安心してくれ。僕が働いたからといっても君達に不利益なるようなことはしないよ。ああ、でも。万一に備えてジャック君を借りてもいいかな?」
「ええ。コイツならどうぞご随意に。ジャック、聖女サマのご指名だ。さっきみたいに詰まらない理屈を捏ねて退屈な思いをさせるんじゃねえぞ」
ヘンリーは早口でまくし立てると、ナイフで鳥女の右足をどうにか切除しようと四苦八苦していたジャックの背中を蹴り飛ばす。それを見てソフィアはおかしそうに笑った。
結局、討伐証明の確保と羽根の毟り取りはヘンリーとアリスに任せ、ジャックはソフィアとともに車まで戻ることになった。
「ヘンリー君は退屈な理屈だなんて言っていたけれど」
ヘンリーとアリスの姿が見えなくなってからソフィアは言った。
「僕にとっては興味があることなんだ。もっと聞かせてはくれないかな」
「まさか人権についてですか」
「他に何があるんだよ」
「しかし先程語ったことが全てです。あえて定義をするなれば――ひとつ、人間が生まれた時から持っていて、国や宗教によって制限されることのないもの。ふたつ、人種、信条、性別、身分、出身などによって差別をされずに法の下に平等であること。みっつ、思想や良心、信教や学問が自由であること。よっつ、生きる権利、教育を受ける権利、勤労の権利――ざっとこのようなところでしょうか。繰り返しになりますが、私がいた世界ではこのようなものでしたという解釈ないしは紹介であって、この世界ひいてはこの社会に対する批判ではないことはご留意ください」
「そうは言うけど、ジャック君。君はこの社会を、もっと言うなれば奴隷制というものを忌み嫌っているんだろう?」
「そこまでは言っていませんよ。単に馴染むことができないという、所謂負け犬の遠吠えのようなものです。この世界で初めて会った者が奴隷のアリスであったことも関係しているのかもしれません」
ジャックが曖昧に濁せば、同じ事じゃないか、と物理的にも心理的にもソフィアは間合いを詰めにかかる。
「率直に答えてほしい。稀人である君にとって、奴隷制は悪だと。間違っていると思うかい?」
「……いいえ。悪いことだとも間違っているとも思いません。むしろそれで社会が円滑に回っているのならば善と見なすべきでしょう。ただ私個人の価値観を述べるなら、断じて受け容れることはできません」
「どうしてそう思うんだい。それは君が、人権というものが保障されているような世界で生まれ育ったからかい?」
「それもないわけではありませんが、一番は生命を冒涜しているからでしょう」
「生命を冒涜?」
ジャックはありのままに答えたつもりであったが上手く伝わらなかったらしい。ソフィアは首を三〇度ほど傾げてみせる。
「人間というものは、生きているだけで素晴らしいものであると私は考えております。それなのに『たかが』――貴女方に言わせれば『されど』になるのでしょうが――首輪によって生命に付随する自由と権利を剥奪されるなど、私に言わせれば死んだも同じです。死んだように生きる尊厳なき人生に何の意味がありましょう。生きてさえいればそれでいいとは思いますが、それは人権あってこその話です。私個人としては、名誉ある死と尊厳なき生を選べと言われたら迷うことなく死を選ぶでしょう。奴隷にこそ名誉と尊厳が、そして神が必要なのです」
ジャックの持論にソフィアはすぐに頷かなかった。
長らく黙り込んだ後。
「なるほど。君はそのように人生を捉えているのか」
と言った。
「ソフィア殿。これはあくまでいち稀人の――異邦人の哲学です。それも極めて個人的なもの。それに貴女は聖女という立場ある身であることお忘れなく。捨て置いても構いません」
「いや、決してそんなことはしない」
顔を上げたソフィアは力強く言ってみせた。
「君の意見、人生観、大変貴重なものであった。奴隷にこそ神が必要とはまさにその通りだ。今すぐは無理でも、この旅が終わって帝都に帰ったら実現させるよう働きかけようではないか」
「実現。何を実現させるというのですか」
「奴隷に人権を与えることを。君も知っているとは思うが、奴隷は教会に入ることすら赦されない。少なくともここから変えていくべきだと僕は思う」
「それは有り難い話です。同時に素晴らしいことでもありましょう。しかし、なぜそのように思ったのですか。今までの差別や慣習を変えるなど、並大抵の苦労ではないでしょう。時間だってかかることでしょう」
「それはね、ジャック君」
ソフィアは言った。
「僕も君と同じようなことを考えていたからなんだ。とはいえども、君のような明瞭かつ断固とした意思ではなく、もっと浅く漠然とした考えではあったのだが――まあ、いずれせよだ。弱者にこそ救済はもたらされるべきであると思うし、差別は解消されるべきだと思うのだ。だから君に人権とはどんなものかを聞いたというわけなんだ」
「立派な志ですね。しかし一朝一夕で叶う目標でもありますまい。むしろ反発の方が大きいのでは。それとも聖女というものはそれすら覆せるほどの強大な権力を持つものなのですか」
「ジャック君。君はまだこの世界のことをよく知らないようだね。今はまだ巡礼の途中であり、ただの聖女でしかないが、旅を終えて帝都に戻れば大聖女という称号が与えられるのだよ」
「大聖女」
「そうさ。簡単に言えば、教会組織の頂点である教皇にも引けを取らない対等な存在になるのだよ。僕の代では奴隷制の廃止や解放は正直に言って無理かもしれない。だが奴隷が神に祈るくらいは。君が言うところの人権が与えられる程度には尽力してみせようじゃないか」
ソフィアはそう言って笑った。
他者を揶揄するような笑い方ではない。誇りある人間らしい笑みであった。
この娘にならば、アリスを取り巻く厳しい環境を変えられるかもしれない――とジャックは夢想した。




