10.奔放なる聖女
左手の鈍痛でジャックは目を覚ます。
フロントガラスの向こうには藍鉄色の空が広がっている。夜明け前であった。
座席を起こしたジャックは車外に出て思い切り背筋を伸ばす。作業着のまま寝たせいか妙に身体が強張っていた。季節は初夏らしく、空気は湿ってこそいるが寒くはなかった。
まだ寝ているであろうアリスを起こさぬよう跫音を殺しながら玄関先の盥を拝借して、一番近い井戸に向かう。時間が時間ゆえ日頃井戸を占領している婦人達はいない。釣瓶井戸から盥一杯分の水を汲み上げて撤収する。
ジャックの身支度はこれだけの水で済んでしまう。
日本から持参した植物由来の石鹸で顔を洗い、鍛冶屋で購入した剃刀で髭を剃る。普段頼りにしていた電動シェーバーは先日充電が尽きて使えなくなった。
作業服を脱ぎ捨て、固く絞ったタオルで全身を丁寧に清拭する。その後、水が残っていたために頭を突っ込んで髪を洗う。汚水は家の前に掘られたドブ川に流し捨てる。
その頃には東の空から太陽が顔を覗かせる。
改めて左手を見れば、腫れこそ引いたものの、手首から指先までが鬱血したようにどす黒く染まっていた。中央にある蛇の噛み傷ばかりが鮮やかな紅色をしている。
治療を誤ったか、やはり教会で診てもらうべきだったかと後悔するが、今更恥知らずな真似はできないと思い直し、ジャックは傷口を隠すために革手袋を嵌めた。
脚部と腕部の防具を着用して、錆止め油で斧槍や直剣の手入れをしていれば、アリス邸の玄関が開き、身なりを整えたアリスが出てくる。右腰には拳銃を、肩には鞄を掛け、いつでも冒険に出ることのできる格好であった。
「おはよう、アリス」
「おはようございます、ジャックさん」
挨拶を交わし、二人揃って冒険者ギルドへ向かう。
特に示し合わせたわけではないが、朝食はギルドの食堂で済ませ、ジャックはヘンリーのいる稽古場に、アリスは銃弾の補充のため鍛冶屋に行くのが通例となっていた。毎日外食をできるだけの蓄えが今の二人にはあった。
「あれは何でしょうか?」
ギルドの館内に入った時、アリスがジャックの袖を引いた。ジャックが視線を追えば、掲示板のひとつに大勢が集まっている。依頼が張り出される大きな掲示板ではない。報告書や新聞が張り出される小規模なものである。
「おい、これは一体何の集まりなんだ」
ジャックが衆人のひとりに声を掛ければ、顔面に傷跡をもつ獣人が振り向いた。ジャックが見上げるほど上背の高い男であった。
「ああ、何でも帝都から派遣された聖女様御一行がここネイロに到着したらしいぜ。村外れの教会で治癒の奇跡を施すから、希望者は金貨一枚を持って来いとも書いてある」
「なるほど。しかし無償じゃないんだな。相場が分からんが金貨一枚は高くはないのか」
「そりゃそうさ。奇跡だ何だといっても所詮は人間がやることだ。慈善事業じゃあないんだ。聖女様だって自分や部下を食わせなきゃならんから、そりゃ必死にもなるだろう」
聖女様だって飯を食うし糞だってするのさ、と獣人は喉を鳴らすように笑った。
「貴殿はどうする。治療しに行くのか」
ジャックが聞けば、獣人は少し考えた後、いいや俺は御免だね、と言った。
「確かに最近腹の調子は良くないし、年齢のせいか肩も痛え。顔の傷だってまだ痛む。だがこの傷があってこその俺なんだ。それを奇跡で綺麗サッパリ治しましょうってのは、何だか違う気がするんだよなあ」
獣人はそう言って、顔面の傷を爪でポリポリと掻いた。
ジャックとアリスは、その獣人に情報料の銀貨一枚を手渡してから掲示板を後にする。
ヘンリー主導の、森の探索も今日で一週間が経とうとしていた。そろそろ聖女が来る頃だろうと話し合ってはいたが、既に到着していたとは全くの予想外であった。
「アリス。どうやら聖女殿はもう到着していたようだ。しかし私達がそれに気付かなかったとはどうにも腑に落ちんな」
