沈む太陽、昇る太陽
お待たせしました。
本話をもちまして、サルフの戦いを巡る物語は完結です。
女真討伐が無惨な結果となった責めを負って、総司令官の楊鎬は投獄され、10年後の1629年、明の崇禎2年に処刑された。
討伐軍の四将のうち、唯一生き残った馬林は本拠地の開原に帰還するも、同年のうちに金国軍との攻防戦において戦死を遂げる。
明軍に対して大勝利を収めたヌルハチは、それ以降より積極的に打って出るよう方針を改めた。
サルフの戦い以前は、あくまでも金国の独立を守るために明を叩く、という姿勢だったのが、明軍の脆さ、そしてそれ以上に、諸将の足並みの揃わなさと足の引っ張り合いを目の当たりにして、さらなる勢力拡大を目論んだのだ。
それに、明国内に送り込んだ間諜や、両国間で商いを行う商人たちから聞き及んだ話では、明王朝の腐敗は目を覆わんばかりだという。
サルフの戦い当時の明の皇帝は第十四代・神宗。当時の元号から万暦帝とも呼ばれる。
即位当初は英明さの片鱗を見せていたのだが、守り役である宰相・張居正が亡くなると、たちまち堕落。
科挙官僚と宦官の党争を野放しにし、東西南北の外患に対しても有効な手を打てず、官吏の給金をケチって欠員が出ても放置する一方で、自身や後宮の贅沢には歯止めが利かないと、まさに悪政・暴政のオンパレード。
挙句の果てには、後宮に籠りきりになって朝政の場に二十年も顔を出さなかったという。
「これでは明朝も長くはないな」
朝鮮人蔘を商う商人から話を聞いて、ヌルハチは思わず呟いた。
とはいえ、さすがのヌルハチも、明を滅ぼして自分たちが取って代わるというところまで考えていたわけではない。
そのような考えを抱くには、中原の地はあまりにも遠く広かった。
万暦帝はサルフの戦いの翌年に亡くなり、その息子の光宗(泰昌帝)が立てられるも、即位後すぐに毒殺され、その息子の熹宗(天啓帝)が立てられることとなる。
天啓帝の治世、宦官の魏忠賢という人物が権力をほしいままにした。
魏忠賢の悪政の下、国内では反乱が頻発し、金国もさらに勢力を伸ばしていったが、これらの討伐に失敗しても、魏忠賢に賄賂を贈れば不問に付されるということで、明の屋台骨はますますぼろぼろになっていった。
朝鮮軍を指揮し、金国に降伏した姜弘立は、捕虜たちが本国へ返される中、金国に留め置かれたが、その待遇は決して悪いものではなく、本国の光海君と連絡を取りながら、朝鮮が明と金国との間で中立を維持することに貢献した。
しかし、朝鮮宮廷では、北方の蛮族と蔑んでいた金国に頭を下げることをよしとしない者も多く、宮廷内の勢力争いとも絡み合って、1623年、光海君は廃位の憂き目にあう。
光海君は、李氏朝鮮第十代の燕山君と並んで、悪政の末に廃された暴君とされている。
しかしながら、正真正銘の暴君であった燕山君とは違い、金国への対応一つ取っても、冷静で現実的な政治家であった。
実兄や幼い異母弟の暗殺、反対派の粛清などの瑕疵はあるが、それもそれぞれを担ぐ党派の争いの帰結であり、光海君自身が積極的に主導したのかも疑わしい。側室の子な上に次男でもある彼は、そういった面でも立場が弱かった。
党派の争いを御しきれなかったことが暗愚の証だと言われてしまえば、それまでではあるのだが――。
サルフの後も、ヌルハチは遼東の地で明軍に対して勝利を重ねた。
万里の長城を越えてその向こうにまで攻め込むことを視野に入れたヌルハチであったが、そんな彼の前に立ちはだかった男がいた。