「聖女様の乗る馬車には認識阻害の魔術がかけられております。私達が気付かなかったとしても無理はないことでしょう」
アリスは淡々と述べる。そんな機密めいたことをどうして君が知っているのだ、とジャックは尋ねたかったが、その質問を噛み殺す。過去の詮索をしたところでアリスが簡単に口を割るとも思えなかったし、暗い顔をさせたくなかったこともある。
その代わりに。
「ということは三人での行動はもう終わりか。中々寂しいものがあるな」
と話題を変えにかかる。
「それは、どうでしょうか。解散するかはまだ分かりませんよ」
「どういうことだ」
「聖女様がネイロの村を出て、次に向かう先は、経路から考えて城塞都市になるでしょう」
「城塞都市」
初めて聞く単語にジャックは首を傾げる。
「私も行ったことがないので噂でしか知りませんが、堅牢な城壁に屈強な兵士達が揃っていることで有名な街です。ここネイロ村から北に向かって馬車で一週間くらいの距離にあります。――と、済みません。話が脱線しましたね」
小さく詫びたアリスは話を戻す。
「森での警備と同じように、道中の怪物退治をヘンリーさんが依頼されれば、また私達に声が掛かるかもしれませんよ」
「なるほど。今日稽古場で会った時に確認してみよう」
「そうですね。それが良いと思います」
頷いたアリスは食堂に入る。ジャックも続けば、食堂は変わらずの盛況ぶりであった。
カウンターに空席を見付けた二人は腰を落ち着ける。アリスの首輪とジャックの黒髪が一瞬客の耳目を引くが、初日に乱闘騒ぎを起こしているせいか絡んでくる者はいなかった。
「ジャックさん。その左手、どうしたんですか?」
ジャックがリゾットを、アリスがパンとスープを食している時、アリスが変色したジャックの左手に気付いた。
「ああ。今朝起きたらこうなっていた。だが心配はいらないよ。痛みはほとんどないし、この通り物だって持てる」
平然と答えたジャックはリゾットの盛られた皿を持ち上げ、腔内に掻き込んで見せる。咀嚼した後、葡萄酒で胃に流し込む。朝から酒精を摂取する文化にもすっかり慣れてしまった。
「駄目ですよ、ジャックさん。ちゃんと教会に行かないと」
「そんな大袈裟な。私なら大丈夫だ。皮膚の色が少し変わっただけではないか」
それに私は教会というものが嫌いだ、とジャックが言えば、好きも嫌いも関係ありません手が腐り落ちてしまいますよ、とアリスは強硬な姿勢を崩さない。普段控え目なアリスにしては珍しい態度であった。
「いいですか。聖女様ならその程度治せると思います。今日は教会に行ってください」
「しかしだな。私は一度奇跡を断って帰った男だ。今更どの面をさげて行けるかという話だ。それに生命を冒涜している教会にだけは頼りたくないのだ」
「このままでは腕を切り落とすことになってしまいますよ。蛇の毒はそれだけ強力なんです。もう一度言います。お願いですから今日は教会に行ってください」
「……腕を切られるのは流石に困るな。承知した。ヘンリー殿と一戦やった後に考えてみるよ」
ジャックはひとまず頷くことにした。だが考えると言っただけで実際に行くとは明言していない。ただの屁理屈であった。
食事を終えたアリスとジャックは、いつも通りそこで別れる。
革手袋を嵌めたジャックは中庭にある稽古場に向かう。稽古場は既にヘンリーを始めとした村の衛兵達と時間を持て余した冒険者達が揃っていた。木と藁で作られた人形に打ち込んだり、手頃な相手を見付けて模擬戦をしたりなど銘々が気儘に過ごしている。
若い衛兵に剣の稽古をつけていたヘンリーはジャックを認めると右手を挙げてやって来る。衛兵は悔しそうにジャックを睨むが、ジャックが一礼をすれば仕方ないと諦めてくれた。
「よお、掲示板の新聞は見たか?」
「ああ。聖女一行がこの村に着いたという話だな」
そう言いながらジャックは樽に収められた斧槍を取り出す。それを見て、中央を占領していた冒険者が場を譲ってくれる。
「ということは」
ジャックは斧槍を豪快に振り回してヘンリーに叩きつけるが、ヘンリーは何事もないように盾で受け流す。
「私とアリスとの一行は解散という認識でいいのか」
「それがそうでもなくてだな。まだお前らに頼みたい仕事があるんだよ」
答えたヘンリーはジャックの懐に潜り込み、刺突を放つ。喉、心臓、丹田を狙った三段突きであった。ジャックは半歩退くことで攻撃を躱し、ヘンリーの足許に這わせた斧槍を思い切り引き抜いて転倒を狙う。だがヘンリーは片足を上げるだけで鉤部を避ける。
「ひょっとして今度は城塞都市までの安全確保か」
ジャックが言えば、どうしてそれを、とヘンリーは驚く。
その額に向けてジャックが緩やかな突きを放てば、直剣で叩き落とされる。その衝撃でジャックの手から斧槍が落ちた。今度はジャックが驚く番であった。自分でも思う以上に握力が落ちていたらしい。だが二人の稽古はその程度では終わらない。
「アリスが言っていた。聖女の次なる行き先は城塞都市になるだろうと。ヘンリー殿の気分によってはまた声が掛かるかもしれないと」
ヘンリーは地面に落ちた斧槍を蹴り飛ばしてジャックに切りかかる。袈裟に一振り、水平に一薙ぎ、足許に一撃。ジャックは右手と右足の防具で全てを受け流す。
「その通りだよ、畜生」
ヘンリーは悪態とともに、投げ込むように木剣を放つ。見切ったジャックはその手元を払い退け、顎に蹴りを入れるが、その蹴りも盾によって阻止される。そのまま盾による体当たりを食らい、轢かれたジャックは大袈裟に転がってみせる。
「するとなんだ。今日からは出向く先がいつもの森じゃなくなるのか」
「そうだ。岩山の渓谷だ。ここからだと馬車で二日くらいかかるが、お前の車なら半日で着くだろう。出てくる怪物も森と比べちゃ厄介な連中ばかりだ」
「どんなのが出てくるんだ」
「色々だ」
「その色々を聞いているんだ。蛇が出るなら私は辞退させてもらうぞ」
ジャックが斧槍を拾い上げれば、ヘンリーが手を差し伸べる。左手を強く握られ、起き上がりと同時に低く呻く。
「どうした? 斧槍もあっさり手放したし、手に怪我でもしてんのか」
「毒蛇に噛まれた傷が悪化してな。つい先程もアリスに教会に行くよう釘を刺されてしまった」
ジャックが左手の手袋を外して変色した手を見せれば、ヘンリーの様子は一変する。
「お前、そりゃ言われるだろうよ。腐り落ちる寸前だ。聖女サマに頼んで治してもらえ」
「だがなあ。金貨一枚だぞ。それに私は教会というものが好きじゃない」
「腕がなくなるよりはいいだろうが。いいか、お前はまず教会に行ってその手を治してもらえ。そうしてから門の詰所に来い。道案内は俺がする」
「拒否権はないのだな」
「何だよ、乗り気じゃねえのか」
「正直に言えばそうだな。生活のためなら近くの森で十分だし、何より車の燃料だって無限にあるわけじゃない。アリスの許可だっている。報酬も欲しい」
「お前の言うことはもっともだな。だがアリス嬢なら、お前が行くと言えば喜んでついてくるだろうさ。報酬については――そうだな。一日銀貨三枚で雇われてくれないか。道すがらに狩った怪物の素材はこれまで通り山分けだ」
「銀貨三枚は流石に安くはないか。子供の小遣いじゃあないんだぞ」
「仕方ねえだろ。俺の懐からはこれしか出せねえ。だが旅の先導は俺がするし、素材も森で採れるものよりは上等なものが多い。お前らにとっちゃ間違いなく良い稼ぎになってくれるはずだ。分かってくれ」
「私としては構わないが、こういう依頼こそ冒険者ギルドが扱うべき内容ではないのか。車の運転は確かに私にしかできないが、私より腕の立つ者などごまんといるだろう」
「こういうのを依頼に出すと、聖女サマがいつどこを通るかがバレちまうから良くねえんだと。聖女サマの御身のためにも秘密にしなければならねえ。だから俺のような冒険者崩れの衛兵が個人でこなすしかねえんだよ」