袁崇煥、字は元素。三国志の諸葛孔明の再来と謳われた名将である。
元々は科挙にも合格した文官であったが、軍事に強い関心を持ち、遼東経略の孫承宗の下、万里の長城の東の端、山海関の守りに就いていた。
孫承宗という人物も、戦略眼を持った良将であり、山海関の外郭として寧遠城(現在の興城市)を築き、また、現地の人々を募って屯田兵とし、士気の高い部隊を作り上げた。
しかし孫承宗は奸臣の妬みを買って更迭され、後釜となった宦官の高第という人物は、無能で腰抜けだった。
寧遠城を放棄して山海関の内側への撤退を主張する高第に背き、袁崇煥はわずか1万の兵を率いて金国と対峙する。
「これが紅夷(ここではポルトガルを指す)の大砲ですか」
黒光りする大砲を前に、崇煥の腹心である祖大寿が感嘆の声を漏らす。
ポルトガルから購入した大砲11門。これが袁崇煥の切り札である。
「しかし、よろしかったのですか? 高経略の許しも無く購入なさって」
高第が許可を出すわけはないとわかってはいても、一応伺いを立てる大寿に対し、崇煥は涼しい顔でこう言った。
「復宇(祖大寿の字)、勝てば官軍、という言葉を知っているか?」
紅夷砲は袁崇煥が期待した通りの威力を発揮し、ヌルハチは寧遠城を攻めあぐねた。
ヌルハチは袁に金国への帰順を持ち掛けるも、彼はこれを拒み、徹底抗戦を続ける。
ついに、ヌルハチ自身も砲弾の炸裂による破片を背中に受けて負傷し、撤退を余儀なくされた。
この時の傷が元で、ヌルハチは8ヶ月後に没する。
天命11年(1626年)旧暦8月11日。享年68歳。
後継者選びは難航したが、群臣への根回しの甲斐もあって、金国の第二代汗の座にはホンタイジが就いた。
群臣たちの間からは、再び寧遠城を攻めてヌルハチの仇を討つべしとの声が上がっていたが、ホンタイジは明言を避けた。
朝議を終え、一人きりになって、ホンタイジは呟く。
「袁元素は比類なき名将だ。父上も恨んではおられまい。されど……生まれてくる国を間違えたな」
ホンタイジは明国内に放った間諜を通じて、明の朝廷に噂を流した。
袁崇煥が女真に内通していると。
時の明皇帝は、第十七代・崇禎帝。天啓帝の弟である彼は、大明の威光を取り戻そうという熱意に溢れていたが、言葉を飾らずに言えば、彼はいわゆる「無能な働き者」であった。
権勢をほしいままにしてきた魏忠賢を誅したのは良かったが、崇禎帝自身に佞臣と忠臣を見分けられる目があるわけではなく、生来猜疑心が深いこともあって、重臣たちを手当たり次第に粛清していった。
そして、ホンタイジが流した離間策にまんまと乗せられ、袁崇煥を北京に召喚して処刑してしまう。
明は自らの手で、自身にとどめを刺した。
しかし、もし仮に、崇禎帝が袁崇煥に全幅の信頼を寄せ、金国との戦いに全力を発揮させていたとしても、サルフより発した歴史の流れを押し止めることは困難であったろう。
流れはやがて怒涛となり、ついには中国全土を飲み込んでいくこととなる――。
――Fin.
余談ながら……。
この戦いは、田中芳樹先生の『銀河英雄伝説』の冒頭を飾るアスターテ会戦の元ネタの一つとも言われており、たしかに各個撃破のあざやかさは、ラインハルトも一目置くレベルでしょう。
金髪の孺子ならぬ辮髪の親父ですが(笑)。
なお、youtubeに上がっているこちらの動画が大変わかりやすいかとおもいますのでご参考までに。
「サルフの戦い ヌルハチ、明の大軍を撃破!」
(ttps://www.youtube.com/watch?v=qABDvppXIno)