「秘密。教会で治療すると告知している以上、秘密なんてあってないようなものではないか。それにこの場で話している時点で手遅れではないのか」
ジャックが辺りを見れば聞き耳を立てている連中ばかりであった。噂を聞き逃さない冒険者の習性だろう。若い衛兵に至っては銀貨三枚では安過ぎるとジャックの擁護までしている。
「ヘンリー殿。話は理解した。ひとまずは猶予をくれないか。危険な旅路であるのならアリスと話し合わなければいけないし、何よりこの手を治さなくてはならない」
「ああ、分かった。話がまとまったら門の詰所にまで来てくれ」
斧槍を片付けたジャックはギルドの会館を後にして、その足で村外れの教会に向かう。
相変わらず教会の四方は静謐に満ちており、赤毛の修道女が敷地内に落ちた木の葉を箒で掃き清める音が聞こえるだけであった。
修道女が顔を上げれば、会いたくない者に会ったかのような顔をしてみせる。
「あんたこの間の稀人じゃないの。何しに来たのよ」
「そう邪険にしないでくれ。手の傷を治してほしくて来たんだよ」
「手の傷?」
「そう、これだ」
ジャックが左手を示せば、あたしこういうの駄目なのよ、と修道女は顔を手で覆った。
「でも良かったわね、聖女様が来てくれて。そこまで悪化すれば、あたしと司祭様じゃきっと治せなかったわ」
「その聖女殿は教会の中にいるのかい」
「ええ。お付きの騎士様達と一緒にね。私はいても何の役にも立たないし、かえって邪魔になるからって締め出されてしまったわ」
「それは災難だったな。掃除を頑張ってくれ。では、私はこれで」
ジャックが立ち去ろうとすれば、ちょっと待ちなさいよ、と修道女が呼び止める。
「ひとつだけ忠告。聖女様はあたしと同じくらいの年齢だけど、とても慈悲深い御方なのよ。でも周りの騎士達はそうじゃないわ。むしろ反対。騎士達は聖女様さえ良ければそれで良いみたいな顔をしているし、太っちょな主教様に至ってはお金第一の拝金主義者よ。言葉遣いには気を付けなさい。聖女殿じゃなくて聖女様。この間みたいに奴隷がどうのこうのという問答なんか絶対に駄目よ。いいこと?」
「ああ、分かった。忠告、感謝する」
ジャックはそのまま教会に向かう。
扉を開ければ、中央の女神像に向かって短い行列ができていた。
並ぶ人間は、貧しい身なりをした媼であったり、赤子を抱いた若い女であったり、旅装束に身を包んだ壮年の男だったり、眼帯を巻いた背の低い老人であったりと、老若男女様々な者がいた。等間隔に置かれた長椅子に座って祈りを捧げている者もいる。
受付にいる騎士の前で簡易な身体検査と金貨一枚を渡し、ジャックは行列に並ぶ。
進行は思いの外早かった。腰の曲がった老婆も、赤子を抱えた女も軽快な足取りで去って行く。ジャックはあっという間に列の先頭に立たされていた。
目の前には椅子に座る少女がいた。豪華な純白の長衣を身にまとい、豊かな金髪と南国の海を閉じ込めたが如し瞳をして、何も言わずにジャックを見上げていた。
椅子の左横には恰幅の良い神官が、右横には刺剣を腰に下げた女騎士が控えている。
「聖女様の御前である。頭が高い!」
女騎士に刺剣の鞘で膝裏を叩かれ、ジャックはその場に膝を突いてしまう。ジャックが強引過ぎるその作法に抗議するよう女騎士を睨めば、女騎士は穢いものを見るような目をジャックに向ける。
「稀人か。用件を告げろ。聖女様は多忙の身だ」
女騎士がジャックに告げる。ジャックは振り返るが自身が最後尾であることは変わらない。
「聖女様。毒蛇に噛まれた私の腕を治してほしいのです」
文句を呑み込み、ジャックは煤を塗りたくったような左手を聖女に掲げる。変色した部位は今朝よりも拡大しており、前腕までもが黒褐色に染まっていた。
聖女は驚いたように目を見開くが、それも一瞬のことであった。そっとジャックの手を包み込むように握る。いたわるような表情をしていた。不思議に思ったのはジャックの方であった。
「聖女様」
「教えてくれ。どうしてこんな怪我をしたんだい?」
「森の警備中に油断をしてしまいました。放置していたらここまで酷くなった次第です」
「森?」
「帝都からこの村に続く街道にある小さな森のことです」
「――なるほど。そうか」
聖女は頷いた。瞬間、白い光がジャックの手を包み、その光が消える頃には手の色が元の肌色に戻っていた。詠唱も道具も必要としない、まさに奇跡の御業であった。しかし聖女はまだジャックの手を離さない。その姿勢のまま。
「僕達は君にお礼を言わなければならない」
と言った。なぜですか、とジャックが聞き返せば、僕達があの森を安全に通過できたのは君のお蔭だからさ、と聖女は答えた。続けて。
「いつとは言えないが、僕達はこの村での活動を終えたら城塞都市まで行くんだ。君は城塞都市までの街道も警備するのかい?」
と聞いた。
「仰る通りです。本日から岩山の渓谷なる場所に出向いて怪物退治をする予定です」
行動を言い当てられたジャックは、わざわざ隠す理由もないかと正直に述べる。すると聖女は何かを考えるように目を閉じて黙った後、またも頷いた。依然左手は握られたままであった。やんわりと振り解こうとするも、聖女の手は噛みついたかのように離れない。
「聖女様。どうされましたか。稀人の手がそんなにも珍しいのですか」
厳しくなる神官と女騎士の視線がある手前、遠回しにジャックは手を放してほしいと告げるが聖女は動じない。愉快そうな微笑みを浮かべて。
「僕はソフィアという。よろしく頼むよ」
と言った。
「懸命に働いてくれた君の名前を教えてくれ。稀人君」
最初、ジャックにはソフィアの喋ったことの意味が分からなかった。救いを求めるように神官と女騎士に視線を送るも、二人とも異を唱えられずにいる。ゆえに。
「ジャックと名乗っております」
と愚直に答える。
「聖女様。これは一体何の戯れでしょうか」
「嫌だな。自己紹介をした意味がないじゃないか。ソフィアと呼んでくれ、ジャック君」
「ソフィア様。私はしがない稀人です。呼び捨てで結構です」
「奇遇だね。僕もしがないただの聖女なのだよ。その言葉、そっくりそのまま君に返すよ」
「……ソフィア殿。立場あるものはみだりにそういうことを言わぬものです」
「ソフィア殿、か。及第点だね。まあいいだろう」
ソフィアはジャックの諫言に耳を貸さず、その場に立ち上がる。
「女神の御前にて誓おうじゃないか。僕はこのジャックと名乗る稀人と――」
「お待ちください聖女様」
女騎士が制止の声を上げるが、ソフィアは掌の動きだけで女騎士の言動をピタリと止めてしまう。それを見たジャックは躾のされた犬のようだと場違いな感想を抱く。
「煩いぞ、シリウス。神の御前だ。感情で静寂を乱すなど馬鹿者のすることだ」
女騎士を睨め付けたソフィアは、先刻の微笑が嘘のように厳粛に告げる。女騎士の名はシリウスというらしい。柔和と厳格、一体どちらのソフィアが本物であるのかと考えるが、愚鈍なジャックには判別がつかなかった。少なくとも嫌な予感がしたことは確かであった。
「改めて誓おうじゃないか。僕ソフィアは、この稀人と――」
「聖女様。お待ちを」
今度の制止は神官であった。
見るからに狼狽している。
「アルデバラン。一体どうした?」
「まさかとは思いますが、この稀人と一緒に行くということではございませんな」
「ふん、そのまさかだとも。悪いか主教?」
「困りますな。この教会には貴女様の奇跡を求めて大勢が押し寄せてくることでしょう。貴女様はそれを裏切ると仰るのですか」
アルデバランと呼ばれた主教は、どうにか理をもって説得しようとするが、ソフィアは一笑に付すばかりであった。
「大勢だと? 見ろ。行列はもう終わってしまったぞ。だから言ったのだ。たかが治療に金貨一枚は取り過ぎだとな。あとはここの司祭と修道女に任せてしまえばいい。それにお前が困るのは治療できないことではなく、大好きな金貨を取ることができないからだろう。守銭奴は悪だと女神様も説いているぞ。不快だ、失せろ」
ソフィアは、もういいと言わんばかりにジャックに向き直る。
「では改めて女神の御前にて僕は誓おう。僕はこのジャック君と行動をともにして冒険の助けになろうではないか」
そう言い切ったソフィアは、ようやくジャックから手を放し、単独でスタスタと教会の出口まで続く絨毯を歩き、扉に手を掛けたところで振り返る。
「何をしているんだい。行くよ、ジャック君」
その顔はしてやったりという確かな笑顔であり、半分ほど扉を開いたところで、猫のようにスルリと身を細くさせて、滑るように出て行った。
その場に残されたジャックは、自分が傅いたままであることを思い出し立ち上がる。騎士シリウスと主教アルデバランを見れば、両者ともに慌てふためいている。
「騎士殿、主教殿。この場合、私はどうすればいい。本当に同行させていいのか。遊びではない。危険な場所に行くんだぞ」
「貴様も誓っていけ」
絞り出すようにシリウスは言った。
「誓う。何をだ」
「聖女様の御身を、命を賭けても守ることに決まっているだろう!」
「上役の暴走を止められなかった癖に要求だけはえらく理不尽だな。まあいい。誓おうじゃないか。私に女子供を見殺しにするような趣味はない」
ジャックが教会を出れば、扉を出てすぐのところにソフィアはいた。ジャックを見るなり、悪戯が成功した童女のように笑った。
「ジャック君。その調子から察するに、シリウスに何か言われたね」
「ええ。命を賭して貴女を護れと言われました」
「いかにもシリウスが言いそうなことだ。命を賭ければ何でもできるというある種の傲慢な考え方だな。しかもそれを他人にまで強制するから性質が悪い。それはそうと、だ」
ソフィアはジャックを見上げる。
「ジャック君。この度は巻き込んで済まなかったな。教会にいて退屈だったのだ。外に出られる口実が欲しかったのだよ」
「私は構いませんが、本当に聖女とあろう御方がおいそれと教会を出て良いものなのですか。私のように奇跡を求めて来る者がいないとも限りませんよ」
「アルデバランのようなことを言ってくれるなよ。きっといないだろう。仮にいたとしても、ここの司祭と修道女がどうにかしてくれるはずさ」
「なぜそう言い切れるのですか」
「奇跡に金貨一枚は明らかに取り過ぎだからだ。怪我や疾病に関わらず一緒だ。掠り傷も骨折も、風邪も疫病も変わらない。これでは誰も来ないさ。君も高いとは思わなかったかい?」
「私の場合は症状が酷かったものですから、何とも言い難いものですね」
腕を組みジャックは考える。
金貨一枚で腕を切り落とさずに済んだのか、それとも腕のために金貨一枚を費やしてしまったのか。だが治療の相場を知らぬジャックにとっては無駄な自問であった。
「ところでソフィア殿はこれからどうされるおつもりですか。私は先刻言った通り、岩山の渓谷に行くためお相手はできかねます」
「何を言っているんだい。僕も行くと言っただろう。回復の奇跡を一通り修めた聖女だ。君達冒険者の助けになるだろう」
「それは教会を出るための口実ではなかったのですか」
「ジャック君。僕が女神様の前で誓ったことを忘れたのかい。僕はこう見えても女神様の敬虔な使徒であるつもりなんだぜ。誓いは破らないぞ」
「ということは本当に私達についてくるつもりだったのですか」
「だからそう言っているじゃないか。さあ、仲間の許に案内してくれ」
意気揚々と言うソフィアにジャックは困惑する。本当に付き合わせて良いものか、何なら腕が立ちそうな教会の騎士達こそ同行させるべきではないのかとも思ったが、ソフィアが頑として聞き入れないだろうと思い、結局アリス邸へ引き返すことにした。




